石田三成の正室・側室の子供~一覧~

石田三成と正室との子供は、3男3女いると伝わっています。

石田三成と側室との間の子供は、全貌は明らかになっていませんが、複数人いるそうです。

この記事では複数人いる石田三成の子供を、正室の子供と側室の子供に分けて一覧にしています。

目次

石田三成と正室の間の子供

まず石田三成と正室との間の子供を長女、次女、長男、次男、三女、三男と産まれた順番に記載します。

 

《石田三成の一人目の子供・長女》

三成の長女の名前は不明で、生年は1578年頃ではないかとされています。

石田三成の長女自身のことは、詳細はわかっていませんが、山田隼人正(やまだ はやとのかみ)の正室であったと云います。

山田隼人正は、山田上野介(こうずけのすけ)の嫡男です。

山田上野介は、あまり知られた方ではありませんが、石田三成の家臣で、三成のからの書状に名前が残っています。

「佐和山城落城記」と呼ばれる山田家の記録を残した家系であり、「佐和山城落城記」には、山田家の佐和山落城前後のことや、その後の山田家の記録が記されています。

画像佐和山

佐和山

山田上野介は佐和山城落城の際に、山田隼人正に逃げ延びて菩提を弔うことを命じたと云われており、三成の長女と子供と共に逃げ延びます。

戦後は、山田上野介の妹である茶阿局(ちゃあのつぼね)の縁で、松平忠輝(まつだいら ただてる)に仕えます。

松平忠輝は、茶阿局との間に恵まれた徳川家康の六男です。

しかし、後に大坂の陣を経て、松平忠輝は改易されてしまい、長女夫婦は隠居生活を送るようになります。

その後、長女の妹である辰姫(たつひめ)の縁で津軽家から支援を受けて江戸で暮らしたそうです。

三成の長女が亡くなったのは、1655年頃だと云います。

三成の長女は、三成の子供でありながら、徳川家康の6男に仕え生き延びていました。

《石田三成の二番目の子供・次女》

三成の子供で二番目に生まれたのは、次女です。

次女は、「小石殿」と呼ばれていたそうですが、生誕、死没も不明です。

石田三成という有名人の子供とはいえ、敗者側で女性となると、なかなか難しいですね。

しかし、小石殿の夫の記録が残っていますので、夫の足跡を辿りながら小石殿の生涯を見てみましょう。

三成の子供・「小石殿」の夫は、蒲生家の家臣・岡重政(おか しげまさ)と伝わります。

夫婦となった時期は、定かではありませんが、1599年頃とする説があります。

あの有名な関ケ原の戦いは1600年に起きますが、戦後に岡重政はもともと仕えていた蒲生家に復帰します。

秀吉政権の頃に主君の蒲生家は、領地を減らされていました。

その関係で沢山の蒲生家旧臣が他家へ仕えていましたが、関ケ原の戦いの恩賞により加増され、蒲生家に復帰できたようです。

復帰後の岡重政は、津川城代の筆頭家老を任されてと伝わります。

三成の子供の夫という立場にありながら、二万石もの知行を得て暮らしていました。

後に主君・蒲生秀行が亡くなり、その嫡男・忠郷(たださと)が後を継ぎます。

若干10歳の忠郷の後見についた徳川家康の三女と岡重政が対立することになり、岡重政は切腹処分になってしまいます。

家康の三女という立場なのに、三成の子供の夫が逆らったので立腹してしまったのかもしれませんね…。

その後「小石殿」は、蒲生家を離れ福井県へ移り住み、そこで没したと伝わります。

また「小石殿」の子孫は、徳川家や現在の天皇家へ血脈をつなげています。

この子孫の話は別で記事にしていますので、この記事の最期で紹介させていただきます。

《石田三成の三人目の子供・石田重家》

石田三成は三人目の子供で、嫡男に恵まれます。

名前は、石田重家(いしだ しげいえ)といい、生年は1583年~1587年の間ではないかと云われています。

石田重家が関ヶ原の戦いの頃、何処にいたのかは諸説ありますが、大坂城か佐和山城だと云われています。

三成の敗北を知り逃れた重家は、京都の妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)へ入ります。

妙心寺寿聖院とは、三成が建立したとも三成の父が建立したとも云われているお寺です。

京都の妙心寺寿聖院

京都の妙心寺寿聖院

妙心寺寿聖院には、伯蒲慧稜(はくほえりょう)という三成が帰依した僧侶の一人がいましたので、伯蒲慧稜を頼ったそうです。

伯蒲慧稜の助けによって、出家を条件に許されたといいます。

出家後は宗享(そうきょう)と称し、石田三成一族の供養塔を建て菩提を弔います。

そして重家は、『霊牌日鑑<れいはいにっかん>』という石田家の記録を残しています。

重家は1686年に没しますが、99歳~103歳?という長寿を全うしました。

三成の子供、しかも嫡男であるにもかかわらず、生き延びた重家ですが、徳川家ゆかりの人物に保護を受けていたとする説があります。

重家の晩年は、徳川家康の弟の孫・岡部宣勝(おかべ のぶかつ)の保護を受け暮らしたそうです。

岡部宣勝は富宇姫の従兄弟ですが、富宇姫の夫は三成の孫である津軽信義(のぶよし)ですので、この縁によるものではないでしょうか。

弘前藩主3代目・津軽信義についてはこちらに記しています。


津軽信義とその子孫

また伝承になりますが、重家は関ヶ原戦い当時子供がいて、その子供も徳川家から保護を受けていたと云われています。

その子供の名前は、石田直重といい、徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)の保護下にあったそうです。

その話は、こちらの記事に記しています。


石田重家と直重と子孫

《石田三成の四人目の子供・石田重成》

石田三成の四人目の子供は、次男の石田重成(いしだ しげなり)です。

重成は1588年頃に生まれ、関ヶ原の戦い当時は、豊臣秀頼の小姓をしていました。

大坂城で父・三成の敗北を知り、津軽信建(つがる のぶたけ)の導きで、津軽家の居城・弘前城がある弘前(青森)へ落ち延びます。

この津軽家は三成と親しい仲で、三成に恩義を感じている家でもあり、弘前藩主を務める家柄でもあります。

重成はそのまま津軽家に保護され、杉山源吾(すぎやま げんご)と変名をして隠れるように暮らします。

重成(源吾)は徳川家から許しを得て助命されたのではありません。

逃げ延びたので、隠れるように暮らしていました。

しかし、結婚はしていたようで朽木氏(くつきし)の娘との間に二人の男子を、継室である柘植平干左衛門の娘との間には一人の男子、合計三人の子供に恵まれます。

その後1610年に、重成の妹・辰姫が弘前藩主・津軽信枚(のぶひら)に輿入れします。
津軽信枚の肖像画

津軽信枚

重成は、輿入れした辰姫の世話役として、傍で暮らしたとも云われています。

そして辰姫が亡くなった後、江戸に移り住み、1641年頃没したとされます。

また、辰姫の世話役はしておらず、辰姫が輿入れした頃に没したという説もあります。

 

この詳細はこちらです。


杉山源吾と名を変え生きた石田重成と子孫

 


《石田三成の五人目の子供・辰姫》

石田三成の四人目の子供として生まれたのは、三女の辰子です。

1591年に生まれ辰子という名ですが、辰姫と呼ばれています。

辰姫は幼少の頃に、豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)の養女になります。

養女となったのは秀吉が亡くなった1598年頃とされ、1610年頃に輿入れするまで北政所の元で過ごしたと伝わります。

※諸説あります。

その後、石田三成と縁深い2代目弘前藩主・津軽信枚に正室として嫁ぎます。

しかし、それを知った徳川家は、翌年の1611年に徳川家康の養女・満天姫(まてひめ)を、津軽信枚に輿入れさせます。

これにより、満天姫が正室になり、辰姫は側室に降格になってしまいます。

これは、三成の子供を正室に迎えた津軽家の去就を試すものだと思います。

また時期はわかりませんが、辰姫は弘前ではなく、上州大館(じょうしゅうおおだて)の地で暮らすようになります。

上州大館は現在の群馬県ですが、津軽家の領地です。

辰姫は夫・信枚と離れ離れになってしまいますが、信枚が参勤交代の時に、大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、長男である信義(のぶよし)が生まれました。

津軽信義の肖像画

津軽信義

それを知った満天姫は辰姫親子を幽閉状態にし、1623年に幽閉状態の中で、辰姫は病没しました。

信枚には、徳川の姫の子とされる男子もいたので、三成の子供が生んだ信義を藩主の跡継ぎにすることは苦労したようです。

しかし、信枚の命がけの熱意により、信義が三代目藩主になりました。

この先、途中分家から養子を迎えながら、十代目・津軽信順(のぶゆき)まで辰姫の血筋が藩主を務めることになります。

 

詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。


津軽信義とその子孫

 

石田三成の三女・辰姫と子孫

《石田三成の六人目の子供・佐吉》

石田三成の六人目の子供は佐吉(さきち)です。

佐吉は石田三成の幼名として知られていますが、同じ幼名を子供にも付けています。

佐吉が生まれたのは1594年頃だとされ、関ヶ原の戦い当時六歳と推定され子供の為、元服後の名前は伝わっていません。

佐吉は関ヶ原の戦いの頃、三成の居城である佐和山城にいましたが、徳川方に攻め込まれてしまいます。

画像佐和山城祉の碑石

佐和山城祉の碑石

石田方は奮戦しましたが、三成の敗北を知り徳川方と開城交渉を整えたそうです。

ですが、石田方に内通者がいたり、徳川方の不義によって、三成一族などが自害する悲劇が起きました。

その行為に怒ったのは、三成の兄の家臣・津田清幽(つだ きよふか/せいゆう)という人物です。

津田清幽は、もとは徳川家の家臣という立場の人物ですが、徳川家康に直談判をし、出家を条件に佐吉の助命を認めさたといいます。

その後、津田清幽と木食応其(もくじきおうご)という僧侶の手引きにより、出家します。

そして木食応其は、佐吉に深長坊清幽(しんちょうぼうせいゆう)という名を与えます。

津田清幽への恩を忘れないように、「清幽」の字をもらい名付けたそうです。

その後、甲斐の河浦山薬王寺(かわうらやまやくおうじ)16世の住職になり、1676年に没したそうです。

佐吉についての詳しい話はこちらです。


石田三成の三男・佐吉~関ヶ原の戦い当時からその後~

ここまでが石田三成と正室との間の子供です。

次からは側室との間の子供を紹介させていただきます。

石田三成と側室の子

以前は、石田三成には側室がいない可能性があると見なされていた時期がありました。

石田三成の子供について詳細が分かってきたのは、昭和の後半、もしくは平成になってからではないでしょうか。

側室の子供についても伝承で多少伝わっている程度で、側室がいるかどうかも分からなかった時代があったと思います。

現在でも詳細は不明なことが多いですが、石田三成には複数の側室いたこと、その側室との間に複数の子供(庶子)がいたことが分かっています。

その子供達は、関ヶ原の戦い後、母の生家を頼り落ち延びたと云われています。

因みに、物語などにでてくる「初音」という方は、石田三成の側室として確認されていません。

 

先に述べたように側室の子供については、詳細は分かっておらず、書籍からも探しましたが、わかる範囲で記載します。

 

《側室の子供・石田宗信(むねのぶ)》

石田三成と側室の子供に、石田宗信(むねのぶ)という方がいるそうです。

石田宗信は、石田将監宗信とも呼ばれ、名前は不明ですが妹もいるそうです。

関ヶ原の戦い後、柳生家に1年間保護され、奥州相馬に移住したと伝わります。

後に相馬義胤(そうまよしたね)に禄を与えられ、幕末には城下武士として優遇されたそうです。

その石田家には、「柳生一族に保護されたことと、決して徳川家を恨んではいけない」との伝承が末裔の方に伝わっているそうです。

三成の重臣である島左近は柳生宗厳(むねよし)と親しい間柄です。

島左近の娘は、柳生利厳(としよし)の継室となっていて親戚でもあります。

三成の子が柳生家に保護されたというのは十分あり得る話だと思います。

 

島左近の話はこちらです。

石田三成の家臣・島左近

 

《側室の子供・石田八郎》

石田三成の子孫を称する方の家に「吉田石田家系図」が伝わっているそうです。

当時10歳だった八郎は、家臣二人と備中小田郡吉田村(岡山県)に逃れて帰農し、八郎から四代目までは石井姓を称し、後に石田性に復したと記載されているそうで、五輪塔もあるそうです。

八郎という名前は聞きますね。

ただ、これは伝承の域を出ないような…気がしてしまいますが。

 

《側室の子供・石田千代丸》

三成の子供(庶子)の伝承が伝わるお寺があるそうです。

それは、大阪府池田市鉢塚2-7-26にある「一乗院」というお寺です。

お寺の境内には一枚岩で作られた「石田三成軍旗塚」という碑石がありますが、三成の子孫と名乗る人が建てたそうです。

三成の子供(庶子)である千代丸は、関ヶ原の戦い当時、乳児だったそうです。

そして、乳母によって軍旗に包まれて落ち延びたそうです。

その後、石田四郎右衛門と名乗り1646年亡くなったとされています。

1801年に子孫と仰る大和屋彦兵衛が、軍旗を菩提寺の一乗院に収めたと伝わるそうです。

この辺りは現在でも石田性が多いそうですが…いかがでしょうか。

江戸時代にゆかりもないのに石田三成の子孫を名乗る必要はないわけです…。

1801年頃は三成の評判がとても悪かった時期ですし。

そう考えると、本当に三成の子供が落ち延びたかは不明としても、三成にゆかりのある方である可能性は感じますね。

《側室の子供・石田政治(まさはる)》

関ヶ原の戦いの後、三成の子供が盛岡藩・七戸(青森県七戸町)に逃れてきて、南部家に保護されたそうです。

近江にあった大塚屋・村井氏も保護してくださったようです。

石田三成の子供は色んな人に保護されていますが、一番意外だと思ったのが南部家です。

この伝承だけでは、よくわかりませんが…、信頼できる書籍にも記載されていたので記録があることは確かなようです。

 

《淡路国に逃れた子供》

側室の子供が、淡路国洲本市の納地区に逃れたとの伝承があるそうです。

現在の兵庫県になりますが、三成の供養塔も現存しているそうです。

 

三成が所持していた物、もしくは手紙などはないのでしょうか。

子孫の方に怒られそうですが…、伝承も供養も後からつくれますからね…。

 

《側室の孫が川口市に》

子供でなくですが、一緒に紹介させていただきます。

関ヶ原の合戦で敗れた石田三成の側室の孫が、乳母に守られて埼玉県川口市(旧鳩ケ谷)落ち延び百姓になったそうです。

子孫はこの地に住み続け、石田神社を建てたと伝わります。

この話は民話のようで、どこまで本当か不明です。

私の持っている石田三成の書籍には、この話は掲載されていません。

この石田神社に行ってきました。

子孫の方々がお参りにいらっしゃるそうですが、一般人は入れないようになっています。

神社はブロック塀で囲まれ、さらに鉄の棒?で入れないように柵が作られています。

なので、外から写真を撮りました。

石田神社

石田神社

鳥居の上には、石田神社と書かれた札が掲げられています。

写真で分かるように撮影したかったのですが、どうしても影になってしまいました。

小さくて古びた神社で、言われなかったら石田三成の孫が関係のある神社とは思わないと思います。

石田神社

私は、この辺りを何度も車で通ったことがありますが、石田性が多くて民家、お店、歯医者など「石田」さんが沢山いらっしゃるようです。

 

 

《側室の子供・石田某》

山内一豊の甥に山内一唯(かつただ)という人物がいるそうですが、石田三成の子供(庶子)を家臣として召し抱えたという記録があるそうです。

その子供の名前は不明です。

 

《側室の子供・佐藤三益の妻》

佐藤三益に嫁いだ三成の子供がいるそうです。

正室の子供ではないので側室の子供だと思います。

後に、紀州徳川当主・徳川頼宜(よりのぶ)から、扶持米(ふちまい)を送られた旨の記載があります。

徳川頼宜は、徳川家康の10男です。

筆者の所感

今でこそ、石田三成の子孫と聞くと羨ましい?かもしれませんが、

江戸時代に十字架を背負ったように生きていくのは、想像以上に大変だったのではないでしょうか。

神君・家康に逆らった逆賊として、歪曲した偽の三成像は、江戸時代中期頃から伝わっていたようです。

昭和に入っても、三成の子孫達は、三成の子孫と知られないように、当主など一部の人に口伝(くでん)し、ひっそりと生きた家もあるそうです。

なので、本当の縁者でなければ、そのような伝承は残らない、わざわざ肩身の狭い思いはしないと個人的には思います。

ただ、三成の子供でなく、三成の孫や兄の子供なども混ざっている可能性は否定できないように思います。

今回記事にした伝承だけでも、三成の側室の子供が多いように思います…。

全員が本当に側室の子供の可能性もありますが…。

かおりんのアイコン画像かおりん
『石田三成伝』は、一次史料を基に客観的に書いていると評価が高い書籍です。

石田三成の長女と次女についてです。

石田三成の長女(山田隼人正勝重の正室)

 

石田三成次女・小石殿と夫・岡重政

かおりんのアイコン画像かおりん
徳川家や天皇家など、三成の子孫についてのまとめ記事はこちらです。

石田三成の子孫~一覧~

参考・引用・出典一覧

戦国時代ランキング

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次
閉じる