石田三成が初めて歴史上に登場してくるのは、1583年4月に起きた賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの記録です。

賤ヶ岳の戦いでの石田三成の動向をまとめています。

 

秀吉の近習として賤ヶ岳の戦いに参戦

以前、三献茶の記事でご紹介させていただきましたが、秀吉に仕えたのは三成15歳か18歳の時です。

賤ヶ岳の戦いは、三成が秀吉に仕えて6~9年後の三成24歳の時の出来事です。

当時の秀吉は、なり上がりで自前の家臣団を持たない為、人材を集める必要があり、その中で三成と三成の兄・正澄(まさずみ)も秀吉の近習に取り立てられたと考えられます。

 

三献茶と兄・正澄の記事はこちらです

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三献茶と石田三成

三成の兄・正澄

 

ここで賤ヶ岳の戦いを簡単にまとめてみます。

賤ヶ岳

賤ヶ岳

賤ヶ岳の戦いは、1583年4月、近江国伊香郡(おうみのくにいかぐん)(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きたました。

織田信長が本能寺の変で倒れ、明智光秀を倒した後に織田家の勢力を羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家で二分した戦いです。

 

当時の状況

秀吉の主君・織田信長を討った明智光秀を破り、天下取りが近づいたように見える秀吉ですが、当時の状況は厳しいものでした。

織田家家臣は秀吉と反秀吉陣営筆頭・柴田勝家(しばたかついえ)に分かれており、勝家は戦上手でもありました。

 

柴田勝家側挙兵

賤ヶ岳の戦いの始まりは、まず柴田勝家側の滝川一益(たきがわ いちます / かずます)が挙兵します。

信長の三男・織田信孝(おだ のぶたか / のぶのり)は、一度秀吉に降伏していましたが、滝川一益と手を組み再度挙兵し、秀吉は信孝のいる美濃(岐阜)に進軍します。

ですが勝家も秀吉軍を討つ機会を狙っているため、秀吉不在時に攻撃を仕掛けられた場合、秀吉側は危険な状態になります。

なので、もし勝家が攻撃をかけてきたら、家臣が凌(しの)いでいる間に、秀吉はいち早く勝家のいる戦場に戻る必要があります。

そして、秀吉が信孝を討つ為進軍した4日後に、やはり勝家側の攻撃が始まりました。

秀吉は、もしもの際、柴田勝家側の攻撃を凌げるように、最前線の第一軍を強固にしていました。

ですが、柴田勝家側の佐久間盛政(さくま もりまさ)は、その秀吉の第一軍を迂回し、手薄な第二軍に攻撃をしかけました。

 

中川清秀の戦死と丹羽長秀が合流

佐久間盛政の攻撃を受けて、秀吉側の中川清秀(なかがわ きよひで)は戦死、高山右近(たかやま うこん)、桑山重晴(くわやま しげはる)は敗走し、第一軍も動揺し敗走しました。

しかし、別で動いていた秀吉側の丹羽長秀(にわ ながひで)と敗走中の桑山重晴軍が合流したことで、流れは秀吉側に傾き、佐久間盛政軍を退けることに成功します。

 

美濃大返し

又、このことを知った秀吉の行動はとても早く、大垣~賤ヶ岳54㎞わずか5時間で移動するという、有名な美濃(みの)大返し(大垣大返し)を行いました。

そうして秀吉の大軍が加わり、柴田側の前田利家軍が戦線離脱したこともあり、柴田勝家は敗走し、佐久間盛政は捕縛され処刑され、織田信孝は自害し、秀吉の勝利で幕を閉じます。

 

賤ヶ岳の戦い七本槍

秀吉は奮戦する近習に大喜びし、武功をあげた以下の7人を、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)と喧伝(けんでん)したと伝わります。

脇坂安治(わきざか やすはる)、片桐且元(かたぎり かつもと)、平野長泰(ひらの ながやす)、福島正則(ふくしま まさのり)、加藤清正(かとう きよまさ)、糟屋武則(かすや たけのり)、加藤嘉明(かとう よしあきら/ よしあき)

 

賤ヶ岳の戦い一番槍

中井俊一郎氏著「石田三成からの手紙」によると、「一柳家記(ひとつやなぎけき)」に石田三成が一番槍の働きをしたと記されているそうです。

ですが、史料原文を読むと、一番槍が本当に三成の働きかわからないそうです。

PHP研究所の「歴史街道 石田三成の真実」によると一番槍は石川一光(かずみつ)で、一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり )が続いたとありますが、

根拠の記載はありません。

※『ウィキペディア(Wikipedia)』で確認すると、石川一光、石田三成、両方に賤ヶ岳の戦いの一番槍と記載があります。

石川一光は江戸時代の軍記物、石田三成は「一柳家記」が根拠のようですが、どちらの根拠も弱くて真実かはわかりませんね。

 

又、「一柳家記」に三成、大谷吉継、一柳直盛、石川一光ら14人は、「賤ヶ岳先懸け衆」と呼ばれ武功をあげた旨記載されているそうです。

私の考えは、「賤ヶ岳の七本槍」や「賤ヶ岳先懸け衆」共に、なり上がりで、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が、自身にも有能な家臣が多数いると、大げさに世に広めた宣伝のようなものではないかと思います。

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賤ヶ岳の戦いでの石田三成の役割

「称名寺文書」や「甫庵太閤記」(ほあん たいこうき)(江戸時代に書かれた物でどこまで真実かは不明)によると、石田三成は、賤ヶ岳対峙の際には、江州浅井郡(ごうしゅうあざいぐん)(長浜市尊勝寺町)の称名寺(しょうみょうじ)のに柴田勢の動向を探らせていた旨の記載があるそうです。

軍記物(甫庵太閤記)はどこまで信用できるのか疑問ですが、近年の研究でも、三成が諜報活動を行ったことは正しいとされています。

 

三成は諜報活動を担った

石田三成生誕の地(現在の長浜市石田町)は、岐阜と賤ヶ岳を結ぶ線上にあり、三成にとって地縁があります。

その地の利を生かして、地元の集落、寺院に働きかけ諜報活動を行っていたと推測されます。

現存する三成最古の書状は、賤ヶ岳の戦いに関するもので、称名寺(長浜市)宛てで残っています。

秀吉の名代として発行した書状とのことです。

書状から三成が、賤ヶ岳の戦いで諜報活動を行っていたとが読み取れ、称名寺の者が諜報で良い働きをしたことへの礼状にあたるとされています。

石田三成は、諜報活動で得た情報を秀吉に詳細に報告し、かつ今後の動向も称名寺に逐一報告することを依頼しています。

 

三成と忍者

諜報活動といえば、忍者が得意な活動です。

以前記事に書かせていただきましたが、三成の祖母は、後の甲賀流忍術の中心となった家と伝わります。

又、三成次男の家系で、三成の孫である杉山吉成によって、弘前藩の忍者集団が結成されたという事実もあります。

石田三成は、諜報活動が得意だったのかも?しれないと考えたりします。

いぜれにせよ、情報の早さが大切であった賤ヶ岳の戦いで貢献できたようです。

杉山吉成と忍者の話はこちらの記事の下の方に記載しています。

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石田三成の子孫~杉山吉成~

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参考・引用・出典一覧

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