父・義元を亡くした今川氏真は、今川氏に従属していた松平元康(徳川家康)に背かれ、また、同盟国の甲斐の武田信玄に侵攻されています。
やがて、今川氏真は領国を失い、妻の実家・北条氏を頼った後、徳川家康を頼っています。
今川氏真は大名から徳川家康の家臣に身を落としますが、一流の文化人として公家とも交流しています。
大名に返り咲くことのなかった今川氏真ですが、公家文化の高い能力は、子孫に受け継がれています。
江戸時代に、今川氏真の子孫は高家に抜擢され、江戸幕府に重用されています。
大名としての今川家は滅亡しながらも、勝ち組とも思える今川氏真の生涯について、また評価について書いています。
今川義元の嫡男として生まれる
天文7年(1538年)、今川氏真は今川義元の嫡男として生を受けます。
母は、義元の正室で武田信虎の娘・定恵院です。
定恵院は、今川義元が甲斐の武田氏と同盟結ぶ為、政略結婚をした武田信玄の姉に当たる方です。
今川氏真の幼名は龍王丸、仮名は五郎ですが、今川氏親(義元の父)、嫡男だった氏輝(義元の兄)と同じで、今川家当主が称する幼名と仮名です。
天文23年(1554年)、今川氏真が17歳の時に、北条氏康の娘・早川殿(蔵春院殿)を娶ります。
因みに、今川氏真の元服時期は不明です。
今川氏真が北条氏康の娘を娶ったことにより、駿河の今川氏・甲斐の武田氏・相模の北条氏の間で甲相駿三国同盟が成立しています。
永禄元年(1558年)から、今川氏真は駿河や遠江国に文書を発給し初めており、今川家の家督を継承した時期がこの前後ではないかと推測されています。
また、新しく今川領となった三河国には義元自身が文書を発給しています。
今川義元は新領土の三河の掌握と織田領であった南尾張に侵攻する為、氏真に家督を譲って駿河・遠江の統治を任せたのではないかと見られています。
松平元康 今川氏真から離反(三州錯乱)
しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いによって、今川義元が織田信長に討たれ、今川氏真が政権を運営することになります。
桶狭間の戦いで多くの重臣や国衆を失った今川家中では、老臣クラスが減り、体制の変化を余儀なくされます。
永禄4年(1561年)3月、今川氏真は武蔵国に出陣します。
今川氏真が関東に出陣している最中、今川氏に従っていた松平元康(後の徳川家康)は、反今川派である浅谷城主・簗瀬家弘、久木城主・原田種久、原田藤左衛門尉に起請文を出して進退保障をし、味方に引き入れています。
また、松平元康(家康)の起請文に、今川氏寄りであった鈴木越後については許さないとあり、元康が今川と対立する意思を見せた初見であると思われます。
定かな時期は分かりませんが、西三河を掌握した松平元康は、織田信長と秘密裏に同盟を結び今川氏真から離反しています(清洲同盟)。
松平元康の他にも、西郷清員、菅沼定盈など東三河国人衆も氏真から離反し元康に従っています。
同年4月、松平元康は、今川方の三河国牛久保城を攻撃し、今川氏からの離反を明確に示しています。
松平元康の調略に応じた三河の国人領主・西郷正勝も松平方として、攻撃に加わっています。
因みに、この西郷正勝の孫が徳川秀忠・松平忠吉の生母である西郷局(お愛の方)です。
三河国は、松平元康に転属する国人領主がいて、親今川と反今川に分断しています。
同年5月には八名郡宇利・設楽郡富永口で、7と8月は八名郡嵩山、10月は設楽郡島田など東三河の各地で今川と松平間で戦が起きています。
松平元康の離反に激怒した今川氏真は、「岡崎逆心」、「松平蔵人逆心」、「三州錯乱」などと非難しています。
また、今川氏真に命じられた小原鎮実は、今川から離反した東三河の諸氏の人質(11人~14人)を処刑していますが、東三河の諸氏の心は、更に今川氏真から遠ざかったようです。
足利義輝 和議を斡旋する
永禄5年(1562年)正月、13代将軍・足利義輝から、今川氏真と松平元康に和解を促す御内書が発せられています。
永禄4年(1561年)正月説もありますが、この時は将軍が調停に乗り出すほど深刻な事態ではなく、永禄5年説が妥当であると思われます。
しかし、その後も、東三河各地で今川方と松平方の戦が続いています。
今川氏真 三河の勢力圏を失う
当時の今川氏真配下の主な武将は、吉田城主・小原鎮実、牛久保城主・牧野成定、上之郷城主・鵜殿長照らです。
その中の一人で今川一門でもある鵜殿長照は、松平勢に攻められ永禄5年(1562年)2月に討たれています。
その際、鵜殿長照の子供である鵜殿氏長と氏次は、松平方に生け捕られています。
当時、松平元康の正室・築山殿、嫡男・松平信康、長女・亀姫は、今川の人質となっていましたが、松平家臣・石川数正の説得により、今川氏真は鵜殿兄弟との人質交換に了承しています。
同月、今川氏真は自ら兵を率いて三河へ出陣し、翌月の武節城の戦いで勝利しています。
今川氏真の舅である北条氏康は、今川領国の安定を願っており、同年5月に松平家家老・酒井忠次、元康の叔父・水野信元に和睦を願う旨、文書で述べています。
ですが、その後も今川と松平の間で戦は続きます。
今川氏真は、三河の領主の離反を食い止める努力をしますが、永禄7年(1564年)に持ちこたえていた東三河の拠点・吉田城が開城し、今川氏は三河の支配権を失います。
遠州惣劇
桶狭間の戦い後の混乱は、遠江国でも広がっており、「遠州惣劇」や「遠州錯乱」と呼ばれています。
永禄5年12月(1563年1月)、遠江国の国人・井伊直親は、松平元康との内通を疑われ、今川氏真の命令を受けた朝比奈泰朝によって命を奪われています。
犬居城主・天野景泰も今川氏真に背いています。
また、今川家の家臣で曳馬城主・飯尾連龍(つらたつ)も松平元康に通じ、今川から離反しています。
怒った今川氏真は、曳馬城を攻めますが攻略できず、和議を結んでいます。
しかし、飯尾連龍を信用できない今川氏真は、永禄8年12月(1566年1月)、連龍を駿府に呼び出して謀殺しています。
飯尾連龍に仕えていた江馬時成、従弟の江馬泰顕は、連龍の遺志を継承し、松平家康(改名)と結んで今川氏真と対立しています。
しかし、江馬氏らが守る曳馬城は、永禄9年(1566年)4月に開城しており、遠江国の混乱は終息しています。
今川氏真の領国経営
桶狭間の戦いの翌年、今川氏真は、室町幕府の相伴衆に任じられています。
有力守護大名のみがなれる名誉のある格式であり、幕府の権威によって領内の混乱に対応したと思われます。
また、今川氏真は、祖母・寿桂尼の後見を得て領国経営を行ったと見られています。
今川氏真は、大名としての今川家を滅亡させた暗愚として語られていることがあります。
しかし、領内に敷いた政策に目を向けると、優れた面も見えてきます。
永禄9年(1566年)、今川氏真は富士大宮で行われていた市を楽市にし、商業振興の政策を打ち出します。
楽市は織田信長より先んじて行っています。
他にも、井伊谷に徳政令を発布したり、役の免除も行っています。
また、今川氏真は、水に恵まれなかった遠江国棚草郷の田畑を潤す用水の場をつくって、耕作地を確保して村人から感謝されたそうです。
今川氏真は、今川領国を守ろうと良策を施していますが、氏真の政策は実を結ぶことなく、永禄11年(1568年)末に武田信玄が駿河への侵攻し、大名の地位を失うことになります。
今川氏真 武田信玄と緊迫状態になる
時間が前後しますが、桶狭間の戦い直後、武田信玄は今川家の家臣・岡部元信宛に書状を送っています。
武田信玄は、今川を裏切らないので、今川氏真に侫人の讒言を信じさせないで欲しいと述べています。
どうやら、武田信玄が今川氏真の敵である織田信長と友好的な関係になっているのではないかと讒言する人物がいたようです。
また、今川氏真も穴山信友(武田氏の家臣で一門衆)を通して、同盟関係の確認をしています。
駿府今川氏と甲斐武田氏のパイプ役は、穴山武田氏であると見られています。
今川氏真も穴山武田氏と連絡を取っており、書状が残されています。
穴山信友が亡くなった時、今川氏真は落胆したようですし、高額な香典を子である穴山信君に贈ってもいます。
今川氏真は、穴山武田氏と信頼関係があったと思われますが、永禄5年(1562年)までで交信は途絶えたようです。
今川氏真が武田信玄に援軍要請しても軍事協力は得られず、氏真は武田氏に不信感を持ったのではないかと推測できます。
親今川派の武田義信の死去
永禄7年(1564年)、武田信玄の嫡男・武田義信は、信玄の暗殺を企てますが、実行前に露見して翌年には幽閉されています。
今川氏真の妹・嶺松院は、武田義信の正室でこの時離縁されたと言われていますが、甲斐に留まっています。
いずれにせよ、武田義信は廃嫡となり、武田家世子の立場となったのは武田勝頼です。
永禄8年(1565年)、織田信長からの和睦要請を受け入れた武田信玄は、武田勝頼に信長の養女・龍勝院(信長の姪)を娶らせています。
こうした状況から、今川氏真は武田信玄と敵対する越後の上杉謙信と和睦する道を模索したと思われます。
また、今川氏真と北条氏康は、甲斐に塩の輸出を禁止しています(塩止め)。
永禄10年(1567年)10月、幽閉されていた武田義信が自害し(病死とも)、親今川派の義信死去により、甲駿関係はより緊迫します。
こうした状況の中で、今川氏真は越後の上杉謙信に同盟を要請しており、信玄の駿河侵攻に備えて連携を構築していたようです。
今川氏真の希望により、北条氏康・氏政父子の仲介で武田義信の正室だった嶺松院(氏真の妹)が駿河国に送還されています。
今川氏真 侵攻を受け没落する
永禄11年(1568年)、今川氏真と武田信玄は、ついに手切れになります。
今川領の駿河に侵攻した武田信玄を迎え撃つ為、今川氏真も出陣します。
ですが、駿河の有力国人21人が武田信玄と内通し、今川軍は壊滅して駿府を占領されてしまい、拠点であった今川館は焼失しています。
今川氏真は、正室・早川殿(北条氏康の娘)の輿の準備もできず、家臣の朝比奈 泰朝の居城・掛川城に逃亡します。
一方、今川領分割を約束し武田信玄と同盟を結んだ徳川家康(改姓)は、遠江に侵攻します。
徳川軍は今川氏真がいる掛川城を包囲しますが、兵糧・鉄砲・玉薬などを十分に備えた掛川城は、なかなか落ちません。
今川氏真は多くの重臣に見限られていますが、掛川城の他にも駿河国の花沢城には城代・大原資良が籠り、遠江国の堀江城は大沢基胤(もとたね)が守備するなど、いくつかの今川方の城は武田軍や徳川軍と戦っています。
また、相模国では今川氏真・武田信玄と同盟を結んでいた北条氏康(今川氏真の舅)が、武田信玄の裏切りに激怒しています。
武田信玄は、今川氏真が上杉謙信と結んだことに気が付いており、報復であると言いますが、氏康の怒りは収まらなかったようです。
北条氏康は、今川軍に援軍を出して武田軍と対峙しますが、膠着状態になっています。
徳川軍も掛川城の攻城に手こずる中、武田信玄は徳川家康との約束を破って遠江国に兵を入れ圧迫しています。
腹を立てた徳川家康は、今川氏真との和議を模索しています。
永禄12年(1569年)4月、兵糧事情が厳しい堀川城の大沢基胤は、今川氏真の許しを得て、開城して徳川に帰順しています。
翌月、徳川家康は北条氏康との交渉に成功し、今川氏真は家臣の助命を条件に掛川城を開城しています。
今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、駿河から武田勢を追い払い、氏真が駿河の国主に復帰するという約束があったと言われています。
しかし、この盟約は実現していなく、掛川城開城をもって今川氏は戦国大名としての地位を失っています。
北条氏の元に身を寄せる
今川氏真は、妻の実家である相模国の北条氏を頼って、伊豆戸倉城に入ったと言われています。
また、蒲原を経て沼津から大平城に入ったとの見解もあります。
いずれにせよ、相模国早川(小田原市)に屋敷を与えられており、今川氏真の正室が「早川殿」と呼ばれるのは早川に居住した為と解釈されています。
永禄12年(1569年)、今川氏真は国王丸(後の北条氏直)を猶子としており、成長した後に駿河を譲渡する約束をしています。
ですが直ぐに、今川家の家督を国王丸に譲らされ、今川氏真は隠居の身になります。
国王丸(北条氏直)は、北条氏康の孫で北条氏政の嫡男です。
同年、上杉謙信と北条氏政は武田信玄に対抗するため、軍事同盟を結んでします。
ここに今川氏真も混ぜて三国同盟とも言われますが、領国を失っていた氏真は含まず越相同盟であると見られています。
また、今川氏真が山吉豊守(上杉謙信の家臣)に宛てた書状写によると、氏真が書状を出しても三回も返信が貰えなかったようです。
今川氏真が上杉謙信と同等の立場として書状を出したため、山吉豊守から不躾であると言われています。
元亀元年(1570年)の書状と見られていますが、既に今川氏真は国王丸(北条氏直)に駿河を譲っており、関東管領職を継承した上杉謙信と同等ではないので、上杉家中から反発があっても仕方ないと思えます。
やはり、上杉・北条・今川三国同盟ではなく、越相同盟であるといえます。
駿河では武田信玄の侵攻に抵抗する今川勢の岡部正綱や小原鎮実、北条軍の出兵も行われおり、一時は駿府を奪還しています。
今川氏真は駿河に感状や安堵状を出しており、一部直轄領を所持していたか、国王丸の補佐をしていた可能性があります。
また、今川氏真だけでなく、在地の人達も氏真が領主に復帰する可能性を考えていたようです。
いずれにせよ、北条軍の敗北を経て、駿河はついに武田信玄の配下となっています。
今川氏真 徳川家康を頼る
今川氏真の後ろ盾であった北条氏康は、病を得て元亀2年(1571年)に病没しています。
家督を相続した北条氏政は、外交方針を転換して武田信玄と和議を結んでいます。
一説には、北条氏康の遺言により、武田氏と同盟を結んだとも言われますが、史実か分かりません。
北条氏と武田氏が講和したことにより、今川氏真は相模国から去って徳川家康を頼ることになります。
元亀3年(1572年)5月、今川氏真夫婦は、今川義元の13回忌を小田原の久翁寺で執り行っています。
天正元年(1573年)には、今川氏真が浜松に居たことが分かる文書がありますので、その間のどこかで家康を頼って転居したと思われます。
時間が前後しますが、元亀元年(1570年)、今川氏真と早川殿の間に嫡男である今川範以(のりもち)が誕生しています。
その後、今川氏真の猶子であった北条氏直(国王丸)は、北条氏の後継者と位置付けられ、今川範以誕生なども一因となり、氏真と国王丸の縁組は解消されたと見られています。
また、今川氏真は、かつて掛川城を開城した時の約束を当てにして、駿河の国主に返り咲く希望を持っていたようです。
ですが、徳川家康は旧国主である今川氏真を保護し、駿河を配下に置く大義名分を得る思惑があったと思われます。
元亀4年(1573年)4月に武田信玄は病没し、後に武田氏旧臣・奥平定能(貞能)は徳川家臣に寝返っています。
奥平氏が武田氏から得た今川氏の旧領について、徳川家康が今川氏真に相談していたことから、武田信玄の死を知った氏真が駿河奪還を期待していた可能性が指摘されています。
織田信長に蹴鞠を披露する
天正3年(1575年)、今川氏真は浜松から岡崎などを経由して上洛し、古くからの知り合いである三条西 実枝(さねき)ら公家を訪ねています。
同年、今川氏真は京都の相国寺において、織田信長と会見しています。
織田信長は父・今川義元の仇でもりますが、『信長公記』によると信長の所望により、今川氏真は公家らと共に蹴鞠を披露しています。
牧野城の城番になる
同年4月、武田勝頼が三河へ侵攻し、翌月には長篠城を包囲して長篠の戦が起きます。
今川氏真は、長篠の戦いの時には牛久保(豊川市)に戻っており、後詰を務めています。
因みに、今川氏が大名の地位を失った後も氏真に仕えていた朝比奈 泰勝は、長篠の戦いで内藤昌豊(武田四天王の一人)を討ち取っています。
感心した徳川家康の希望により、朝比奈 泰勝は家康の直臣になっています。
長篠の戦いは、織田・徳川連合軍の大勝で終わり、徳川軍は武田氏の拠点の一つである諏訪原城を攻め落としています。
今川氏真も諏訪原城攻撃に従軍しており、落城後に牧野城と改名し城番として入城しています。
今川氏真は松平家忠・松平康親の補佐を受けていますが、1年足らずで牧野城を離れています。
また、この頃、今川氏真は既に出家しており、宗誾(そうぎん)と名乗っていたようで署名された文書が残っています。
今川氏真の交流
牧野城主解任後、今川氏真の動向は定かではありませんが、浜松付近に居たのではないかと見られています。
松平家忠が書いた『家忠日記』に今川氏真も登場しており、家忠は氏真や「氏真衆」と呼ばれる家臣とも交流を持ったようです。
今川氏真は徳川家康の饗応を受けたり、家康が公家の近衛前久を饗応した時に陪席しています。
天正19年(1591年)になると山科言経が書いた『言経卿記』に今川氏真の名前が散見し、山科言経の他にも冷泉為満など公家との交流が確認できます。
今川氏真は、連歌会・和歌会・古典の借覧・書写など文化人として公家と交流していたようです。
文禄4年(1595年)、今川氏真は山科言経と共に石川家成を訪問し、慶長17年(1612年)、近江国の長島村の「旧地」500石を家康から安堵されています。
「旧地」がどういう意味なのかは不明です。
慶長17年(1612年)、大御所となった徳川家康と面会し、品川に屋敷を与えられています。
この品川という地名が、後に今川氏真の次男が品川姓を名乗った所以です。
慶長18年(1613年)2月、正室・早川殿が死去し、慶長19年(1615年)12月に今川氏真も没しています。
享年77歳です。
今川氏真夫婦は、江戸城半蔵門近くにあった萬昌院に葬られた後に、観泉寺に改葬されています。
今川氏真の評価
今川氏は、越前の朝倉氏・山口の大内氏と共に「戦国三大文化」と称されています。
今川氏真自身も優れた文化人として知られており、公家文化を習得しています。
ですが、今川氏真は蹴鞠・和歌・連歌などに熱中し、国を滅ぼした暗愚というイメージがあるように思います。
先に述べたように、今川氏真は領国に政策を施すなど崩壊させないように努力をしており、暗愚と言い切れない面があります。
また、武田氏滅亡後に今川氏真が領主に復帰するのではないかと囁かれ、徳川氏に仕官していた今川氏旧臣の中には、今川氏に帰参したいと期待する者もいたそうです。
今川氏旧臣は、今川氏真が領国経営できないような暗愚な人物と思っていなかったかもしれません。
しかし、江戸時代初期に成立した、武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』において、既に今川氏真の評価は低く、氏真が遊興に耽る様子が書かれ、「ばかなる大将」などと氏真を評しています。
『甲陽軍鑑』で今川氏の評価が低い要因として、武田信玄の軍師であった山本菅助と関連があるのではないかとする説があります。
武田信玄に仕える前の山本菅助は、今川義元に仕官したいと願っていましたが、義元は菅助を召し抱えませんでした。
山本菅助の才能を見抜けなかった今川氏は愚か者であるとの考えが背景にあるようです。
また、蹴鞠自体は武士としての素養の一つですが、父の仇である織田信長の面前で今川氏真が蹴鞠をしたことも、後世、氏真の評価を下げる一因になったと考えられます。
今川氏真の子孫
今川氏真は、いつしか武将としてでなく、文化人として生る道を選んだのかもしれません。
いずれにせよ、今川氏真の公家文化の高い能力は、氏真の子孫に受け継がれ、太平の世となった江戸時代に活かされています。
今川氏真の子孫達は、江戸幕府の朝廷や公家との交渉役である高家旗本になっています。
今川氏真の娘が嫁いだ吉良家も高家旗本です。
今川氏真の娘→吉良義弥(高家旗本)→吉良義冬→吉良義央→上杉綱憲(上杉家に養子入り)→吉良義周(吉良義央の孫)
吉良義央は赤穂事件で知られている吉良上野介のことで、赤穂事件がキッカケとなり吉良家は義周までで断絶しています。
また、吉良義弥の正室は、今川範以(氏真の嫡子)の娘です。
慶長12年(1608年)、今川範以は父・氏真に先立ち没しています。
今川範以の嫡子・今川直房は、祖父である今川氏真に養育されていおり、高家今川家の祖となっています。
今川家が高家に登用されたのは、吉良家との血縁関係があったことも影響しているようです。
その後、今川家は江戸時代を通して高家旗本として存続し、幕末の当主・今川範叙(のりのぶ)は、若年寄に起用されています。
明治維新後、今川範叙は嫡男に先立たれ、今川氏の男系直系は途絶えています。
尚、他家に嫁いだ長女がいるため、今川氏真の子孫は現在も続いているかもしれません。
今川氏真→今川範以→今川直房(高家旗本)(今川氏中興の祖)→今川氏堯(うじなり)→今川氏睦→今川範高(のりたか)→今川範主→今川範彦→今川義泰→今川義彰→今川義用→今川義順→今川範叙(高家旗本で若年寄)(明治維新を迎える)(今川氏23代(最後)の当主)
今川氏真の次男・品川高久は、高家品川家の祖となっています。
徳川秀忠の意向により、分家である高久は今川姓を名乗らず、江戸屋敷の地名にちなんで品川姓に改めています。
品川範増が2歳で夭折したため一時断絶していますが、血縁関係のある品川信方(今川氏真の子孫)を養子に迎えています。
ただ、品川信方は、品川家旧領1,500石のうち、300石に減知されています。
品川信方の長男・品川氏如に子供はいなく、高家旗本前田家から品川 氏長を養子に迎えており、今川氏真の子孫としては途絶えています。
品川高久(今川氏真の次男)(高家品川家の祖)→品川高如(たかゆき)→品川伊氏(これうじ)→品川範増(のります)→品川信方→品川氏如→品川氏長(高家旗本前田長敦の三男)
今川氏は大名としては滅亡しましたが、高家旗本として重用されており、今川氏真の生涯は勝ち組と言えるかもしれません。
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