大谷吉継|石田三成に殉じた名将の生涯

大谷吉継は、豊臣秀吉の信頼を得て豊臣政権の中枢を担っていた人物です。

関ケ原の戦いで、徳川家康と対立したため、史料は少なく多くの謎があります。

徳川家康と親しい間柄でありながら、石田三成の友情に殉じたともいわれる吉継の生涯について書いています。

目次

大谷吉継の出自

大谷吉継は、永禄2年(1559年)に生まれたと見られていましたが、近年、『兼見卿記』などから永禄8年(1565年)を生年とする説が有力視されるようになりました。

大谷吉継の父は、南近江半国守護六角氏に仕えていた大谷吉房が有力視されています。

父が六角氏の家臣であったのなら、大谷吉継の生誕地が近江であるとする説の真実味が増すように思います。

大谷吉継の絵
大谷吉継 出典元:Wikipedia

その一方で、吉継の父は、豊後国・大友氏の家臣であったという説もあります。

また、比叡山延暦寺の天台座主などを輩出した青蓮院(しょうれんいん)門跡の坊官家の一つである大谷家に吉継の名前があります。

大谷吉継の父は、青蓮院坊官の大谷泰珍(たいちん)であるとも云われています。

このように、父については諸説あり、名前を含め定かではありません。

大谷吉継の母は、北政所の取次役であった東殿です。

東殿の出自は不明ですが、豊臣秀吉の生母(大政所)か、北政所(豊臣秀吉の正室)にゆかりのある人物であるとの説があります。

真偽不明ですが、『関原軍記大成』によると、北政所生母の朝日局の親族のようです。

東殿は、北政所の取次役として重責を担っていたようで、政治力のある人物であったと見られています。

大谷吉継の通称は紀之介や平馬、官途は刑部少輔であり、大谷刑部という通称でも知られています。

大谷吉継の家紋

大谷吉継は「対い蝶」(むかいちょう)と「丸に違い鷹の羽」の家紋を使用していたと云われますが、理由は不明で、確かな史料は見つかっていません。

本当に大谷吉継が平氏であったのかは分かりませんが、江戸時代、大谷吉継は平氏の流れを汲んでいるという説が有力であったそうです。

対い蝶」は、平氏の一門がよく用いた家紋です。

対い蝶
対い蝶 出典元:Wikipedia

大谷吉継の父親説がある大友氏の家臣・大谷氏も平氏の末裔と云われており、その辺りと関連があるかもしれません。

また、関ヶ原の戦いの時に、大谷吉継が白地に村蝶(群蝶)の鎧直垂を着用したと書く軍記類があります。

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで、大谷吉継は「丸に違い鷹の羽」の家紋を使用していたとする絵が描かれることがあります。

丸に違い鷹の羽
丸に違い鷹の羽 出典元:Wikipedia

鷹は、強さや威厳の象徴であり、武家に好まれたようです。

大谷吉継の居城であった敦賀城の東側を流れる笙の川の名前は、兄鷹(雄鷹)に由来するとの伝承があり、何か関係があるのでしょうか。

大谷吉継 秀吉に仕える

『淡海温故録』によると大谷吉継は、織田信長の家臣であった秀吉の小姓として、天正始め頃に仕えたようです。

天正5年(1577年)、羽柴秀吉は、毛利氏の勢力下にある播磨攻略を織田信長から命じられます。

その時、秀吉御馬廻り衆の1人に「大谷平馬」という名前があり、吉継の事であると見られています。

翌年、織田方についた尼子勝久が守備する播磨国上月城を毛利輝元に包囲されると、救援のため出陣した秀吉に従い吉継も従軍しています。

その後、毛利方についた別所長治が籠城する三木城攻めが行われると、吉継も馬廻として従っています。

当時、吉継の禄は150石や250石であったそうですが、真偽は不明です。

天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は、毛利輝元の勢力下である中国攻めを行い、清水宗治が籠城する備中高松城を攻めます。

真偽は不明ながら、吉継は、備中高松城にも馬廻りとして従軍したそうです。

同年6月、明智光秀の謀反により、信長は自害に追い込まれます。

秀吉の台頭

知らせを聞いた羽柴秀吉は、毛利と直ちに和睦し、京に急行して明智光秀を討ちます。

信長の仇討ちを果たし、清州会議を経て、秀吉は織田家重臣筆頭として台頭します。

その一方で、柴田勝家は、織田家筆頭家老でありながら、発言力が低下します。

やがて、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は避けられなくなり、天正11年(1583年)4月に起きる賤ヶ岳の戦いにつながっていきます。

柴田勝豊を調略する

羽柴秀吉は、柴田勝豊(柴田勝家の甥で養子)が守る長浜城を大軍で囲み、見方になるよう大谷吉継に調略させます。

大谷吉継の調略は功を奏し、長浜城ごと秀吉方に寝返ります。

『一柳家記』によると、賤ヶ岳の戦いで、大谷吉継のは「先懸之衆」として武功を挙げたそうで、勝利に貢献したと伝わっています。

吉継 秀吉の側近として活躍

天正13年(1585年)、秀吉の紀州征伐に従い、増田長盛と共に2,000の兵を率いています。

大谷吉継は、杉本荒法師を討ち取る大功を挙げたことが、『根来寺焼討太田責細記』に書かれています。

この頃、大谷吉継は秀吉の側近として活躍していたと見られ、織田信雄の元へ行く時も同行しています。

「大谷紀之介」の名前で文書の発給し、秀吉の朱印状に添えられる添状に「紀之介」の署名が確認できます。

吉継はキリシタン!?

大谷吉継は、キリスト教に改宗していたとの説があります。

天正14年(1586年)、イエズス会準管区長コエリョの接待役を務めていた安威了佐(あい りょうさ)と共に、コエリョへ果物と干柿を持参しています。

「キノスケ殿」がキリシタンであると、フロイスの報告書に書かれており、吉継の通称「紀之介」のことではないかという意見があります。

出世して大谷刑部と呼ばれる

天正13年(1585年)7月、近衛前久の猶子になった秀吉は、関白宣下を受けます。

豊臣秀吉の肖像画
豊臣秀吉 出典元:Wikipedia

秀吉の家臣も多く任官し、大谷吉継は従五位下刑部少輔に叙任され、この官位を得たことで「大谷刑部」と呼ばれるようになります。

『宇野主水日記』によると、同年9月、大谷吉継は、石田三成らと共に秀吉の有馬温泉湯治に同行しています。

天正14年(1586年)、九州の島津攻めでは、石田三成の下で、兵站奉行を務め、兵糧の確保や運搬を行っています。

大谷吉継は、戦闘もできる人物であったそうですが、戦場での槍働きではなく、実務を担当しています。

『輝元上洛日記』によると、天正16年(1588年)、大谷吉継は、秀吉の奉行格であったことが分かります。

敦賀城主になる

天正17年(1589年)、敦賀城主に任命された大谷吉継は、越前国敦賀郡2万余石を拝領し、同年12月、初の国入りを果たします。

敦賀城を築城したのは、蜂屋頼隆ですが、吉継は敦賀城の改修したと伝わります。

敦賀城中門(現・来迎寺表門)
敦賀城中門(現・来迎寺表門)

敦賀は、建設材を京、伏見、大坂に供給する基地であり、北国の物資を京や大坂に供給する拠点でもありました。

重要な敦賀を任せられた吉継は、秀吉からの信任も厚かったものと思われます。

敦賀西福寺、敦賀の商人らに宛てた吉継書状が残されています。

敦賀名産の山芋、昆布、ナマコなどをもらった吉継のお礼状、西福寺住持の病を見舞うなど、相手に配慮した内容の書状もあるそうです。

吉継といえば、関ヶ原の戦いでの壮絶な最期が印象的ですが、敦賀名産品に舌鼓を打つ、幸せな吉継の姿が見えるように思います。

豊臣秀吉の側近の多くは、自身の領地に滞在する時間より、伏見、大坂に居住するか戦地に赴く場合が多かったようで、吉継も同様でした。

敦賀を拝領して間もなく、天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍した為、敦賀に長く滞在することは出来ませんでした。

徳川家康の使者

小田原北条氏の征伐を決めた豊臣秀吉は、徳川家康の元へ大谷吉継を派遣します。

小田原城主・北条氏直の正室は、徳川家康の次女・督姫です。

豊臣秀吉と北条家の仲介役でもあった徳川家康に了解を得るため、大谷吉継が赴いたのです。

天正14年(1586年)に秀吉に屈した家康ですが、未だ油断できず、秀吉は信頼のおける吉継に大役を任せたものと思われます。

徳川家康は、北条氏と事実上断交し、秀吉は小田原征伐に踏み切ります。

小田原征伐での大谷吉継は、石田三成を総大将とする忍城攻めに従軍したそうでですが、裏付ける史料は見つかってなく真偽は不明です。

忍城の模擬御三階櫓
忍城の模擬御三階櫓

奥州仕置、検地を担当する

その後、奥州仕置の為に北に向かい宇都宮にて、伊達政宗、最上義光などに領地安堵を伝えています。

松前慶広(蠣崎慶広)と面会した吉継は、独立や秀吉への主従について力添えを頼まれたそうです。

後に、松前慶広は秀吉に謁見し、所領を安堵されています。

また、大谷吉継は、出羽国の検地を担当しています。

伊達領、最上領の検地は緩やかであったそうですが、小田原征伐に参じなかった諸将の領土は没収しており、検地も厳しいかったようです。

軍勢を伴って検地が行われ、同年秋、各地で一揆が起きます。

配下の代官が農民を斬ったことがキッカケであったと伝わります。

大谷吉継は、共に検地をした上杉景勝に支援を要請し、一揆の鎮圧に努めます。

『上杉家御年譜』によると、大谷吉継の「邪政」に百姓らが怒ったために起きた一揆のようです。

しかし、大谷吉継としては、秀吉の命令に忠実に従っただけと思われます。

一揆を鎮圧した吉継は、在番を残して京に戻っています。

その後、吉継は2万6,944石を加増され、敦賀5万石を拝領しています。

朝鮮出兵では奉行を務める

豊臣秀吉の天下統一が果たされましたが、秀吉は明の征服を目指し、朝鮮に出兵していきます。

大谷吉継は、天正20年(1592年)2月、朝鮮出兵の前線基地である名護屋に向けて出立し、6月に朝鮮に渡海しています。

大谷吉継は船奉行として活躍し、「朝鮮三奉行」とも称させる大役も担います。

渡海しない秀吉に代わり、朝鮮で戦う諸将らを指導し、現地報告も行う役です。

「朝鮮三奉行」には、大谷吉継の他に、石田三成増田長盛が含まれます。

文禄元年(1592年)夏、明軍の参戦を受けて、大谷吉継、石田三成、増田長盛、黒田孝高(官兵衛)らは軍評定を開きます。

秀吉に「秀吉の朝鮮入りの中止」、「今年中の唐入りの延期」を進言することを決めています。

文禄2年(1593年)1月、大谷吉継ら奉公衆は、秀吉に戦況を報告し、兵糧を急いで送って欲しいと要請しています。

明・朝鮮連合軍の強さ、兵糧不足

同じ時期、明軍による平壌攻撃により、平壌を制圧していた小西行長らは退却を余儀なくされます。

明・朝鮮連合軍が平壌を奪還したとの知らせを受けた大谷吉継ら奉公衆は、小早川隆景、黒田長政らに後退させます。

同年3月、兵糧庫が明軍の襲撃を受けて焼かれ、増々、兵糧不足が深刻になります。

窮地に陥った日本軍は、講和交渉を行うことにし、小西行長、加藤清正、明の沈惟敬で会談して、条件つきで合意しています。

日本軍には、釜山までの後退や朝鮮王子の返還などの条件がありました。

一方の明軍は、開城までの後退や日本に使節を派遣する条件です。

講和に反対する朝鮮は無視されています。

偽りの講和

同年5月、大谷吉継、石田三成、増田長盛、小西行長は、明の勅使を伴って帰国し、名護屋城で秀吉と明使との面会を実現させています。

しかし、明の勅使は偽りです。

また、小西行長も秀吉の使節と偽り、創作した「関白降表」を持たせて、自身の家臣を北京に派遣しています。

平穏に講和できるよう、日明双方の担当者が、お互いに偽りの報告を祖国にしていたのです。

大谷吉継も偽りであると知っていたことを記す史料はないようですが、状況から知っていたのではないかと思います。

しかし、偽りであると知らない秀吉は、講和をすすめます。

文禄5年(1596年)9月、正式な明使節と謁見した秀吉は、自身の要求が受け入れていないことを知って激怒し、朝鮮への再出兵を決めます。

こうして、第二次朝鮮出兵が始まりますが、吉継の動向は不明です。

大谷吉継は、表舞台から姿を消してしまいます。

文禄2年(1593年)9月、大宰府天満宮に吉継が奉納した鶴亀文懸鏡が現存しているそうです。

吉継と母・東殿の名前の他、「小石」、「徳」、「小屋」と書かれており、家族の名前と見られています。

豊臣政権の第一線から退く

大谷吉継は、いつからか分かりませんが、病気を患っていたと見られています。

ハンセン病(らい病)ではないかと伝わり、病により崩れた顔を隠すため、白い布で覆っていたと伝わります。

また、梅毒等の異説も有ります。

大谷吉継は、やがて豊臣政権の第一線から退いています。

また、文禄3年(1594年)、大谷吉継が直江兼続に宛てた書状により、目を患っていることが書かれています。

慶長3年(1598年)6月、吉継は病の身をおして、豊臣秀頼の中納言叙任の祝いに参列しています。

大谷吉継と関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)、死期が近いことを悟った秀吉は、徳川家康を豊臣秀頼の後見人に指名し、秀頼の行く末を案じながら生涯を終えています。

実際には、前田利家が豊臣秀頼の後見人として、豊臣政権を支えていたようです。

慶長4年(1599年)、宇喜多騒動が発生し、当主・宇喜多秀家でも仲裁することができず、一触即発の事態になります。

大谷吉継は、徳川家康の家臣・榊原康政と共に調停を行いますが、上手くいかず、徳川家康の裁断によって内戦を避けています。

同年、秀吉の法度を破る徳川家康と前田利家が対立します。

利家の元には、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝、石田三成、細川忠興、加藤清正、浅野幸長、加藤嘉明が集結します。

一方、大谷吉継は、福島正則らと共に、徳川家康の元に参じ、家康を警護しています。

唯一家康に対抗できる人物であった前田利家は、その後、秀吉の後を追うように亡くなってしまいます。

関ヶ原の戦いでは、敵味方に分かれた吉継ですが、徳川家康とも懇意であったと伝わります。

『上杉家御年譜』によると、大谷吉継は家康に近く家康に進言もできる旨が書かれています。

慶長5年(1600年)、徳川家康は、上杉景勝に謀反の疑い有として、会津に向けて進軍します。

大谷吉継は、3,000の兵を率いて参じましたが、上杉方と仲介をする為の従軍であるという説があります。

途中、大谷吉継は、石田三成の居城・佐和山城に立ち寄ります。

石田三成の肖像画
石田三成 出典元:Wikipedia

石田三成と徳川家康の仲直りをさせようと、三成の名代として、嫡男・石田重家を大谷軍に従軍させようとしたと伝わります。

そこで、大谷吉継は、石田三成から打倒家康の兵を挙げる意思を告げられます。

大谷吉継は、徳川家康との対立は無謀であるとして、「兵力差」「人望」「戦の得手不得手」などを説いて、三成を説得します。

更に、徳川家康の家臣は優秀な人材が多く、家康を敬愛し命を賭して戦います。

しかし、三成の決意が固いことを知った吉継は、10日間悩んだ後に、石田三成と元に決起する道を選びます。

豊臣政権で徳川家康の窓口を務め、家康の怖さ、有望さを知っているはずである吉継の決起です。

ただ、総大将は、石田三成ではなく、毛利輝元を迎えて味方を募る挙兵計画を立てます。

大谷吉継は、関ヶ原の戦いに負け戦と分かりながら、一族で西軍(三成方)についてと云われますが、互角の兵力を揃える算段があったとの説もあります。

徳川家康250万石に対し、石田三成19万余石、大谷吉継5~6万石では、如何ともし難い兵力差ですが、毛利輝元121万石、宇喜多秀家57万石などを含めた西国大名らが加われば兵力差を無くすことができます。

豊臣政権を守る為に戦うのだから、豊臣家と縁の深い加藤清正、福島正則、浅野長政らは、共に決起してくれると見立てたのかもしれません。

真田昌幸、真田信繁父子に書状を送る

大谷吉継の娘(妹、姪とも)は、真田信繁(幸村)の正室です。

真田昌幸、真田信繁父子に書状を送り味方になるよう求めています。

豊臣秀頼のためであること、毛利輝元、宇喜多秀家の名前を出しています。

真田昌幸、真田信繁父子は西軍につき、関ヶ原本戦で主力となるはずであった徳川秀忠軍の足止めをすることになります。

また、大谷吉継の母・東殿は、北政所の名代として、宇喜多秀家が行った出陣式に出席しています。

前田利長を加賀に撤退させる

西軍の中心人物の一人となった大谷吉継は、敦賀城へ一旦帰城し、越前国、加賀国の諸大名を調略し、見方につけています。

周囲の大名が西軍についたことで、東軍(家康方)の前田利家の嫡男・利長は危機感を感じ、大谷軍が攻めてくるという吉継の流した偽りの情報に動揺します。

大谷吉継は、水軍も編成しています。

大谷水軍に海路から襲撃されることを恐れた前田利長は、加賀に撤退を決め、途中、丹羽軍に襲撃されながら帰還しています。

結果、当時84万石の前田軍は、関ヶ原本戦には間に合いませんでした。

1日で陥落した岐阜城

大谷吉継らは、徳川家康が得意な野戦ではなく、苦手な籠城戦を展開するつもりであったと云われています。

毛利輝元は盟主として大坂城に入ってもらい、岐阜城を拠点とし尾張、伊勢、美濃に防衛ラインを作り、東軍を迎え撃てば、上杉景勝、真田父子らと共に挟撃できると考えていたようです。

岐阜城(稲葉山城)
岐阜城(稲葉山城)

難攻不落の岐阜城で織田秀信らが籠城して、東軍を迎え撃つものの、わずか1日で落ちてしまい、今度は大垣城を拠点に新たに防衛ラインを築くことになります。

松尾山に布陣した小早川秀秋

大谷吉継は、関ケ原の戦いの10日以上前、関ヶ原で戦になると思っていない頃、既に布陣しています。

岐阜城陥落により、防衛ラインを後退することになり、後詰陣地として関ヶ原に防御施設を作ったものと思われます。

辺りを一望できる関ケ原の松尾山には毛利輝元に入ってもらい、大垣城を拠点とした新たな防衛ラインが出来る構想であったようです。

しかし、松尾山には東軍に内通しているかもしれない小早川秀秋が入ってしまいます。

本陣を関ヶ原に移す

小早川秀秋が東軍につくとなれば、防衛ラインは機能せず、兵力の分断にもつながります。

誤算が続いたことで、大谷吉継ら西軍は、関ケ原に本陣を移し、決戦を迎えることになったようです。

西軍は総勢80,000以上、東軍は総勢74,000~104,000とも伝わりますが、戦った西軍は35,000余りと半分もいなかったようです。

大谷吉継は、松尾山の小早川秀秋を牽制できる藤川台に布陣します。

関ケ原古戦場の大谷吉継陣跡
関ケ原古戦場の大谷吉継陣跡

小早川秀秋に側面を晒し、本当に秀秋が裏切るとなれば、危険な場所です。

小早川秀秋と東軍が合流しない為に、誰かが線を引かなくてはならない、その様な思いで火中の栗を拾ったのかもしれません。

大谷吉継は、病気の影響により、後方で指揮を執り、藤堂高虎隊、京極高知隊を相手に奮戦します。

平塚為広らと共に寝返りに対処

小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返りますが、予想していた通りであり、平塚為広、戸田重政らと共に、何度も押し返したと伝わります。

しかし、小早川秀秋の裏切りに備えて配した脇坂安治隊、朽木元綱隊、赤座直保隊、小川祐忠隊までもが裏切り側面を突かれます。

脇坂ら4隊の裏切りは想定外であり、大谷吉継軍がひるんだところで、小早川秀秋軍が攻撃に出たと伝わります。

大谷吉継隊は、前から東軍、側面から脇坂ら4隊、背後は小早川秀秋隊に猛攻を受けて壊滅します。

大谷吉継軍の壊滅を受けて、動揺した西軍は、総崩れになります。

平塚為広に返歌

数多の敵を討ち取った平塚為広は、亡くなる前に、大谷吉継に辞世の歌を送っています。

「名のため(君がため)に捨(棄)つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」

平塚為広に届いたか分かりませんが、吉継は返歌しています。

「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」

大意「約束通り、六道の辻(冥界の入口)でしばらく待っていてくれ。遅れて、または先に死ぬことがあっても。」

大谷吉継は、自刃して果てました。

永禄8年(1565年)誕生説を信じるのであれば、享年36歳です。

関ヶ原の戦い後、徳川家康の最初の論功行賞は大谷吉継の陣で行い、勝どきをあげたそうです。

通常、大将の陣で行うそうですが、吉継の陣で行ったことは、どのような意味があるのでしょうか。

小谷吉継の首

大谷吉継は、病の影響で崩れた醜い顔を敵に晒さぬよう、湯浅五助に命じたそうです。

『常山紀談』によると、大谷吉継の首は、湯浅五助によって関ヶ原に埋められたといい、東軍に発見されることはありませんでした。

敵である藤堂高刑に埋め終わったところを見られ、湯浅五助は自身の首を差し出す代わりに、吉継の首のことを内緒にして欲しいと懇願したそうです。

その後、五助の首を持ち帰った藤堂高刑は、大谷吉継の首の在り処について、家康から詰問されても口を割らなかったという逸話が残されています。

大谷吉継陣から北方の山中に大谷吉継のお墓があります。

藤堂高刑が建立したお墓で、毎年墓参りも欠かさなかったと伝わります。

大谷吉継のお墓の横には、湯浅五助のお墓も築かれ、今でも大谷吉継に花を手向ける人が後を絶たないといいます。

関ケ原古戦場にある大谷吉継(吉隆)のお墓
関ケ原古戦場にある大谷吉継(吉隆)のお墓

大谷吉継は、西軍につくことを決めた時、自害して果てた「(三好)義継」に音が通じて不吉であるとし、「吉継」から「吉隆」に改名したとの説があります。

関ヶ原にある吉継の墓塔には、「吉隆」の名前で刻まれています。

吉継の首については異説もあり、大谷吉継の家臣・三浦喜太夫が吉継の甥の従軍僧・祐玄に託し、祐玄が米原に埋めたとも云われています。

吉継の供養塔

吉継が治めた敦賀にある永賞寺は、大谷吉継の菩提寺であったと伝わります。

大谷吉継の菩提寺・永賞寺
永賞寺

永賞寺には、大谷吉継の供養塔があり、全国の参拝者が後を絶たないそうです。

大谷吉継は私欲を捨て、友情に殉じたとも云われ、吉継に親しみを感じる方が多いのかもしれません。

永賞寺にある大谷吉継供養塔
永賞寺にある大谷吉継供養塔

大谷吉継と石田三成の友情

大谷吉継は石田三成との友情に殉じたともいわれます。

大谷吉継と石田三成との友情を表すエピソードとして語られる逸話を紹介させていただきます。

天正15年(1587年)、大坂城内で茶会が開催されました。

豊臣諸将が招かれて、一口ずつ飲んで、茶碗を回し飲みしていました。

吉継の後に飲む者達は、吉継の病気が移るのを恐れて、飲むふりをしていましたが、三成は構わず飲んだといいます。

一説には、吉継の膿汁が一滴茶碗に滴り落ち、諸将らは戸惑いを隠せなかったそうですが、三成は膿ごと茶を飲み干したとも云われています。

大谷吉継は、この三成の友情を生涯忘れなかったという逸話ですが、真偽は不明です。

また、当時は、「友情」を理解するのが難しかったようです。

なので、大谷吉継と石田三成の関係を不思議に思った人もいたかもしれません。

個人的な見解ですが、吉継と三成の茶会の逸話が創作であるとしたら、友情意識に疎い戦国時代故に、「友情」を「恩義」の関係で解釈しようとしたのではないだろうかと思います。

又、江戸時代の軍記物に三成と吉継は、衆道であるという記述があるそうです。

秀吉落胤説

大谷吉継には、秀吉落胤説を唱えられたことがあります。

吉継の「吉」は、秀吉の偏諱を受けたもので、「秀吉を継ぐ」という意味で吉継という名前ではないかというものです。

先に述べましたが、大谷吉継の母は、北政所生母の親族との説があります。

もし、親戚の縁で、秀吉の子飼いとして家臣になったのであれば、烏帽子親、諱の授与もあり得るかもしれません。

また、豊臣秀吉は大谷吉継のことを高く評価し、「百万の兵を与えて戦の指揮を執らせてみたい」と言わしめたと云われています。

優秀な吉継が秀吉の子であるならば、石高や地位はもっと高いのではないかとも思います。

また、大谷吉継と石田三成の友情を伝える茶会の逸話ですが、飲み干したのは秀吉であるとする逸話もあります。

吉継の膿ではなく鼻水が入り、秀吉が飲み干したとされていますが、真偽不明です。

大谷吉継は、秀吉落胤である可能性は低そうに思いますが、断定もできず分かりません。

参考・引用・出典一覧
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