関ヶ原の戦いで知られる石田三成はどんな人でしょうか。
石田三成の出自から、やがて豊臣政権の官僚として活躍し、関ヶ原の戦いへ突き進むまでの三成の生涯いついて詳しく書いています。
石田三成の出自
石田三成は、永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)で生を受けます。
石田三成の祖先は、治承・寿永の乱において鎌倉方として従軍した石田為久の子孫であるとも、下毛野朝臣の一族、石田郷の土豪であるともいわれますが、定かではありません。
石田三成の父は石田正継といい、Wikipediaによると正継の次男となっています。
一方、石田三成の子孫の方が書いた書籍によると、長兄・弥治郎、次男・石田正澄、三男・石田三成となっていますが、正しいことは不明です。
因みに、石田三成の幼名は佐吉(左吉)、石田家の三男に与えられる名前のようです。
また、三成の読み方について「カヅシゲ」であるという説があります。
『真説 石田三成の生涯』によると、「一成」(カズシゲ)というの別の諱が兄・石田正澄にあるそうです。
石田三成と正澄の名前が混同している可能性もあるかもしれません。
石田三成の母・瑞岳院は、岩田氏ではないかと見られていますが、こちらも定かではありません。
瑞岳院が岩田氏であるならば、古橋の法華寺近くに生家があるようです。
後に、関ヶ原の戦いで敗北した石田三成は、一時、古橋の法華寺に匿われており、母の故郷を頼ったものと見られています。
また、瑞岳院の出自について土田氏説を唱える書籍もあり、石田家の記録に土田外記成元の娘と書かれているそうです。
関ヶ原の戦い当時、三成の父・正継、兄・正澄は、佐和山城を守備しており、やがて徳川方に攻められて落城しています。
三成の父と兄を介錯したのは、土田外記成元の子・土田成久でると伝わり、石田家と親密な関係にあったものと推測できます。
石田三成の家紋と旗印
石田三成の家紋は、「九曜紋」、「下がり藤」を使用したと見られていますが、ハッキリとは分かりません。
旗印は「大一大万大吉」、大意は「一人が万人のために、万人が一人の為に助け合えば、皆が幸せになれる」です。
「大一大万大吉」は、石田三成の祖先説のある石田為久も使用しています。
石田三成 秀吉に仕える
石田三成が小姓として豊臣秀吉に仕えたのは、天正2年(1574年) 15歳の時であると見られています。
一説には、若い頃の石田三成はお寺に預けられていたといい、長浜城主であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)がお寺に立ち寄り出会ったそうです(三献茶)。
石田三成が羽柴秀吉に、三杯のお茶を点てたという三献茶の逸話は有名ですが、史実かは不明です。
一方、石田三成の長男が残した過去帳『霊牌日鑑』によると、天正5年(1577年)18歳の時に、秀吉の家臣になったと伝えています。
羽柴秀吉が播磨国に出陣した際に、姫路で仕官したことが読み取れます。
このように、仕官し時期などは定かではありませんが、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕えています。
石田三成の正室は宇多頼忠の娘で、「皎月院殿寂室宗珠大禅定尼」という戒名から「皎月院」(こうげついん)と称されています。
宇多頼忠の本来の苗字は尾藤で、秀吉の初期の頃の重臣・尾藤知宣の弟に当たります。
石田三成と皎月院が結婚した時期は定かではありませんが、二人の長女は、天正7年(1579年)頃生まれたと伝わります。
頭角を現す前の石田三成は、婚姻により尾藤知宣の後ろ盾を得たことになりそうです。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起きて、織田信長が明智光秀に討たれます。
その後山崎の戦で、信長の弔い合戦を制した秀吉は、天下人の道が開かれます。
こうして、秀吉の出世に伴い、三成も台頭していきます。
賤ヶ岳の戦いと石田三成
天正11年(1583年)、羽柴秀吉は、織田家筆頭家老・柴田勝家と戦になります(賤ヶ岳の戦い)。
近江浅井郡の称名寺の僧とその配下の者に柴田軍の動向を探らせた石田三成書状があります。
署名は「石田左吉」、花押は「三也」となっています。
石田三成は、賤ヶ岳の戦いで敵の情報収集を行っていたようです。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が本陣を置いた「柳瀬」に派遣されていた者の情報を三成が得て、秀吉に報告しています。
情報を得た秀吉は、長浜から木ノ本に移動し、柴田勢を牽制しています。
また、賤ヶ岳の戦いと言えば、福島正則、加藤清正ら「賤ヶ岳の七本槍」が有名です。
一方『一柳家記』には、一番槍の功名は、一柳直盛、石田三成、大谷吉継ら「先懸之衆」であると書かれているそうです。
「賤ヶ岳の七本槍」は知行を得ていますが、賤ケ岳の戦いにおける石田三成の処遇については分かりません。
石田三成は上杉家との交渉役
賤ヶ岳の戦いの少し前から、石田三成、木村吉清、増田長盛らは、秀吉の側近として越後の上杉景勝と交渉役を担っています。
賤ヶ岳の戦いの戦勝を祝う上杉家の使者が秀吉の元に派遣され、秀吉に贈り物をしており、三成にも馬や白布を贈っています。
上杉景勝に重用されている直江兼続、狩野秀治にも石田三成と増田長盛の連署の書状があり、上杉外交に三成は重要な役目を果たしていたと考えられます。
小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)3月から11月、小牧・長久手の戦いが起き、羽柴秀吉は織田信雄、徳川家康と戦になります。
小牧における対陣で、石田三成は秀吉の陣所・犬山に居たようですが、詳細は分かりません。
長久手の戦いでは局地戦で秀吉は敗北しますが、信雄・家康それぞれと単独で講和しています。
天正12年(1584年)12月、徳川家康の次男・結城秀康は、羽柴秀吉の養子となっています。
結城秀康と石田三成は、後に親しい仲になったようです。
結城秀康は、関ヶ原の戦い後、石田三成の長男の妻とお腹にいた子供を保護したとの伝承があります。
紀州攻め
天正13年(1585年)3月 、秀吉の紀州攻めが始まり、石田三成も秀吉の陣所にいたようです(『宇野主水日記』)。
羽柴秀吉は、高野山に対しても降伏を求め、高野山使僧として派遣されたのが木食応其です。
高野山と秀吉の和睦斡旋に尽力しており、高野山は秀吉に降伏しています。
木食応其は、後に石田三成と親しくなる人物です。
後に、木食応其は遺児となった三成の三男・佐吉を出家させています。
石田治部少輔
近衛前久の猶子となった秀吉は、関白宣下を受けます。
天正13年(1585年)7月、秀吉は従一位関白に、石田三成は従五位下・治部少輔に叙任されています。
『歴名土代』によると、この時三成は、藤原姓を称していたことが分かります。
以降、「石田治部少輔」の名前が書状に登場するようになり、同年の末に「三也」ではなく「三成」と署名した副状が確認できます。
天正14年(1586年)1月、名将・島左近を高禄をもって召し抱えたという逸話がありますが(『常山紀談』)、家臣にした時期は定かではありません。
同年、越後国の上杉景勝は、ついに上洛を決意し、三成の斡旋もあり秀吉に服従します。
堺奉行に就任する
天正14年(1586年)6月、堺の代官を務めていた松井友閑が罷免され、その後、石田三成と小西隆佐(小西行長の父)が堺奉行に就任します。
商人の多い堺を掌握した三成は、商人の持つ交易ルートを活用して、兵站補給路として整備します。
また、九州の島津氏との交渉役は、羽柴秀長、細川藤孝(幽斎)、千利休ですが、堺奉行に就任した三成も加わります。
天正14年(1586年)9月、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜ります。
島津征伐
天正14年(1586年)10月、徳川家康はついに上洛して、豊臣秀吉に主従しています。
徳川家康が主従を誓ったことで、九州の島津征伐に秀吉自ら出陣す環境が整います。
豊臣秀吉は、石田三成・大谷吉継・長束正家らに島津征伐の準備を命じています。
天正15年(1587年)1月付けの書状で、島津義久は豊臣秀長、石田三成に秀吉と争う意思がないことを伝えています。
しかし数日後には、宇喜多秀家が先発し、豊臣秀長らも出陣しています。
島津征伐での石田三成の役目は、大谷吉継、長束正家と共に兵糧や軍需品の確保や輸送をすることで、軍勢を率いて参じたのではないと見られています。
また、石田三成は、九州で従軍する諸将の要請を秀吉に伝える役目も担っていたようです。
天正15年(1587年)5月、島津義久は剃髪して秀吉を訪ねて降伏し、石田三成は人質の催促をします。
その後、石田三成は、豊臣政権下で島津家を指南する立場になっています。
尾藤知宣の失脚
島津征伐で消極的な面のあった尾藤知宣(三成舅の兄)は、秀吉の勘気に触れ所領没収の上、追放されています。
尾藤知宣の子・頼次(三成舅の子説あり)は、三成の父・正継の養子となり石田頼次と名乗り、「石田刑部少輔」と称しています。
因みに、石田頼次の妻は、真田昌幸の娘・趙州院です。
博多町割り
豊臣秀吉は、長期の戦で荒れ果てた博多の町の復興を、石田三成や黒田官兵衛らに命じたようです。
博多商人の協力を得て博多町割り(太閤町割り)という都市整備をしたと伝わります。
石田三成は、細川藤孝と共に博多にいた島津義久を訪ねて、もてなしています。
その後、島津義久と秀吉の謁見を斡旋しています。
聚楽第行幸
天正16年(1588年)1月、将軍・足利義昭は、征夷大将軍職を朝廷に返上しています。
同年4月、秀吉による後陽成天皇の聚楽第行幸が盛大に行われ、秀吉の天下を知らしめています。
秀吉は自ら天皇を迎え出て、左右に37騎の直臣を配しています。
右の先頭は石田三成、左の先頭は増田長盛です。
同年7月、石田三成は浅野長政と共に、秀吉の使者として、上洛した毛利輝元の元を訪れています。
島津家の指南役を担う石田三成と細川藤孝は、島津義弘の上洛を促す書状を連署で出しています。
天正16年(1588年)6月、島津義弘は上洛を果たし秀吉に謁見しています。
聚楽第落首事件
天正17年(1589年)2月25日夜、聚楽第の白壁に豊臣秀吉の政治を批判する落書きが見つかります。
落書きに関与した者を大坂の本願寺が匿っていると秀吉は疑いを持ったようです。
秀吉に命じられた石田三成と増田長盛は、関係者の身柄引き渡しを本願寺に求めています。
本願寺は、容疑者・尾藤道休と匿った者を自害させて、秀吉にその首を差し出します。
それでも怒りの収まらない秀吉は、匿った町を焼き払い、町人らを捕縛しています。
尾藤道休の妻子、関係する町人らを京都六条河原で磔にし、凄惨な出来事が起きてしまいます。
大徳寺の塔頭・三玄院を創建する
石田三成は、浅野幸長や森忠政と共に大徳寺の塔頭・三玄院を創建しています。
開祖は石田三成が深く帰依している春屋宗園で、三玄院は現在、石田三成が眠る場所でもあります。
同年10月、美濃国を検地しています。
石田三成と津軽為信
豊臣秀吉から征伐の対象にされかけた津軽為信が家臣を使者として上洛させ、秀吉に名馬と鷹を献上し誼を通じています。
津軽為信から助けを求められた石田三成が斡旋したことで、秀吉から津軽支配を認められています。
翌年、津軽為信が小田原征伐に参じた際、秀吉に謁見を許されています。
津軽家は石田三成に恩義を感じ、関ヶ原の戦い後、三成の次男・石田重成、三女・辰姫に手を差し伸べています。
小田原征伐
天正18年(1590年)2月、石田三成は、島津久保(島津義弘の次男、島津義久の娘婿)を伴い、小田原征伐に参陣するため京都を出立します。
小田原到着後石田三成は、常陸・佐竹義宣が豊臣秀吉に謁見する頃まで、秀吉の陣所いたものと思われます。
佐竹義宣は秀吉から小田原征伐に参じるよう命じられていましたが、伊達政宗と対峙している最中であり、直ぐに応じることが出来ませんでした。
秀吉出立の知らせを受けて、急いで小田原に向かっています。
石田三成は、佐竹義宣に何度か書状を出し、戦況などを伝えたり、進物についてアドバイスをしています。
また、佐竹義宣の陣営に派遣した使者に島左近の名前があります。
その後、三成の斡旋により秀吉に謁見した佐竹義宣は、臣下の礼をとり、後も石田三成を頼りとしています。
忍城の水攻め
秀吉の命令により、石田三成は軍勢を率いて、館林・忍の両城を攻める攻城戦に出ます。
小田原を出立した石田三成は、まず館林城を開城させます。
石田三成は、佐竹義宣・宇都宮国綱・多賀谷重経・水谷勝俊など約2万の軍勢で、忍城を包囲します。
忍城攻撃の主将は石田三成ですが、具体的な戦術については浅野長政、木村重茲に指示を仰いでいます。
また、豊臣秀吉の意向で忍城は水攻めと決まっていたようです。
石田三成は、水攻めに反対の旨、秀吉に進言していますが、覆らず実行に移しています。
全長28キロメートルもの堤防を築き、現在も「石田堤」として遺構が残っています。
その後、川の水を城周囲に引き込みましたが、忍城はまるで浮いているかのように沈まず、籠城戦は続きます。
本城である小田原城が先に降伏して開城し、その後、忍城もようやく開城しています。
奥州仕置
その後、豊臣秀吉は小田原征伐に参陣しなかった大名を改易し、総無事令に違反した伊達政宗は滅封処分にしています(奥州仕置)。
石田三成は会津の旧主・蘆名義広に肩入れしていましたが、秀吉への拝謁が遅かったとして復帰は叶いませんでした。
ただ、石田三成の後ろ盾があり、実家が佐竹家であることから、佐竹家の与力大名になっています。
一方、早い段階で秀吉に恭順の意を示した大名の領土は安堵されています。
奥州仕置後、石田三成は、奥州における検地奉行を務めています。
天正19年(1591年)4月、豊臣家の蔵入地であった近江佐和山に代官として入城します。
当時の石田三成の領土は美濃国内にあったと見られています。
石田三成が「北畠助太夫」という家臣に、美濃の松尾村に250石を与える知行充行状が残っています。
文禄の役(朝鮮出兵)
文禄元年(1592年)3月、文禄の役(朝鮮出兵)が始まりました。
豊臣秀吉は明国征服を目論み、朝鮮に先導役を命じましたが拒絶されています。
明に侵攻するため道を借りると称して、朝鮮半島に上陸した日本軍は、朝鮮に攻撃を仕掛けます。
文禄の役で石田三成は、大谷吉継、岡本良勝らと共に名護屋在住の船奉行に任じられています。
石田三成は兵糧、弾薬、馬の飼料などの輸送も行っており、実質的には兵站奉行であったと見られます。
開戦当初、破竹の勢いで侵攻した日本軍は、開戦から21日間で朝鮮国の首都・漢城を落としています。
漢城陥落との報告を聞いた秀吉は、自ら渡海する意向を示します。
石田三成は賛同しましたが、徳川家康、前田利家は反対し、秀吉の渡海は延期になっています。
朝鮮出兵の総奉行として石田三成渡海
豊臣秀吉の名代として渡海し、朝鮮出兵の総奉行を務めたのは、石田三成、大谷吉継、増田長盛です。
石田三成は、朝鮮出兵は日本にとってマイナスであると考えたようで、早期講和を目指しています。
石田三成らが漢城に着いた頃、日本軍は平譲城も攻め落とし、明侵攻の準備もしていました。
ですが、日本軍の兵糧や弾薬が、石田三成らの想定よりも少なかったそうです。
また、朝鮮水軍の前に日本水軍は敗北し、朝鮮海峡の制海権を失い、兵站の確保は困難な状況です。
その上、明の大軍派遣、朝鮮義兵の蜂起もあり、苦しい立場に追い込まれます。
石田三成ら朝鮮奉行や在朝諸将は、漢城にて軍評定を開いています。
時間的な余裕が必要であるとし、年内の明国侵攻(唐入り)は延期するよう秀吉に進言することにしています。
文禄2年(1593年)1月、朝鮮半島の碧蹄館周辺で、勢いに乗る明軍を、小早川隆景ら日本軍が迎え撃っています(碧蹄館の戦い)。
碧蹄館の戦いの戦いに参じた二陣に石田三成・増田長盛・大谷吉継の名前があります。
小早川隆景や立花宗茂らの奮戦もあって日本は勝利し、敗北によって戦意を喪失した明軍の勢いはそがれています。
明軍は武力で日本軍を破ることを諦め、講和交渉へ転換します。
講和交渉
同年3月、日本軍は明軍に兵糧倉を焼かれたことで、長期戦が困難になり石田三成や小西行長らは、明との講和交渉を本格的に始めます。
(以前から、小西行長は和平交渉に乗り出していましたが、なかなか進まないという状態でした。)
同年5月、小西行長と石田三成ら朝鮮出兵の総奉行は、明勅使・謝用梓、徐一貫と共に日本へ向かいます。
明勅使は、朝鮮出兵の前線基地・名護屋城で秀吉と会見しています。
その後、講和交渉は暫く続けられますがまとまらず、文禄5年(1596年)9月に交渉決裂しています。
また、朝鮮出兵での石田三成は、在朝諸将の動静を秀吉に報告する役目もあり、黒田長政、福島正則、加藤清正らいわゆる武断派武将との間に亀裂が生じたと見られています。
島津領検地
文禄3年(1594年)3月、島津忠恒(島津家久)は、伏見で豊臣秀吉に謁見します。
島津家の後継者と目された島津久保は、文禄の役にて病没しました。
豊臣秀吉の指名により、弟の島津忠恒が後継者となります。
島津忠恒の後見人は石田三成です。
同年7月、石田三成が担当した島津検地が始まります。
石田三成は、薩州奉公中宛の11箇条に及ぶ検地掟書案を作成しています。
しかし、石田三成自身は薩摩に下向せず、家臣に任せていて、島津家文書には検地に携わった多くの三成家臣の名前が残されています。
特に、安宅秀安は島津家との交渉役を担っていたようで、三成書状にも名前があります。
因みに、石田三成が島津忠恒に送った書状には、小西行長や寺沢正成(寺沢広高)と親しくしていると書いています。
母・瑞岳院の葬儀を執行
文禄3年(1594年)3月、三成の母・瑞岳院が亡くなります。
同年9月、母の葬儀を京都大徳寺三玄院で執行しています。
大徳寺三玄院には、瑞岳院の肖像画が残されています。
石田三成の兄・正澄と親交が深かった藤原惺窩や大村由己は、追悼の漢詩や文を送って悼んでいます。
慶長4年(1599年)、三成は佐和山の麓に瑞岳寺を建立し、母の菩提を弔っています。
瑞岳寺は、後に佐和山城落城時に延焼しています。
佐竹領検地
文禄3年(1594年)10月、佐竹領検地が始まります。
島津領検地と同じく、三成自ら下向してなく、三成の家臣によって検地されています。
佐竹領に残る『検地帳』には、藤林三右衛門尉、山田勘十郎、大嶋助兵衛らの名前が確認できます。
秀次事件
文禄4年(1595年)6月末、豊臣秀次に謀反の嫌疑が掛かります。
豊臣秀次とは秀吉の甥で、秀吉の子・鶴松亡き後、秀吉から関白を譲られています。
豊臣秀次は豊臣家の後継者と目されていましたが、秀吉の子・秀頼が生まれた為、微妙な立場になったと思われます。
石田三成・増田長盛・前田玄以らは、聚楽第に派遣され、秀次に真偽を詰問しています。
その後、豊臣秀吉から伏見に出頭するよう促された秀次は、冤罪を晴らすため伏見に向かいます。
しかし、豊臣秀吉とは面会もできず、関白職をはく奪され、剃髪の上高野山に追放されています。
秀次の追放は諸大名を動揺させたようで、石田三成と増田長盛は、秀頼に忠節を誓う起請文を連署でしたためています。
文禄4年(1595年)7月、秀次に賜死の命令が下り、切腹して果てています。
更に、秀吉は秀次の妻子までも京の三条河原で斬殺しています。
秀次自害後、有力大名らも三成とほとんど同じ内容の起請文を提出しています。
現在ではほとんど否定されていますが、石田三成は、秀次事件の首謀者であるとする説があります。
石田三成は、秀次に尋問を行ったり、連座した諸大名の取り調べを行っています。
諸大名の取り調べを行っことで、石田三成は、秀次事件の仕掛け人というレッテルが貼られたのではないかとも言われています。
京都所司代に就任
秀次事件の後、石田三成と増田長盛は、京都所司代に就任しています。
京都所司代は、公家・寺社などを担当する前田玄以と三人制になっています。
文禄5年(1596年)1月、石田三成は、増田長盛・前田玄以・長束正家と共に、秀吉・秀頼への忠誠を誓い、血判起請文を提出しています。
※浅野長政は秀次事件の時に失脚しています。
正式に佐和山城主になる
豊臣秀次の旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になります。
また、三成が代官として支配していた近江佐和山領を正式に与えらて、佐和山城主となっています。
「近江を制するものは天下を制す」と言われるほど、近江は交通や軍事的にも要の地です。
近江佐和山19万4,000石を拝領した三成は、秀吉からよほど信任を得ていたと言えそうです。
豊臣秀次の旧臣
領地加増を受けて石田三成は、家臣団も拡充しますが、その際に豊臣秀次の旧臣を多く召し抱えています。
豊臣秀吉が人選した若江八人衆という秀次の家臣団の中で、舞兵庫(前野忠康)・大場土佐・大山伯耆・牧野成里・森九兵衛・高野越中は石田三成に仕えています。
後に起きる関ヶ原の戦いで、石田方の敗北が決定的となる中、戦場に最後までとどまって奮戦しています。
石田三成の掟書
文禄5年(1596年)3月、石田三成は、領内の村々にに十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出しています。
掟書には耕作権の保証、年貢率を決める過程の明示化、百姓が三成に直訴することを認めるなど、領民の権利と義務について書かれています。
また、領民に分かりやすいように「かな」が多く使用されている特徴のある掟書で、内容も領民目線で書かれています。
関ヶ原の戦い後、石田三成の文書は故意に破棄されたと思われ、あまり残っていません。
そのような中、十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書は何通も残っている例外的な文書です。
領内で三成が慕われていたことも考慮して、三成の掟書は領民にとって宝のような物だったのではないかと考えます。
慶長元年(1596年)7月、畿内を襲った地震により伏見城が倒壊し、三成も復旧にあたります。
キリシタン弾圧
同年、京都奉行に就任した三成は、秀吉にキリシタン弾圧を命じられます。
織田信長と同じく、かつてはキリスト教に寛容であった秀吉ですが、禁教令を発布しています。
石田三成の手には、提出されたキリシタン信者の名簿がありましたが、捕らえるキリシタンの数を極力減らせるよう取り計らったようです。
また、秀吉の要求は死罪ですが、三成はもっと穏便な措置になるよう模索したといいます。
高山右近とオルガンティノは難を逃れたものの、二十六名の殉教者を出してしまいます(日本二十六聖人)。
慶長の役(朝鮮出兵)
慶長2年(1597年)、明との講和交渉は決裂し、慶長の役(朝鮮出兵)が始まります。
慶長の役で石田三成が渡海することはなく、国内にいて後方支援をしています。
軍目付として、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直・太田一吉らが渡海しています。
福原長堯は三成の妹婿、熊谷直盛は三成の妹か娘婿です。
後に上洛して秀吉と謁見した際、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直らは、蔚山城の戦いについて報告します。
蔚山城の戦いの援軍として駆け付けた蜂須賀家政と黒田長政は、戦うべき場面で戦わなかったと秀吉に報告し、秀吉は「臆病者」といい両名に激怒したそうです。
黒田長政は朝鮮に滞在中でしたが、帰国していた蜂須賀家政は領国で蟄居し、蔵入地を没収されます。
また、福原長堯らは、竹中隆重(重利)・ 早川長政・毛利友重(高政)らについても、秀吉の命令に反して戦線縮小案に同意したと非難しています。
竹中隆重(重利)・ 早川長政・毛利友重(高政)らは、領国内で謹慎が命じられたり、領地の減封処分になっています。
慶長の役(朝鮮出兵)の落ち度により、早川長政は改易され、後任の府内領主には福原長堯(三成妹婿)になっています。
熊谷直盛・垣見一直らにも報告に対する論功行賞として、加増が約束されていたそうです。
いわゆる武断派武将(黒田長政や蜂須賀家政らなど)は、朝鮮出兵の論功行賞において、文治派武将(三成や福原長堯など)の讒言によって、秀吉の勘気に触れ不利益を被ったと思い、後の関ヶ原の戦いの一因になったともいわれています。
蒲生家の宇都宮減封
慶長3年(1598年)3月、蒲生秀行は秀吉の命令により、会津92万石から宇都宮18万石に移封されます。
代わりに越後の上杉景勝が会津へ国替になります。
蒲生家減封の理由は諸説ありますが、三成は奥州会津に下り転封の差配を行います。
石田三成は、上杉家の家老・直江兼続と連署して会津領に掟を発給しています。
また、大幅な減封になった蒲生家から多くの浪人が生じ、石田三成は蒲生家旧臣の蒲生頼郷・蒲生郷舎・蒲生将鑑・北川平左衛門らを自らの家臣に加えます。
石田三成だけでは受け入れきれず、上杉家や津軽家にもお願いしたそうです。
筑後国・筑前国の辞退
慶長3年(1598年)、小早川秀秋(秀吉の親族)は、秀吉の命令により、筑前から越前北ノ庄へ減封転封になります。
秀吉は筑後国・筑前国を三成に下賜しようとしましたが、三成は辞退しています。
かつて博多奉行となり博多復興に尽力した三成にとって縁のある土地で、もし領主になれば50万石以上であったと思われます。
領地を得たくて戦をする戦国の世にあって、意外な決断に思えます。
辞退の理由は、家臣・大音新介に宛てた書状に、(京や大坂から)遠い地に行けば秀吉の用を果たすのが困難になるので、近江佐和山にとどまる旨書いています。
結局、石田三成は、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に就任し、名島城を与えられ、現地視察のため九州に下向しています。
また、大幅な減封命令により、小早川秀秋は多くの家臣を解雇しています。
小早川旧領地の代官であった三成は、高尾又兵衛や神保源右衛門ら旧小早川家家臣を自身の家臣にしています。
その後、豊臣秀吉の病気が深刻な状態になり、石田三成は筑前から急いで帰還します。
秀吉この世を去る
石田三成が帰還した時期は定かではありませんが、慶長3年(1598年)7月中旬には、京に滞在しています。
徳川家康・前田利家・毛利輝元と起請文を取り交わし、豊臣秀頼に対して忠誠を誓う旨の誓約をしています。
豊臣秀頼の居城として大坂城拡張工事の計画があり、三成は大坂と秀吉の居城・伏見城との間を行き来しています。
豊臣秀吉は、有力大名である徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家に秀頼を託すため遺言書をしたためています。
五大老と称される大名らです。
五大老の筆頭は徳川家康で、豊臣秀頼の傳役は前田利家です。
詳細は五人の者に申し渡しているので、五大老に秀頼を託したいという趣旨のことが書かれています。
五人の者とは、前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家に失脚していた浅野長政が復帰して五奉行となっています。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉は伏見城において、この世を去っています。
石田三成 秀頼に仕える
豊臣家の家督は豊臣秀頼が継いでいます。
翌年、石田三成は、朝鮮出兵において出征軍の大将として出陣する予定になっていましたが、秀吉が亡くなった為、実現していません。
三成や五大老らは、秀吉の死を隠したまま朝鮮に留まる日本勢を撤退させることにしました。
徳川家康・前田利家らは、在朝諸将の帰国を進める為、石田三成・毛利秀元・浅野長政を九州博多に下します。
石田三成らは、軍船の手配をして、速やかに帰国させています。
五大老の一人である毛利輝元は、石田三成・増田長盛・前田玄以・長束正家の四奉行を受取人として起請文を発給しています。
豊臣秀頼への忠誠を誓うと共に、五大老の中で三成らと意見が異なる者がいれば、毛利輝元は三成らと相談し、その者を排除することを約束しています。
徳川家康を警戒していたことの現れではないかと思われます。
また、浅野長政の名前はなく、五奉行は一枚岩ではなかったのかもしれません。
慶長3年(1598年)9月、五大老と五奉行との間で、10名が結束して豊臣秀頼に忠誠を誓い、連署起請文が取り交わされます。
五大老が五奉行より格上と思われていましたが、10人は同格で、むしろ政務全般を取り仕切ったのは五奉行であるとの近年の研究があります。
一方、徳川家康は、細川藤孝(幽斎)・京極高次などを訪問し、蜂須賀家政・福島正則・伊達政宗・黒田長政らと婚姻関係を結ぼうとしていました。
豊臣秀吉は、秀頼の成人まで私婚を禁じており、秀吉の遺命に反する行為です。
翌年、徳川家康が水面下で縁組みを計画していたことが判明します。
豊臣秀頼の後見役・前田利家は、四大老五奉行と共に問責使を派遣して糾弾しています。
前田利家は、織田信長の元で槍働きをして頭角を現し、秀吉の信任も得ていた人物です。
五大老の中でも唯一、徳川家康と並び立つことができる人物で、細川忠興・加藤清正など武断派武将からの指示も得ています。
徳川家康は兵を呼び寄せ対立しますが、前田利家と対立するのは不利であると悟り、家康が起請文を提出しておさまっています。
前田利家没す
こうして秀吉の死後も、五大老・五奉行によって辛うじて政権が維持されていましたが、政治バランスは崩壊します。
慶長4年(1599年)3月、前田利家が病没します。
豊臣秀吉がこの世を去ってから数カ月後に、豊臣政権安定の要であった利家までもが没してしまったのです。
石田三成襲撃事件
利家亡き後、直ぐに大坂でクーデターが起きます。
石田三成派に恨みのあった武断派の7将が集結して、三成を討ち果たす計画を立てます。
朝鮮出兵における蔚山城攻防で、三成が秀吉に讒言をしたと思い恨みを抱いたようです。
7将については諸説あり、『慶長見聞書』によると、加藤清正・福島正則・黒田長政・加藤嘉明・浅野幸長・細川忠興・池田輝政。
『譜牒餘録』(ふちょうよろく)によると、加藤清正・福島正則・黒田長政・加藤嘉明・浅野幸長・蜂須賀家政・藤堂高虎です。
石田三成は襲撃事件の中心人物として細川忠興の名前を挙げているようです。
細川忠興は『譜牒餘録』には書かれていないので、『慶長見聞書』が正しいのかもしれません。
一方、蔚山城の戦いの査定などが発端であるのなら、蜂須賀家政が入っている方が自然にも思えます。
通報により襲撃を察知した石田三成は、島左近らと共に、友人の佐竹義宣の屋敷に逃れています。
佐竹邸に加藤清正の軍が迫ったため、伏見城にある自身の屋敷に立て籠もります。
翌日、武将らに伏見城が取り囲まれ、一触即発の様態になり、徳川家康が両者の調停を行います。
石田三成の失脚
三成は五奉行の座を退いて佐和山に隠居、蔚山城の戦いの査定の見直しで決着しています。
徳川家康家康以外にも、毛利輝元、上杉景勝、北政所も和睦の為に動いています。
毛利輝元の書状によると石田三成は意気消沈していたそうです。
石田三成が安国寺 恵瓊(毛利氏に仕える外交僧)に宛てた書状を呼んだ毛利輝元は、涙したとも伝わります。
毛利輝元は、石田三成に親しみを持っていたのかもしれません。
因みに、増田長盛を糾弾する声もありましたが、長盛の失脚は逃れています。
石田正宗
石田三成は、徳川家康の次男・結城秀康の護衛により、無事佐和山城に帰城
三成はお礼として、秀吉から賜った名刀・正宗を結城秀康に譲っています。
結城秀康は「石田正宗」と名付けて愛用したと伝わります。
蔚山城の戦いの査定の見直し
かつて、蔚山城の戦い(朝鮮出兵)で落ち度があったと咎められた蜂須賀家政と黒田長政は、三成失脚後、五大老の連署状によって名誉は回復されています。
一方、目付として秀吉に報告した福原長堯(三成の妹婿)は、加増された領地を没収されています。
前田利長の屈服と浅野長政の失脚
前田利家の跡を継ぎ五大老の一人となっていた前田利長は、徳川家康暗殺の嫌疑をかけられます。
前田利長は家康に弁明したり、母・芳春院を人質として差し出し家康に屈服し、事実上大老職を失っています。
これにより、徳川・前田の二頭体制は崩壊し、徳川家康の一頭政治となります。
五奉行の一人・浅野長政は連座して失脚し、甲斐国に蟄居しています。
当時、石田三成と激しく対立していた浅野幸長に浅野家の家督が譲られています。
こうして、五大老五奉行は四大老三奉行となり、徳川家康が主導権を握ることになります。
徳川家康の独裁を快く思っていない毛利輝元は、石田三成と結んで反撃の時を窺います。
石田三成と増田長盛は、毛利輝元と上杉景勝の覚悟に従いたいと輝元に伝えていたそうです。
会津の上杉景勝討伐
慶長5年(1600年)4月、会津の上杉景勝は、徳川家康から謀反の疑いがかけられます。
上杉家の家老・直江兼続は反論しますが、挑発的であったことから、徳川家康を怒らせます(直江状)。
景勝討伐を宣言した徳川家康は、後陽成天皇や豊臣秀頼から出馬慰労の品を下賜されます。
これにより、徳川家康は大義名分を得たことになり、景勝討伐は豊臣公儀の戦となります。
会津に出陣する途中、大谷吉継は佐和山城に隠居する三成を訪ねます。
三成の名代として、長男・石田重家を景勝討伐に参陣させるため訪ねたともいわれますが、大谷吉継は打倒家康を三成から打ち明けられます。
大谷吉継は徳川家康と良好な関係を築いており、家康の強さ・将来性をを知っていたようで、決起に反対していますが、三成の意志が変わらないとこを知ると共に戦う覚悟をします。
一説には、安国寺恵瓊も同席していたともいわれますが、挙兵計画が練られて、毛利輝元を総帥にし戦うことを決めています。
内府ちがいの条々
その頃、徳川家康が会津に出陣した隙をついて、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行は、毛利輝元に上坂を求めています。
前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署の13か条から成る、家康の弾劾状『内府ちがいの条々』、毛利輝元・宇喜多秀家の二大老連署状を発しています。
『内府ちがいの条々』は事実上の宣戦布告にあたり、関ヶ原の戦いの対立構造が成立したといえそうです。
その後、毛利輝元は、大坂城下の屋敷に入り、徳川家康の留守衆を追い出して、毛利勢が大坂近辺を制圧しています。
小山評定
石田三成挙兵の報を受けた徳川家康は、諸将を集めて軍議を開いたといわれます。
徳川家康は五大老筆頭として、上杉景勝討伐軍を率いていましたが、その軍勢を自身が総大将である東軍へと変化させています。
※小山評定の有無、内容については諸説あります。
細川ガラシャ自害
『内府ちがいの条々』を諸大名に送付したのと同日、細川忠興の正室である細川ガラシャが自害します。
石田三成方の人質要求を拒否し、自害したといわれています。
石田三成が主導したとも、前田玄以・増田長盛・長束正家ら奉行衆の要求であったともいわれています。
岐阜城の戦い
結果的には関ヶ原で大戦になりますが、石田三成は濃尾平野で決戦が行われると予想していたようです。
濃尾平野は美濃南西部から尾張北西部などに広がる平野で、西軍の岐阜城と大垣城、東軍の清州城があります。
美濃を死守して、木曽川を越えた尾張国内で戦に挑むつもりであったと見られます。
一方の徳川家康は、木曾川を越えた美濃で刃を交えるつもりであったようで、東西両軍が濃尾平野に集結し、関ヶ原の戦いの前哨戦の一つ岐阜城の戦いが起きます。
岐阜城の織田信秀は、西軍に属しており、東軍に野戦を挑むものの大敗します。
織田信秀は、三成らに援軍を要請し、援軍到着まで岐阜城に籠城しますが、三成からの援軍は向かう途中の河渡で迎撃され、敗走したため援軍は到着しません。
数に勝る東軍は、難攻不落の岐阜城をわずか1日で攻略します。
岐阜城が直ぐに落とされたことは、石田三成らにとって誤算であったと思われます。
合渡川の戦い
岐阜城陥落前の徳川家康は、織田信秀の援軍到着を阻むため、藤堂高虎・黒田長政・田中吉政らを大垣城の東にある合渡川に出陣させています。
合渡川の戦いには、石田三成の重臣・舞兵庫(前野忠康)、杉江 勘兵衛などが参陣しています。
舞兵庫と杉江 勘兵衛は、あの島左近と並び勇猛さを謳われる程の人物です。
杉江 勘兵衛は、合渡川の戦いにて、田中吉政の家臣・辻重勝に討たれて落命しています。
その後、石田三成ら西軍の本拠・大垣城は、東軍8万人に包囲され始め、大坂城にいる毛利勢に援軍を要請しています。
三成から出馬を請われた毛利輝元は、出陣する決意をしていたようですが、大坂城では増田長盛の裏切りが発覚するなど容易に離れられなかったようです。
また大谷吉継は、既に関ヶ原南西の山中村に布陣しており、岐阜城が落とされたことで、関ヶ原に後詰陣地を作っていたのではないかともいわれています。
第二次上田合戦
真田家は関ヶ原の戦いの際、父・真田昌幸と次男・真田信繁(幸村)は西軍について、長男・真田信之は東軍についています。
父子が袂を分けた理由は、どちかが勝利しても家を残すためともいわれていますが、婚姻関係もあったと見られています。
真田昌幸の娘・趙州院を介して石田家と親戚であり、真田信繁の妻は大谷吉継の娘・竹林院です。
一方、真田信之の妻は、徳川家康の養女・小松姫です。
石田三成の妻と真田昌幸の妻が姉妹との説もありますが、定かではありません。
真田信之は石田三成の盟友の一人であると真田家文書などから読み取れますが、徳川家康の与力でもあり、徳川方につくのは自然な選択かもしれません。
また、真田昌幸と真田信繁が西軍についたことで、東の上杉との連絡路を三成らは確保しています。
徳川家康は、真田昌幸と真田信繁が西軍についたころを看過できなかったようで、中山道を進軍する徳川秀忠に昌幸と信繁の対処を命じています。
こうして、第二次上田合戦が始まります。
真田信之は石田三成の盟友の一人であると真田家文書などから読み取れます
真田軍2,500〜3,000に対して、徳川秀忠軍38,000という軍勢の差がありながら、徳川軍を散々に翻弄します。
真田軍の強固な守りに攻めあぐねた徳川軍は、関ヶ原本戦に間に合いませんでした。
杭瀬川の戦い
裏切りに備えて、江戸から動けないでいると見られていた徳川家康が軍勢を率いて、大垣城の北・美濃国赤坂に到着します。
その為、逃亡者まで現れる程、西軍内で動揺が広がります。
見方の兵を鼓舞するため、三成の重臣・島左近は、大垣城と赤坂の中間の杭ノ瀬川で東軍を挑発します。
戦った後、島左近は敗走したと見せかけて、深追いした東軍を撃退します。
島左近は、関ヶ原本戦の前日に、勝利して景気づけています。
小早川秀秋が松尾山に着陣
徳川家康は本陣とする予定の赤坂の岡山に到着し、ほぼ同時に小早川秀秋の軍勢が関ケ原の南側にある松尾山に着陣します。
松尾山は近江国と美濃国をつなぐ重要拠点であり、三成らは毛利輝元に布陣してもらいたいと考えていたようです。
しかし、小早川秀秋は仮陣する大坂方の伊藤盛正を追い払い、占拠しています。
未だ旗色が不鮮明な秀秋が入ったことは、三成らにとって想定外の誤算が生じたと思われます。
近年、一次史料により、小早川秀秋の裏切りは、関ケ原本戦開始直後であるとする説があります。
小早川秀秋が松尾山に入る過程で、徳川家康と交渉の場を持っていたようで、既に心は決まっていたのかもしれません。
関ヶ原に移動する
詳しい時期は分かりませんが、関ヶ原の戦い出陣の際に詠んだと伝わる石田三成の和歌が残されています。
「残紅葉 散り残る 紅葉はことに いとおしき 秋の名残は こればかりぞと」
なんだか寂しげにも感じる歌に思えますが、決戦前の石田三成の心境でしょうか。
決戦を控えた石田三成が信頼できたのは、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、島津義弘ら少数であったようです。
徳川家康が赤坂に着陣した深夜、石田三成・宇喜多秀家・小西行長らは、大垣城から関ヶ原へ移動します。
大垣城には、福原長堯(三成妹婿)・熊谷直盛(三成縁者)・垣見一直・秋月種長らを残しています。
石田三成は笹尾山に陣取り、石田勢は松尾山の麓から中山道を塞ぐように布陣しています。
石田隊は6.000弱の軍勢であったと推測されています。
石田隊の内、1.000を島左近が率い、蒲生頼郷(横山喜内)は別の1.000を指揮します。
石田隊に加えて、豊臣家の旗本約2.000も三成に属していたようです。
西軍の動きをうけて、東軍も関ヶ原に移動します。
こうして、約15万もの軍勢が対峙する関ヶ原の戦いが始まります。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いについて、史料により書かれていることに違いがあり、諸説あります。
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いは午前10時頃、東軍指揮の中心的存在であった井伊直政が、島津隊か宇喜多秀家隊に銃撃して開戦したようです。
宇喜多秀家に対峙したのは、福島正則・藤堂高虎・京極高次ですが、その他の多くの軍勢は石田隊に襲い掛かったといいます。
石田隊は黒田長政の猛攻で崩れかけましたが、その後は持ち直して猛攻に耐えています。
ですが、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠父子・ 赤座直保・朽木元綱らが裏切って、大谷吉継隊の側面を突きます。
大谷吉継隊は崩れて吉継は自害し、小西行長隊・宇喜多秀家隊の陣も崩れて、大勢が決します。
最後まで奮戦した石田隊も重臣らを失い、三成は戦陣を逃れて再起を図ります。
生存説もありますが、追撃戦によって島左近は討ち死にしたと伝わります。
石田一族の自害
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠父子・ 赤座直保・朽木元綱に三成の居城・佐和山城攻めの先鋒を命じます。
近江出身の田中吉政、軍監として井伊直政が同行しています。
石田三成の出陣をうけて、居城・佐和山城は三成の父と兄らに託されています。
父・正継は本丸に入り、兄で主将の正澄は三の丸に入っています。
他にも、三成の舅・宇多頼忠、その子・宇多頼次、三成の長女の舅・山田上野介、大坂からの援軍にきた長谷川守知ら2,800の兵で籠城しています。
また、一説には三成の長男・石田重家もいたそうです。
石田軍は、6倍以上の軍勢相手に奮戦しますが、津田清幽(家康の旧臣)を使者にして、降伏交渉を開始しています。
開城と石田正澄(正澄だけでなく石田一族とも)の自害を条件に、城兵や婦女子の命は助けるという話でまとまります。
ですが、長谷川守知の裏切りにより、佐和山城に東軍の兵を三の丸に引き入れて陥落させ、石田一族の多くは自刃に追い込まれます。
石田正継・正澄は、一族説のある土田成久によって介錯されています。
津田清幽は、東軍の不義に怒り、徳川家康に直談判の上、佐吉(石田三成の三男)らの助命を認めさせています。
大垣城の戦い
西軍の美濃における拠点は大垣城で、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直・秋月種長らが守備していました。
関ヶ原本戦で西軍が敗北したため、大垣城は敵地に取り残されてしまいます。
秋月種長や相良頼房らは東軍に寝返り、垣見一直(三成盟友)・熊谷直盛(三成縁者)らを誘殺しています。
佐和山城が落城した翌日のことです。
福原長尭(三成妹婿)は徹底抗戦を唱え、本丸に籠り抵抗しますが、多勢に無勢で後に開城しいています。
その後、福原長尭は出家しましたが、自害を命じられています。
田中吉政に捕縛される
敗戦後の石田三成は、再起を図るべく逃亡します。
伊吹山辺りに潜伏した後、三成にお供したいと涙する磯野平三郎・渡辺甚平・塩野清助らと別れ、古橋に逃れます。
近江の古橋村は、三成が治めた地であり、一説に母の故郷とも伝わります。
古橋村にある法華寺の塔頭・三珠院で匿われた後、「オトチの岩窟」と呼ばれる山奥の洞穴に身を隠しています。
その頃、徳川家康の命令で三成と同郷の田中吉政が、三成を捕縛しようと捜索していました。
匿ってくれた村人に害が及ぶの恐れた三成は、自身を田中吉政に引き渡すよう説得したそうです。
石田三成は、田中吉政の家臣によって捕縛され、吉政の元へ連れて行かれます。
田中吉政は石田三成を手厚く保護し、三成はお礼に脇差し「石田貞宗」を贈っています。
石田三成の最期
その後、石田三成は、大津城の門前で生き曝しにされ、大津にて徳川家康と対面しています。
石田三成・小西行長・安国寺恵瓊と共に、謀反人として大坂・堺で引き廻された後、京都に護送されます。
慶長5年10月1日(1600年11月6日)、六条河原にて刑が執行されています。
享年41歳。
辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。
三成の首は晒された後、三成が生前深く帰依した春屋宗園や沢庵宗彭が引き取り、京都大徳寺の三玄院に手厚く葬り質素なお墓を建てたそうです。
徳川家康は、石田三成の罪を一代限りとし、三成の子供や子孫には比較的寛容でした。
石田三成の子孫の中には、徳川家と婚姻関係を結んだ人などもいて、現代にまで子孫は続いています。
参考・引用・出典一覧 戦国時代ランキング
コメント
コメント一覧 (18件)
[…] 津軽杉山家とは、石田三成の次男・石田重成を祖としています。 […]
[…] また、石田三成も父親候補に挙がります。 […]
[…] 石田三成はどんな人!?詳しい生涯を書いています […]
[…] 永禄3年(1560年)、石田三成は近江国の石田村(石田郷)で生まれています。 […]
[…] 京都所司代であった石田三成は、秀吉からキリシタンの弾圧を命じられています。 […]
[…] その為、秀吉の渡海は延期になり、代わりに石田三成・大谷吉継・増田長盛が渡海し、秀吉の名代として朝鮮出兵の総奉行を務めています。 […]
[…] 永禄3年(1560年)、石田三成は近江国坂田郡石田村で生まれています。 […]
[…] 結局、大谷吉継は盟友の石田三成と共に決起する道を選び、打倒家康を唱え、関ヶ原の戦いで自害しています。 […]
[…] 石田三成の家臣と言えば、まず島左近を思い浮かべる人が多いと思います。 […]
[…] 石田三成は、蒲生家減転封により生じた蒲生家旧臣を多く召し抱え、蒲生頼郷も石田三成に召し抱えられます。 […]
[…] 石田三成の子孫は生きていたというのは、現在では知っている方も多いと思います。 […]
[…] 敗軍の将である石田三成の子供については、多くの謎に包まれていましたが、近年では正室・皎月院との間の子供は、三男三女であると見られています。 […]
[…] 蒲生郷舎は、父・郷成や兄・郷喜が蒲生家に残る中、浪人になり、石田三成の家臣になります。 […]
[…] 豊臣秀吉は、小田原城の支城を攻略するよう諸将に命じており、石田三成も武蔵国の忍城攻めを命じられ、館林城を開城させた後に忍城へ兵を進めました。 […]
[…] 忠興の留守を狙った石田三成らは、ガラシャを人質に取ろうと屋敷を包囲します。 […]
[…] 石田三成の家紋は定かではありませんが、「九曜紋」を使用していたと見られています。 […]
はじめまして!
小生も歴史が大好きで
武士や武将では地元の謙信公を愛し
西郷隆盛、真田昌幸、土方歳三が
とくに大好きです。
歴史にifはないのですが関ヶ原の戦い
もし、石田三成の西軍が勝っていたら
その後はどうなっていたと思いますか?
コメントありがとうございます。
もし石田三成の西軍が勝利してたら、
豊臣政権で戦のない世を目指したのかなと思います。
石田三成は経済政策の担当が合いそうに思います。