石田三成の子供についてのまとめ記事です。

正室の子供については、一人ずつ記事にしていますので、簡潔に書きます。

詳しく知りたい方は、リンクをつけていますので、そちらからご覧ください。

 

石田三成と正室の間の子供

石田三成と正室との間の子供を長女、次女、長男、次男、三女、三男と産まれた順番に記載します。

 

石田三成の長女

生誕と死没は1578年?~1655年、名前は不明です。

石田三成の家臣の嫡男である山田隼人正の正室です。

佐和山城(さわやまじょう)落城後に、山田隼人正は徳川家康の6男である松平忠輝の重臣に起用されます。

しかし、松平忠輝は改易されてしまい、夫が隠居生活を送るようになります。

その後、長女の妹である辰姫(たつひめ)の縁で津軽家から支援を受けて江戸で暮らしたそうです。

詳細はこちらから

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石田三成の子供~長女~

 

石田三成の次女

 

生誕、死没、名前は不明ですが、「小石殿」と呼ばれていました。

蒲生家の家臣・岡重政(しげまさ)の正室です。

岡重政は関ヶ原の戦い後、蒲生(がもう)家の筆頭家老になります。

しかし、徳川家康の三女・振姫と対立し、切腹処分になってしまいます。

その後、三成次女は、蒲生家を離れ福井県へ移り住み、そこで没したと伝わります。

又、徳川家光の側室であるお振りの方は、この三成次女の孫です。

お振りの方の子供である千代姫が、尾張徳川家の3代藩主を産み、7代の徳川宗春(むねはる)まで、

尾張徳川家は石田三成の子孫となります。

次女の詳細はこちらから

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石田三成の子供~次女~

お振りの方についてはこちらから

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石田三成の子孫~徳川家光の側室・お振りの方~

長男の石田重家

1583年~1587年産まれ、

関ヶ原の戦いの時、大阪城(又は、佐和山城)から逃れた重家は、妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)へ入り出家します。

助命、嘆願を願い出て、徳川家康から許されることになりました。

出家後は、宗享(そうきょう)と称し、父である三成一族の供養塔を建て菩提を弔います。

1686年に、99歳~103歳?の長寿を全うしました。

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石田三成の子供~長男 石田重家~

 

次男の石田重成

1588年頃産まれとされ、関ヶ原の戦い当時は、豊臣秀頼の小姓をしていました。

大阪城で父・三成の敗北を知り、津軽信建(のぶたけ)の導きで、津軽家の居城がある津軽(青森)へ落ち延びます。

そのまま津軽家に保護され、杉山源吾と変名をして隠れるように暮らします。

その後、津軽信枚(のぶひら)に輿入れした妹の辰姫の世話役として、上州大館の地(群馬県)で暮らします。

※上州大館の地で暮らさず、1610年に既に没したという説もあります。

辰姫が亡くなった後は、江戸に移り住んだとも伝わり、1641年頃没したとされます。

詳細はこちらから

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石田三成の子供~次男 石田重成~

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三女の辰姫

1591年に三成の三女として産まれました。

名前は辰子ですが、辰姫と呼ばれています。

1598年頃、豊臣秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)の養女となり、

1610年頃まで北政所の元で過ごします。

その後、大名・津軽信枚に正室として嫁ぎますが、翌年に徳川家康の養女・満天姫(まてひめ)が、

津軽信枚に降嫁したため、辰姫は側室になってしまいます。

時期ははっきりわかりませんが、辰姫は津軽ではなく、上州大館(じょうしゅうおおだて)(群馬県)の地で暮らすようになります。

信枚と離れ離れになってしまいますが、信枚が参勤交代の時に、大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、長男である信義が産まれました。

それを知った満天姫は辰姫親子を幽閉状態にし、1623年に幽閉状態の中で、辰姫は病没しました。

その後、夫・信枚の熱意により、辰姫の息子である信義は3代目藩主になりました。

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石田三成の子供~三女 辰姫~

 

三男の佐吉

1594年頃産まれ、関ヶ原の戦い当時6歳と推定される為、佐吉という幼名しか伝わっていません。

佐吉は関ヶ原の戦いの頃、三成の居城である佐和山城にいましたが、徳川方に攻め込まれてしまいます。

その後、徳川方と石田方は、開城交渉を整えましたが、徳川方の不義により、三成一族などが自害する悲劇が起きました。

その行為に怒った津田清幽(つだ きよふか/せいゆう)が、徳川家康に直談判をし、出家を条件に佐吉の助命を認めさせました

出家した佐吉は、木食応其(もくじきおうご)により、与えられた法名である深長坊清幽(しんちょうぼうせいゆう)と名乗ります。

その後、甲斐の河浦山薬王寺(かわうらやまやくおうじ、やくわうじ、やくわうぢ)16世の住職になり、1676年に没しました。

詳細はこちらから

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石田三成の子供~三男 佐吉~

 

 

石田三成と側室の子

石田三成は側室との間に複数の庶子(しょし)がいて、関ヶ原の戦い後、母の生家を頼り落ち延びたとされています。

石田三成の庶子の情報は少なく、以前、石田会館に行った時にも尋ねましたが、詳細はわからないようです。

文献からも探しましたが、詳しい文献はなくわかる範囲で記載します。

 

石田宗信(むねのぶ)

 

宝島社出版「悲劇の智将 石田三成」によると

関ヶ原の戦い後、柳生家により庇護され、東北に移住したとあります。

この情報の出所の記載はありません。

 

又、石田三成の次男の子孫で石田三成研究家である白川亨氏著「石田三成の生涯」、「石田三成とその子孫」によると

三成庶子の兄妹である石田将監宗信(石田宗信)と某女(名前不明)は、関ヶ原の戦い後、

柳生家に1年間保護され、その後、奥州相馬に移住し、後に相馬義胤(そうまよしたね)に禄を与えられ、

幕末には城下武士として優遇された旨の記載があります。

「柳生一族に保護されたことと、決して徳川家を恨んではいけない」との伝承が末裔の方に伝わっているそうです。

 

三成の重臣である島左近は柳生宗厳(むねよし)と親しい間柄です。

島左近の娘は、柳生利厳(としよし)の継室となっていて親戚でもあります。

三成の子が柳生家に保護されたというのは十分あり得る話だと思います。

島左近の話はこちらです。

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石田三成の家臣・島左近

 


石田三成とその子孫

石田八郎

「吉田石田家系図」に、当時10歳だった八郎は、家臣2人と備中小田郡吉田村(岡山県)に逃れて帰農し、

八郎から4代目までは石井姓、後に石田性に復したと記載されているそうです。

五輪塔もあるそうです。

 

石田千代丸

三成の庶子の伝承が伝わるのは、大阪府池田市鉢塚2-7-26に「一乗院」というお寺です。

お寺の境内には一枚岩で作られた「石田三成軍旗塚」という碑石があり、三成の子孫と名乗る人が建てたそうです。

三成の庶子である千代丸は、関ヶ原の戦い当時、乳児だったようで、乳母によって軍旗に包まれて落ち延びたそうです。

その後、石田四郎右衛門と名乗り1646年亡くなったとされています。

1801年に子孫と仰る大和屋彦兵衛が、軍旗を菩提寺の一乗院に収めたと伝わるそうです。

この辺りは現在でも石田性が多いそうです。

軍旗が石田三成ゆかりの物なら、三成の庶子と通説に入れて欲しいですね。

 

石田政治(まさはる)

関ヶ原の戦いの後、盛岡藩・七戸(青森県七戸町)に逃れてきて、南部家に保護されたそうです。

近江にあった大塚屋・村井氏も保護してくださったようです。

 

 

淡路国に逃れた子

 

側室の子で現在の兵庫県である淡路国洲本市の納地区に逃れたとの伝承があり、

三成の供養塔も現存しているそうです。

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側室の孫が川口市に

 

子でなくですが、一緒に紹介させていただきます。

関ヶ原の合戦で敗れた石田三成の側室の孫が、乳母に守られて埼玉県川口市(旧鳩ケ谷)落ち延び百姓になったそうです。

子孫はこの地に住み続け、石田神社を建てたと伝わります。

この話は民話のようで、どこまで本当か不明です。

私の持っている石田三成の文献には、この話は掲載されていません。

子孫の方々がお参りにいらっしゃるそうですが、一般人は入れないようになっています。

神社はブロック塀で囲まれ、さらに鉄の棒?で入れないように柵が作られています。

なので、外から写真を撮りました。

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ishidajinjya-yoko鳥居の上には、石田神社と書かれた札が掲げられています。

写真で分かるように撮影したかったのですが、どうしても影になってしまいました。

私は、この辺りを何度も車で通ったことがありますが、石田性は多いです。

民家、お店、歯医者など「石田」さんが多いのは確かです。

 

石田某

名前不明、山内一豊の甥である山内一唯(かつただ)は、石田三成の庶子を家臣として召し抱えた旨の記載が

白川亨氏著「石田三成とその子孫」のあとがきにあります。

 

佐藤三益の妻

三池純正著「義に生きたもう一人の武将 石田三成」によると

三成の娘が佐藤三益に嫁いだこと。

後に、紀州徳川当主・徳川頼宜(よりのぶ)(徳川家康の10男)から、扶持米(ふちまい)を送られた旨の記載があります。

側室の子だと思います。

側室の子供について

石田三成研究家である白川亨氏が著書の中で、淡路島「石田家資料」、武州鳩ヶ谷「石田家資料」の写しを持っていると記しています。

今回、伝承や民話として紹介させていただいた話のことだと思います。

ですが、白川亨氏の著書の中で詳細はありません。

その資料だけでは、伝承の域をでることがでなかったものと推測しています。

 

筆者の所感

今でこそ、石田三成の子孫と聞くと羨ましい?かもしれませんが、

江戸時代に十字架を背負ったように生きていくのは、想像以上に大変だったのではないでしょうか。

神君・家康に逆らった逆賊として、歪曲した偽の三成像は広く伝わり、現代でも歪曲した三成像を信じている方もいます。

昭和に入っても、三成の子孫達は、三成の子孫と知られないように、当主など一部の人に口伝(くでん)し、

ひっそりと生きた家もあるそうです。

なので、本当の縁者でなければ、そのような伝承は残らない、わざわざ肩身の狭い思いはしないと個人的には思います。

ただ、三成の子でなく、三成の孫や兄の子なども混ざっている可能性は否定できないように思います。
参考・引用・出典一覧

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