松永久秀は織田信長を裏切り茶釜と共に焼滅した!? 

松永久秀は梟雄として知られていました。

ですが、近年の研究では、主君・三好長慶を天下人に押し上げた功労者であるとする説があります。

また、織田信長に恭順と裏切りを繰り返した末に、茶釜を抱いて焼滅した逸話も有名です。

茶人としても優れていた松永久とはどのような人物か、生涯を書いています。

目次

松永久秀の俗説を簡単に

まず、松永久秀は、どのような人物として、長年伝わっていたか簡単に書きます。

松永久秀は、一般にはそこまで有名な人物ではないかもしれませんが、戦国時代が好きな人なら殆どが知っているであろう人物です。

松永久秀には、「三大梟雄」、「下剋上の代名詞」などと評されますが、あまりに強烈なインパクトがり、歴史好きには忘れがたい人物だと思います。

松永久秀

松永久秀 出典元:Wikipedia

また、織田信長を裏切ったことから、信長の家臣というイメージが強いですが、長らくは三好家の家臣でした。

三好長慶の右筆から始まりますが、やがて三好家を取り仕切る立場になり、足利将軍からも一目置かれる存在になります。

松永久秀の出世の一方、三好一族は、久秀にとってタイミング良く、次々に亡くなります。

そのため秀久が関与している噂がながれ、「骨の髄まで険悪卑劣」と評されたほどです。

その後も、将軍・足利義輝を滅ぼした、東大寺の大仏を焼き払ったなど悪行を行ったと伝わっています。

後に、織田信長の家臣になりますが、恭順と裏切りを繰り返します。

信長は名物の茶器と引き換えに裏切りを許そうとしますが、茶器を渡したくない久秀は、茶器に爆薬を詰め、茶器を抱いて亡くなったそうです。

このように長年ヒールとして語られた松永久秀ですが、実際はどうだったのでしょうか、詳しく書きます。

低い身分から抜擢された松永久秀

松永久秀の生年は、永正5年(1508年)生まれと云われています。

出身地は複数の説がありますが、摂津の土豪説が有力のようです。

その他、山城国西岡(京都)、又は阿波(徳島県)で生まれたとも、商人の出であったとする説もあります。

 

松永久秀は、天文2年(1533年)か翌年頃に、阿波の出身の三好長慶(みよし ながよし)の右筆として仕えたと云われています。

松永久秀が仕え始めた頃の三好長慶は、室町幕府の重臣・細川晴元の家臣でした。

三好長慶の肖像画

三好長慶 出典元:Wikipedia

天文9年(1540年)の書状から久秀は、弾正(だんじょう)という警察のような役目をする役職を名乗り、長慶の奉行職に就いていたと見なされています。

当時としては珍しく、低い身分から三好長慶の側近に抜擢されたのです。

また、松永久秀は、官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)という名でも知られています。

久秀 足利義輝や細川晴元と争う

松永久秀は、従来の荒々しいイメージとは違い、実際は官僚として活躍したようです。

その後、天文11年(1542年)には指揮官として三好軍を率いた記録があり、武将としても力を発揮していくことになります。

天文18年(1549年)、久秀の主君・三好長慶は、将軍を操り実権を握っていた細川晴元との戦を制します。

細川晴元は、将軍・足利義輝父子を連れて近江に避難し、勝利した三好長慶は、細川氏綱を新たな主君とし、入京して事実上、京を掌握しました。

そして和泉国、摂津国を平定した三好長慶は、天文19年(1550年)畿内に三好政権を樹立し、中央政権の実権を握ったのです。

 

三好政権の実力者になった松永久秀は、三好家と公家、寺院の間に入り、交渉する役目を担います。

そして久秀は、三好家の家宰(かそう)にまで出世し、弾正忠に任官します。

 

三好長慶と松永久秀は、実権を取り戻そうとした細川晴元や足利義輝、呼応した敵との激しい戦いが続きましたが、天文21年(1552年)に和解することになりました。

和解により、将軍は足利義輝、幕府の管領(ナンバーツー)は細川氏綱、でも事実上の支配者は三好長慶という図式になったのです。

 

その後も細川晴元や足利義輝は、三好長慶を排除する動きを見せ、松永久秀が軍勢を率いて討伐するなど再び争うようになります。

戦に敗れた足利義輝は、近江の朽木に5年間幽居し、またもや京の事実上の支配者は三好長慶になりました。

また、松永久秀が六角氏の家臣に送った書状には、足利義輝は細川晴元と手を組み、悪巧みをして三好長慶との約束を破っているから京を追われても仕方ないという趣旨を書き残しています。

久秀 三好長慶を天下人に押し上げる

三好長慶は、織田信長より前に天下を治めたと云われる位に出世したのです。

長らく極悪人と云われた久秀ですが、三好長慶を天下人に押し上げた功労者こそ、久秀だったという近年の研究があります。

功労者の松永久秀は、天文22年(1553年)か弘治2年(1556年)頃、摂津の滝山城を拝領し、幕政にまで関与するまでになっていきます。

弘治2年(1556年)7月には、滝山城に三好長慶が御成りし、久秀のもてなしを受けたそうですが、長慶が久秀を信頼していた傍証になります。

大和の筒井順慶とライバルになる

永禄2年(1559年)、三好長慶の命を受けた久秀は、大和に侵攻します。

室町時代の大和は、興福寺や東大寺といった宗教勢力が力を持ち、治めるのが難しい国といわれていました。

その為、大和に守護所は置かず、興福寺が事実上の守護の役目をしていました。

やがて大和の国衆が力を持ち始め、その中でも筒井順昭は飛びぬけた存在になっていきます。

しかし、筒井順昭は病でこの世を去り、2歳の筒井順慶が家督を継ぐと、筒井家の力は衰退します。

三好長慶は、この好機を見逃さなかったのです。

こうして、筒井順慶の拠点・筒井城を落とした松永久秀は、翌年に興福寺を破り、大和一国を統一しました。

筒井城跡

筒井城跡

松永久秀は、興福寺の守護の役目と筒井順慶の領土を奪い取り、三好長慶から大和を任されることになります。

久秀の拠点・多聞山城の築城

松永久秀は、興福寺や東大寺を眼下に見る目と鼻の先に多聞山城を築城し、大和支配の拠点としました。

多聞山城跡から見た東大寺

多聞山城跡から見た東大寺

ルイスフロイスによると、「見たことがないほど白く輝く城」だったそうです。

東大寺や興福寺を圧倒する程、豪華な多聞山城を大和の民衆に見せることで、松永久秀が統治する時代がきたのだと認めさせたのではないかと云われています。

足利義輝の御供衆に任命される久秀

永禄3年(1560年)11月に久秀は、大和国の信貴山城(しぎさんじょう)城主になり、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任官します。

また、この頃、三好長慶の嫡男・三好義興と共に将軍・足利義輝の御供衆に任命されます。

御供衆とは、将軍の身近にいる名誉ある職ですが、久秀は三好家の家臣である一方、足利義輝の側近としても活躍する複雑な立場になったようです。

三好長慶と足利義輝、両者の間を取り持つ役目もしています。

永禄4年(1561年)2月4日に従四位下に昇叙され、三好家の有力武将の地位を確立します。

また、幕府からは三好長慶と同等の処遇を受けていることから、主君・三好長慶にも匹敵する力があったようです。

松永久秀の三好家における立場は、大和一国を任されるなど、三好長慶の嫡男・義興とほぼ同等という非常に高いものでした。

三好家家臣でここまで出世した人物は、松永久秀のみだったようです。

三好家の不幸は久秀の仕業!?

松永秀久の勢力が拡大する一方、栄華を誇った三好家は、次第に衰退していきます。

松永秀久の出世に伴い、三好一族に次々と不幸が重なったのです。

永禄4年(1561年)、三好長慶の弟・十河一存(そごう かずまさ /かずなが)は、病気か落馬で命を落とします。

永禄5年(1562年)、三好長慶の弟・三好実休(じっきゅう)は、で亡くなります。

永禄6年(1563年)、嫡男・三好義興(よしおき)は、病気で22歳の若さで亡くなります。

永禄7年(1564年)5月9日、三好長慶の弟・安宅冬康(あたぎ ふゆやす)は、三好長慶によって自害させます。

安宅冬康に逆心があったためとも、松永久秀が裏で糸を引いているとも云われますが、定かではありません。

永禄7年(1564年)7月4日、ついに三好長慶も病で亡くなってしまいます。

身近な人物が相次いで亡くなり、心身に異常をきたしたとも、久秀の讒言を信じ安宅 冬康を自害させたことを後悔したとも云われたいますが、こちらも確証はありません。

当時、三好長慶から松永久秀を通して、三好家の領土の施策を行っていたため、自然と秀久の勢力が台頭します。

このあまりにも出来すぎた出来事に、当時から秀久の関与が疑われていたようです。

織田信長も疑っていたようで、「主家乗っ取り」と評したと云われています。

このように松永久秀は三好家のを追い落し、下克上で成り上がったイメージがありましたが、実は信頼のできる史料では、三好長慶を追い抜こうとした形跡はないそうです。

現在では松永久秀悪人説は、江戸時代に創作されたと見なされています。

異例のスピードで出世したことから後世、そのように感じたのかもしれません。

 

三好家は、長慶の甥・三好義継が若年で当主になります。

三好義継の後見役、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の支持を得てのことでした。

当時の三好家の重臣は、三好三人衆と松永久秀ですので、権力地盤の弱い当主・義継に代わり事実上、三好三人衆と松永久秀が三好家を治めることになったのです。

久秀は三好将軍誕生を願った!?

永禄8年(1565年)5月19日、松永久秀の嫡男・久通と三好義継、三好三人衆が、将軍・足利義輝を滅ぼす事件が起きます(永禄の変)。

足利義輝の肖像画

足利義輝 出典元:Wikipedia

将軍を亡き者にした事件は、秀久の悪行の一つと云われていますが、直接的な関与は認められていません。

足利義輝を襲撃したのは、久秀の主君・三好義継、久秀の嫡男・松永久通、三好三人衆です。

松永久秀がどの程度関与していたのか不明ですが、義輝の弟で、後に将軍になる足利義昭を保護したことから、将軍を亡き者にすることは望んでいなかったかもしれません。

ですが、足利義輝が亡くなり、操り人形として将軍に据えるため、足利義昭を保護したのではないかという意見もあります。

また、将軍の座が空席になり、主君・三好義継を将軍に据えようとしたとも云われています。

三好義継の母は、九条家の出身で、将軍になり得る血筋であったそうです。

しかし足利義輝を討ったのは三好義継。

将軍家を慕う大名から三好義継は敵視され、打開策として足利義昭を味方につけたという説もあります。

そして、次なる策として、足利家に伝わる「御小袖」を三好家が譲り受けたのです。

「御小袖」とは、室町幕府を開いた足利尊氏の着ていた鎧です。

将軍の象徴を得て、天皇や朝廷と交渉することで、三好将軍誕生を狙ったのではないかと云われています。

松永久秀の弟・松永長瀬

永禄8年(1565年)、久秀はキリシタン宣教師を追放し、同年8月、松永久秀の・松永長瀬がで亡くなりました。

松永久秀は弟の七光りで出世したという説がある程、優秀で三好家からも信頼されていた人物だそうです。

三好三人衆と対立し苦戦する久秀

同年の11月、畿内の覇権を巡り、松永久秀と三好家の重臣・三好三人衆は対立していくことになります。

三好三人衆は、松永久秀の台頭を快く思っていなかったと云われていて、三人衆が主君・三好義継を担いだ為、義継とも対立することになってしまいます。

 

永禄9年(1566年)、阿波の三好康長ら三好家一門衆も、三好三人衆側につきます。

その上、三好三人衆が担いだ足利義栄(あしかが よしひで)から、久秀討伐令を出され苦境に陥ります。

三好三人衆らは、操り人形になりそうな足利義栄を、次期将軍候補に擁立し、秀久を排除する動きに出たのです。

松永久秀は、安見宗房、畠山高政、根来衆と手を組みますが劣勢でした。

更に三好三人衆は、久秀のライバル、大和の筒井順慶を味方につけ、堺近郊で戦い久秀を多聞山城に退却させます。

筒井順慶の肖像画

筒井順慶 出典元:Wikipedia

その後、久秀は堺から逃れ、数ヶ月間行方が分かりませんでした。

この時の出来事として、「クリスマス休戦」という有名なエピソードが伝わっています。

クリスマス休戦とは!?

永禄8年(1565年)か翌年頃の話、先に述べたように永松久秀と三好三人衆らが戦をしていました。

しかし、クリスマスを理由に休戦したとする話が伝わっています。

劣勢に立たされた久秀は、追い詰められて、なんとか体制を立て直す時間を稼ごうとしたそうです。

絶大な経済力を持つ堺の豪商を呼び、堺で戦が長引くことを望まない商人と久秀は作戦を考えます。

それは、クリスマスを理由に休戦を持ちかけるというものでした。

松永久秀は仏教徒ですが、致し方無く作戦を実行します。

三好三人衆側にキリシタンが複数いたことや、強い権益を持つ堺の豪商が動いたことで、休戦は受け入れられたと云います。

クリスマス休戦当時は、両軍のキリシタンが集会場に集まられ、ミサ、聖体拝領、告白などを行ったそうです。

これにより、秀久は敗走し、一旦行方をくらましたと云います。

このクリスマス休戦は、広く知られた話ではありますが、史実であることは確認されていないそうです。

クリスマス休戦の元となった話は、宣教師・ルイスフロイスが記した『日本史』だとされています。

『日本史』に書かれていることは、両軍のキリシタン70名程がミサに行き、パーティーを開いたことが書かれているだけだそうです。

その上、久秀はクリスマス休戦当時、既に堺から逃亡し、どこかに潜伏中のようで、史実とは言えなそうです。

東大寺大仏殿の戦い

永禄10年(1567年)、当主・三好義継が久秀を頼ったことから、秀久は盛り返します。

同年、松永久秀と三好義継は、三好三人衆や筒井順慶と半年間にわたり戦になります。

三好三人衆は、松永久秀の居城・多聞山城を攻撃し、大和の東大寺は三好三人衆に味方しました。

これは、三好三人衆側の筒井氏が興福寺に属する宗徒であったこと、一方の久秀には不満があったことが理由のようです。

その為、三好軍は東大寺の境内に匿われ、筒井順慶は後方に布陣します。

東大寺で激しい攻防が行われ、東大寺大仏殿が焼失してしまいました。

東大寺の大仏殿

現在の東大寺大仏殿

東大寺大仏殿の戦いにより、大仏の首が落ちてしまい、秀久の悪行として語られることになります。

松永久秀が放火したとも、はからずも火事になってしまったとも、三好方のキリシタンが放火したとも云われています。

久秀からすれば、敵に味方したため、東大寺を攻めたのであって、大仏を焼き払う意図は無かったのではないかと思われます。

いずれにせよ、東大寺大仏殿の戦いでは、松永久秀らが三好三人衆を破り、後方にいた筒井順慶を敗走させています。

東大寺盧舎那仏像

現在の東大寺盧舎那仏像

織田信長の上洛に協力する

松永久秀は三好義継と行動を共にしているものの、味方につけた勢力は三好三人衆の方が多く、久秀は劣勢に立たされていました。

そこで勢いのあった織田信長の協力を得ることを考え、三好義継と共に信長の上洛に協力します。

かつて、久秀が味方につけた足利義昭を奉じて信長が上洛するにあたり、義昭の上洛を阻む敵・三好勢と戦うことになります。

足利義昭が上洛すれば、三好義継を将軍に就ける夢は潰えますが、このままでは義継と久秀の命も危うい状態でした。

苦渋の決断だったのかもしれません。

そして、信長の上洛に反発した三好三人衆は次々と敗退し、三人衆の勢力は衰えていきます。

松永久秀は、三好義継の命を守り抜いたのです。

織田信長に九十九髪茄子を献上する

松永久秀は、三好義継と共に足利義昭の幕臣になりました。

三好義継の家臣である久秀は、足利義昭の家臣でもあるという複雑な立場だったのです。

一方、織田信長とは同盟のような関係でしたが、秀久も三好義継も事実上、信長の家臣のようになっていきます。

松永久秀は、信長に「九十九髪茄子」(つくもかみなす)(付藻茄子)という貴重な茶器と人質を差し出します。

当時、勢いのあった久秀ですが、優れた洞察力があったと云われていて、適わない相手と見ると早々に降伏しています。

因みに当時は、高級な茶器は城一つの価値があるとも云われた時代です。

松永久秀は、将軍家の茶器だった「九十九髪茄子」(付藻茄子)を手に入れ、信長に献上したのです。

久秀は、大和一国切り取り次第の許しと、織田信長の援軍も得て、大和の平定を進めます。

こうして、大和の支配を失っていた久秀ですが、信長のお蔭で返り咲くことになります。

金ヶ崎の戦いで信長の窮地を救う

松永久秀は、織田信長の戦にも参じています。

松永久秀の絵

松永久秀 出典元:Wikipedia

金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)では、信長の同盟相手・浅井長政の裏切りに遭い、絶体絶命となった信長を助けます。

久秀は外交手段を通じて、信長の退却路を確保し、信長の窮地を救ったのです。

この様に、信長の要請に応じて派兵していますが、松永久秀は筒井順慶との戦も続いていました。

松永久秀は、筒井順慶に大軍を差し向けることができず、松永方の十市城は落とされ、窪之庄城(くぼのしょうじょう)は奪還されました。

信長の要請に応じる為、自身の戦に十分な兵を割けない、こうしたことも、やがて起きる謀反の一因かもしれません。

信長に反旗を翻す久秀

その後も信長の家臣として戦に従軍しますが、次第に信長包囲を形成している足利義昭に通じます。

※形式上は、足利義昭の家臣なので裏切りでないとする説もあります。

比叡山延暦寺を焼き討ちにしたことで、三好義継が打倒信長を決意した為とも云われています。

また、信長包囲網の一角を担う甲斐の武田信玄が、上洛の動きを見せたので、武田信玄に期待していたとも云われています。

元亀3年(1572年)、久秀は信長に敵意を現し、三好義継だけでなく、敵対していた三好三人衆らとも組んで信長に対抗します。

しかし、頼りの武田信玄は病で没し、足利義昭は戦に敗れ追放、三好義継も戦に敗れ自害してしまいました。

「信玄上洛間近」という知らせを受け強気になったと思われる秀久ですが、当てが外れて信長に降伏し、三好三人衆も信長に敗れます。

久秀 佐久間信盛の与力になる

裏切りに厳しい信長ですが、久秀は多聞山城一つと引き換えに許されていてます。

和議を結んだ久秀ですが、信長は事前に多聞山城と引き換えに許すよう佐久間信盛に伝えていたそうです。

佐久間信盛は、かつて久秀が信長に主従する際に、仲介役になった人物です。

多聞城山(多聞城)の碑石

多聞城跡

許された理由は、信長が多聞山城の宝物や御殿などを惜しんだ為とも云われています。

主君・三好義継を失った久秀ですが、三好家再興を願い、信長に服従して様子を見ていたとする見解もあります。

そして久秀は、佐久間信盛の与力として、石山合戦に従軍します。

謙信や本願寺に呼応する久秀

やがて、久秀は信長に違和感を募らせ、再び反旗を翻すことになります。

織田信長に仕えた久秀のライバル筒井順慶が、大和の守護に任命されたことも、久秀を追い詰めた一因であると考えられます。

また、久秀が心血を注ぎ築城した多聞山城を筒井順慶が取り壊したことも、耐えがたい出来事であったと見られます。

こうして、第二次信長包囲が形成されると、松永久秀は、上杉謙信、石山本願寺、毛利輝元などと呼応し信長に敵意を表します。

この時も信長は、異例とも言える寛大な処置を久秀に下そうとします。

『信長公記』によると、信長は久秀に何故裏切ったのか問い質すため、松井友閑(ゆうかん)を送ります。

裏切りに厳しい性分の信長ですが、久秀には寛大でした。

それだけ、久秀が優秀で使い道があると思っていたのかもしれません。

ですが、久秀は突っぱねて、徹底抗戦の構えを見せたことで、信長を激怒させたのです。

その頃、信長の主力部隊は、上杉謙信との戦で大敗を喫し(手取川の戦い)、謙信は信長を討つため、上洛をするのではないかという状況でした。

手取川の戦いを詠った落首

手取川の戦いを詠った落首(上杉軍の大勝)

久秀と信貴山城の戦い

そのような中、松永久秀は信貴山城(しぎざんじょう)に籠り、信長と交戦したのです。

しかし、何故か上杉軍の進軍は止まり、久秀は窮地に追い込まれていきます。

織田信長は、上杉軍が動かなかったことで、織田信忠を総大将とする4万の大軍を久秀のいる信貴山城に差し向けます。

上杉謙信との戦には、明智光秀は参戦しておらず、光秀が久秀討伐の先陣を切ったと云われています。

織田軍といえども、名城と名高い信貴山城を落とすのは容易ではなく、久秀方の必死の抵抗に遭います。

しかし、多勢に無勢であり、石山本願寺の顕如に援軍を要請しようと考えた久秀は、森好久を使者に選びます。

送り出された森好久は、久秀を裏切り、元の主である筒井順慶の家臣の元へ行きます。

森好久は、筒井家の鉄砲衆200人を引き連れて、信貴山城に戻ると、石山本願寺から更に援軍がくると嘘をつきます。

その後、前線で攻撃してくる筒井順慶を、松永久秀は追い返すなど奮戦します。

ですが、松永久秀が援軍だと思っていた筒井家の鉄砲衆の反乱により、松永軍は統率がとれなくなります。

こうして、火の手が上がった信貴山城は落城し、松永久秀は、嫡男・久通と共に燃え盛る炎の中、焼滅します。

享年68歳、又は70歳。

松永久秀の茶釜「平蜘蛛釜」の行方

話は前後しますが、松永久秀は、茶人としても有名で、名物茶器を所有していたことでも知られています。

かつて、信長に「九十九髪茄子」を進呈して以来、久秀が所有する「古天明平蜘蛛」(こてんみょうひらぐも)という茶釜を何度も所望されたと云われています。

古天明平蜘蛛は、「平蜘蛛釜」(ひらぐもがま)という名前が付いていおり、貴重な茶釜です。

信貴山城の戦いの時、信長の家臣・佐久間信盛は、「平蜘蛛釜」を城外へ出すよう促したと伝わります。

しかし久秀は、「平蜘蛛釜」を信長に渡したくないため、叩き割って炎の中、自害したと云われています。

画像松永久秀の墓

松永久秀の墓

『川角太閤記』によると、平蜘蛛の茶釜と我らの首は、信長に見せたくないので、爆薬で粉々にすると言った旨書かれているそうです。

松永久秀といえば、茶器と共に爆死したとする豪快な最期が有名です。

これは久秀が「平蜘蛛釜」を壊した逸話と、鉄砲の火薬に火をつけて城を焼いて自害した話が混ざってできた創作のようです。

実は、「平蜘蛛釜」が本当に消滅したかも不明で、破片を集めて修復したとも、城跡から出土した為、信長の手に渡ったとも云われていまsy。

また、信長は、この期におよんで「平蜘蛛釜」と引き換えに、久秀を助けようとしたとする逸話もありますが、真偽は不明です。

裏切に厳しく冷徹非道な仕打ちをするイメージのある信長ですが、裏切りの理由を問う使者を送ったことは事実と見られています。

信長の久秀に対する甘さから考えることは、久秀のことを評価していたのとだろうと思います。

茶人・松永久秀

久秀は武将ですが、茶人としての位置づけも高く、連歌にも秀で、深い教養が身についていたそうです。

また、茶の湯を通した交流も広く、信長が久秀に一目置く所以だったのではないかと思います。

多聞山城を居城とした頃の久秀は、城内にあった茶室で茶会を開いたそうです。

茶会は誰でも開けるものではなく、相当な文化人しか開けなかったそうです。

その上、招いた相手は千利休だとされています。

また、信長から茶会に招かれたこともあり、茶の湯を嗜む同士だったと見なされています。

 

織田信長は松永久秀のことを「天下に名を轟かす三つの悪行」をしたと言ったという逸話が残されています。

この三つは、簡単に紹介しましたが、三好家乗っ取り、将軍を亡き者にした、大仏を焼き払ったことです。

創作と見なされていますが、詳しくは別の記事に書いていますので、興味ある方はご覧ください。

松永久秀の三悪とは何か悪行について解説します

松永久秀は忠義の人!?

こうして詳しくみてみると、久秀が骨の髄まで悪人とは、言えない気がしてきますね。

また、久秀が仕えた三好家当主・三好義継は、久秀の忠誠心を称賛する書状を残しています。

それ故、三好三人衆方を出奔し、秀久を頼った旨を書いているのです。

久秀は三好三人衆方とは対立したものの、歴代の三好家当主には忠実だったそうです。

何故悪いイメージが付いたのかは、後の世の創作された逸話などが元であると考えられるようです。

また、大和の興福寺の僧侶の日記『多聞院日記』という史料では、久秀は極悪人として記録されています。

久秀は大和の寺社勢力と対立していましたので、そのように思えたのかもしれません。

 

忠義を重んじた江戸時代、久秀のような成り上がり者は、脅威と見なされていたそうです。

徳川の世を長く続かせるため、久秀のような成り上がり者=悪として描かれた可能性も考えられます。

松永久秀の肖像画

2020年3月4日のニュースで、松永久秀の肖像画が見つかったというニュースがありました。

前歯が出た特徴が描かれた肖像画です。

今までの久秀の肖像画とは違い、荒々しさはなく、悪そうな顔つきもしていません。

正装した格好で座っていて、いい人そうな表情に見え、悪人の面影は感じません。

久秀の膝元には、茶道具をしまう袋が描かれています。

久秀の茶器といえば、「九十九髪茄子(付藻茄子)」や「平蜘蛛」の釜が有名ですが、そのどちらかが入っている袋が、描かれているいるのではないかと推察しているそうです。

肖像画の原本は、16世紀後半描かれ、18世紀後半頃に模写されたものではないかと、筆や紙から推定できるようです。

美化されておらず、久秀本人に似せて描いた可能性が高いと見なされているとニュースにはありました。

この肖像画は、久秀の研究を進める上で貴重な物になりそうですね。

参考・引用・出典一覧

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