新着記事
明智光秀
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「くろみつ大雄尊」(明智光秀公墨塗りの黒坐像)を拝観できる慈眼寺
「くろみつ 慈眼寺」には、墨塗りされた明智光秀像(くろみつ大雄尊)が現存しています。 京都市京北 周山の慈眼寺に、何故、黒塗りされた明智光秀像(くろみつ大雄尊)があるのでしょうか。 この記事では、「くろみつ大雄尊」(明智光秀公墨塗りの黒坐像... -
明智光秀の子孫と細川ガラシャ(明智玉子)の子孫
明智光秀の子孫と光秀の娘である細川ガラシャの子孫について分かる範囲でまとめています。 明智光秀は謎が多く、光秀の子供が何人いるかも定かではありません。 子供が定かでないので、追跡できる子孫も限られますが、辿れるだけでも子孫の方は沢山いらっしゃいました。 -
明智光秀の肖像画~本徳寺と明智光慶の関係~
明智光秀の肖像画には、面白い話があることが分かりました。 この記事は、光秀の肖像画についてと、所蔵する岸和田の本徳寺、肖像画に関係する明智光慶について記しています。 また、光秀は生きて玄琳、南国梵桂となったとする説も記しています。 -
明智光秀の生存説~生きていたという根拠は!?~
本能寺の変で織田信長に反旗を翻したことで有名な明智光秀、本能寺の変の後に起きた豊臣秀吉との戦いである山崎の合戦で亡くなったとする説が通説ですが、異説があります。 山崎の合戦で光秀は亡くならず、南光坊天海という僧侶となり、徳川家康の側近として天寿を全うしたというのです。 何故、光秀と南光坊天海は同一人物であるとの説が囁かれるのでしょうか、また南光坊天海とはどのような人なのか記します。
石田三成
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蒲生頼郷(横山喜内)(蒲生備中)の生涯と関ケ原の戦いの逸話
横山喜内は、蒲生氏郷に武勇を認められ蒲生頼郷と名乗っています。 また、蒲生備中という名でも知られています。 後に、蒲生頼郷は石田三成に仕え、関ヶ原の戦いで死力を尽くし戦っています。 横山喜内から蒲生頼郷と名乗りを替えた所以を含めて、蒲生頼郷の生涯と関ケ原の戦いの逸話について記しています。 -
石田三成と黒田長政|関ヶ原の戦いで対戦し島左近を負傷させた
黒田長政は、関ヶ原の戦いにおいて、石田三成隊に正面から攻勢を仕掛けています。 また、黒田長政隊は、石田三成の重臣・島左近を負傷させたことでも知られています。 その後、敗北し捕らえられた石田三成に会い、いたわりの言葉と共に陣羽織を与えた逸話など二人の経歴と接点を書いています。 -
石田三成と黒田官兵衛(如水)は不仲だったのだろうか
石田三成と黒田官兵衛(如水)は、豊臣秀吉の天下取りに貢献しに重用された人物ですが、関ヶ原の戦いでは敵味方に分かれています。 朝鮮出兵での囲碁の話など、石田三成と黒田官兵衛は不仲だったのだろうかと思わせるエピソードも残されています。 官兵衛や三成の足跡を辿りながら、二人の接点について書いています。 -
石田三成と加藤清正が仲たがいしたのは朝鮮出兵がキッカケ!?
石田三成と加藤清正は、共に豊臣秀吉の家臣となり頭角を現しますが、関ヶ原の戦いでは敵対しています。 犬猿の仲であったともいわれますが、不信感を持った発端は朝鮮出兵ではないかとする見方もあります。 石田三成と加藤清正について簡単にまとめながら、不仲になった切っ掛けと思われる出来事などを書いています。
徳川家康
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徳川家康の家紋「葵紋」の由来、意味は?
徳川家康のの家紋は「丸に三つ葉葵」という葵紋の一つです。 この記事では、家康の家紋について、「丸に三つ葉葵」の由来、葵紋のバリエーションなどを書いています。 【徳川家康の家紋】 徳川家康は、「葵紋」の一種である「丸に三つ葉葵」という家紋を使... -
徳川家康の年表を簡単・子供でも分かるように
徳川家康の年表を子供でも分かりやすく簡単に書いています。 また、年表内の年齢は数え年で表記しています。 先ずは徳川家康の概略を書きます。 【徳川家康の年表と概略】 弱小勢力であった松平氏の嫡男として生まれた徳川家康は、人質となることを余儀な... -
松平氏と徳川氏の違い、得川氏に改姓した理由
徳川家康は松平氏として生まれ、松平の名字を名乗っていましたが、官位を求めて朝廷に働きかけた際、得川氏(徳川氏)の末裔を称し徳川氏に改姓しています。 この記事では徳川氏に改姓した理由、徳川氏の一門でも「徳川氏」と「松平氏」名乗りが違うのは何... -
亀姫は徳川家康の長女で奥平信昌の妻
亀姫は徳川家康と築山殿(瀬名姫)の長女です。 徳川家康が武田氏や今川氏と対峙する中で、有力勢力であった奥平氏を味方につけるため、亀姫を奥平信昌に嫁がせています。 亀姫は四男一女をもうけますが、子供や夫に先立たれ、孫の後見人となっています。 ...