石田三成は忍城(おしじょう)の戦いで初めて一軍の将を任されることになります。
当時、所領4万石程度であった三成にとって大抜擢されたことになります。
しかし、忍城の戦いは三成にとって「汚点」ともいうべき戦いになり、戦下手の烙印を押されることになります。
石田三成が戦下手とされる理由
後の世で「戦下手」の烙印を押された三成ですが、事実はどうだったのでしょうか。
以前の記事の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、三成が「賤ヶ岳先懸け衆」として軍功をあげたことは紹介させていただきました。
ですが、賤ヶ岳の戦いの頃は、秀吉が自身の家臣の手柄を大げさに宣伝する意図があったと思います。
事実としてどの程度活躍したのか、詳細は現段階では明らかになっていませんので、戦下手の弁護としては弱いですね。
賤ヶ岳の戦いの記事はこちらです(三成一番槍説についても記載しています)。
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戦下手とされる理由として、関ヶ原の戦いの敗北も要因として考えられますが、忍城の戦いも大きいのではないかと思います。
忍城の戦い
戦下手の烙印押されることになった忍城の戦いの概要を記載します。
1590年豊臣秀吉は、関東の北条氏の本拠地である小田原城攻めをしていました。
秀吉は別動隊を使って北条氏の支城(忍城など)を落とすことで、小田原城を孤立させようとしていました。
三成は、大谷吉継、長束正家(なつかまさいえ)、佐竹義宜(よしのぶ)、真田昌幸、多賀谷重津経(たがやしげつね)など有力武将が揃う中、総勢2万3千余(3万ともいわれます)の大軍の指揮者に抜擢されることになりました。
石田三成が本陣として布陣したのは、埼玉県行田市にある丸墓山古墳(まるはかやまこふん)です。
この丸墓山古墳を本陣に忍城を水攻めすることになります。
(※水攻めとは、城周りを水で満たして、敵の交通路、補給路、給水路を断つことで、飲料水を欠乏させて苦しめる方法です。
又、食料が入った倉庫なども水浸しになり、食料も足りなくなることが推察できます。)
忍城の戦い水攻め
忍城は沼地を天然の堀とし、「関東七城」に数えられる要害(ようがい)であったと伝わります。
城方の奮戦に業(ごう)を煮やした三成は、水攻めによって忍城を落とすべく、忍城を囲むように堤防を築きました。
各所に諸将(しょしょう)を布陣させ、川から水を引き込んで、水攻めを仕掛けました。
しかし、水攻めで忍城は落とせず、大雨と城方の攻撃により堤防が決壊し、濁流は三成側に襲いかかり、
豊臣軍約270人が死亡する散々な結果となりました。
その後、本拠地である小田原城が降伏したことにより、忍城は無血開城(むけつかいじょう)(戦闘を行わず、城を明け渡すこと)します。
後の世の人は、この件をもって三成を戦下手と評価することになったそうです。
忍城の戦いの真実を検証する
この忍城の通説は、江戸時代の軍記物に記されている説になります。
ここで水攻めは三成の案か検証したいと思います。
忍城の戦いに関する浅野長政宛ての三成の書状が現存しています。
忍城攻めは、浅野長政から石田三成が引き継いだものです。
書状から読み取れることは、三成が引き継いだ時点で、水攻めは既に決まっていたことです。
浅野長政は石田三成の上司に当たる存在です。
その長政に対して、三成は水攻めに否定的な意見を述べ、「攻め寄せるべき」と積極的な攻撃が必要との趣旨の書状を送っています。
秀吉からの書状
三成の書状は他に残っていませんが、秀吉の書状が現存しています。
その書状から推察するに三成は、秀吉にも水攻めの疑問を投げかけているようで、秀吉からの回答に当たる書状です。
水攻めに関する細やかな指示と別奉行は送らない、つまり忍城は三成の任せる旨の記載があります。
その後も秀吉から水攻めにするように書状が届き、更に元々の目的であった小田原城攻めが終了したのにも関わらず、忍城を水攻めにする旨の書状も残ります。
この書状から読み取れることは、北条氏を倒すことが目的というより、忍城を水攻めにすることにこだわった秀吉の姿です。
そして、小田原城の降伏をうけ、後に、忍城も開城し戦いは終わりました。
秀吉の狙い
水攻めは多額なコストがかかり、なかなか決行できる戦い方ではないようです。
ですが、小田原城攻めは秀吉にとって天下統一の仕上げでした。
なので、派手なことをしたかった。
天下に秀吉の力を見せたかったという狙いがあったのではないかと思います。
軍記物より当時の人が書いた書状が、真実と考えるのは当然だと思います。
近年の研究で、忍城の水攻めは三成の意思ではなく、秀吉の意思に応えたものと認められつつあります。
三成の戦下手の否定にはならないかもしれませんが、忍城の戦いをもって三成に戦下手の烙印を押してきたことの否定はできたかなと思います。
ただ、関ヶ原の戦いの戦いは早々に敗北が決定したとの説があります。
こちらは、当時の一次史料を基にした説なので、そうなのかなと思っています。
つまり戦上手という程でもなかったのかもしれません。
関ヶ原の戦いについては後日書きますね。
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