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松永久秀は織田信長を裏切り茶器と共に亡くなった!? 

2020 3/08

松永久秀といえば、「三大梟雄」、「下剋上の代名詞」というイメージで知られています。

また、織田信長を二度も裏切った豪の者、にも関わらず裏切り者に容赦ない信長も寛大であったと伝わる人物です。

まずどのような人物か簡単に書きます。

目次

松永久秀の俗説を簡単に

松永久秀は、一般にはそこまで有名な人物ではないかもしれませんが、戦国時代が好きな人なら殆どが知っているであろう人物です。

松永久秀には、「三大梟雄」、「下剋上の代名詞」などと評されますが、あまりに強烈なインパクトがり、歴史好きには忘れがたい人物だと思います。

画像松永 久秀

松永久秀

また、織田信長を裏切ったことから、信長の家臣というイメージが強いですが、長らくは三好家の家臣でした。

三好長慶の右筆から始まりますが、やがて三好家を取り仕切る立場になり、足利将軍からも一目置かれる存在になります。

久秀の出世の一方、三好一族は、久秀にとってタイミング良く、次々に亡くなります。

そのため秀久が関与している噂がながれ、現代では「骨の髄まで険悪卑劣」と評されるほどです。

その後も、足利将軍を滅ぼした、東大寺の大仏を焼き払ったなど悪行を行ったと伝わっています。

後に、織田信長の家臣になりますが、恭順と裏切りを繰り返します。

信長は名物の茶器と引き換えに裏切りを許そうとしますが、茶器を渡したくない久秀は、茶器に爆薬を詰め、茶器を抱いて亡くなったそうです。

これが、松永久秀の俗説の概要です。

実際はどうだったのでしょうか、詳しく書きます。

松永久秀、出世する

松永久秀の生年は、永正5年(1508年)生まれで、出身地は山城国西岡(京都)、摂津国など諸説ありますが、どれも確証はありません。

また通称は、松永弾正(まつなが だんじょう)といい、この名前の方が馴染みがあるかもしれません。

久秀は始め、近畿の実力者・三好長慶(みよし ながよし)に仕えたと云われています。

はっきりと経歴が確認できるのは、天文9年(1540年)の史料で、三好長慶の右筆として仕え、後に奉行職に就いていたと見なされています。

画像三好長慶

三好長慶

三好家は、元は細川家の家臣でしたが、三好長慶の代のなってから勢力を拡大します。

天文18年(1549年)、三好長慶は、主家・細川家を追放し、京を支配する実力者に上り詰めます。

全盛期には近畿と四国を支配する大大名になる三好長慶、長慶に抜擢された久秀は、主君の出世に伴い久秀も台頭していきます。

三好政権の実力者になった松永久秀は、三好家と公家、寺院の間に入り、交渉する役目を担います。

そして久秀は、家長に代わって家政を取りしきる三好家の家宰(かそう)にまで出世し、幕政にまで関与するまでになります。

永禄3年(1560年)11月に久秀は、大和国の信貴山城(しぎさんじょう)城主になり、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任官し、永禄4年(1561年)2月4日に従四位下に昇叙され、三好家の有力武将の地位を確立します。

久秀は三好家の家臣である一方、室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝(あしかが よしてる)の側近としても活躍しており、両者の間を取り持つ役目もしています。

また、幕府からは三好長慶と同等の処遇を受けていることから、主君・三好長慶にも匹敵する力があったと見なされていたそうです。

久秀の三好家における立場は、大和一国を任されるなど、三好長慶の嫡男・義興と同等という非常に高いものだったそうです。

三好家の不幸は久秀の仕業!?

松永秀久の勢力が拡大する一方、栄華を誇った三好家は、次第に衰退していきます。

松永秀久の出世に伴い、三好一族に次々と不幸が重なります。

永禄4年(1561年)、三好長慶の弟・十河一存(そごう かずまさ /かずなが)は、病気か落馬で命を落とします。

永禄5年(1562年)、三好長慶の弟・三好実休(じっきゅう)は、戦で亡くなります。

永禄6年(1563年)、嫡男・三好義興(よしおき)は、病気で22歳の若さで亡くなります。

永禄7年(1564年)5月9日、三好長慶の弟・安宅冬康(あたぎ ふゆやす)は、三好長慶によって自害させます。

安宅冬康に逆心があったためとも、松永久秀が裏で糸を引いているとも云われますが、定かではありません。

永禄7年(1564年)7月4日、ついに三好家の主・三好長慶も病で亡くなります。

身近な人物が相次いで亡くなり、心身に異常をきたしたとも、久秀の讒言を信じ安宅 冬康を自害させたことを後悔したとも云われたいますが、確証はありません。

当時、三好長慶から松永久秀を通して、三好家の領土の施策を行っていたため、自然と秀久の勢力が台頭します。

このあまりにも出来すぎた出来事に、当時から秀久の関与が疑われていたようです。

織田信長も疑っていたようで、「主家乗っ取り」と評しています。

(※このように松永久秀は、三好家のを追い落し、下克上で成り上がったイメージがあります。

ですが、信頼のできる史料では、三好長慶を追い抜こうとした形跡はないそうです。

異例のスピードで出世したことから後世、そのように云われるようになったのかもしれないとも言われています。)

 

三好家は、長慶の甥・三好義継が若年で当主になります。

三好義継の後見役、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の支持を得てのことでした。

当時の三好家の重臣は、三好三人衆と松永久秀ですので、権力地盤の弱い当主・義継に代わり事実上、三好三人衆と松永久秀が三好家を治めることになりました。

クリスマス休戦とは!?

永禄8年(1565年)5月19日、松永久秀の嫡男・久通と三好義継、三好三人衆が、将軍・足利義輝を滅ぼす事件が起きます。

将軍を亡き者にした事件は、秀久の悪行の一つと云われていますが、実は直接的な関与は認められていません。

 

やがて畿内の覇権を巡り、三好家の実力者である松永久秀と三好三人衆は、対立するようになっていました。

三好三人衆らは、操り人形になりそうな足利義栄(あしかが よしひで)を、次期将軍候補に擁立し、秀久を排除する動きに出ます。

三好家当主・三好義継も三好三人衆側におり、久秀は劣勢に立たされ戦に敗れ堺に退却します。

この時の出来事として、「クリスマス休戦」という有名なエピソードが伝わっています。

久秀は追い詰められて、なんとか体制を立て直す時間を稼ごうとします。

絶大な経済力を持つ堺の豪商を呼び、堺で戦が長引くことを望まない商人と久秀は作戦を考えます。

それは、クリスマスを理由に休戦を持ちかけるというものでした。

久秀は仏教徒ですが、致し方無く作戦を実行します。

三好三人衆側にキリシタンが複数いたことや、強い権益を持つ堺の豪商が動いたことで、休戦は受け入れられたと云います。

クリスマス休戦当時は、両軍のキリシタンが集会場に集まられ、ミサ、聖体拝領、告白などを行ったそうです。

これにより、秀久は敗走し、一旦行方をくらましたと云います。

このクリスマス休戦は、広く知られた話ではありますが、史実であることは確認されていないそうです。

クリスマス休戦の元となった話は、宣教師・ルイスフロイスが記した『日本史』だとされています。

『日本史』に書かれていることは、両軍のキリシタン70名程がミサに行き、パーティーを開いたことが書かれているだけだそうです。

その上、久秀はクリスマス休戦当時、既に堺から逃亡し、どこかに潜伏中のようで、史実とは言えなそうです。

 

ですが永禄10年(1567年)、三好義継が久秀を頼ったことから、秀久は盛り返し、東大寺大仏殿の戦いで三好三人衆を破ります。

この久秀と三好三人衆はの戦により、東大寺大仏殿が焼失し、大仏の首が落ちてしまい、秀久の悪行として語られることになります。

悪いことを沢山したと語られる久秀ですが、東大寺を放火したのは三好方のキリシタンとの説もあります。

秀久、織田信長の元へ

松永久秀は三好義継と行動を共にしているものの、味方につけた勢力は、三好三人衆の方が多く久秀は劣勢に立たされていました。

そこで織田信長の協力を得ることを考え、三好義継と共に信長の上洛に協力します。

二人とも名目上は将軍義昭の家臣で、信長とは同盟のような関係でしたが、秀久も三好義継も事実上、信長の家臣のようになっていきます。

上洛を果たした信長に、秀久は信長に人質と九十九髪茄子(つくもかみなす)(付藻茄子)という貴重な茶器と人質を差し出し、事実上降伏します。

当時、勢いのあった久秀ですが、優れた洞察力があったと云われていて、適わない相手と見ると早々に降伏しています。

因みに当時は、高級な茶器は城一つの価値があるとも云われた時代です。

久秀は、大和一国切り取り次第の許しを得て、また久秀は織田信長の援軍も得て、大和の平定を進めます。

そして、久秀は信長の戦にも従軍します。

画像松永 久秀

松永久秀

金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)では、同盟相手の浅井家の裏切りに遭い、絶体絶命となった信長を助けます。

久秀は外交手段を通じて、信長の退却路を確保し、信長の窮地を救いました。

その後も信長の家臣として戦に参戦しますが、次第に信長包囲を形成している足利義昭に通じます。

※形式上は、足利義昭の家臣なので裏切りでないとする説もあります。

また、信長包囲網の一角を担う甲斐の武田信玄が、上洛の動きを見せたので、武田信玄に期待していたのではないかと云われています。

元亀3年(1572年)、久秀は信長に敵意を現し、三好義継だけでなく、敵対していた三好三人衆らとも組んで信長に対抗します。

しかし、頼りの武田信玄は病で没し、足利義昭は戦に敗れ追放、三好義継も戦に敗れ亡くなりました。

「信玄上洛間近」という知らせを受け強気になった秀久ですが、当てが外れて信長に降伏し、三好三人衆も信長に敗れます。

裏切りに厳しい信長ですが、久秀は城一つと引き換えに許されていてます。

そして久秀は、佐久間信盛の与力として、石山合戦(いしやまかっせん)に従軍します。

松永久秀と茶器

その後、第二次信長包囲が形成されると、上杉謙信、石山本願寺、毛利輝元などと呼応し、松永久秀は信貴山城(しぎざんじょう)に籠り、信長と交戦します。

信長の主力の軍は、上杉謙信と戦っており、隙をついてのことでした。

上杉謙信との戦には、明智光秀は参戦しておらず、光秀が久秀討伐の先陣を切ったと云われています。

この時も信長は、異例とも言える寛大な処置を久秀に下そうとします。

信長は久秀に何故裏切ったのか問い質すため、松井友閑(ゆうかん)を送ります。

ですが、久秀は突っぱねて、徹底抗戦の構えを見せます。

名城と名高い信貴山城に籠城する久秀ですが、ついに信長軍に包囲され敗戦は間近に迫ります。

信長の家臣・佐久間信盛は、「平蜘蛛釜」(ひらぐもがま)という名前のついた、天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)という貴重な茶器を城外へ出すよう促したそうです。

しかし久秀は、茶器「平蜘蛛釜」を叩き割って炎の中、自害したと云われています。

 

『川角太閤記』によると、平蜘蛛の茶器と我らの首は、信長に見せたくないので、爆薬で粉々にすると言った旨書かれているそうです。

享年68歳、又は70歳。

画像松永久秀の墓

松永久秀の墓

また信長は、この期におよんで茶器「平蜘蛛釜」と引き換えに、久秀を助けようとしたとする逸話もありますが、真偽は不明です。

裏切に厳しく冷徹非道な仕打ちをするイメージのある信長、久秀に対する対応の甘さから考えることは、久秀のことを買っていたのだろうと思います。

久秀は武将ですが、茶人としての位置づけも高く、深い教養が身についていたそうです。

また、茶の湯を通した交流も広く、信長が久秀に一目置く所以だったのではないかと思います。

 

また、織田信長は松永久秀のことを「天下に名を轟かす三つの悪行」をしたと言ったという逸話が残されています。

この三つは、簡単に紹介しましたが、三好家乗っ取り、将軍を亡き者にした、大仏を焼き払ったことです。

詳しくは別の記事に書いていますので、興味ある方はご覧ください。

松永久秀の三悪とは何か悪行について解説します

こうして詳しくみてみると、久秀が骨の髄まで悪人とは、言いすぎな気がしてきますね。

また、久秀が仕えた三好家当主・三好義継は、久秀の忠誠心を称賛する書状を残しています。

それ故、三好三人衆方を出奔し、秀久を頼った旨を書いています。

久秀は三好三人衆方とは対立したものの、歴代の三好家当主には忠実だったそうです。

何故悪いイメージが付いたのかは、後の世の創作された逸話などが元であると考えられるようです。

忠義を重んじた江戸時代、久秀のような成り上がり者は、脅威と見なされていたそうです。

徳川の世を長く続かせるため、久秀のような成り上がり者=悪として描かれたのかもしれません。

 

松永久秀の肖像画

2020年3月4日のニュースで、松永久秀の肖像画が見つかったというニュースがありました。

前歯が出た特徴が描かれた肖像画です。

今までの久秀の肖像画とは違い、荒々しさはなく、悪そうな顔つきもしていません。

正装した格好で座っていて、いい人そうな表情に見え、悪人の面影は感じません。

久秀の膝元には、茶道具をしまう袋が描かれています。

久秀の茶器といえば、「九十九髪茄子(付藻茄子)」や「平蜘蛛」の釜が有名ですが、そのどちらかが入っている袋が、描かれているいるのではないかと推察しているそうです。

肖像画の原本は、16世紀後半描かれ、18世紀後半頃に模写されたものではないかと、筆や紙から推定できるようです。

美化されておらず、久秀本人に似せて描いた可能性が高いと見なされているとニュースにはありました。

この肖像画は、久秀の研究を進める上で貴重な物になりそうですね。

 

 

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