石田三成黒田長政の仲はどうだったのでしょうか。

石田三成と黒田長政の接点などから考察します。

また、関ケ原の戦い後に、長政の羽織を三成にかけて労ったと伝わる話についても記載しています。

 

 

秀吉に属した黒田長政

 

Kuroda_Nagamasa

黒田 長政

黒田長政の父である黒田官兵衛(かんべえ)は、豊臣秀吉や徳川家康でさえ、「決して油断ならぬ男」と一目置かれ、警戒されたほどの傑物(けつぶつ)(秀でた人物)です。

嫡子である長政は、官兵衛が信長に仕えていた頃、人質として秀吉の居城である長浜城で幼少期を過ごします。

人質ながら、秀吉夫婦からはわが子のように可愛がられたと伝わります。

信長の死後も秀吉に属し、賤ヶ岳(いずがたけ)の戦い、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦い九州征伐に従軍し活躍します。

 

 

長政と三成が対立

1589年に家督を譲られ、豊前(ぶぜん)(福岡県)中津12万5千石の領主となり、同時に従五位下(じゅごいげ)(日本の位階)、甲斐(かい)守に叙任します。

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朝鮮出兵

秀吉の命令で行われた朝鮮出兵(文禄<ぶんろく>・慶長<けいちょう>の役)では、渡海して沢山の武功を立てたそうです。

しかし明・朝鮮水軍により、補給水路が断たれる中で苦戦し、現地の武将として、戦線縮小案を提案しますが、秀吉により却下され、激怒されたと伝わります。

この時三成は、日本各地を奔走していたため対応していないようですが、秀吉に戦況報告する軍目付は三成の親族や腹心であり、三成らの謀(はかりごと)として長政ら武断派の武将と対立したそうです。

 

詳しくは、こちらの記事の蔚山(うるさん)城の戦いのところなどに記載しています。

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石田三成と朝鮮出兵

 

この時対立した武将で脇坂安治(後に家康方に寝返る)以外は、全員関ケ原の戦いで家康につきました。

 

長政が家康に接近

1598年8月、秀吉が没すると朝鮮出兵は終焉し、長政は正室であった蜂須賀正勝(まさかつ)の娘・糸姫(いとひめ)<豊臣秀吉の養女>と離縁し、保科正直(ほしな まさなお)の娘・栄姫(えいひめ)<徳川家康の養女>を新たに正室に迎え、家康に接近します。

 

石田三成襲撃事件

1599年閏3月に、長政ら武断派武将と三成らとの間を取り持ってくれた前田利家が亡くなります。

朝鮮出兵の蔚山城の戦いの件で、武断派の武将に恨まれた三成は、秀吉の没後に、「石田三成襲撃事件」により命を狙われる事態にまで発展します。

石田三成の肖像画

石田三成

石田三成襲撃事件を起こした七将(しちしょう)は、豊臣秀吉子飼いの7人であると言われています。

黒田長政福島正則(まさのり)、加藤清正(きよまさ)、細川忠興( ただおき)、浅野幸長(よしなが)の5名と池田輝政(てるまさ)、加藤嘉明(よしあきら / よしあき)とする説、または、5名と蜂須賀家政(はちすか いえまさ)、藤堂高虎(たかとら)とされています。

いずれにせよ長政は七将の中に入っており、この時期に、優秀な鉄砲の遣い手を多数召抱えていますので、後に起きる 戦を想定していたのかもしれません。

※また、朝鮮出兵での三成との対立が原因で、長政の父が失脚したとも伝えられ、三成を恨んでいたとも言われています。

この件は、長政の父(官兵衛)と三成の記事に記載しています。

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石田三成と黒田官兵衛は不仲であったのか

 

長政の関ケ原の戦いの戦い

関ケ原の戦いの戦いでは、家康への協力を表明し、関ケ原の戦い前日まで、長政は松尾山に陣した西軍の小早川秀秋(こばやかわ ひであき)、吉川広家(きっかわ ひろいえ)らを寝返らせるために暗躍し、秀秋寝返りが東軍勝利のきっかけになります。

関ヶ原合戦屏風

関ヶ原合戦屏風

関ケ原の戦い本戦では、鉄砲隊などを従えて、石田隊と激突し、三成の家老・島左近を狙撃し、戦闘不能にするなど活躍を見せます。

徳川家康の勝利に黒田父子の力が大きく貢献したと伝わり、戦後、関ヶ原の戦い一番の功労者として評され、筑前(ちくぜん)福岡の52万3千石余りを家康から賜り、福岡城を居城とします。

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長政の羽織を三成にかける

関ケ原の戦い後の三成と長政の話を紹介させていただきます。

戦いに敗れ、捕縛されお縄を受けていた三成の前を東軍諸将が通りがかった際、三成と対立していた諸将が暴言を投げる中、長政は馬から降りて「不幸にしてこうなってしまわれた。これを召されよ」と長政が着ていた羽織を三成に掛け、三成を労ったという話があります。

ですが、この話は逸話だと思いますので、どこまで真実かは不明です。

実際に似たような話があったのかもしれませんし、創作でも長政の人柄を表す逸話なのかもしれません。

 

その後の長政は、大阪の陣にも参戦し、徳川家への恭順を徹底して貫きます。

そして、黒田家の子孫は繁栄することになります。

 

三成と長政は不仲

長政の父・官兵衛の記事にも書かせていただきましたが、黒田父子は三成があまり好きではなかったように思います。

黒田家の記録である「黒田家譜」では、「石田三成の讒言(ざんげん)」によりとの言葉がよく出てきます。

讒言とは「事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと」という意味です。

三成の讒言でない状況でも、そのように記載してあります。

また、三成も武断派の武将は、好きでなかったのかなと思います。

例えば、朝鮮出兵は三成は反対の立場であったそうですが、武断派の中に朝鮮出兵を肯定する武将もいたそうです。

理由は戦いで武功を上げてあげて、石高を増やすためとのことです。

反対派には、豊臣秀長(秀吉の弟)、木村重茲(しげこれ)(木村常陸介) 、前野長康(まえの ながやす)(三成の家臣ナンバーツーともいわれる舞兵庫の岳父)、大谷吉継(よしつぐ)(三成の親友)など三成と親しい武将達です。

三成という人は、天下泰平の世を願っていましたので、軍功を立てて高禄を求める武将とは、あまり仲良くなれなかったのではないかと思います。

 

前野長康の娘婿・舞兵庫の記事はこちらです。

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石田三成の家臣・舞兵庫(前野忠康)

 

三成の親友として一番有名かなと思いますが、大谷吉継の記事はこちらです。

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石田三成の盟友・大谷吉継

 

石田三成と加藤清正~関ケ原の戦いで何故、敵対したのか~

石田三成と福島正則~関ケ原の戦いで何故、敵対したのか~

 

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参考・引用・出典一覧

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