津軽信義とその子孫

津軽信義(のぶよし)は、弘前藩(ひろさきはん)・3代目藩主になった人物です。

津軽信義は、津軽信枚(のぶひら)と石田三成の三女との間に生まれた三成の孫です。

そして、津軽信枚の正室は徳川家康の養女という境遇でした。

徳川の世で三成の孫が藩主になる過程などを含め、津軽信義の生涯を記します。

目次

津軽信義と辰姫

画像津軽信義の肖像画

三成の孫・津軽信義

 

三成の孫が大名になっていて、意外に思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。

津軽信義が大名になれたのは、生母の辰姫が藩主の側室で信義を生んだからになりますが、そもそも三成の子供が何故、藩主の側室になれたのか簡単に記します。

関ヶ原の戦いで辰姫の父は敗軍の将となりますが、関ケ原の戦いより前の1598年頃に豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)の養女となっていたと云います。

そして、関ケ原の戦いの約10年後に当たる1610年頃、北政所の養女として三成と縁のある津軽家へ輿入れします。

正室として輿入れしましたが、それを知った徳川家が徳川家康の養女・満天姫(まてひめ)を正室として送り込んできましたので、辰姫は側室に降格され、満天姫によって大舘(おおだて)(群馬県)にあった津軽家の飛び地で幽閉生活を送ることになります。

そのような中ですが、津軽信枚は辰姫の元へ通ったといい信義が生まれます。

津軽信枚の肖像画

信義の父・津軽信枚

ですが、信義の誕生を満天姫が知り、大館の地で母・辰姫と共に幽閉状態での生活を強いられることになります。

徳川の姫である満天姫は、三成の息女である辰姫が、信枚の男子を産んだことが気にいらなかったのかもしれませんし、満天姫と信枚の間に子供がいない時だったので嫉妬心かもしれませんが、満天姫は辰姫には厳しい態度をとっているそうです。

その後、辰姫は幽閉状態の中に亡くなります。

後に、信義の幽閉は解かれますが、1624年まで、信義が津軽の地を踏むことは許されなかったと伝わります。

津軽信義が藩主になるまで

藩主の嫡男として誕生した信義ですが、藩主の跡継ぎになるのは、大変だったようです。

何故、藩主になれたのか、一言でいうと信義を藩主に望む父・信枚の熱意があったからと伝わります。

1620年に信枚の次男として 津軽信英(のぶふさ)が生まれていました。

信英の生母は満天姫と云われています。

ですが、満天姫は子供に恵まれず引き取って育てたとする説があるそうです。

信英は後に弘前藩から黒石領5000石を分知され領主となる方ですが、信英の家系は黒石津軽氏と呼ばれています。

その黒石津軽氏の『法号寄』という記録には、「信英の母は実名不詳・法号法蓮院といい江戸で信英を産んだ」と記載があるそうです。

『法号寄』に書き間違えた?のかもしれませんが、『法号寄』によると、信英は満天姫の嫡子ではありません。

しかし、満天姫が自身の子とする為、隠蔽工作を行っていたそうで現在でも、産みの母が満天姫なのか側室なのかはっきり定まっていません。

生母はハッキリしないものの、信英は徳川の姫の子という位置付けです。

当然、満天姫が次の藩主に押しているのは信英だったと云い、信英は優秀と評判の良い人物でもあったそうです。

満天姫の肖像画

家康の養女・満天姫

そのような理由で長男は信義ですが、後を継ぐのに苦労したそうです。

それでも信枚は、信義が一年年長との理由で、満天姫の説得に努めたそうです。

そうして信枚は、信義を3代目藩主にする為に、「百日潔斎」という命がけの行為を行ったと云います。

「百日潔斎」とは聞きなれない言葉だなと思い調べましたが、「潔斎<けっさい>」しかわかりませんでした。

潔斎とは「法会・写経・神事などの前に、酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴 <もくよく>などして心身を清めること」

とのことです。

飲食を慎むとありますので、断食してそうに思うのですが…百日続けたら生きていないような…。

すみません、ハッキリとはわかりませんが、所持している文献によると、命に関わるような行為とのことで、止められても止めようとせず、流石の満天姫も心を動かされたのではないかということのようです。

 

信義の生母・辰姫についてはこちらの記事に記しています。

石田三成の子供~三女 辰姫~

津軽信義が藩主になる

画像弘前城

津軽家の居城・弘前城

いずれにせよ信枚の熱意により、1627年に満天姫は、ついに信義を養子にし、1629年に幕府に満天姫の子として届けを出しました。

そうして、僅か13歳の信義は弘前藩3代目藩主となり、徳川の世にあって、徳川の姫の子ではなく、石田三成の娘の子が藩主となりました。

ですが1631年に、「百日潔斎」の無理が原因で体調を崩していていた信枚は、信義が満天姫に認められたことを見届け亡くなります。

そして問題が起きてしまいます。

若年で藩主となった信義は譜代の家臣たちと信義の近従たちとの対立を抑えられず、1634年に船橋騒動と呼ばれるお家騒動にまで発展します。

この時代はお家騒動を起こした家は、領地を没収されるなどしていた頃です。

弘前藩もお家存亡の危機に陥ってしまいます。

しかし幕府の助け得をて喧嘩両成敗により、双方から多くの処罰者を出しますが、何とか沈静化し、信義にも咎めはありませんでした。

津軽信義と幕閣

この頃に、お家騒動を起こしたにもかかわらず、何故信義は、お咎めなしになったのでしょうか。

残られている記録によると、信義が大老・土井利勝、老中・松平信綱ら幕閣から尋問を受けた際に、お家騒動の経緯を自身が若輩で家臣と上手くいっていない旨を話したそうです。

若輩故にお家騒動を起こすと、改易されても不思議でないように思いますが…、土井利勝は、信義の苦衷を理解してくれたそうです。

それどころか、土井利勝、幕閣ともに涙を流し同情したと云われています。

信義は若年で藩主になり、岳父がいなく親族も少ないので、相談相手もいなくて辛いのではないかと察してくれ、「お構いなし」の判断が下されたそうです。

豊臣恩顧の大名の多くが難癖をつけられ改易されていた時期ですが、不思議なことに信義は幕府から配慮されて、お家騒動も許されました。

三成の孫・信義と徳川の幕閣、とても仲良さそうなイメージはないと思いますが、意外とそうでもなさそうです。

少なくても血縁関係があります。

養母・満天姫(まてひめ)に疎まれていた信義と三成三女・辰姫ですが、満天姫は津軽家の安泰を願っていました。

信義の正室に満天姫自身の姪に当たる富宇姫(ふうひめ)(松平康久の娘)を迎えます。

また信義の嫡男で、4代目弘前藩主となる津軽信政(のぶまさ)(三成曾孫)の正室は、4代将軍家綱の従妹である不卯姫(ふうひめ)です。

不卯姫は土井利勝の孫娘でもあります。

それだけではありません、信義の長女である万姫を、土井利勝の4男である土井利房(幕府の若年寄、老中を歴任した)の正室に迎えています。

また、信義の次女である以津姫(いつひめ)は土井利房の養女となり、五島盛清(ごとう もりきよ)に嫁いでいます。

血縁関係を持つ前から土井家は、津軽家に対して好意的だったそうですが、その上、血縁関係まで結んでくれたということのようです。

意外かもしれませんが、石田三成の子供、孫、子孫は徳川家や松平家、徳川家に近しい人に助けられたり、大名のところで優遇されているのを黙認したりしています。

津軽家以外にも、三成の縁者は優遇されています。

また土井利勝は、徳川家康のご落胤(らくいん)説まである位の側近です。

そこまでの重臣である土井利勝ですが、何故、石田三成の縁者に優しくしてくれるのでしょうか。

豊臣家を守る為に決起した石田三成の心情が、土井利勝には理解できたということでしょうか。

また、徳川家康自身が義を重んじるエピソードがあります。

そして、徳川の世が長く続くように民が忠義を重んじるようにしたと云います。

石田三成は徳川の敵であっても、憎い相手ではないということが理解できたのかもしれません。

津軽信義と正保の騒動

信義が藩主の時代にまたも、正保の騒動というお家騒動が起きます。

信義と信義の嫡男を廃して、徳川の姫の子・信英(のぶふさ)を当主に据えようとする陰謀がありました。

信義が亡くなった時は、殉死をした家臣もいると伝わりますが、一方で「じょっぱり殿様」、「暗君」だという評判もあり、奇行や乱行が目立ったなどという話も伝わっています。

あまり評判が芳しくありません…。

信義は幼い頃から幽閉生活をし、失意の中母は没しました。

幽閉は解かれ藩主になったわけですが、心に傷があったかもしれません。

また、信義の父の代からの信英を藩主に擁立したい一派がまだいたそうです。

1634年に船橋騒動と呼ばれるお家騒動が起きていますので、以降、藩主の権力を強化しており、信義に反発する家臣たちがいたとも云われています。

そして、信義は酒乱で女性関係にも問題があり、幕府の目にとまったら津軽家に罰が下るのではないかと津軽家を案じたとする説や三成の血筋を気にしたとする説もあります。

因みに、信義は側室の子を含め、25男26女(男女合わせ38人という説も有ります)と多くの子供をもうけています。

理由は複数だったかもしれませんが、信義を隠居させて当時、幕臣となっていた信義の異母弟・信英を津軽の当主に擁立しようとしました。

ですが、謀議(ぼうぎ)に参加し反対した家老の密告により未遂に終わります。

反対し密告したのは、信義と信英の・津軽 信隆(のぶたか)だと云います。

信隆の生母の記録はないですが、信枚の三男で信義の異母兄弟になります。

信隆の通称は百助(ももすけ)で、津軽百助家の初代になる人物です。

またこの当時、信義は信英に好意的だったとのことで、信英が企てに加わっていた証拠もありません。

それでも、両兄をめぐるお家騒動に弟に支持してもられたのは嬉しかったかもしれません。

これにより、百助(ももすけ)は知行を加増され、子孫は弘前藩の家老として栄えます。

また信英にはお咎めはありませんでしたが、直ちに、連座者の粛清に乗り出します。

津軽信義と富岡武兵衛

粛清処分となった者の中に信義に近しい人物がいます。

それは石田三成の長女の次男です。

信義は三成三女の長男なので、従兄弟にあたる人物ということになります。

長女は嫁いで山田性になっていましたので、次男の名前は山田武兵衛といい、改名して富岡武兵衛(とみおか ぶへえ)と名乗っていました。

従兄弟という他にも、富岡武兵衛は信義の妹である松姫を妻に迎えており、信義に近しい間柄でした。

なのに、黙認していたのです。

理由は不明です。

ただ、この陰謀は反対者がいたため、元々、成立しそうもなかったと云われています。

なので、富岡武兵衛としては、武士として密告する行為を憚ったのかもしれません。

信義は、この件について「身内衆にも見放された」と記録に残しているそうですので、富岡武兵衛が黙っていたことがショックだったのかなと思います。

自分は親しいと思っているのに、相手は違ったとなると現代人でも悲しくなりますものね。

気持ちのすれ違いのように思えますが、富岡武兵衛は切腹処分を受けてしまいました。

三成の孫・富岡武兵衛の縁者のその後

処分を受けてしまった富岡武兵衛ですが、その娘・鶴女(三成の曾孫)は、津軽信隆( のぶたか)(百助)が自身の娘として養育します。

色んな人が出てきてよく分からなくなりそうですが、津軽信隆( のぶたか)(百助)とは、信義に陰謀を密告した信義の弟です。

そして百助は、鶴女を石田三成の曾孫に当たる杉山吉煕(よしひろ)に嫁がせたと云います。

杉山吉煕とは、石田三成の次男・重成が改名し、杉山源吾(すぎやま げんご)となり、その子供が杉山吉成、そのまた子供が杉山吉煕です。

又、正保の騒動から月日の経った1690年には、切腹処分を受けた富岡武兵衛の弟である山田彦兵衛(やまだ ひこべえ)(三成の孫)に700石知行を与え城代に起用し、後の子孫も津軽家に厚遇されて幕末を迎えたと伝わります。

杉山吉煕の父で三成の孫にあたる杉山吉成についてです。

石田三成の子孫~津軽杉山家の吉成~

 

三成長女の記事はこちです

石田三成の子供~長女~

津軽杉山家の祖である三成次男の記事はこちらから

石田三成の子供~次男 石田重成~

津軽信義の功績

難ありのようにも思えてしまう信義ですが、信義の功績として、強力な主導権を発揮して、インフラ整備をしたことがあげられます。

・津軽の水害改善の為の治水工事をしたこと。

・尾太鉱山(おっぷ)の開鉱によるの算出が藩財政に大きく貢献し、藩を潤わせたこと。

・津軽新田の開発や水路の設備をしたこと

この新たに開発された新田は、6万石分に及ぶと言われ藩財政に貢献したそうです。

文化人としての津軽信義

和歌を好み、歌集「愚詠和歌集」(ぐえいわかしゅう)を執筆するなど一級の教養人でもあったそうです。

義信の和歌には辰姫を偲ぶものが多いそうです。

津軽信義の子孫

弘前藩主での津軽信義の子孫をみていきます。

3代・津軽信義→4代・津軽信政(のぶまさ)→5代・津軽信寿(のぶひさ)→6代・津軽信著(のぶあき)→7代・津軽信寧(のぶやす)→8代・津軽信明(のぶはる)→9代・津軽寧親(やすちか)(分家・黒石藩から)→10代・津軽信順(のぶゆき)

信義直系藩主は8代で途絶えてしまい、分家である黒石藩から9代の寧親を迎えます。

寧親は、4代藩主である津軽信政(信義の嫡男)の曾孫ですので、津軽信義、石田三成双方の子孫になります。

その後、三成と信義の血脈は10代藩主まで続きましたが、その後は途絶えてしまい、藩主には養子を迎えています。

 

信義の子孫の詳細は別で記事にしていますので、ご興味ある方はご覧ください。


石田三成の子孫~一覧~

こちらは信義の子孫についてで、主に三菱財閥について書いています。


石田三成の子孫の現在

参考・引用・出典一覧

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