酒井忠次は、「徳川四天王」や「徳川十六神将」の筆頭格で、若かりし頃の家康の筆頭家老ともいうべき人物です。
徳川家康が今川氏の人質時代から付き従い、苦楽を共にしています。
三方ヶ原の戦いでは武田軍の警戒心を煽るため太鼓を叩いたり、長篠の戦いで奇襲作戦を信長に献策した逸話でも有名です。
この記事では酒井忠次の出自から生涯について書いています。
酒井忠次は家康と同族!?
酒井忠次は、徳川家康と同族であると言われています。
徳川家康の改姓前の姓は松平氏です。
松平氏(徳川氏)の始祖である松平親氏(徳阿弥)が松平氏を継ぐ前に酒井氏の娘婿となり、酒井広親が生まれて酒井氏の始祖になったという説があります。
この説が本当なら酒井広親は、徳川氏の始祖である松平親氏の庶子となります。
ただ、松平氏と同族とする為に創作した可能性もあるようで、史実かは定かではありません。
酒井広親は松平氏に仕え譜代家臣となり、広親の長男・酒井氏忠から数えて5代目が酒井忠次です(安祥譜代という徳川最古参家臣)。
酒井忠次の通称は左衛門尉(さえもんのじょう)ですが、代々名乗った名前であり、忠次の酒井家は左衛門尉家と呼ばれています。
酒井忠次 松平広忠に仕える
大永7年(1527年)、酒井忠次は酒井氏5代の居城・井田城で生まれています。
父は松平氏に仕える酒井忠親で、母は分かりません。
酒井忠次の幼名は小平次、元服後に酒井小五郎と称し、後に左衛門尉と名乗っています。
酒井忠次は松平広忠(家康の父)に仕えていましたが、天文18年(1549年)、竹千代(後の徳川家康)が今川義元の元へ人質に送られると忠次も竹千代につき従っています。
同年、松平広忠は没していますが、病死であるとも刺客に斬殺されたとも言われています。
酒井忠次 家康の家老になる
弘治2年(1556年)、酒井忠次が城主を務めていた三河国福谷城は、織田家の柴田勝家らに攻撃されています。
松平氏の家臣である大久保忠勝・阿部忠政らの援軍を得た忠次は、城外で激しい攻防の後、柴田勝家を撤退させています。
永禄3年(1560年)、桶狭間合戦で今川義元が敗死すると、松平元康(後の徳川家康)は、今川氏から独立への一歩を踏み出します。
今川氏の駿府に戻らなかった松平元康は、松平氏の拠点であった岡崎城に入って西三河を制圧し、叔父・水野信元の勧めもあり織田信長と和睦しています。
その後、松平元康は今川氏真を見限って断交し、今川義元からの偏諱である「元」の字を捨てて家康と改名しています。
そして、家康の嫡男・信康に信長の娘・徳姫を娶らせて、信長との同盟を強化しています。
永禄6年(1563年)、松平家の家臣を二分する三河一向一揆が起きています。
家康の家臣には一向宗の門徒が多く、主君・家康に見方するか、信仰に基づいて一揆に与するかで家臣は分断し、酒井氏の多くも一揆側についたそうです。
本多正信や夏目吉信(広次)など三河一向一揆に与する家康の家臣もいましたが、酒井忠次は家康に従っています。
酒井忠次は、桶狭間合戦の後から徳川家の家老になっており、家康に見方するのは自然な流れだったのかもしれません。
また、酒井忠次の叔父であるとの説がある酒井忠尚も家康から離反したと言われています。
酒井忠尚は、今川氏との断交に反対していた為、家康の外交政策に不満があったと見られています。
酒井忠次は、酒井忠尚が籠城する三河上野城を攻めています。
永禄7年(1564年)、松平家康は、今川方の小原鎮実が籠る三河国の吉田城を包囲しています。
吉田城攻めの先鋒を務めた酒井忠次は、和議により吉田城を無血開城させ、城代であった小原鎮実を退去させています。
吉田城を攻略した松平家康は、吉田城の城代に酒井忠次を任命しています。
酒井忠次は、吉田城を拠点とし、東三河の旗頭として東三河の支配を任されており、国衆や松平一族を率いています。
因みに、西三河の旗頭は石川家成です。
また、最期まで今川方として抵抗を続けた牛久保城の牧野成定が、酒井忠次・石川家成を通して家康に帰順しています。
牛久保開城により、家康は三河一国を統一して国守大名となり、永禄9年(1566年)に徳川に改姓しています。
今川氏と甲斐の武田氏は、同盟関係にありましたが義元亡き後に険悪化し、永禄12年(1569年)末に武田信玄は、今川氏真の駿河に侵攻しています。
義元亡き後の今川氏は、離反が相次ぎ弱体化しており、徳川家康は酒井忠次を交渉役として、武田信玄と今川領の分割の密約を結んでいます。
徳川方は、東部(駿河国)を武田が西部(遠江国)を徳川が攻め取ることになったと解釈したようですが、武田家家臣が遠江へ侵攻した為、抗議するなどで関係が悪くなり、武田との同盟関係は解消されています。
また、徳川家康は三河から遠江に侵攻して掛川城を攻囲し、籠城していた今川氏真を降伏させて遠江国を支配しています。
元亀元年(1570年)、姉川を挟んで織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が対峙し、激戦になっています(姉川の戦い)。
酒井忠次は、姉川沿いに布陣して朝倉軍と戦っています。
三方ヶ原の戦い 太鼓を叩く
将軍・足利義昭の信長討伐令に応じた武田信玄は、信長の同盟相手である徳川領に侵攻します。
武田軍は、徳川方の二俣城を降伏・開城させ、次の狙いは家康の拠点・浜松城に思えた為、家康は籠城戦の準備を整えます。
しかし、武田軍は何故か浜松城を素通りして、三方ヶ原台地へ向かいます。
徳川家康は、反対する家臣らを押し切って、武田軍を背後から襲うため追撃を決意します。
しかし、素通りしたのは武田信玄の罠であり、武田軍は反転し魚鱗の陣を敷いて徳川軍を待ち伏せます。
徳川軍は、三方ヶ原台地(崖)に陣を構えた武田軍を押し出すべく、鶴翼の陣をとります。
先鋒を務めた酒井忠次は、武田方の小山田信茂隊を打ち破りますが、数で劣る徳川軍は多くの犠牲を出して壊走しています。
夏目吉信や鈴木久三郎が家康の身代わりに戦死し、家康は命辛々浜松城に逃げ帰っています。
徳川家康は武田軍の警戒心を煽る為、浜松城の城門を開けっ放しにし、かがり火を焚いて、太鼓を叩かせたという逸話があります(空城の計)。
自ら敵兵を引き入れようとする徳川軍に対し、武田軍は何か計略があるのではないかと警戒し、引き返したと言われています。
この時、城の櫓上で太鼓を叩いたのは、酒井忠次であると言われています。
武田軍に伏兵がいるかもしれないと疑わせ、また見方を鼓舞する意味もあったとされます。
奇襲作戦により長篠城を救援
天正3年(1575年)5月20日深夜、酒井忠次は織田信長から呼び出されます。
徳川方の奥平信昌が籠城する三河国の長篠城を救援し、武田軍の補給基地を叩く為に、酒井忠次が別働隊を率いて鳶ノ巣砦を奇襲するよう命じられたのです。
翌日の夜明け、酒井忠次らは、長篠城を攻略する為に武田方が築いた鳶巣山砦を後方から強襲して、4つの支砦と共に陥落させます。
鳶ノ巣砦を守備していた主将は、武田勝頼の叔父・河窪信実ですが、戦死しています。
長篠城救援に成功した酒井忠次は、籠城していた奥平信昌軍と共に武田軍を追撃します。
長篠城籠城の警戒軍として、長篠城西岸・有海村に待機していた武田軍も討ち取っています。
この鳶ヶ巣山砦奇襲は、酒井忠次の発案であるとの逸話があります。
20日夜、織田と徳川で軍議している時、酒井忠次より提案がありましたが、信長は「そのような小細工は用いるにあらず」と罵倒したそうです。
織田信長は、武田に秘密が漏れないようわざと却下したそうで、軍議後に忠次を呼び、「最善の作戦」と称賛して実行を命じたと言われています。
また、奇襲と同日、三河国の設楽原において、織田・徳川連合軍と武田軍の決戦が行われており、織田・徳川が大勝しています(長篠の戦い)。
武田軍の背後を襲った酒井忠次の鳶巣山砦奇襲により、武田軍の退却路を遮断していました。
松平信康の弁解の使者
徳川家康には、嫡男・松平信康がいますが、信長の娘・徳姫(五徳)を娶っています。
後に松平信康と徳姫は不仲になり、徳姫は信長に信康の罪状を訴える十二ヶ条の訴状を送ったと言われています。
訴状には、信康の母・築山殿が武田と内通していることや、武田勝頼が松平信康に見方することなどか書かれています。
『三河物語』によると、訴状は信長に弁解する使者になった酒井忠次に渡され、安土城にいる信長の元へ届けられます。
酒井忠次は松平信康について信長から詰問を受けることになりますが、訴状について「その通りです」と認め、信康を庇いませんでした。
酒井忠次が信康の行いについて事実と認めたため、信長は信康の自害を要求し、家康は泣く泣く信康を自害させたと言われています(信康自刃事件)。
ですが、信康自刃事件については、疑問視されていることも多く、家康信康父子が不仲になり、家康の意志で自害させたという説もあります。
『三河物語』には「三郎(松平信康)は左衛門督(酒井忠次)の中傷で腹を切らせることになった」と書かれており、まるで忠次が信康自害を誘導したかのようです。
信康自刃事件後も、酒井忠次は徳川家康の重臣上位の地位にいます。
通説通り、家康が望んでいなかった松平信康の自害と酒井忠次が関係しているのであれば、その後も忠次が重用されたことが不思議になり、通説を疑問視する一因になっています。
また『常山紀談』によると、以前、酒井忠次は松平信康の侍女を側室としており、信康に恨まれていたとの逸話があります。
他にも、酒井忠次に対し家康が、「お前も子がかわいいということを知っているのは不思議なことだ」と言うなど、信康の件を根に持っているようなことを言ったという逸話もあります。
酒井忠次 家康第一の重臣に
天正10年(1582年)3月、織田軍に攻められた武田勝頼は、嫡男と共に自害し武田宗家は滅亡しています。
同年6月、明智光秀の謀反により織田信長が落命します(本能寺の変)。
河内国飯盛山付近で信長の死を知った徳川家康は、酒井忠次ら僅か34名の供廻と共に、命辛々三河へ舞い戻ります(伸君伊賀越え)。
武田氏領であった甲斐国と信濃国・上野国は、織田氏領となっていましたが、信長亡き後に空白地帯となっています。
徳川家康は、甲斐・信濃を支配下に置く為、酒井忠次を信濃へ行かせ信濃国人の懐柔を図り、忠次を信濃経略の最高責任者に据えています。
酒井忠次の懐柔は失敗に終わりますが、織田氏旧領を巡り争っていた北条氏と徳川氏は和睦し、徳川氏は上杉氏領と真田氏領を除く信濃と甲斐全域を領することになります。
天正12年(1584年)、徳川家康と羽柴秀吉(豊臣秀吉)の間で小牧・長久手の戦いが起きます。
秀吉の方の森長可は、小牧山占拠を目指して進軍し、羽黒(犬山市)に陣を張ります。
森長可の動きを察知した徳川家康の命令により、酒井忠次・榊原康政らが長可に奇襲を仕掛け、長可を敗走させています。
酒井忠次が小牧・長久手の戦いでの戦功により家康から贈られた太刀が現存しています。
天正13年(1585年)、酒井忠次と同じく最古参の宿老であった石川数正が突然出奔し、秀吉に仕えます。
その為、酒井忠次は徳川家康第一の重臣とされています。
更に、天正14年(1586年)10月、酒井忠次は、徳川家中では最高位となる従四位下・左衛門督に叙位任官されます。
2年後、酒井忠次は、長男で家康の従弟でもある酒井家次に家督を譲り、隠居しています。
長男の生母は酒井忠次の正室・碓井(うすい)姫で、松平清康(家康の祖父)の娘です。
酒井忠次は、眼病により視力をほぼ失っていたとも言われています。
酒井忠次は、豊臣秀吉から京都桜井屋敷・世話役・1000石を与えられて、仏門に入り「一智」と号したそうです。
慶長元年(1596年)、享年70歳で生涯を閉じています。
酒井忠次の墓所は、京都の知恩院裏山の墓地で、正室の碓井姫の隣で眠っています。
酒井忠次の家紋
酒井氏の家伝によると、祖先は葵紋を使用していたそうですが、松平氏(家康の祖先)から所望された為、献上したと伝わります。
幕府公式の文書にも記載されていますが、似たような話が本多氏にもあります。
また酒井氏は、葵紋の代わりに、葵紋に似ている「片喰(かたばみ)紋」を賜ったと言われています。
「片喰紋」は繁殖力の強いカタバミという雑草の葉をモチーフに作られており、「(家が)絶えない」に通じ子孫繁栄の縁起担ぎの意味があります。
夜、葉を閉じたカタバミは、葉を食いちぎられたように見えることから、「片喰」と呼ばれているそうです。
酒井忠次の酒井左衛門尉家は、「丸に片喰紋」を使用していたと言われますが、忠次の甲冑には外側の丸が無く片喰のみの為、丸は忠次の代より後に加えられたと思われます。
また、徳川家が葵紋を用いた為、葵紋の使用が禁止され、「片喰紋」に変更した者も多かったそうです。
現在の片喰紋は、西日本など全国でも使用割合の高い家紋です。
因みに、「片喰」は「酢漿草」とも表記されます。
酒井忠次の子孫
酒井忠次の長男・家次は、徳川家康の関東入国時、下総国3万石を拝領していました。
例えば、徳川四天王の一人である井伊直政12万石と比較すると少ない石高ですが、大坂の陣の後、酒井家次は越後高田藩10万石に加増移封されています。
その後、家次の長男・酒井忠勝は、出羽庄内藩の初代藩主となっています。
出羽庄内藩は、実質20万から30万の石高があるとも言われ、譜代屈指の大身となります。
また、出羽庄内藩の第5代藩主である酒井忠寄は、老中を務めています。
その後も酒井忠次の子孫は続き、出羽庄内藩主として幕末を迎えています。
酒井忠次以降の酒井佐衛門尉家当主は、酒井忠次→酒井家次(越後高田藩10万石に移封)→酒井忠勝(出羽庄内藩の初代藩主)→酒井忠当→酒井忠義→酒井忠真→酒井忠寄(老中)→酒井忠温→酒井忠徳→酒井忠器→酒井忠発→酒井忠器→酒井忠発→ 酒井忠寛 →酒井忠篤(酒井佐衛門尉家17代当主、後に19代当主)→酒井忠宝→酒井忠篤→酒井忠良→酒井忠明→酒井忠久→酒井忠順
松岡物産株式会社社長に就任した実業家である酒井忠順氏は、酒井忠次の現代の子孫とのことです。
忠順氏の父は、公益財団法人致道博物館代表理事・館長、公益財団法人日本美術刀剣保存協会会長など務めた酒井忠久氏です。
また、酒井忠次の次男・康俊は、本多忠次の養子となり、康俊系本多家宗家の初代となっています。
その後も、近江国膳所藩主6万石を領し、藩主として廃藩置県を迎えています。
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