松平氏と徳川氏の違い、得川氏に改姓した理由 

徳川家康は松平氏として生まれ、松平の名字を名乗っていましたが、官位を求めて朝廷に働きかけた際、得川氏(徳川氏)の末裔を称し徳川氏に改姓しています。

この記事では徳川氏に改姓した理由、徳川氏の一門でも「徳川氏」と「松平氏」名乗りが違うのは何故か、また、「徳川氏」と「松平氏」の違いは何かについて書いています。

まずは、松平氏の発祥についてから書いています。

目次

松平氏の発祥

松平氏は日本の名字の一つですが、ここでは徳川家康を輩出した三河国の松平氏について書いています。

松平氏については、後世に書かれた松平氏(徳川氏)の系譜を参考にしていますが、史実かは分かりません。

松平氏(徳川氏)の主張になるため、伝説の域を出ないと思われます。

松平氏(徳川氏)の初代は、室町時代初期の人物である松平親氏であるそうです。

松平親氏は、三河国松平郷の領主か国衆であったと言われています。

この松平郷が松平氏(徳川氏)の発祥地であると言われており、現在の愛知県豊田市松平町にあたります。

松平親氏の像
松平郷園地にある松平親氏銅像

室町時代中期、三河国松平氏3代当主・松平信光は、勢力を広げて戦国大名としての松平氏の基礎を築き上げています。

松平信光が松平氏の嫡流と言われる岩津松平家の祖となります。

松平信光は、40人以上の子供がいたとの伝承もある人物で、多くの松平庶家を分出しています。

徳川家康の系統は、松平信光の三男・松平親忠で、当時は分流です。

松平親忠は、父が奇襲により奪った安祥城を拠点として独立し、後に松平宗家と見なされる安祥松平家の祖となっています。

家康の安祥松平家が惣領家化

松平親忠の三男・松平長親(徳川家康の高祖父)の代になると、宗家の岩津松平家に庶家を統制する力はなく、安祥松平家が惣領家化していきます。

その後、松平清康(徳川家康の祖父)は、岡崎を征服して拠点を安城から岡崎へ移しています。

松平清康
松平清康

西三河を支配下においた松平清康ですが家臣に討たれて亡くなると、松平氏の勢力は後退して駿河国の今川義元を頼ることになります。

その後、6歳だった徳川家康(竹千代)の人質生活が始まり、家康の父である松平広忠も24歳で非業の死を遂げています。

徳川家康は源氏の末裔?

話は変わりますが、戦国武将は、「源氏」・「平氏」・「藤原氏」・「橘氏」という名門の四姓に憧れていました。

徳川家康は、祖父・松平清康が源氏の一族である「世良田」姓を名乗っていた時期があることから、「」姓であると自称しています。

家康の「家」の字は、清和源氏の祖である源義家から頂戴したとの説もあります。

「自称」と表記したのは、大正8年(1919年)、渡辺世祐氏によって松平氏(徳川氏)は、新田氏の末裔ではないという論文が発表され定説になっている為です。

つまり、松平氏(徳川氏)は、本当は源氏でないということになります。

ですが、徳川家康は、世良田の末裔を称して改姓していますので、改姓に至る経緯を書きます。

徳川(得川)氏に改姓した理由

徳川家康のご先祖と言われる世良田氏は、清和源氏の流れをくむ新田氏の一族・得川氏の分流です。

永禄9年(1566年)、今川氏から独立し織田信長と同盟を結んだ松平家康は、三河国をほぼ統一します。

松平家康は三河守任官を朝廷に働きかけますが、「清和源氏の世良田氏」が三河守に任じられた先例がないと言われてしまいます。

そこで、徳川家康は藤原氏の一族で、公家である近衛前久に相談し、前久の対処により、吉田兼右が先例となる文書を発見します。

世良田義季(得川義季)の末裔の系統から藤原氏になったという前例が見つかり、得川(徳川)は源氏ですがもう一つの流れに藤原氏になった例があるとして、家康は本姓を「源」から「藤原」に改姓しています。

この松平氏の出自が正しいならば、得川(世良田)義季は、松平氏の遠祖となる人物です。

当時は前例を重視する風潮があったため、特例ともいえる措置により家康は任官を叶えたといえます。

同年12月、家康は従五位下三河守に叙任され、ほぼ同時期に「徳川」に復姓(事実上の改姓)し、翌年1月に勅許を得ています。

徳川家康
徳川家康

この時は、家康個人のみが徳川に改姓したのであって、家康以外の松平一族は松平姓のままです。

因みに、当日の公家の間では「徳川」ではなく「得川」と書くのが一般的であったそうです。

徳川家康が将軍職を退き隠居するまでに徳川姓を許されたのは、跡を継いだ徳川秀忠だけであったと言われています。

後に、徳川秀忠の時代以降、徳川御三家などに徳川姓が許されることになります。

松平氏と徳川氏の違い

松平氏と徳川氏は同族ですが、徳川姓を許されたのは、将軍家や一門のうちで最高位にあたる家格を持つ家だけです。

まず、徳川家康の息子11名を見てみると、徳川姓の使用が許されたのは4名です。

  • 徳川家康の世子である三男・徳川秀忠(将軍家)
  • 徳川御三家の祖となった九男・義直(尾張徳川家)、十男・頼宣(紀伊徳川家)十一男・頼房(水戸徳川家)

徳川御三家徳川将軍家に次ぐ家格を持っています。

江戸時代中期になると、徳川御三家に次ぐ御三卿(徳川将軍家の分家)も徳川姓を許されています。

御三卿とは、田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家の三家のことです。

徳川御三家・御三卿ともに、将軍家に跡継ぎがない場合に将軍の後継者を出せる別格の家です。

その他、一時的に存在した駿河徳川家・甲府徳川家・館林徳川家も徳川姓を許されています。

具体的には、徳川秀忠の三男・忠長(駿河徳川家)、4代将軍・徳川家綱の弟・綱重、その子・綱豊(後に将軍・家宣になった)(甲府徳川家)、3代将軍・徳川家光の四男・徳川綱吉(5代将軍)、綱吉の嫡男・徳川徳松(館林徳川家)です。

また、明治時代以降に分かれた分家もあるそうですが、その他の一族は、松平姓を使用しています。

違う家紋を使用

徳川家康は丸に三つ葉葵(葵の御紋)を使用しています。

基本的に三つ葉葵の使用は、徳川将軍家や徳川御三家など徳川姓を名乗れる家の家紋とされています。

徳川家康の権威が上がり葵紋が特別な家紋になると使用が憚られます。

松平家に対しては、葵紋の使用を遠慮させており、会津松平家以外は葵紋を使用していません。

また、徳川一門でも葉の模様の数の違いなどがあり、家により少しずつ違います。

一例として、徳川家康から徳川家光までが使用した徳川葵(江戸初期)、徳川葵(江戸後期)、水戸徳川家の水戸三つ葵、会津松平家の会津三葵です。

徳川葵(江戸初期)
徳川葵(江戸初期)出典元:Wikipedia
徳川葵(江戸後期)
徳川葵(江戸後期)出典元:Wikipedia
水戸三つ葵の例 (水戸徳川家)
水戸三つ葵の例 (水戸徳川家)出典元:Wikipedia
会津三葵 (会津松平家)
会津三葵 (会津松平家)

松平一族

最後に、松平氏についてもう少し詳しく見てみます。

≪徳川家康の時代以前≫

徳川家康の時代以前に、分家したルーツを持つ松平一族は、「十八松平」又は「十四松平」と言われています。

複数ある松平氏のどの庶家が該当するかは書物によって違うそうです。

徳川家康のご先祖で40人以上の子供がいたという松平信光は、「松平家の中興の祖」と言われており、子供たちを三河国中に分封しています。

竹谷松平家(松平信光の長男)・形原松平家(四男)・大草松平家(五男)・五井松平家(七男)・能見松平家(八男)・長沢松平家(十一男)ですが、『寛政重修諸家譜』によると、松平庶流十四家に入っています。

大河ドラマ「どうする家康」に登場する松平昌久は、大草松平家の当主です。

≪家康以降の松平家≫

徳川秀忠以降は、先に述べたように将軍家・御三家・御三卿などの当主は徳川姓で、その他は親藩も含めて松平姓です。

また、家康の次男・結城秀康を家祖とする越前松平家は、将軍(秀忠)の兄の家系として高い家格を有し、「制外の家」とされていますが、それでも松平姓を名乗っています。

結城秀康像
結城秀康像

≪家康の血縁者≫

徳川家康の子供ではありませんが、血縁により松平姓を許され一族に准じる立場になった家もあります。

徳川家康の生母・於大の方は、再婚相手である久松俊勝(長家)との間に男子が3人います。

徳川家康の異父弟にあたりますが、松平姓が与えられ、久松松平家は江戸時代に大名として遇されています。

その他、譜代大名5家(松井家・戸田家・大河内家・柳沢家・本庄家)、外様大名14家(前田家・島津家など)にも松平姓を許しています。

参考・引用・出典一覧
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