明智光秀は謎が多く、詳細な足取りがわかるのは、わりと後半生、織田信長の家臣になってからです。
戦国武将あるあるですが、負け組の史料は乏しいという悲しい現実があります。
この記事では、謎に包まれた前半生の通説、新たな史料に基づいた光秀像など光秀の生涯を書いています。
明智光秀の出自、前半生は謎だらけ
《出自は土岐源氏!?》
明智光秀の出自は諸説あるものの、清和源氏の流れを汲む名門の土岐家の分家筋という見方が有力です。
もし本当ならば、遠い祖先が清和天皇で、分家といえども土岐源氏の出自になります。
《父は明智光綱!?》
明智光秀は父の名前もハッキリしていません。
『明智系図』によると明智光綱ですが、明智光隆、明智光国だとも云われています。
明智光綱、明智光隆、明智光国などについては、この記事に詳しく書いています。
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《父親の異説》
明智光秀の父は、土岐源氏ではなく、小浜の刀鍛冶冬廣(ふゆひろ)の次男だとする説もあります。
『若州観跡録』という史料に書かれていますが、詳細は不明ですが1795年に購入したとあり、江戸時代の史料と見られています。
その他、進士信周(しんじのぶちか)が父だとする説もあり、父の名前だけで10名以上伝わっていて、定かになっていません。
《母は若狭武田氏!?》
明智光秀の母は、『明智系図』によると若狭武田氏の出自で、お牧の方です。
『明智系図』は、どこまで信用して良いか分からないという系図ですが、他に良質な史料がないというのが現状です。
《出生地は岐阜県可児市!?》
明智光秀の出生地候補も複数ありますが、有力視されているのは、明智城のあった明智荘です。
現在の岐阜県可児市広見瀬田にあたる場所です。
一説には、美濃の明智荘に住んだことで、明智の姓を名乗ったとも云われています。
上の明智城祉の写真は、光秀の家紋・桔梗紋が記されています。
光秀は、水色桔梗を使用したと伝えられています。
光秀の出生地については、こちらに書いています。
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《生年も不明》
また明智光秀の生年も複数の説が伝わっています。
『明智軍記』から、享禄元年(1528年)生まれと読み取れ、有力視されています。
また『当代記』によると永正13年(1516年)生まれですが、どちらもの説も根拠に乏しく不明です。
明智光秀の生年は長い話になるので、ご興味ある方はこの記事に書いています。
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不明な点だらけの光秀ですが、有名な光秀の肖像がですら、本当に光秀のものか分かっていません。
また、通称は十兵衛で、当時は光秀ではなく十兵衛と呼ばれていました。
明智光秀は斎藤道三(利政)に仕えた⁉
明智光秀の青年期は、美濃の斎藤道三(利政)に仕えたと云われていますが、伝記を読んでも道三の家臣だったことは書いてい場合が多いように思います。
当時の人が書いた記録で、「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」という言葉で光秀を表現しています。
美濃は光秀の有力出生地でもあり、当時美濃を牛耳っていた守護代の斎藤道三に仕えたとされていますが、信頼の高い史料では確認できないため、本当かどうか分かりません。
通説によると、美濃の斎藤道三に仕え、明智城を明智氏の居城としたそうです。
弘治2年(1556年)、下克上により成り上がった斎藤道三は、息子・義龍(高政)と戦になり、敗死してしまします(長良川の戦い)。
斎藤道三に味方した明智家は、義龍(高政)軍に攻められ、明智城は落城。
光秀の父は若くして亡くなっていたため、代わって明智家を支えていた叔父の明智光安は、城を枕に戦い命を散らしました。
光安は、明智宗家の嫡男・光秀に明智家再興を託したと伝わります。
光秀が明智城を脱出し、生き長らえたことが事実であれば、後世に恥を残さないという武士の美学に反します。
本当に落ち延びたのであれば、通説通りに明智光安らに明智家再興のため説得されたのだろうと思います。
光秀が長良川の戦いに従軍した確かな史料はありませんが、義龍(高政)軍にの攻撃で明智城が落城したのは、史実とされていていますので、義龍(高政)は明智家を敵と見なしていたと言えそうです。
明智城落城により、妻の煕子は一緒ですが、一族は離れ離れになったそうです。
一説には、明智光安の息子だという明智左馬助に光秀を任せたとも云われています。
いずれにしても、やがて左馬助は後に光秀随一の家臣になり、光秀を支えていくことになります。
また明智光秀は、美濃に居た頃に妻・煕子を娶ったようです。
明智城落城の時、煕子は身ごもっていて、光秀が背負って越前に逃れたという話が残されています。
明智光秀と越前
その後、『明智軍記』によると諸国を流浪した後に朝倉義景に仕えたことになっています。
また、明智光秀が鉄砲の射撃が上手かったという逸話が残っているのも越前にいた頃のことです。
明智光秀の史料が少なすぎて、参考にされる『明智軍記』ですが、光秀が亡くなって100年以上経って書かれた上に、明らかに真実でないことも含まれていて、信頼のできる史料とは見られていません。
諸国を流浪したことも疑問視されていますが、越前・朝倉義景に仕えていたかどうかも不明です。
ただ、近年新たな史料が発見され、少なくても越前にいたことは史実のようです。
越前で生活していた光秀が越前を去った後の手紙で、越前に残してきた縁者の世話をしてくれた人にお礼を述べています。
また、明智光秀が越前・朝倉家の秘伝薬について、薬の知識があったことが書かれている『米田文書』も見つかりました。
『米田文書』だけでは、朝倉家に仕えていたか分かりませんが、秘伝薬を伝授される位に信頼を得ていたようです。
越前に居た頃の光秀は、朝倉家に仕えたか、または、朝倉家のお世話になり、身を寄せていただけかもしれません。
越前では、寺子屋の師匠をしていたのではないかとする意見や、医学の知識もあったので、医者として生計を立てていたのではないかとも云われています。
越前に居た頃の光秀は貧しく、煕子が黒髪を売って家計を支えた逸話も残されています。
煕子との夫婦仲は良好で、愛妻家としても光秀は知られています。
煕子について、光秀と煕子の逸話についての記事は、こちらです。
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妻木煕子| 明智光秀の妻の生涯~逸話から愛妻家説を検証する~
細川藤孝(幽斎)との出会い
奈良興福寺多聞院において書かれた日記である『多聞院日記』によると、光秀は細川藤孝(幽斎)の中間(ちゅうげん)(足軽)であったのを、信長に引き立てられた旨が書いてあります。
ルイス・フロイス『日本史』の光秀の評価が書かれた箇所にも、高貴な出ではなく、細川藤孝(幽斎)に奉仕していたと書かれています。
出世前の光秀は、細川藤孝(幽斎)が上で光秀が下という関係の時期があったようです。
出会った時期は定かではないものの、軍記物類では越前の一乗谷で出会ったとしていることが多いそうです。
軍記物は信憑性に疑問がありますが、越前の暮らしを経て、足利義昭、織田信長に仕え出世していくことを考えると、打倒な時期かもしれません。
細川藤孝(幽斎)は、光秀の盟友としても知られますが、光秀が仕えていた時期があっただろうと見なされているのです。
織田信長を頼る足利義昭
明智光秀は、後に足利義昭の家臣になりますが、越前に居た頃に縁があったようです。
朝倉家のお世話になっていたであろう光秀が、近江の田中城に籠城した際、医術の知識を義昭の側近に教えていた史料があります(『米田文書』)。
そのことで、光秀が義昭の目に留まったのかもしれませんし、後に義昭が越前に身を寄せた際に、面識を持ったのかもしれません。
永禄8年(1565年)、足利義昭の兄、将軍・足利義輝が、三好三人衆らに襲撃され没します。
将軍家再興の為、上洛して将軍就任を願った足利義昭ですが、大変な軍事行動を伴う為、協力者が必要でした。
義昭は若狭国・武田義統の元に身を寄せ、織田信長らの手を借りて、上洛を果たそうとします。
足利義昭は、上洛経験のある織田信長に期待していたと云われていて、交渉役には義昭の側近・細川藤孝(幽斎)が任されていました。
また当時、信長は美濃を平定する前でした。
織田信長は、美濃の斎藤氏との講和を条件に、上洛に承諾したそうです。
そこで義昭の調停で講和すべく、細川藤孝(幽斎)が、織田家と斎藤家の交渉を担い、休戦協定が成立しました。
足利義昭上洛のための信長軍の行動開始日は決まり、義昭は待ちわびることになります。
しかし、織田家と斎藤家が再び対立したことで、義昭の上洛も流れてしまいます。
信長は講和を破棄し、義昭が信長に不信感を持ったという説がありますが、定かではありません。
いずれにしても、信長が上洛する話は、一旦無くなりました。
明智光秀は義昭上洛の交渉役
永禄9年(1566年)、足利義昭は、朝倉義景を頼り越前に入ります。
この時に義昭の側近・細川藤孝(幽斎)も越前入りしたのでしょうか。
また越前で、明智光秀と足利義昭の接点ができたものと考えられています。
しかし、朝倉義景は上洛の素振りを一向に見せず、足利義昭は見切りをつけることになるのです。
当時、信長は斎藤義龍の子・龍興を下し、美濃を平定していました。
『細川家記』によると、「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と光秀から信長を頼るように勧められたことが書かれています。
『細川家記』は、光秀の娘・ガラシャ(玉子)の嫁ぎ先である肥後熊本藩主細川氏の記録です。
光秀についての記述については、『明智軍記』から写しただけの箇所もあるそうで、どこまで信頼して良いものかわかりませんが。
足利義昭は、明智光秀を交渉役にして、織田信長に上洛を要請したと伝わります。
足利義昭の使者は、同じく細川藤孝(幽斎)でした。
一説によると、明智光秀は信長の正室・濃姫(帰蝶)と従兄妹であるとする説、信長の舅・斎藤道三の正室が光秀の叔母であるという説もあります。
血縁関係を頼って、織田信長の交渉役を務めたのではないかとも云われています。
また、年は書いてはいないものの、信長の上洛時と推定される文書が残っています。
細川藤孝(幽斎)が織田信長に宛てた文書ですが、双方の間に立つ者として「明智」の名が見えることからも、光秀が関わっていたと見られています。
光秀は足利義昭、織田信長両方の家臣
《信長と共に上洛し義昭を将軍に就ける》
永禄11年(1568年)、足利義昭は織田信長に奉じられ上洛しました。
明智光秀は、足利義昭、織田信長両方の家臣であった時期がありました。
詳細な時期は定かではないですが、上洛時点で、人材不足に陥っていてた足利義昭の家臣になっていたようです。
一説には、明智光秀の祖先が室町幕府の奉公衆で、細川藤孝(幽斎)を通じて義昭の家臣になったのではないかとも云われています。
また『明智軍記』や『細川家記』によると、上洛の時既に信長の家臣だったと書かれています。
本当だとすると、上洛時に既に、義昭と信長の両方の家臣だったことになります。
織田信長は光秀に義昭の監視を期待していたそうで、両方の家臣だった時、光秀は複雑な立場であったことがわかります。
明智光秀も上洛に同行していましたが、詳細はわかりません。
上洛後の11月15日、光秀は細川藤孝(幽斎)と共に連歌会に参加しています。
上洛の時は、細川藤孝(幽斎)と行動を共にしていたのではないかと見られています。
11月26日、信長は光秀と細川藤孝(幽斎)を京に残し、美濃へ帰りました。
《本國寺の変》
その隙をつかれ、三好三人衆や信長に敗れて流浪していた斎藤龍興らが、足利義昭を討とうと襲撃してきました(本國寺の変)。
本國寺の変にて防戦した人は、義昭の直臣、織田衆、若狭衆の混合ですが、『信長公記』に光秀の名前もあり、参戦していたことがわかります。
『信長公記』とは、信長の家臣・大田牛一が書いた信長の伝記ですが、本國寺の変で光秀が初登場したのです。
翌日、足利義昭を救うため、細川藤孝(幽斎)、三好義継、荒木村重らが駆け付け、三好三人衆らと合戦になりました。
この時、明智光秀は細川藤孝(幽斎)と別の宿であったことから、本國寺の変当時は、藤孝の家臣ではなかったことが確認できます。
4月より、明智光秀は京都奉行として政務に当たっています。
織田信長は能力至上主義として知られていますが、丹羽長秀、木下秀吉(豊臣秀吉)、中川重政といった信長譜代の家臣と並び、京都と周辺の政務に携わった光秀の昇進スピードは、異例といえる早さかもしれません。
明智光秀は、兵法や和歌など教養があり、朝廷関係者と交渉も行っていたと推測でき、京都奉行にうってつけの人物だったのではないかと思います。
《殿中御掟の5か条を突きつける》
一方、織田信長は本國寺の変の一報を聞いて、上洛し義昭の無事を確認します。
義昭は信長に感謝したそうですが、やがて二人は、衝突することになるのです。
永禄13年(1570年)、信長は義昭に殿中御掟の5か条を突きつけます。
それは、義昭が信長の操り人形のようになりかねない掟でした。
信長が光秀と朝山日乗(あさやまにちじょう)に宛てた掟ですが、義昭は余白に承諾の黒印を押して信長に返しました。
この掟は、光秀と朝山日乗が美濃で受け取り、京にいる義昭に届け、義昭の承認を得て信長に戻したものだそうです。
もしかしたら、既に義昭から光秀の心が離れていたのかもしれません。
金ヶ崎の戦いを経て宇佐山城主になった光秀
《金ヶ崎の戦い》
元亀元年(1570年6月1日)、織田信長は朝倉家を滅ぼそうと侵攻しますが、妹婿・浅井長政の裏切りに遭い、挟み撃ちにされる戦が起きました(金ヶ崎の戦い)。
織田軍は朝倉方の金ヶ崎を攻め落としますが、長政の裏切りにより、撤退を決めます。
信長は金ヶ崎の守りを木下秀吉(豊臣秀吉)に任せ、摂津守護・池田勝正、明智光秀が殿を務めて信長の退却を助けたと伝わります。
信長は越前敦賀の朽木を経由して京へ逃げ延びています。
その後、光秀は丹羽長秀と共に若狭へ行き、若狭武田氏の武将・武藤友益から人質を取ります。
しして武藤の城館を壊し、京へ帰りました。
もう既に織田信長だけの家臣かのようですが、義昭から山城国久世荘を与えられ、北山城の土豪の支配も任されていました。
義昭、信長から知行を受けていることから、両属は続いていることが確認できます。
《宇佐山城主になる》
浅井長政の裏切りは、織田信長にとって深刻な事態でした。
美濃の岐阜城から京へ行く際、浅井長政の動き次第で通路が遮断される恐れがあった為です。
そこで通路を確保するため、琵琶湖の南岸に信長の重臣置くことにしました。
近江の支配体制を強固にし、浅井・朝倉氏、六角氏の襲撃に備える意味もあったようです。
その一環で、森可成に宇佐山城を築かせ、可成の居城とします。
ですが、元亀元年(1570年)9月16日 に始まった宇佐山城の戦いで、可成が亡くなると、光秀に宇佐山城を任せることになりました。
京と近江の境に位置した宇佐山城は、京を抑える要の城と言え、光秀は信長から信頼を得ていたことになります。
比叡山延暦寺の焼き討ち後に坂本城築城
《光秀が比叡山延暦寺焼き討ちを実行》
元亀2年(1571年)、織田信長は比叡山延暦寺の焼き討ちを決行します。
中心実行部隊となったのは明智光秀です。
宇佐山城主として参戦し、仰来谷から比叡山山頂の延暦寺に侵攻します。
以前光秀は、残忍な行為であるため比叡山の焼き討ちに否定的だったと云われていましたが、和田氏に宛てた光秀書状が発見され、積極的に参戦していたことが明らかになりました。
延暦寺戦のことを記した書状で「是非ともなでぎり二」と強い戦闘意欲の伝わる光秀の言葉が見つかったのです。
比叡山延暦寺は、120000の織田軍に攻められ、僧侶、子供、女性を含めて1500~4000もの犠牲を出したと伝わります。
《織田信長に高く評価される光秀》
戦後処理は、明智光秀に任せて、周辺の近江国志賀郡(滋賀郡)を光秀に与えました。
そして、織田信長の命令で光秀は比叡山の麓に坂本城を築城し、元亀4年(1573年)に完成し比叡山の抑えとなりました。
琵琶湖に面するように築かれた坂本城は、やがて築城する信長の安土城と船で行き来できる、琵琶湖を利用した平城でした。
また光秀が任された志賀郡は、特異な国衆を統率する必要のある領土でした。
琵琶湖の水運・漁業を統轄していた猪飼昇貞(いかい のぶさだ)(猪飼野甚介)ら堅田衆、琵琶湖水軍を擁していた高島郡の林員清(かずきよ)などを従わせ統率する必要がありました。
織田信長は、光秀の政治能力を評価したから任せたと言えそうです。
京から近く、東海、東山道に行く際も交通の要となる場所であり、破格の待遇です。
織田家譜代の家臣で城主として城を任されても、周辺の土地の支配権は与えられていませんでした。
外様の光秀が「一国一城の主」第一号となったのです。
また志賀郡を与えられた際に、光秀は幕臣から織田家の家臣に編入された可能性があるようです。
義昭を見限った光秀
元亀2年(1571年)12月頃、光秀は義昭に暇乞いを願いでます。
光秀が曾我助乗に宛てた書状に、「先の見込みがないので暇をもらいたい。暇をもらえたら出家するので、取り成して欲しい」という趣旨のことが書かれています。
しかし、願いは認められなかったようです。
《将軍・義昭の逆意》
元亀4年(1573年)2月、足利義昭は御所の防備を厳重に強化しました。
また、近江志賀郡の今堅田、石山に砦を築かせ、反信長の意思を鮮明にしました。
明智光秀は、足利義昭を見限っていて、織田信長方として参戦しています。
実力があれば、破格の出世ができる織田信長の家臣に魅力を感じたとも云われています。
将軍家の側近だった細川藤孝(幽斎)も、信長に恭順の意を示し、信長の家臣として参加しています。
織田信長といえども、将軍は無下にできない存在。
人質の差出と和議を申し出ますが、義昭に拒否されたため、今堅田、石山砦を攻めることにしました。
《明智水軍の活躍》
信長は明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀、蜂屋頼隆に攻略を命じ、石山砦を攻めました。
義昭側の石山砦は、山岡光浄院を大将に伊賀衆、甲賀衆が在番していましたが、造り途中の砦でだったため、ひとたまりもありませんでした。
石山砦を取り壊すと光秀ら四将は、今堅田砦を攻撃し勝利します。
『兼見卿記』によると、明智勢も数名亡くなったものの、ことごとく明智が討ち取ったと、光秀の活躍があったことを伝えています。
この光秀の活躍には、光秀が統率していた琵琶湖の水軍も関係していました。
猪飼昇貞らと共に、甲板に弾や矢を除けられる盾のような物がついた戦艦で、鉄砲や大筒で攻め込んだと伝わっています。
その後信長は、再度義昭に再度和睦を申し出るため、光秀と藤孝(幽斎)を使者と送りますが、拒否されています。
そこで信長は、幕府を支持する人が多く住む上京の焼き討ちを決行しました。
その後、天皇の勅命により和睦しますが、義昭が反故にしてまた対立します。
ですが、義昭は信長に降伏し追放され、室町幕府は滅亡したのです。
また天正元年(1573年)9月、越前・朝倉義景は、信長に攻められ滅亡しますが、光秀は一乗谷を訪ね戦後処理をしたそうです。
光秀、惟任日向守になる
織田信長は、朝倉旧臣・前波長俊を越前の守護代に任じましたが、明智光秀、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、滝川一益が越前の占領行政を担いました。
ただ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、別の業務で忙しく、実質は明智光秀、滝川一益の二人で行っていて、二人の連署、三人の連署などで光秀の名前が残されています。
後に、越前の統治は、柴田勝家に任せられます。
天正3年(1575年)7月、信長は朝廷より官位をすすめられますが受けずに、家臣達に名字と官途を拝領しました。
光秀は惟任(これとう)の姓を賜り、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守になりました。
明智光秀が惟任と呼ばれることがあるのは、この為です。
丹波国攻略に苦戦する光秀
《主君・信長が敵だらけで光秀も戦漬け》
天正3年(1575年)5月、武田氏との戦である長篠の戦い、8月には越前一向一揆との戦いにも従軍しています。
10月には丹波国の平定戦を開始、攻略には約5年もかかりますが、光秀の生涯で代表的な戦です。
《光秀は文章が上手い》
天正4年(1576年)4月、光秀は細川藤孝(幽斎)、荒木村重と共に、石山本願寺攻めに従軍します(天王寺の戦い)。
この時、信長は伊勢の長島一揆攻めに参戦していたため、光秀に報告書を書かせています。
報告書を見た信長に「まるで目に見えるようだ」と言わしめる程に、詳細にわかりやすく書かれていたそうです。
明智光秀の優秀さが伝わります。
《光秀の過労》
天王寺合戦では、大和を統治していた塙直政(ばん なおまさ)(原田直政)を総大将とし、信長の大きな期待を背負い出陣しましたが討死しています。
原田直政の加勢は光秀らの役目でした。
直政を討ち取った一揆勢は、光秀が守る天王寺砦に攻め寄せ、光秀も危機的状況に陥りますが、信長が出馬し救援に駆け付け助かりました。
その後光秀は、過労なのか病に倒れ、心配した信長が使者を向かわせた程でした。
《正室が没す》
明智光秀は無事快癒しましたが、光秀の正室が病に倒れ11月に亡くなってしまいました。
この正室とは妻木煕子のことと見なされていますが、定かではありません。
《松永久秀とも戦う》
天正5年(1577年)、紀伊の雑賀、根来衆討伐にリーダーとして光秀も参戦。
指導者・鈴木孫一を降伏させています。
同年、松永久秀が信長を裏切り、戦になった時も従軍しました(信貴山城の戦い)。
光秀は松永久秀方の片岡城を攻めて、敵70人討ち取ったものの、明智勢も大損害だったと『多聞院日記』、『兼見卿記』は伝えています。
『信長公記』でも、光秀が高名をあげたと書いてあり、活躍したことが分かります。
信貴山城の戦いで、松永久秀は、信長が欲しがった茶器を抱いて、爆薬と共に亡くなったという話が残っています。
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《明智左馬助、細川忠興に娘が嫁ぐ》
松永久秀を滅ぼした同月に丹波攻めを再開し、丹波亀山城を拠点とし、丹波攻略に従事します。
丹波の赤鬼・赤井直正に手を焼いたり、光秀に従っていた八上城・波多野秀治の裏切りもあって難航しました。
天正6年(1578年)、毛利攻めの援軍、信長を裏切った荒木村重を攻めいも参戦します。
荒木村重の長男の正室は、光秀の娘・倫(りん)でしたが、信長を裏切り没落したことで離縁されたと云われています。
後に倫(りん)は、光秀の重臣・明智左馬助(秀満)と再婚しています。
また、光秀の娘・明智玉子(細川ガラシャ)と細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興が信長のすすめにより結婚しました。
天正7年(1579年)、光秀はついに丹波国を平定し、その後、細川藤孝(幽斎)と共に丹後国も平定しました。
丹波を平定し大出世
丹波平定の偉業が認められた光秀は、丹波を含めて合計34万石の大名に出世します。
謀反人として、あまり良くないイメージのある光秀ですが、丹波の地で善政を敷き、現在でも大変慕われています。
黒井城には光秀の重臣・斎藤利三、福智山城には明智左馬助(秀満)を入れました。
《光秀の与力大名》
丹波平定後、細川藤孝(幽斎)、筒井順慶らが光秀の与力(寄騎)になります。
織田信長の家臣でありながら、軍事行動の際は、光秀が指揮をする立場になったのです。
細川藤孝(幽斎)、筒井順慶が与力であったこともあり、光秀は本能寺の変後、従うことを期待していたようですが、味方してもらえませんでした。
《信長に絶賛される光秀》
丹波国攻略は、信長を大いに喜ばせたことがわかる信長書状があります。
信長の家臣の佐久間信盛父子に宛てた書状で、信盛らの怠慢を責め追放した時のものです。
信長は書状の中で明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興の働きを誉めています。
まず最初にでてくる名前が光秀で、丹波での光秀の働きは「天下の面目をほどこし候」と称えられています。
この時点で信長は、光秀を織田家の働き頭として考えていたようです。
また天正9年(1581年)、信長は天皇を招待し、京都御馬揃えを行いました。
信長の力を周辺大名に見せつけた軍事パレードですが、光秀は運営責任者を務めています。
「明智光秀家中軍法」から見る光秀
天正9年6月2日(1581年7月2日)、光秀は「明智光秀家中軍法」を発布します。
軍法の後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召し出し、その上莫大な人数を預けられた」と信長への感謝の気持ちを書いています。
そして「一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と続けているのです。
本能寺の変が起きるピッタリ1年前に書かれたもので、こんなに感謝しながら、何故本能寺の変を起こしたのだろうかと疑問を持たれています。
ただ、光秀らしからぬ文章であるため、本物だろうかと疑問視する声もあります。
また、翌年の天正10年(1582年)1月、『宗及他会記』によると、光秀が茶会で「床の間に信長直筆の書を掛ける」と書いてあるそうです。
茶室の床の間は貴人の座であり、光秀が信長を尊敬しいているという意味のようです。
何故、わずか5ヶ月後に本能寺の変を起こしたのでしょうか。
没落した土岐頼芸を発見
3月の武田家滅亡させる戦にも光秀は従軍しましたが、主力部隊ではなく光秀の出番はあまり無かったようです。
この時、武田家で保護されていた土岐頼芸が見つかっています。
土岐頼芸は美濃の守護を務めた人物で、土岐源氏の棟梁でもありました。
光秀が土岐源氏の出自で、斎藤道三に仕えた話が本当ならば、土岐頼芸と同族であり、守護として敬っていたかもしれません。
光秀の元主君・斎藤道三に蹴落とされた、土岐頼芸の哀れな末路をどう思ったのでしょうか。
家康の接待役を解かれ秀吉の援軍に
天正10年(1582年)5月、徳川家康が旧武田領・駿河を拝領したお礼に信長の元へ訪れます。
信長にとって一大イベントだったようで、安土城でご馳走を用意し、接待役に光秀を任命しています。
その後、接待役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の毛利攻めの援軍を命じられたのは事実のようです。
この時、腐っている魚(料理)を出し、因縁をつけられたという説があります。
その上、ライバルの秀吉の援軍に行くよう命じられ、本能寺の変の動機が怨恨であるとも云われますが、料理の件は後の世の作り話の可能性もあります。
今こそ土岐氏の天下だ!?
光秀は坂本城に戻った後に26日に出発し、丹波にある光秀の城・亀山城に入りました。
光秀は27日に愛宕山に登って一泊し、思うことがあったのか神社でおみくじを2~3回引いたと云われています。
そして、28日に「愛宕百韻」という連歌会を催します。
光秀は「ときは今 天(あめ)が下知る(したしる) 五月哉」という句を詠みました。
「下知る」を「下治る」と解釈し、「今こそ、土岐氏の人間である私が天下を治める時である」という意味だという説があります。
光秀が謀反をほのめかしたという説ですが、賛否両論ありますし、日付についても諸説あります。
土岐源氏の記事の下に、連歌会での句の解釈を詳しく書いています。
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明智光秀と土岐氏~「ときは今~」の連歌に込められた想いとは~
6月1日夜、重臣達に謀反を相談したそうです。
『信長公記』によると明智左馬助(秀満)、斎藤利三、藤田伝五、明智光忠に打ち明けたと伝わります。
明智軍、本能寺を襲撃
天正10年(1582年)6月2日早朝、明智約13000の軍勢は、本能寺を取り囲みます。
信長を討つとは最期まで知らされておらず、徳川家康を討つと思っていた家臣も多くいたようです。
光秀の謀反を知った信長は、「是非に及ばず」と一言いい、100人足らずの近習と共に防戦します。
しかし、信長は負傷し、女性たちを逃がすと燃え盛る火の中、自害しました。
信長の亡骸は現在も行方はわかりません。
信長の嫡男・織田信忠は、妙覚寺から防御の固い二条御所に移り、明智軍を迎え撃ちます。
斎藤道三の末っ子と伝わる斎藤利治は、織田家で寵愛を受け、信忠の側近でした。
斎藤利治の奮戦は見事だったようですが、信忠と共に亡くなりました。
細川藤孝と筒井順慶にそっぽを向かれる
信長父子を討ち取ったところまでは順調だった光秀。
光秀は安土城い行こうとしますが、山岡景隆に橋を焼かれた為入れず、仮橋ができるまで坂本城に入りました。
光秀が坂本にいた時に、イエズス会の宣教師に会い、キリシタン大名・高山右近に光秀の味方に付くよう書状を書かせています。
宣教師は日本語では光秀の言う通りに書き、ポルトガル語では全く逆のことを書いた書状を用意しました。
高山右近を光秀側に引き寄せることは出来ませんでした。
光秀は修築した橋を渡り安土城に入ると、信長の財宝を光秀の家臣らに与えました。
一方、光秀の娘を娶っていた、信長の甥・津田信澄は、光秀に加担したと疑われ、無実でありながら亡き者にされました。
光秀が最も頼みにしたと見られるのは、盟友・細川藤孝(幽斎)とその嫡男で娘婿・忠興です。
しかし、光秀の再三の要請に応じず、信長の喪に服すとして父子で出家します。
そして、光秀の娘で忠興の正室・玉子(細川ガラシャ)を幽閉し、態度を鮮明にします。
細川藤孝(幽斎)は以前の光秀の主君であったため、光秀の配下になることを嫌がったとも云われますが、定かではありません。
細川父子を味方につけられなかったことは、光秀の大きな誤算だったと云われています。
光秀がもう一人、頼みとしたのは、大和の筒井順慶。
光秀の与力大名で、信長に主従する際に取り次いだり、筒井順慶が大和を拝領するのに光秀が尽力したと云われており、順慶にとって光秀は恩人です。
筒井順慶はハッキリしない態度でしたが、最終的には羽柴秀吉側につきました。
山崎の戦いに敗北し最期の時
光秀は兵を集められず、体制を整えられないうちに、羽柴秀吉が中国地方から猛スピードで京まで帰ってきました(中国大返し)。
誤算続きの光秀は、天王山の麓の山崎で、羽柴秀吉を迎え撃つことになりました。
山崎の戦い(天王山の戦い)の兵数は、諸説ありますが、秀吉方が光秀の二倍位だったようです。
羽柴秀吉方は、信長の弔い合戦として士気が高く、光秀軍は寄せ集めの軍であったと云われています。
以外とアッサリ決したという山崎の戦いについては、別で書いています↓。
敗北した光秀は、勝龍寺城に退いたものの、明智軍を離反する兵が後を絶たなかったそうです。
光秀は勝龍寺城を抜け出し坂本城を目指しますが、途中、落ち武者狩りに遭い亡くなったとする説が通説です。
竹やりにて重症を負い、溝尾茂朝の介錯で自害しました。
また、光秀が命を落としたと伝わる小栗栖では、地元の土豪によって命を絶たれた旨の伝承があります。
個人的には、武装農民の落ち武者狩りより、小栗栖の伝承の方が信憑性があるように感じています。
その後、光秀の重臣・明智左馬之、溝尾茂朝、明智光忠は自害し、斎藤利三は磔にされました。
光秀と利三の亡骸は、京都の本能寺、その後に粟田口で晒されたと云われます。
光秀の生存説
負け組の戦国武将によくある話ですが、実は実は生き延びていたとの説があります。
一番有名なのは、徳川家康の参謀・天海になったという異説だと思います。
その天海の異説に絡んで、「かごめかごめ」の動揺は、明智光秀の生存説を暗示しているとも云われています。
その他、荒深小五郎、進士藤延として生きたとする説もあります。
別で記事にしてますので、気になる方はご覧くださいね。
コメント
コメント一覧 (12件)
[…] 明智光秀のお墓は複数ありますが、その内の一つは、「岐阜県山県市中洞」にあります。 […]
[…] 明智光秀の母の名前は、「牧」であるとの説があり、お牧の方、於牧の方と呼ばれています。 […]
[…] その上、明智光秀が亡くなったのは天正10年(1582年)ですので、亡くなって100年以上も経ってできたものです。 […]
[…] 信長に仕える前の明智光秀は、越前・朝倉義景の家臣だったという説があり、元家臣説を前提としています。 […]
[…] そして羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、山崎の戦いに勝利し、明智光秀を自害に追い込むと、主君・信長の仇を討ったとして、信長家臣団での立場が上昇します。 […]
[…] 明智光秀(演:長谷川博己)(敬称略) […]
[…] その後、明智光秀を討ち果たす山崎の戦いなど、戦に従軍して秀吉の勝利に貢献しています。 […]
[…] 天正10年(1582年)、明智光秀の謀反により織田信長が斃れると、黒田長政は官兵衛と共に秀吉に仕えます。 […]
[…] 明智光秀は、本能寺の変にて織田信長を討ち果たした後、十数日後に豊臣秀吉との戦に敗れ、落命したというのが通説です。 […]
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[…] 永禄6年(1563年)、明智玉子(後の細川ガラシャ)は、明智光秀の三女(次女とも)として生を受けました。 […]
[…] 明智光秀の前半生は謎だらけで諸説あるものの、享禄元年3月10日(1528年3月30日)に生まれたとする説があります。 […]