石田三成の兄・正澄(まさずみ)は、三成と同じ頃に秀吉に仕えたと伝わります。

通称は弥三(やぞう)で、官位は木工頭(もくのかみ)ですので、石田木工頭としても知らています。

 

石田正澄は三成の2番目の兄

三成との兄弟仲は良く、弟を良く補佐した兄として知られます。

三成の活躍が大きすぎて、目立ちにくい正澄ですが、優秀であったと伝わります。

正澄について、正澄の経歴などについてもみていきます。

 

通説では、正澄は石田家の長男であり、異説として次男の可能性も示唆されています。

そこで、石田家の記録に目を向けてみます。

記録では、石田三成には、兄2人と弟が3人、姉妹が2人いたとされています。

その中で、石田正澄(まさずみ)は2番目の兄である旨が記されています。

その上、正澄の諱(いみな)である重成は、石田家の次男につけるものとのことです。

又、石田三成の幼名は佐吉(さきち)ですが、佐吉は石田家の3男につける幼名と伝わります。

現在、真実は不明ですが、このことからも、正澄は次男である可能性が高いと考えます。

 

 

正澄の経歴

正澄は弟の三成と共に豊臣秀吉に仕えます。

三成の縁で出世したと思われることのある正澄ですが、秀吉の信任も厚かったと伝わります。

近江国高島郡(おうみのくにたかしまぐん)(滋賀県)の代官や、三成に代わり堺奉行に任ぜられ、美濃の太閤検地も務めたそうです。

朝鮮出兵においても、肥前(ひぜん)(佐賀県)名護屋(なごや)城の普請奉行(ふしんぶぎょう)として、早い時期から現地入りし、その後も、名護屋城の管理責任者でありました。

又、片桐且元などと共に、十人の奉行と呼ばれ、豊臣政権の中枢で活躍しました。

1593年には、従五位下(じゅごいげ)(位階のこと)・木工頭(もくのかみ)に任官されます。

1595年には、1万石を加増され、併せて2万5000石の大名となっています。

石田三成の兄は、石田三成の家臣なのかと思っている方もいらしゃるかもしれませんが、三成の兄・正澄は独立した大名でした。

 

豊臣姓下賜について

正澄には豊臣姓を下賜された記録があります。

ここで不思議なことは、豊臣姓を下賜された記録に、石田三成が載っていないことです。

ですが、三成の次男である杉山家の2代目から11代目までの明治より前の墓標には、「豊臣」の文字が刻まれています。

豊臣姓が下賜された伝承があるそうです。

個人的にはこの伝承が正しいと思っています。

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正澄の私生活

秀吉の側近である木下吉隆(よしたか)と仲が良く、行動を共にしていたそうです。

儒学者である藤原 惺窩(ふじわら せいか)に、三成と共に師事していることなど、向学心が高かったと伝わります。

 

佐和山城落城時の正澄

関ヶ原の戦いの時は、父・正継(まさつぐ)とともに、三成の居城である佐和山城の留守番をしていました。

関ヶ原の戦いの敗戦後、押し寄せる徳川軍に対し、必死の抵抗を続けますが、裏切りなどにより佐和山城は落城します。

佐和山城落城に際して、父の正継と共に自害し、正澄と正継は、三成の母方の叔父である土田外記成久(どだげきなりもと)によって介錯されます。

※三成の母は、岩田氏か土田氏の娘と伝わりますが、岩田氏であった場合は、土田外記成久は叔父ではなくなります。

その後、正澄が生前に帰依していた春屋宗園(しゅんおくそうえん)の好意により、石田正澄と三成の供養塔が大徳寺の三玄院に建立されました。

又、土田外記成久は出家し、一族の菩提を弔っています。

 

佐和山城落城の時の裏切りなどの経緯については、こちらの記事に記載しています。

石田三成の子供~三男 佐吉~

 

正澄の遺品

大分県にある杵築(きつき)城正澄の兜と采配の柄(つか)が展示されているそうです。

宮部豊景(みやべとよかげ)が、佐和山城攻めで徳川方に属し、正澄を討ち取ったと伝わります。

自害の話と矛盾しますが、真実はわかりません。

 

石田正澄の子供

石田 朝成(いしだ ともなり/ともしげ)(右近朝成)、主水正(もんどのしょう)と早逝した男子2名がいたと伝わります。

又、女子がいた可能性もあるそうです。

石田 朝成が長男との見方が有力ですがはっきりと分かっていません。

石田 朝成、主水正共に秀頼の詰番衆(つめばんしゅう)に名前が残っているそうです。

 

石田 朝成

通説では佐和山城で自害したとされ、血染の短冊まで残されています。

春屋宗園により諡号(しごう)( 貴人、僧侶の死後におくる名)までおくられています。

 

石田 朝成生存説

しかし、石田三成研究家の白川亨氏は、石田家の記録である極楽寺系図の記録などから石田 朝成生存説を解いています。

佐和山城落城の時に父・正澄が、家名が絶えることを憂い、石田 朝成に佐和山城脱出を命令し、西国へ逃れたのちに江州野州群(ごうしゅうやすぐん)赤野井村に移住した記録がある旨を記載しています。

その赤野井村は、現代の滋賀県守山市石田町にあたり、当時、一族の石田氏がいたところで、現在も石田性の多い地域です。

現在の赤野井村・石田家の話では、武士が隠れ住んだ屋敷跡があるそうです。

 

三成の兄・正澄の子孫

その後、朝成から5代目の子孫が一向宗の僧となり、紀州有田群栖原(すはら)の極楽寺を再興し、そこの住職になったと伝わります。

三成の兄の子孫である紀州極楽寺が残した石田家の記録・「極楽寺系図」には、三成の次男である石田重成(杉山源吾)が、津軽へ逃れたことや、その後も交流が続いたことを示唆する内容があるそうです。

この時代の和歌山のお寺に、青森に住む人の記録が残されていたと、石田家一族、石田家祖先についても記載があり、他の石田家の記録とほぼ一致するそうです。

石田一族の子孫である可能性が高いように思いますが、通説では認められていません。

裏付ける資料が足りないことが一番の理由と思います。

又、極楽寺の石田家は、石田性であるけれど三成とは一切関係のない旨の文書を幕府に提出させられているそうです。

当人が否定した経緯もあり、通説を覆すのが難しいのかなとも思います。

 

主水正

主水正(もんどのしょう)は、佐和山城落城時大阪城にいたそうです。

その後、従者2人と高野山に上り、木喰上人(もくじきしょうにん)(木の実や果実を常食とする 僧の総称)を頼りました。

石田家と親しい木食応其(もくじきおうご)を探したものと推測できます。

ですが、木食応其は近江の飯道寺(はんどうじ)にいました。

西軍の為に奔走していた木食応其は、高野山には帰らず飯道寺に逃れていた為、主水正は、程なく高野山を降り自害します。

木食応其はその後、三成の3男佐吉の救出の手助けをします。

 

後に、春屋宗園(しゅんおくそうえん)とその弟子は、主水正の遺骸を収めて三玄院に葬り丁重に供養したそうです。

※木食応其(もくじきおうご)が三成3男の救出の手助けをした記事は、上記の佐和山城落城の時の裏切りの経緯の記事に書いてあります。

 

余談ですが、参議院議員石田昌宏(まさひろ)氏は正澄の子孫と仰っているそうです。

 

今回の記事執筆に参考にした書籍は、

白川亨氏著「石田三成の生涯」、「真説 石田三成の生涯」、オンライン三成会「三成伝説」、他です。

参考・引用・出典一覧

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石田三成の父・石田正継

 

石田三成の子孫~まとめ~

 

石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

石田三成の家臣・島左近

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