石田堤|石田三成が築いた堤防跡が残る丸墓山古墳近くや史跡公園

石田三成が忍城を水攻めにする際に築いたという石田堤の跡が埼玉県にあります。

石田堤が見れる石田堤史跡公園や丸墓山古墳近くに行った時のことを、戦国当時の状況などと共に書いています。

目次

石田堤が築かれた過程

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東平定のため、関東・甲信越の大名も従え、小田原の北条氏攻めを行っています。

豊臣秀吉は、小田原城の支城を攻略するよう諸将に命じており、石田三成も武蔵国の忍城攻めを命じられ、館林城を開城させた後に忍城へ兵を進めました。

石田三成31歳、一軍の将に抜擢されたのです。

忍城は沼地を天然の堀とした堅城であり、石田三成率いる豊臣軍は、攻めあぐねます。

石田三成は、忍城から約3キロ程離れた丸墓山古墳に本陣を置いて、忍城を囲むように堤防(石田堤)を築きます。

丸墓山古墳
丸墓山古墳

石田三成は、近辺の農民などに金銭とお米を与えて堤を作ったとされています。

昼には銭60文と米1升、夜には銭100文と米1升を与えたとされ、当時としては破格の待遇だったようです。

その甲斐あってか、全長28km(14kmなど諸説あり)ともいわれる石田堤を、わずか4~5日(一説には一週間)というスピードで作りあげました。

石田三成は利根川や荒川の水を引き入れ、忍城を水攻めにしますが沈みません。

結局、堤が決壊して、豊臣方に270名の死者を出して、水攻めは失敗に終わっています。

沈まない城である忍城は、「忍の浮城」と呼ばれたそうです。

忍城の戦い|石田三成の水攻め

丸墓山古墳近くの石田堤

忍城の戦いの本陣であった丸墓山古墳は、埼玉県行田市にあります。

丸墓山古墳は、日本最大規模の円墳で登ることができます。

現在、丸墓山古墳から伸びる石田堤の跡が確認できます。

丸墓山古墳近くの石田堤
丸墓山古墳近くの石田堤

写真は丸墓山古墳につながる道ですが、ここは石田堤の名残とのことです。

石田堤は堤防が残っているわけでもなく、わかりずらいですが、地面が少し高くなっています。

石田堤の説明
石田堤の説明

丸墓山古墳へアクセス

住所:埼玉県行田市埼玉4834

行田おもてなし観光局:048-577-8442

無料駐車場有(295台)

石田堤史跡公園

石田堤は行田市の他にも鴻巣市にも残されており、石田堤史跡公園として整備されています。

修復前の石田堤の規模は、高さ約3.2m、幅員は19m以上あったことが確認されているそうです。

石田堤史跡公園近くの上越新幹線高架下には、石田堤が出来る様子を音声やパネルで説明しています。

石田軍が水攻めを決行している絵
石田軍が水攻めを決行している絵

石田堤だけですとわかりずらく、通りすぎてしまうかもしれません。

ここで予備知識を付けて、石田堤を見る方が個人的にはおススメです。

音声は、ドラマ仕立てなので分かりやすいかと思います。

利根川や荒川から水を引き入れ水攻めを決行したのに、忍城が落ちないという場面での三成についてです。

「(三成は)この城は浮くのだとありもしないことを言い出す始末。手も足も出ない石田軍は天は我々に見方しているのだ…。」

記憶できたのはここまでで、この後、石田三成は天は我々に見方していると言っていましたが、石田堤が決壊して、濁流は石田軍(豊臣軍)に襲い掛かり死者を出してしまったという内容でした。

2019年5月の情報ですが、石田三成は戦下手として説明されていたように思います。

また、高架下には当時の朱印状見本もあります。

豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉朱印状

上の写真は、豊臣秀吉が石田三成に宛てた朱印状です。

朱印状には、「水責(攻め)の普請を油断なく行うように」「浅野長吉(浅野長政)・真田(真田昌幸)の両方を派遣するのでよく相談するように」「普請の大部分ができたら使者を派遣して見にいかせる」といった内容が記されています。

忍城の水攻めに関して、複数の書状が見つかっていますが、水攻めは秀吉の立案であったことが読み取れます。

豊臣秀吉の天下統一の総仕上げが小田原征伐になりますが、派手な演出で力を諸大名に見せつける意図があったものと思われます。

石田三成自身は、水攻めに反対であったことが書状から分かっていて、秀吉の命令に従い現場で指揮する役目だったようです。

また、当時の石田三成の上司に当たる人物は浅野長政で、忍城の水攻めについて度々支持を仰いでいます。

豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉朱印状

上の朱印状は、豊臣秀吉が石田三成に宛てたものです。

水攻めによる忍城内の混乱と、城周辺荒廃化を憂慮し、老人・婦女子(足弱)を周辺の城へ人質として移して、岩槻城同様に鹿垣を巡らしておくようにとあります。

小田原城が落城したら、拘束している忍城の者を召し抱えるので、小田原城落城迄の間、人質保護を申し付けています。

また、「其方非可被成御疑候間、別奉行行不及被遣之候」という分は、三成が忍城攻めの総責任者から外されるという不安を持っていたことが読み取れ、これを秀吉自身が打ち消しているそうです。

石田堤史跡公園の石田堤

新幹線高架下の近くに石田堤を利用した石田堤史跡公園があります。

この公園は鴻巣市ですが、川を挟んだすぐ傍は行田市です。

公園を出て堀切橋を渡ると、行田市側の石田堤があります。

この堀切橋が堤防が決壊した部分だと伝わるそうです。

橋を渡ってすぐにある松並木通りが石田堤ですが、何の変りもない生活道路になっていて、この案内看板がないと気がつかないかもしれません。

私は分からず、ウロウロしていたら、地元の方に声をかけられ教えていただきました。

体感ですが、忍城から7キロメートル位ありそうに感じました。

石田堤は元の自然の地形を利用し作られたようですが、それでも約5日で作れたことに驚きます。

石田堤
石田堤

石田堤史跡公園のアクセス

埼玉県鴻巣市袋字台326-1

駐車場:有(無料)

電車:高崎線 吹上駅 約2.4km、高崎線 北鴻巣駅 約2.4km

車:東北自動車道 羽生I.C 約15.3km、関越自動車道 東松山I.C 約16.0km

※この記事は2019年5月に行った時点の情報です。

現在と異なる可能性がありますので、観光などでお越しになる際は、ご自身で調べていただくようお願い致します。

参考・引用・出典一覧
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