松平信康は徳川家康の嫡男であり、織田信長の娘婿でもあります。
岡崎城主で武勇に優れた若武者でもありましたが、なぜか家康から切腹を命じられ果てています。
この記事では、松平信康の生涯を追いながら、自害を命じられた理由を考察しています。
松平信康 家康の長男として生まれる
永禄2年(1559年)、松平信康は徳川家康(当時は松平元康)の長男として生まれています。
幼名は家康と同じ竹千代、通称は次郎三郎という別名もあります。
母は家康の正室で、今川一門の女性である築山殿(瀬名姫)、一説には今川義元の姪です。
松平信康が誕生した頃、家康は今川氏の人質でしたので、信康も人質として駿府にいました。
松平信康誕生の翌年、桶狭間の戦いが起きで、今川義元は討ち死にしています。
今川方として桶狭間の戦いに従軍していた家康ですが、戦後、駿府には戻らず岡崎城に戻り今川氏からの独立を目指しています。
その上、永禄5年(1562年)、徳川家康(当時は松平)は今川氏の敵である織田信長と同盟を結んでしまいます。
家康の行動は今川氏真(義元の嫡男)を怒らせてしまい、築山殿の父・関口親永(氏純)は自害に追い込まれ、妻も後を追っています。
人質交換により岡崎城に移る
松平信康は、母の築山殿や妹・亀姫と共に駿河に残され、信康の身にも危険が及びかねない状況でした。
ですが、家康が生け捕りにした今川方で鵜殿長照の息子である鵜殿氏長・氏次と人質交換されることになり、無事、岡崎城に移っています。
永禄9年(1566年)、家康は松平から「徳川」に改姓しており、信康も徳川信康と名乗っていたと思われます。
現在、「松平信康」と表記されるのは、江戸時代に徳川姓を名乗れるのは徳川将軍家・御三家・御三卿のみという方針になった為、徳川信康から松平信康に格下げになったと伝わります。
信康 徳姫(五徳)を娶る
永禄10年(1567年)、同盟を強化する為、9歳の松平信康は織田信長の娘・徳姫(五徳)を娶ります。
徳姫も9歳でしたが、夫婦となり岡崎城に居住しています。
同年、松平信康は元服し、信長の「信」と家康の「康」の字を与えられて、「信康」と名乗っています。
また、城名をとって「岡崎信康」や「岡崎三郎」とも呼ばれています。
徳川家康は既に浜松城に移っていましたが、元亀元年(1570年)、正式に信康に岡崎城を譲っています。
岡崎城外に居住していた母の築山殿も、信康の生母として岡崎城に入城しています。
徳姫は、織田と敵対する今川の血を引く築山殿と仲が悪かったと言われています。
一方、築山殿は何不自由ない生活から、後ろ盾であった今川義元の命を信長に奪われています。
築山殿と徳姫は、お互い好きになれなかっただろうと思われ、後の火種となったようです。
松平信康の戦ぶり
松平信康の初陣は、天正元年(1573年)数え年で15歳の時です。
2年後の長篠の戦いでは、一手の大将を務めたと言われています。
天正5年(1577年)、松平信康は遠江横須賀の戦い、翌年の遠江小山城の戦いに従軍しています。
どちらも甲斐の武田氏との戦ですが、特に横須賀の戦いでは殿という難しい役目をこなし、武田軍に大井川を越させなかったと伝わり、武勇に優れた若者であったことが分かります。
また、見方だけでなく敵も松平信康の戦に注目したそうです。
松平信康と結城秀康
天正2年(1574年)、徳川家康の次男・結城秀康(於義伊)が生まれています。
徳川家康は結城秀康を冷遇し、生まれてから対面をしたことがなかったそうです。
その為、結城秀康を不憫に思った松平信康の取り成しがあり、秀康が3歳の時に家康と対面を果たしたと言われています。
松平信康の優しい面を感じるエピソードに思います。
松平信康の自害
天正3年(1575年)、松平信康の家臣・大岡(大賀)弥四郎が武田勝頼に内通したことが露見する事件が起き、鋸引きの刑にて亡くなります。
松平信康と徳姫の仲は、当初は良好であったと見られ、天正4年(1576年)に登久姫が、翌年に熊姫が生まれています。
その後、不仲になったようで、松平家忠が書いた『家忠日記』からも信康と徳姫は不仲であったことが推察できます。
天正7年(1579年)6月、徳川家康は信康と誰かの仲を仲裁する為に、岡崎城に赴いています。
信康と徳姫の仲裁と思われますが、肝心の名前の部分が「御○○○」となっている為、確かではありません。
信康が仲たがいした相手として、家康の母・於大の方などの可能性も指摘されています。
於大の方の兄・水野信元は、家康の命令により石川数正に呼び出され、平岩親吉によって命を奪われたと言われます。
石川数正は、松平信康の後見人ですので、信康と於大の方の仲が悪かった可能性もあるようです。
また、この頃、酒井忠次と奥平信昌は、安土城完成の祝いの徳川の使者として、信長に贈り物を届けています。
その際、酒井忠次は信長に密談を持ちかけたとも言われますが、史実か分かりません。
同年8月、徳川家康は再び岡崎城を訪ね、信康と話をし激しい口論になったそうです。
翌日、松平信康は岡崎城を出て大浜城に移されると、家康は「信康に通信しない」という起請文を家臣一人一人に書かせて、信康と家臣の分離を図っています。
そして、岡崎城を家康の直臣で固めています。
その後、松平信康は堀江城、二俣城に移された末、家康から切腹を命じられます。
松平信康は、21年(満20年)の生涯を閉じています。
また、信康の母・築山殿は、約半月前に既に命を奪われていました。
松平信康と服部正成(服部半蔵)
松平信康が自刃する際、有名な逸話があります。
松平信康の介錯を命じられた渋川が出奔してしまい、代わりに服部正成(服部半蔵)が介錯を命じられます。
鬼半蔵の異名をとる服部正成(服部半蔵)ですが、主の子を斬ることが出来ず、涙を流し伏したそうです。
結局、服部正成(服部半蔵)の代わりに天方道綱が信康の介錯を行ったと伝わります。
逸話が史実か分かりませんが、服部正成(服部半蔵)は信康の側仕え(守役)であったとも言われます。
服部正成(服部半蔵)は、西念寺(現在は新宿区にある)に信康の供養塔を建てており、西念寺は正成自身の墓所でもあります。
信康のお墓・首塚
いずれにせよ、信康の首は信長の元へ届けられた後、投村根石原(朝日町)に埋めて、目印として松を植えたと伝わります。
その後、家康の重臣・石川数正は、信康を岡崎の若宮八幡宮に祀り、信康の首塚が現存しています。
徳川家康は、清瀧寺を建立し、松平信康の廟所としています。
清瀧寺の本堂に向かう途中の池に、裏山から湧き出た一筋の水が、滝のように落ちているそうで、信康の涙を連想させます。
松平信康はなぜ自害したのか
松平信康が何故、自害に追い込まれたのか、現在でも明らかになっていません。
史実かは分かりませんが、松平信康は残虐な行いなど乱暴な面があったこと、徳姫と不仲であったことが一因として語られることがあります。
また、築山殿は悪女であり、家康を悩ませた上、甲斐の武田氏と内通していたと言われています。
松平信康切腹事件に至る経緯は、『三河物語』に詳しく書かれており、通説化しています。
『三河物語』の著者は、徳川家の家臣・大久保忠教で、信康のお気に入りでもあった人物だそうです。
『三河物語』によると、築山殿と不仲であった徳姫は、信康とも不和になり、父・信長に12箇条の手紙を書いています。
12箇条の手紙は、家康の重臣・酒井忠次に託され、織田信長の元へ届けられます。
手紙には信康の中傷、徳姫と信康が不和であること、築山殿が武田氏と内通していることなどについて書かれていました。
織田信長は手紙の一条、一条について忠次に問いただします。
酒井忠次は「その通りです」と答え、信康を庇うことはありませんでした。
10箇条まで読み、全て「その通りです」との返事だったので、後は聞くに及ばず、信長は信康の切腹を求めたそうです。
その後、酒井忠次は浜松城にいる家康の元へ行き、信長の言葉を伝えます。
信長に逆らえない家康は、嫡男である信康を亡き者にする決意をします。
信康の乱暴不行状
また、『三河物語』には信康の乱暴不行状については書かれてなく、『松平記』や『三河後風土記』に書かれています。
- 踊りの下手な踊り子や服装の貧相な者の命を弓矢で奪い、敵の間者だったと主張した。
- 狩りの時、僧侶に会うと獲物が少なくなると古くから伝えられており、狩野の場で偶然僧侶に出会ったことで立腹し、僧侶に縄を付けて縊り殺した。
- 松平信康は日頃から乱暴な振舞いが目立った。
- 徳姫との間に生まれた子供が二人とも女子だったので立腹し、夫婦の間が冷めた。
また、築山殿についても書かれています。
家康が今川氏から離反したことで、築山殿の父は切腹させられており、家康をとても憎んでいたとあります。
また、中国人医師・減敬を甲斐から呼んで愛人にして、減敬を使者として武田勝頼に通じたとも伝わります。
事実かもしれませんし、ただの中傷かもしれません。
信康切腹事件の真相を考える
先に述べたように、信康と徳姫の不和は事実であると見られています。
それでも、徳姫と不仲であることや、信康の荒々しい気性や行為という理由だけで、織田信長が娘婿で同盟相手の嫡男の命を奪おうとするのか疑問があります。
松平信康を切腹に追い込まなくても、徳川家から追放したり、出家させるなど方法はあったのではないか。
そう考えると、許しがたい背信行為、つまり裏切りがあったのではないかと思えます。
松平信康の罪が「逆心」であったことは、原初の信長公記とされる『安土日記』にも書かれています。
ですが、武田氏との内通の話は、築山殿にそのような力があったのか疑問視されています。
築山殿だけでは力がなくても、家康の嫡男・信康も築山殿と共謀して謀反を起こそうとしたと考えると、母子共に命を奪われてたことも納得できるかもしれません。
しかし、病で信玄を亡くした武田氏は、天正3年(1575年)の長篠の戦いで多くの重臣を失い、衰退しています。
勢いのある織田・徳川連合に背いて、凋落する武田と信康が組むのか疑問があります。
また、通説では酒井忠次についても不思議な点があります。
『三河物語』では酒井忠次が信康を中傷したから、切腹させられたという趣旨が書かれているそうです。
酒井忠次は「その通りです」と答えただけで中傷はしていませんが、結果として信康を死に至らしめたと言えそうです。
『三河物語』によると、信長に問いただされた酒井忠次が、(信康の言動を)知らないと言えばこんなことにならなかったと家康が嘆いたそうで、家臣も忠次を憎んだそうです。
信康切腹を誘導したかのように書かれている酒井忠次ですが、その後も忠次は徳川家で重用されています。
一方、『当代記』によると、家康と信康の間に何か問題が起きて、酒井忠次を使者として家康から信長に相談したことが推察できます。
酒井忠次が信康を庇わず切腹を命じられたと解釈されていたのが、『当代記』を参考に事件を考えると、忠次が家康の使者として信長に相談したことが信康切腹事件の発端だったと言えそうです。
松平信康は信長の娘婿ですので相談なしで処分は出来ないということでしょうか。
そして、信長から「家康の思い通りにせよ」と言葉をもらい、自害させるようにと命令されたわけではなかったようです。
また、「家康の思い通りにせよ」というのは、『安土日記』(信長公記の古い版)にも書かれており、信長が信康に自害を求めたのは史実でない可能性が高いように思います。
このようなことから、近年では家康と信康の対立が原因ではないかとも言われています(父子不仲説)。
また、岡崎衆(信康派)と酒井忠次ら浜松衆(家康派)との対立があり、徳川家の内部分裂があったのではないかとも言われています。
松平信康は、岡崎派に担がれて家康と対立したのではないかという説もあります。
先に述べたように、徳川家康は岡崎城から信康を出して、信康と岡崎衆の通信を禁止して引き離しています。
その上、岡崎城を家康の旗本で固めており、深刻な対立があったのではないかと納得できます。
家康の意志で信康を葬ったとなると、徳姫が信長に書いた12箇条の手紙の存在も怪しくなります。
徳姫の讒言が発端で信康が亡くなったのではないとなると、徳川政権成立後に徳姫が徳川家(松平忠吉)から2千石を給されていたのも不思議ではなくなります。
徳川家康は後の天下人ですので、徳川家の黒い歴史を繕って伝えている可能性もありそうです。
徳川家康の意志で信康を葬ったというより、織田信長の命令で泣く泣く切腹させたとした方が良いというところかもしれません。
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