大久保忠世はどんな人!?生涯・家紋・子孫について

歴戦の優れた武将であった大久保忠世は、徳川十六神将と呼ばれる有力武将に名が挙がる徳川家康の側近です。

大久保忠世は、弟・忠佐らと共に徳川家を支え続け、家康に忠節を尽くしています。

この記事では、大久保忠世とはどんな人か、また家紋や子孫についても書いています。

目次

大久保忠世の出自

大久保忠世の出自は、藤原氏の流れを汲む宇都宮氏の庶流である武茂氏の分家との説があります。

『寛政重修諸家譜』によると、大久保氏は始め宇都宮と称し、後に宇津と改名し、大久保忠俊(大久保忠世の叔父)の代で大久保姓に改めたそうです。

大久保忠世の曽祖父の名前は宇津忠与と言い、松平長親(徳川家康の高祖父)信忠、清康に仕えています。

松平長親は三河の安祥城を居城としていますが、松平氏が安祥城在城時から仕えていた家臣を「安祥譜代」と呼んでいます。

徳川家の最古参家臣である安祥譜代は7家あり、その内の一つが大久保家となります。

天文元年(1532年)、大久保忠世(ただよ)は、大久保忠員の長男として生まれます。

大久保忠世
大久保忠世

父・忠員の兄である大久保忠俊が本家で、大久保忠世は分家の生まれです。

また、大久保忠世の幼名は分かりませんが、七郎右衛門と称したと言われています。

父・忠員は、松平清康(家康祖父)から家康の代まで仕えた松平氏の宿老で、松平広忠(家康父)を岡崎城に帰参させた功績があります。

大久保忠員は戦においても武功を挙げており、庶流ながら兄である大久保忠俊の宗家を凌ぐようになります。

このように松平氏の宿老を父に持つ大久保忠世自身も徳川十六神将の1人であり、やがて徳川四天王に次ぐ地位を得る人物でに成長します。

宇津忠与(大久保忠世の曽祖父)(松平長親、信忠、清康に仕える)→宇津忠茂(松平清康に仕える)(大久保氏の祖)→大久保忠員(松平清康→広忠→徳川家康)(分家)→大久保忠世

大久保忠世の活躍

弘治元年(1555年)、大久保忠世は、今川方として尾張蟹江城攻めに参じています。

大久保忠世が仕えていた徳川家康(当時は松平元信)は、三河国の弱小勢力であり、駿河国の今川義元に属していました。

蟹江城攻略の際、特に活躍した7名は「蟹江七本槍」と呼ばれており、大久保忠世の名前もあります。

また、大久保忠世の父・忠員、弟・忠佐も「蟹江七本槍」の一人と謳われています。

永禄6年(1563年)、三河国で宗教一揆が起きます(三河一向一揆)。

家康家臣には門徒が多く、主君につくか一揆方につくか選択を余儀なくされます。

一向一揆の中心は本願寺派の門徒ですが、そこに家康家臣の門徒も複数人加わり徳川家康(当時は松平)と戦になります。

徳川家康
徳川家康

松平庶家を含め家康家臣は分断しますが、やがて家康方が優位になり一揆は収束しています。

大久保忠世は、家康方について一揆鎮圧に貢献しています。

また、後に江戸幕府の中枢となる本多正信は、一揆方についたため戦後出奔しますが、後に大久保忠世の取り成しにより帰参しています。

三方ヶ原の戦いと武田軍夜襲

永禄9年(1566年)頃、徳川家康が実施した軍政改革により、大久保忠世は一之手衆に選抜され遠江攻略に尽力します。

元亀3年(1573年)、徳川領国である遠江国・三河国は、武田信玄の侵攻を受け、遠江国の二俣城を攻略した武田軍は、家康の本拠地・浜松城に迫ります。

浜松城模擬天守
浜松城模擬天守

また、二俣城落城より前に、織田信長から佐久間信盛、平手汎秀、水野信元ら約3,000人の援軍が派兵されていたようです(人数等諸説あります)。

徳川家康は、浜松城で武田軍と籠城戦になると思ったようですが、浜松城を素通りされ、武田軍を背後から襲うため、徳川・織田連合軍を率いて出撃します(三方ヶ原の戦い)。

武田軍の背後をつこうと思った徳川軍ですが、万全の体制で待ち構えていた武田軍に一蹴されてしまいます。

鳥居忠広(元忠の弟)・成瀬正義・本多忠真(忠勝の叔父)・夏目吉信など多くの徳川家有力家臣や織田軍の平手汎秀までもが討ち取られています。

三方ヶ原の戦いは、徳川家康の生涯でない程の大敗と言われますが、家康自身は、なんとか浜松城に逃げ帰っています。

三河物語』によると、大敗後、大久保忠世は「なよなよとしていては敵が勢いづく」と言い、鉄炮隊を率いて武田方の陣となった犀ケ崖(浜松市中区)に行って銃撃したそうです(犀ヶ崖の戦い)。

その様子を見た武田信玄に「今夜の夜襲はすごかった」、「手強い敵だ」と言わしめたと言われています。

『三河物語』の著者は、大久保忠世の弟・忠教ですが、偏った記述の可能性もあり、信憑性は分からないそうです。

武田勝頼との戦いで信長から賛辞

元亀4年(1573年)、徳川家康は、武田信玄が病没した隙に、武田方の長篠城を攻囲し開城降伏させています。

天正2(1574年)、徳川家康は、武田氏に属する遠江犬居城の天野景貫を攻めますが、豪雨に阻まれます。

大久保忠世は、徳川軍の殿を務めて奮戦し、天野軍の追撃を振り切ったようです。

天正3年(1575年)、武田信玄の後継者である勝頼は、徳川方となった長篠城を奪還するため城を攻め囲みます。

織田・徳川連合軍は、長篠城を救援するため長篠城にほど近い設楽原に到着し、構えを整えます。

武田家重臣の反対を押し切った武田勝頼は、設楽原に兵を進めて織田・徳川連合軍と激突しています(長篠の戦い)。

長篠の戦いの再現馬坊柵
長篠の戦いの再現馬坊柵

織田軍の鉄砲などで織田・徳川連合軍が優位に戦を進める中、徳川四天王の一人・酒井忠次の奇襲(鳶ヶ巣山攻防戦)により武田軍の退路を断ちます。

圧倒的兵力差がある織田・徳川連合軍は、武田家譜代家老を含む多くの重臣層を討ち取り、武田軍に甚大な被害を与え勝利しています。

『三河物語』によると、織田信長は、徳川軍の前方にいる2騎が敵か味方か区別がつかず、家康の元へ伝令を遣わしています。

織田信長は、金の揚羽蝶の羽を指物としているのは大久保忠世、浅黄の石餅(紋所の名)の指物は忠世の弟・大久保忠佐(ただすけ)であるとの家康の返事を聞きます。

長篠の戦いにおいて、敵味方の間に乱入して、見事な采配をしたという大久保忠世・忠佐を見た織田信長は、「家康は良い者を配下に持っている」、良い膏薬のように「敵にべったりついて離れぬ」と賞賛したと言われます。

大久保忠世は、徳川家康からほら貝を与えられて、労われたようです。

同年、大久保忠世は、武田氏に仕える依田信蕃(のぶしげ)が守備する遠江二俣城を攻め囲みます。

堅い守りに徳川軍は攻めあぐねますが、城兵の安全を条件に、ついに開城させています。

その後、大久保忠世は二俣城主となり、武田氏の来襲に備えて城の修築工事を行っています。

二俣城跡
二俣城跡

天正10年 (1582年)3月、天目山の戦いにて武田宗家が終焉しています。

真田攻めと石川数正の出奔

武田家滅亡から約3カ月後に、本能寺の変が起きて織田信長が没します。

その後、大久保忠世は、酒井忠次らと共に信濃平定軍に加わり、諏訪頼忠を降伏させています。

天正12年(1584年)、大久保忠世は、信濃小諸城の城将となり、依田康国の監視役も務めたようです。

小諸城三之門
小諸城三之門

天正13年(1585年)、鳥居元忠平岩親吉らと共に、信濃上田城の真田昌幸を攻めます(上田合戦)。

真田勢の強固な抵抗に遭った徳川軍は、攻略できず敗れています。

その後も、小諸城に留まった大久保忠世らは、真田勢と小競り合いをしますが、同年に徳川家康の懐刀・石川数正の突然の出奔により、上田城攻めから完全に手を引いています。

徳川家康は、豊臣秀吉に臣従した石川数正から、徳川家の軍事的機密が漏れると考え、甲斐の武田流の軍制に改めます。

『徳川家臣団の謎』によると、新しい軍制の侍大将は、大久保忠世・酒井忠次・本多忠勝榊原康政・井伊直政・大須賀康高・平岩親吉・石川家成の八名が選ばれたとの説があるようです。

ただ、石川家成は既に隠居しており、実際は七名であったようですが。

相模国小田原を拝領

豊臣秀吉の臣従要求を拒み続けた徳川家康ですが、天正14年(1586年)、ついに秀吉に忠誠を誓います。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は、小田原の北条氏(後北条氏)を降伏させ、天下統一を統一します。

徳川家康は、北条氏の旧領を与えられ関東移封になり、大久保忠世は小田原城に4万5千石を拝領します。

小田原城天守(外観復元)
小田原城天守(外観復元)

大久保忠世とは別で、弟・忠佐は上総国茂原において5千石、嫡男・忠隣は武蔵国羽生2万石を賜っています。

徳川一門以外でこれほど多くの知行を賜った一族は他になく、また、研究者によっては大久保忠世を徳川四天王に加える場合もあるそうです。

また、大久保忠世は、倹約のため月に七日間、食事を一切摂らない日があり、亡くなるまで継続したという逸話があります。

文禄3年(1594年)、大久保忠世は63年の生涯を閉じています。

大久保忠世の家紋

大久保氏の一族は「大久保藤」を使用しています。

回りの部分は「上がり藤」ですが、上がり藤の中の文字は、古文字の「大」の字であり、「上がり藤の丸に古文字の大文字」と呼ばれています。

大久保藤
大久保藤 出典元:Wikipedia

そう呼ばれるのは、古文字でなく「大」と表記する家紋(こちらも大久保藤)が江戸時代に使用されたため、区別をするための呼称だそうです。

上がり藤は、藤の花や葉を図案化した「藤紋」の一種です。

藤紋は、元は「下がり藤」であったと言われていますが、家運の上昇を願い「上がり藤」ができたようです。

藤紋は藤原氏の代表紋と言われますが、先に述べたように大久保忠世も藤原氏の流れを汲んでいると言われます。

大久保忠世の子孫

大久保忠世の長男・忠隣は、慶長15年(1610年)には老中に就任し、江戸幕府の有力者になっています。

ですが、忠隣は嫡男を亡くしたことで、やる気を無くしたようで家康の不興を買うなどし、慶長19年(1614年)に改易されています。

大久保忠隣の嫡孫・忠職は、これまでの忠隣の功績や祖母が家康の娘であることを考慮され、2万石を賜り大久保家の存続を許されています。

後に5万石に加増され播磨明石藩、更に8万3千石で肥前唐津藩へ加増移封されています。

その後、養子を迎えますが大久保忠世の子孫です。

大久保忠世の子孫は、下総国佐倉藩9万3千石を経て、大久保氏の領地であった相模小田原に復帰し、小田原藩10万3千石を拝領しています。

江戸時代末期頃、松平頼恕(徳川斉昭の兄)の五男である大久保忠礼を小田原藩大久保家の養子に迎えています。

明治元年(1868年)、大久保忠礼は養子の大久保忠良(忠世の子孫)に家督を譲ります。

ですが、その後、病を理由に忠良から忠礼に家督が返上されています。

大久保忠礼は、大久保忠世の子孫でないと思われますが、明治30年(1897年)に亡くなった後の家督の継承者は分かりません。

大久保忠世→大久保忠隣(老中)→大久保忠常→大久保忠職→大久保忠朝(小田原藩主に返り咲く)→大久保忠増(老中)→大久保忠方→大久保忠興→大久保忠由→大久保忠顕→大久保忠真(老中)→大久保忠愨→大久保忠礼(松平頼恕の子)→大久保忠良(忠礼に家督返上)

また、大久保忠朝(養子で忠世のひ孫)の次男・教寛は、1万千石を拝領し駿河松長藩主となっており、その子孫は荻野山中藩主を経て廃藩置県を迎えています。

大久保教寛(大久保忠世の玄孫)→大久保教端→大久保教起→大久保教倫→大久保教翅(相模荻野山中藩主)→大久保教孝→大久保教義(廃藩置県)

他にも、大久保忠世の四男・忠成の子孫は、上級旗本となり幕末まで辿れますが、その後は分かりません。

因みに、大久保忠世の弟・忠為の子孫は、下野国烏山藩主になっています。

その後、烏山藩5代藩主となった大久保忠成は養子で大久保氏の子孫でないと思われますが、その子で6代藩主となった大久保 忠保の生母が大久保忠喜の娘の為、大久保忠世の弟・忠為の子孫と言えそうです。

大久保忠為→大久保忠知→大久保忠高→大久保常春(下野烏山藩初代藩主)(老中)→大久保忠胤→大久保忠卿→大久保忠喜→大久保忠成(父は松平忠恕)→大久保忠保(母は大久保忠喜の娘)→大久保忠美→大久保忠順(廃藩置県)

また、紀州藩士の大久保忠直の娘・深徳院は、8代将軍・徳川吉宗の側室になり、第9代将軍・徳川家重を生んでいます。

深徳院の父である大久保忠直は、大久保氏の娘婿で紀州藩士加納平右衛門久利の子だそうです。

深徳院の生母は、紀州藩士内藤幸右衛門守政の娘とのことで、深徳院は大久保忠世の子孫ではないと思われます。

参考・引用・出典一覧
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