津軽信義(のぶよし)は、弘前藩・2代目藩主である津軽信枚(のぶひら)と

石田三成の三女で豊臣秀吉正室・北政所(きたのまんどころ)の養女でもある辰姫の嫡男として生まれました。

三成の孫・津軽信義

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出典:wikipedia

三成の孫に当たる津軽信義(つがる のぶよし)の正室は養母・満天姫(まてひめ)(徳川家康養女)の姪に当たる富宇姫(ふうひめ)(松平康久の娘)です。

信義は側室の子を含め、25男26女(男女合わせ38人という説も有ります)と多くの子供をもうけています。

信義は三成の孫でありながら、父・信枚(のぶひら)の熱意により3代目藩主となります。

しかし、若年で家督を継いだこともあり、お家騒動が起きてお家存続の危機にさらされながらも、お家存続を守ります。

そして、奇行・乱行が目立ち、「じょっぱり殿様」との異名が残る一方、インフラなど治績(ちせき)において、功績を残したことで知られる信義の人生を見ていきます。

信義幼少まで

信義の母・辰姫(三成三女)の記事に書かせていただきましたが、辰姫は津軽信枚の正室として輿入れし、後に満天姫降嫁により側室に格下げされています。

辰姫は、津軽の飛び地・上州大館(じょうしゅうおおだて)(群馬県)に移され、信枚は参勤交代の際に立ち寄っています。

そのような中、1619年に、信義(のぶよし)(三成の孫)が上州大館(じょうしゅうおおだて)の地で産まれます。

 

幽閉状態での生活を強いられる

信義の誕生を満天姫(正室である徳川の姫)が知り、上州大館の地で母・辰姫と共に幽閉状態での生活を強いられます。

徳川の姫である満天姫は、三成の息女である辰姫が、信枚の男子を産んだことが気にいらなかったのだと思います。

信枚と辰姫が会っていたことも知らなかったのかもしれません。

また、当時、満天姫に信枚との間の子供はいません。

その後、辰姫は幽閉状態の中、亡くなります。

後に、信義の幽閉は解かれますが、1624年まで、信義が津軽の地を踏むことは許されなかったと伝わります。

 

母・辰姫の記事はこちらです。

石田三成の子供~三女 辰姫~

信義を藩主に望む信枚の熱意

父・津軽信枚の晩年は、辰姫との間の子である信義を3代目藩主にする為に、苦労した様子が伝わっています。

信義の弟である信英(のぶふさ)は、信枚と徳川家康の養女で、正室の満天姫(まてひめ)の子として、満天姫が次の藩主に押しています。

それでも信枚は、信義が一年年長との理由で、満天姫の説得に努めたそうです。

又、石田三成研究家の白川亨氏著作「奥羽・津軽一族」によると、

信枚は、信義を3代目藩主にする為に、「百日潔斎」という命がけの行為を行い、命に関わると止められても、

止めようとせず、流石の満天姫も心を動かされようだという趣旨の記載をしています。


奥羽・津軽一族

 

潔斎の意味

潔斎(けっさい)と調べると

法会・写経・神事などの前に、酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴 (もくよく) などして心身を清めること。

とあります。

「百日潔斎」とは、潔斎を百日続けることなのか、調べても分からないのですが…、命に関わるような行為とのことです。

信英は満天姫の嫡子か

又、黒石津軽氏(信枚の次男・信英を祖とする黒石領の津軽氏)の「法号寄」には、「信英の母は実名不詳・法号法蓮院といい江戸で信英を産んだ」と記載があるそうです。

この「法号寄」によると、満天姫の嫡子ではありません

しかし、満天姫が自身の子とする為、隠蔽工作を行っていたそうで

現在でも、産みの母が満天姫なのか側室なのかはっきり定まっていません。

信義が藩主になる

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津軽家の居城・弘前城

いずれにせよ信枚の熱意により、1627年に満天姫は、ついに信義を養子にし、1629年に幕府に満天姫の子として届けを出しました。

そして1631年に、「百日潔斎」の無理が原因で体調を崩していていた信枚は、信義が満天姫に認められたことを見届け亡くなります。

そうして、僅か13歳の信義は弘前藩3代目藩主となりました。

こうして、徳川の世にあって、徳川の姫の子ではなく、石田三成の娘の子が藩主となりました。

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船橋騒動

1634年、信義が若年で藩主となったため、譜代の家臣たちと信義の近従たちとの対立を抑えられず、

お家騒動にまで発展し、お家存亡の危機に陥ってしまいます。

幕府の助け得をて喧嘩両成敗により、双方から多くの処罰者を出しますが、何とか沈静化します。

又、信義には咎めはありませんでした。

 

信義に対する幕閣の対応

この頃は、お家騒動を起こした家は、領地を没収されるなどしていた時期です。

なのに、お咎めなしになった経緯ですが、信義が大老・土井利勝、老中・松平信綱ら幕閣から尋問を受け、お家騒動の経緯を自身が若輩で家臣と上手くいっていない旨を話します。

しかし土井利勝は、信義の苦衷はよく分かるとし、その上信義には岳父がいなくて親族も少ないので、相談相手もいなくて辛いのではないかと察して、涙を流して同情したそうです。

そして「お構いなし」の判断が下され、幕閣も同情して貰い泣きしていたと記録されているそうです。

豊臣恩顧の大名の多くが難癖をつけられ改易されていた時期ですが、不思議なことに三成の子孫は幕府から配慮されて、お家騒動も許されています。

 

 

 

土井家と津軽家

土井家は津軽家に大変好意的血縁関係も結んでいます。

信義の嫡男で4代目弘前藩主となる津軽信政(のぶまさ)(三成曾孫)の正室は、4代将軍家綱従妹である不卯姫(ふうひめ)であることは、

前回の記事に記載しましたが、不卯姫は土井利勝孫娘でもあります。

さらに、信義(三成の孫)の長女である万姫を、土井利勝の4男である土井利房(幕府の若年寄、老中を歴任した)の正室に迎えています。

それだけでなく、信義の次女である以津姫(いつひめ)は土井利房の養女となり、五島盛清(ごとう もりきよ)に嫁いでいます。

その前回の記事はこちらです。

石田三成の子孫~津軽杉山家の吉成~

 

津軽家に好意的な土井家

先に記載したように、三成の孫である信義は、徳川の姫の子であり、優秀と評判な信英がいるにもかかわらず藩主になりました。

徳川側からしたら信義は好ましくない相手ではないのでしょうか。

外様大名が難癖をつけられ、改易が次々と起こっている時代です。

何故、このように土井家は、三成の子孫である津軽家に好意的なのか理由をいくら探しても見つかりません。

土井利勝は徳川家康のご落胤(らくいん)説なるものまである位の側近です。

そこまでの重臣でありながら、豊臣家を守る為に決起した石田三成の心情が、土井利勝、土井利房親子には、理解できたということでしょうか。

又は、義を重んじるエピソードが残る家康自身が、三成の心情を理解していたのでしょうか。

 

正保の騒動

1647年、信義は、以前起きたお家騒動(船橋騒動)以降、藩主の権力を強化しており、信義に反発する家臣たちによって、信義を隠居させ、

当時、幕臣となっていた信義の異母弟・信英を津軽の当主に据えようとする陰謀がありました。

ですが、謀議(ぼうぎ)に参加し反対した家老の密告により未遂に終わり、信義は直ちに、連座者の粛清に乗り出します。

 

三成長女の次男切腹処分

三成長女の記事で簡単に記載しましたが、この時に切腹処分を受けてしまった一人が、

三成長女の次男であり、信義の従兄弟でもある富岡武兵衛(とみおか ぶへえ)(改名前の名は山田武兵衛)(三成の孫)です。

富岡武兵衛は信義(三成の孫)の妹である松姫を妻に迎えており、信義に近しい間柄でした。

この陰謀は反対者がいたため、元々、不成立に終わったと伝わります。

白川亨氏は著「奥羽・津軽一族」の中で、富岡武兵衛の思いとして、

謀議(ぼうぎ)に参加し反対したため、陰謀が不成立になったので、武士として密告する行為を憚ったのではないかという趣旨の推察されています。

又、信義の心情としては、富岡武兵衛に密告して欲しかったのではないかとも推察されています。

信義が身内衆にも見放されたと記録に残しているそうです。

 

三成の孫・富岡武兵衛の縁者のその後

その後、津軽信枚(2代目藩主)の3男である津軽 信隆( のぶたか)(百助)は、

富岡武兵衛の娘で三成の曾孫でもある鶴女(石田三成→三成長女→富岡武兵衛→鶴女)を自身の娘として養育し、

石田三成の曾孫に当たる杉山吉煕(よしひろ)(石田三成→杉山源吾→杉山吉成→杉山吉煕)に嫁がせたそうです。

又、正保の騒動から月日の経った1690年には、切腹処分を受けた富岡武兵衛の弟である

山田彦兵衛(やまだ ひこべえ)(三成の孫)に700石知行を与え城代に起用し、後の子孫も津軽家に厚遇されて幕末を迎えたと伝わります。

 

三成長女の記事はこちです

石田三成の子供~長女~

津軽杉山家の祖である三成次男の記事はこちらから

石田三成の子供~次男 石田重成~

 

義信の功績

信義の功績として、強力な主導権を発揮して、インフラ整備をしたことがあげられます。

・津軽の水害改善の為の治水工事

・尾太鉱山(おっぷ)の開鉱によるの算出が藩財政に大きく貢献

・津軽新田の開発や水路の設備

この新たに開発された新田は、6万石分に及ぶと言われ藩財政に貢献します。

 

文化人として

和歌を好み、歌集「愚詠和歌集」(ぐえいわかしゅう)を執筆するなど一級の教養人でもあったそうです。

義信の和歌には辰姫を偲ぶものが多いそうです。

 

石田三成と津軽信義の子孫

弘前藩主での石田三成と津軽信義(三成の孫)の子孫をみていきます。

3代・津軽信義→4代・津軽信政(のぶまさ)→5代・津軽信寿(のぶひさ)→6代・津軽信著(のぶあき)→7代・津軽信寧(のぶやす)→8代・津軽信明(のぶはる)→9代・津軽寧親(やすちか)(分家・黒石藩から)→10代・津軽信順(のぶゆき)

信義直系藩主は8代で途絶えてしまい、分家である黒石藩から9代の寧親を迎えます。

寧親は、4代藩主である津軽信政(信義の嫡男)の曾孫ですので、石田三成、津軽信義双方の子孫になります。

その後、三成と信義の血脈は10代藩主まで続きましたが、その後は途絶えてしまい、藩主には養子を迎えています。

 

 

信義は奇行があり「じょっぱり殿様」と呼ばれていたそうですが、反徳川的な面があったそうで、奇行と言われた一因はそこにあるように思います。

又、物心つく頃には幽閉生活を強いられ、幼い頃に、母は追い詰められ亡くなります。

そのような経緯を考えると心の病になっていた可能性もあると思います。

当ブログ全体の出典元はこちらです。

参考・引用・出典一覧

 

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三成子孫である歴代の弘前藩主についてはまとめ記事に記しています。

石田三成の子孫~まとめ~

石田三成の子孫の現在

石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~
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