石田三成の盟友と聞いて真っ先に思いつくのは、大谷吉継(おおたに よしつぐ)であるという方は多いのではないでしょうか。

関ケ原の戦いでは、負け戦と予想しながら三成との友情の為に、共に決起したとも伝わります。

三成と吉継はどのようにして友情を育んだのでしょうか。

 

石田三成と大谷吉継の接点

大谷吉継

大谷吉継

三成と吉継が親密な理由の一つとして、1歳差で年が近いことが挙げられてきました。

以前は、吉継は三成の1歳年上の1559年産まれの可能性が高いとされていましたが、近年の研究では1565年の説が有力です。

三成は1560年産まれですので、1歳差ではありませんが、近い年齢ではあるので話しやすさなどがあったのかもしれません。

又、一説には大谷吉継も三成と同じ近江(おうみ)の出身であり、より両者を親密にさせたとも伝わります。

吉継は、いつ頃から秀吉の家臣になったのか、はっきりと分かっていませんが、三成の推挙で秀吉に取り立てられたとされています。

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盟友・大谷吉継の経歴

前野家文書である武功夜話(ぶこうやわ)によると、1577年には秀吉の家臣として吉継の名前が残っています。

1583年に起きた賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)では、三成らと共に「賤ヶ岳先懸け衆」と呼ばれ、七本槍に匹敵する武功をあげたとされています、

1585年、秀吉が関白になると、吉継は従五位下(じゅごいげ)(日本の位階)刑部少輔(ぎょうぶしょう<ゆう>)に任ぜられ、「大谷刑部」と呼ばれるようになります。

同年、9月に秀吉の有馬温泉湯治に石田三らと共に同行しています。

吉継は、三成と共に行動していることが多く、共に検地奉行や堺奉行を務めています。

そのような中で、お互いに苦労を分かち合い、そこから友情を深め盟友と呼ばれるまでになったのかもしれません。

吉継は1589年に、越前国(えちぜんのくに)(福井県)敦賀郡(つるがぐん)に、2万余石を与えられ、敦賀城主となりました。

1592年に始まった朝鮮出兵では、三成、増田長盛(ました ながもり)と共に朝鮮在陣奉行として活躍します。

 

賤ヶ岳の戦いと朝鮮出兵の記事はこちらです。

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石田三成と賤ヶ岳の戦い

石田三成と朝鮮出兵

茶会の逸話

吉継は、晩年ハンセン病(梅毒など異説あり)を患い、目が殆ど見えない状態であったと伝わります。

三成との友情を表すエピソードとして語られる逸話を紹介させていただきます。

 

あるとき、大阪城内山里丸で茶会が催された。

そこでは茶人今井宗薫(そうくん)がお茶を点(た)てたが、それが吉継に回ってきたとき、すでにハンセン病を患っていた吉継の膿汁(のうじゅう)(うみ)が一滴茶碗に滴り落ちた。

そこに列席していた前田利家をはじめ大名たちは戸惑いを隠せなかったが、三成はその茶碗に手を出し、一気に飲み干してしまったというのである。

吉継はこの三成の友情を生涯忘れなかったという。

 

逸話は真実か

この逸話の出典元は不明です。

一気に飲み干したのは、三成でなく秀吉という話もあります。

又、ハンセン病や、病により崩れた顔を隠すため、白い布で覆っていたとされていること自体、逸話である可能性もあるそうです。

ただ、目を患っていたのは真実のようで、吉継自身の書状により明らかになっています。

 

豊臣秀吉死後は徳川家康に接近

結果を知っている現代人から見たら意外なことかもしれませんが、吉継は、豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近し親家康派の立場をとっています。

もともと、徳川家康と親しかったと伝わります。

知られていませんが、豊臣秀吉に成敗されかかった過去もありますので、豊臣家に対する忠誠心は高くなかったのかもしれません。

 

大谷吉継成敗されかかる

成敗されかかった過程を記しておきます。

忍城(おしじょう)の戦いの後、理由は定かでありませんが、石田三成は秀吉から遠ざけられたそうです。

秀吉が三成に対し嫌悪感を持っていると考えられる頃、三成の義理の叔父である尾藤左衛門尉(尾藤甚右衛門)が秀吉に切り殺されてしまいます。

心を痛めた石田三成を見た大谷吉継は、秀吉に諫言(かんげん)(目上の人の過失などを指摘して忠告すること)をし、吉継まで成敗されかけてしまい、石田三成が神屋宗湛(かみや そうたん)に頼み、吉継を匿ってもらったことがあるそうです。

秀吉の晩年は古参の家臣でさえ、言い掛かりのような理由で何人も自害させるなどしています。

秀吉が亡くなった後も、豊臣家の為に働きたいと思う忠誠心が無くなっていても不思議でないように思います。

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三成が遠ざけられた理由は

又、忍城の戦いで三成が遠ざけられた理由に気になることがあるので、記しておきます。

忍城の戦いの際、秀吉は何としても水攻めをしたかったわけですが、最終的には無血開城(むけつかいじょう)(戦闘を行わず、城を明け渡すこと)を許しています。

何故、無血開城になったのか理由は分からないのですが、三成次男の子孫である津軽杉山家に、「三成が強諫(きょうかん)(強くいさめること)状を送った」とする伝承があるそうです。

三成に強く言われ無血開城を認めたものの、三成が気にいらず側近から遠ざけた…。

つじつまが合うとは思いますが、伝承ですので何とも言えないところですね。

 

忍城の戦いについてはこちらの記事です。

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石田三成と忍城の戦いから三成の戦下手を検証する

 

筆者の所感

この当時は、「友情」という概念がなかったそうです。

なので、世間は三成と吉継の関係を不思議に思った人もいたかもしれません。

「恩義」「好き(愛)」という概念はあったようです。

個人的な見解ですが、先ほどの「吉継の膿汁(のうじゅう)が滴り落ちたお茶を飲みほした」は、三成と吉継を「恩義」の関係で解釈しようとして産まれた物語かもしれません。

又、江戸時代の軍記物に三成と吉継は、衆道(しゅどう)(日本の男色の中で、武士同士のもの)であるという記述があるそうです。

これは、三成と吉継の関係を「好き(愛)」の関係で理解したものなのかなと思います。

 

その後の吉継は、関ケ原の戦いで三成と共に戦い自害して果てたとされますが、関ケ原の戦いはまたの機会に記事にします。

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真田家文書と石田三成~盟友・真田信之との関係~

 

石田三成の盟友・直江兼続

 

参考・引用・出典一覧

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