石田三成には、石田正澄(まさずみ)という名前の兄がいます。
石田三成は聞いたことがあっても、石田正澄は知らないという方も多いのではないかと思います。
また正澄は、弟の七光りで出世したとも囁かれますが、実際のところどうだったのでしょうか。
今回は、石田正澄と正澄の子孫の記事です。
三成の兄・石田正澄の出自
石田正澄は、石田正継(いしだ まさつぐ)と瑞岳院(ずいがくいん)の間に生まれます。
石田正澄の生年は不明ですが、弟の三成が1560年生まれですので、1560年より前に生まれたようです。
この時代は、名前が複数あったり、官位で呼ばれたりもします。
正澄も同じで、通称は弥三(やぞう)で、官位は木工頭(もくのかみ)ですので、石田木工頭としても知らています。
石田三成も治部少輔(じぶしょうゆう)という官位でしたので、ドラマなどで「治部殿」と呼ばれているのと同じというわけですね。
また正澄の別名は重成(しげなり)といい、重成は諱(いみな)と呼ばれる名前だそうですが、石田家の次男につけるものとのことです。
因みに石田三成の幼名は佐吉(さきち)ですが、佐吉は石田家の3男につける幼名だと伝わります。
また石田家の記録では、石田三成には、兄2人と弟が3人、姉妹が2人いたとされているそうです。
石田正澄は次男であることも記されているそうで…、そうすると正澄は次男で確定では…と思うのですが。
ですが現在の通説では、正澄が石田家の長男で、三成が次男となっています。
そして「弥治郎」という長兄もいるかも…しれないという感じのようです。
三成の兄・石田正澄の経歴
石田正澄も豊臣秀吉の家臣でしたが、三成と同じ頃に秀吉に仕えたと伝わります。
三成の縁で出世したと思われることのある正澄ですが、正澄は優秀で秀吉の信任も厚かったと云われています。
正澄は、近江国高島郡(おうみのくにたかしまぐん)や蔵入地の代官になっていますが、領主に代わって領地を任されているわけですので、それ相応の信任があるということになると思います
戦の奉行や三成に代わり堺奉行に任ぜられたりもしていますので、政治的な能力があったということでしょうか。
美濃の太閤検地も務めたり、三成と似たような職務を任されていますね。
1592年から秀吉の命令で朝鮮出兵を行うことになりますが、前線基地としたのは肥前(ひぜん)名護屋城です。
現在の佐賀県にあったお城ですが、この名護屋(なごや)城の普請奉行(ふしんぶぎょう)として、早い時期から現地入りし、その後も、名護屋城の管理責任者を務めたそうです。
豊臣政権では三成の活躍が大きすぎて、目立ちにくい正澄ですが、正澄も豊臣政権の中枢で活躍しました。
1593年には、従五位下(じゅごいげ)・木工頭に任官されます。
そして豊臣姓も賜ったそうです。
三成は豊臣姓を賜った記録はないのですが、正澄は賜った記録があります。
三成の子孫には賜った伝承があるので、三成は記録がないだけかもしれませんが。
そして1595年に、正澄は1万石を加増され、併せて2万5000石の大名となっています。
正澄は石田三成の家臣かと思われてしまう場合があるようですが…、正澄は独立した大名でした。
また、片桐且元などと共に、十人の奉行と呼ばれ活躍していました。
三成の兄・石田正澄の私生活
正澄の私生活ですが、秀吉の側近である木下吉隆(よしたか)と仲が良く、行動をよく共にしていたそうです。
儒学者である藤原 惺窩(ふじわら せいか)に、三成と共に師事していることなど、向学心が高かったと伝わります。
正澄自身も優秀であったようですが、弟の三成の方が出世していますね。
これをどう感じていたのかなと思いますが、三成との兄弟仲は良く、弟を良く補佐した兄として知られます。
親子でも争う戦国の世に、意外ですが…。
三成の兄・正澄の関ケ原の戦い
関ヶ原の戦いの時は、父・正継(まさつぐ)とともに、三成の居城である佐和山城の留守番をしていました。
石田家の主力部隊が、関ケ原の戦いでいない中、正澄は必死の抵抗を続けたと云います。
しかし関ヶ原の戦いに勝利し、勢いに乗り徳川軍が押し寄せます。
その上、佐和山城に籠る長谷川 守知(はせがわ もりとも)は、既に徳川方に内通しており、小早川秀秋に通じて、佐和山城攻略の手引きをしたこともあり、佐和山城はついに落城します。
佐和山城落城に際して、父の正継と共に自害し、正澄と正継は、三成の母方の叔父である土田外記成久(どだげきなりもと)によって介錯されたと云います。
※三成の母の出自は諸説あるため、叔父でない可能性もあります。
その後、正澄が生前に帰依していた春屋宗園(しゅんおくそうえん)の好意により、石田正澄と三成の供養塔が京都の大徳寺三玄院に建立されました。
また、土田外記成久は出家し、一族の菩提を弔っています。
三成の兄・石田正澄の遺品
大分県にある杵築(きつき)城に正澄の兜と采配の柄(つか)が展示されているそうです。
宮部豊景(みやべとよかげ)が、佐和山城攻めで徳川方に属し、正澄を討ち取ったと伝わります。
先ほどの落城し自害したとの話と矛盾しますが…、真実はわかりません。
正澄の子供・石田朝成、主水正
正澄の子供で、名前が残っているのは二人です。
一人は石田朝成(いしだ ともなり/ともしげ)といい、右近朝成という別名も残っています。
朝成が長男との見方が有力ですが、ハッキリと分かっていません。
もう一人は、主水正(もんどのしょう)という男子です。
また、早逝した男子2名、女子がいた可能性もあるそうです。
石田 朝成、主水正共に秀頼の詰番衆(つめばんしゅう)に名前が残っています。
それでは、それぞれについて記載します。
<石田朝成>
佐和山城落城の際、父等と共に自害したとの説が通説になっています。
朝成亡き後、春屋宗園(しゅんおくそうえん)により諡号(しごう)され、宝光院竹心宗脩禅定門という戒名が残ります。
春屋宗園とは、正澄、三成とも帰依した僧侶です。
そして、朝成の辞世の句と血染の短冊まで残されています。
しかし、朝成には西国に逃れのちに近江国に戻ったとする生存説が囁かれているのです。
佐和山城落城の時に父・正澄が、家名が絶えることを憂い、朝成に佐和山城脱出を命令したと云います。
そして、西国へ逃れたのちに江州野州群(ごうしゅうやすぐん)赤野井村に移住した記録があるそうです。
その赤野井村は、現代の滋賀県守山市石田町にあたり、当時、一族の石田氏がいたところで、現在も石田性の多い地域だそうです。
現在の赤野井村・石田家の話では、昔、武士が隠れ住んだ屋敷跡があるそうです。
<主水正>
もう一人の子供の主水正(もんどのしょう)は、佐和山城落城時大阪城にいたそうです。
その後、従者2人と高野山に上り、木喰上人(もくじきしょうにん)を頼ったそうです。
木喰上人とは、複数の僧侶の総称ですが、石田家と親しい木食応其(もくじきおうご)を探したものではないかと推察できます。
ですが、木食応其は近江の飯道寺(はんどうじ)にいました。
三成方西軍の為に奔走していた木食応其は、高野山を留守にしていたそうです。
頼るあてが無くなり、主水正は程なく高野山を降り自害したそうです。
木食応其はその後、三成の3男・佐吉の救出の手助けをしています。
後に、春屋宗園とその弟子は、主水正の遺骸を収めて三玄院に葬り丁重に供養したそうです。
三玄院には、正澄、三成のお墓がある場所です。
石田正澄の子孫
正澄の子供で生き残った伝承のある石田朝成の話をしましたが、朝成の子孫を称する家があります。
有名な戦国武将の子供が、実は生きていたとする説は、どこにでもありますね。
信じ難い話もありますが…、ですが今回は有り得る話に思えます。
朝成の子孫と称する人の元に「極楽寺系図」と呼ばれる石田家の記録が残っていてるのですが、そこには石田家中の人でないと分からなそうなことが書いてあるそうです。
系譜が辿れるのは、朝成から5代目の子孫からになりますが、一向宗の僧侶となったそうです。
そして、紀州有田群栖原(すはら)の極楽寺を再興し、そこの住職になったと伝わります。
「極楽寺系図」とは、その紀州極楽寺が残した石田家の記録を指します。
そこには、三成の次男である石田重成が、徳川家に隠れ津軽家の弘前へ逃れたことや、その後も交流が続いたことを示唆する内容があるそうです。
朝成の子孫が居るのは、現在の和歌山県のお寺で、三成の次男が居るのは青森県です。
この時代に遠く離れた場所に、隠れ住んだ人の記録が残されていたと。
また、石田家一族、石田家祖先についても記載があり、他の石田家の記録とほぼ一致するそうです。
そうなると、本当に子孫かなとも思いますが…、裏付ける史料が足りないのか異説という位置付けのようです。
また、極楽寺の石田家は、石田性であるけれど三成とは一切関係のない旨の文書を幕府に提出させられているそうです。
当人が否定した経緯もあり、通説を覆すのが難しいのかもしれませんね。
敗者側の子供や子孫は、本当のことを語って生きるのが難しかったりしますから、真実がみえずらいですね。
因みにですが、参議院議員石田昌宏(まさひろ)氏は正澄の子孫と仰っているそうです。

三成の子供や子孫については、別でまとめています。
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正澄の父についてはこちら。
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