石田正継は石田三成の父とされる人物です。

石田正継は三成の代理で三成の領内の政治に携わったと云われており、そこから垣間見える正継の性格や正継の出身についての記載もあります。

石田三成の父・正継とはどのような人物だったのでしょうか。

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石田正継の出身

石田正継(まさつぐ)は、生年不明で、石田為広の子として生まれたと云います。

 

石田正継

石田正継

 

戦国武将は、幼名や諱(いみな)や通称があり、中には改名や出家をする人もいて複数の名前が伝わっていたりします。

正継も同様に沢山の名前が伝わっています。

それにしても、複数の名前があり過ぎなように思う位です…。

中には正継の名前でないものも、入っているかもしてませんね(汗)。

その中でも「石田藤右衛門為成(ためなり)」という名前は、「霊牌日鑑(れいはいにっかん)」、「極楽寺系図」、「石田系図」という石田家の記録に記された名前ですので、信用できそうに思います。

「石田藤左衛門為成(とうざえもんためなり)」という名前で書状も出していますので、この名前も使っていたようです。

また、一次史料に近い文書には「正継」と記載されています。

石田三成が豊臣秀吉の有力家臣になり、石田隠岐守(おきのかみ)正継(まさつぐ)と名乗ったそうで、現代では「正継」の名前で知られているようです。

そして正継の出身は、近江国坂田郡(さかたぐん)石田村の豪土(どごう)ではないかと伝わります。

豪土とはその土地の小豪族のことですが、正継の頃は村長的存在であったとの見方もあります。

また、近江国坂田郡石田村とは、現在の滋賀県長浜市石田町にあたる場所で、石田三成の出生地と云われています。

そして近江守護の京極氏に仕えたとも云われていますが、定かではありません。

また正継は、和漢の学に通じ、万葉集を読む教養豊かな武人であったとも伝わります。

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石田正継の政治

石田三成の領内の政治を正継が代行して行っていたそうです。

三成は秀吉のそばに仕えていたので、領内を留守にすることが多かったのではないかと思います。

正継が代理で行っていたことは、領内の奉行や城主の仕事だと伝わっています。

三成が秀吉に引き立てられると、正継も近江国内に3万石を給され、従五位下(じゅごいげ)・隠岐守に任官したと云います。

「3万石」には諸説あるようで、ウィキペディアでは「三成が佐和山城主に封ぜられると、正継も近江国内で300石を食み~」となっていました…。

私が所持する書籍複数冊は「3万石」です…。

三成が佐和山城主で、三成の代わりに領地を取り仕切る父・正継が300石??

と思いますが…、実際のところは不明です。

佐和山

佐和山

また石田家は敗者側ですので、正継のことも多くは伝わっていませんが、正継の名前で出された二十数点の文章が確認できています。

この文書は三成に代わり出された文書だと云いますが、領民目線に立った温情のある内容だと云います。

当時の領民は、現代人のように難しい言葉が分からない方もいらっしゃるので、領民の目線に合わせ理解しやすい言葉で書かれているそうです。

また1596年に、石田三成は村々へのある掟を出しています。

この掟は三成の善政とされる施策ですが、父・正継の影響があったと推測されています。

石田三成の掟

その三成の掟とは、百姓にも理解できるように、かなを多く使っている特徴があるそうです。

当時の百姓は漢字の読めない方が多かったそうです。

年貢が三成の蔵へ入る村へ出した十三か条の掟書と

年貢が家来のものになる村へ出した九か条の掟書等との2種類があります。

掟の内容の主旨は同じで、二つの掟に大きな差はないそうですが、内容の一部を紹介します。

百姓から必要以上に夫役(ぶやく/ふやく)を出すことを禁止しています。

夫役とは、年貢など労働のことです。

また、耕作者の権利を保障したり、三成への直訴を許したり、当時としては異例とも言える位、農民保護を明確にしています。

農民の目線に立って書かれた掟は、当時としては、かなり民主的な掟であったようです。

現代では、三成に関する文書は抹殺されるなどしたためか、殆ど現存していません。

しかし、そのような中、この掟だけは複数存在しています。

三成を慕う領民達が宝物のように残していたのかもしれません。

このようなこともあり、三成は領民に慕われていたと伝わっています。

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正継の性格

正継の性格が伝わるような手紙が残されています。

手紙の相手は、京極氏の元有力家臣で下剋上により衰退した上坂氏です。

以前は権勢を振るっていた上坂氏ですが、衰えたため旧領主であるにもかかわらず、村人に尊敬されなくなっていたそうです。

その村人に対し、正継が発したとされる言葉が残っています。

「少しくらいのことは我慢して(上坂氏に)敬意を示しなさい。

今は衰退しているが、前は村の領主であった人なのだから、道で会ったら、腰をかがめて礼をしなさい。

そうすれば、お天と様の恵みで村は繁盛するでしょう。

そうでなければ、草木でさえ枯れてしまいますよ。

そう思うことが大事です。」

と諭(さと)したそうです。

相手に対する気遣いと、相手の立場に立って考えることのできる正継の姿がみえるように思います。

戦国の世なのに、このように気遣いするものなんだと思いました。

父・正継の影響でしょうか、三成もまた、相手の身分に関係なく相手を思いやることができる人であったように思います。

そして、石田家の善政に応えるように、関ヶ原の戦いの後、村人は三成を必死に匿ったと云います。

石田家滅亡後も三成を秘かに慕う人が多かった理由がみえてくるようです。

 

正継と佐和山城の戦い

関ヶ原の戦いの時は、三成の居城である佐和山城の留守居を務めています。

石田家の主力部隊は関ヶ原の戦いに出陣していましたので、佐和山城には、一族衆や援軍など総勢2800名であったと伝わります。

関ヶ原の戦いの決着がついた後で佐和山城の戦いが起きます。

正継は佐和山城を死守していたものの、内通者が出て裏切りが起きるなど、徳川方の猛攻を抑えられなくなります。

落城前に多くの家臣を逃したと云われています。

そしてついに落城し、本丸客殿において三成の兄・正澄等一族衆とともに自害したと云います。

供養塔は、三成の長男が住職を務めた京都の妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)に残っており、現在も供養が続けられています。

妙心寺寿聖院は一般公開はされていませんが、電話すれば三成の供養塔は見れるそうです。

 

京都の妙心寺寿聖院

京都の妙心寺寿聖院

 

妙心寺寿聖院についてと、三成の長男の記事はこちらです。


石田重家と重直と子孫

かおりんかおりん

『新視点 関ヶ原合戦: 天下分け目の戦いの通説を覆す』という本は、一次史料を基に考察した本で、今までの関ケ原の戦いとは違う説も載っている本です。

また石田家は悲劇的な最期を迎えましたが、子孫は意外に?も繁栄しています。

三成の子孫についてはこちらです。

石田三成の子孫~一覧~

三成の兄と兄の子孫についての記事はこちらです。

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石田三成の兄・石田正澄と子孫

佐和山城落城の話や三成の三男・佐吉の記事はこちらです。

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石田三成の三男・佐吉~関ヶ原の戦いからその後~