明智左馬之助(あけちさめのすけ)は、明智秀満(あけち ひでみつ)の名で知られた光秀の重臣であり、一族であるとする説もあります。
左馬之助が歴史上に登場するのは、光秀が丹波国(たんばのくに)(京都府)を平定し、その功績により1580年に光秀が丹波一国を任せれるようになる頃から左馬之助の名が確認できます。
左馬之助の出自は諸説あり定かではなく、前半生は殆どわかっていませんが、謎に満ちた左馬之助の生涯をみていきます。

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明智左馬之助(明智秀満)の出自

明智左馬之助(あけちさめのすけ)(秀満)は当初、三宅弥平次秀満(みやけ やへいじひでみつ)と名乗っていたとされています。
明智左馬之助(明智秀満)の肖像画
明智左馬之助(明智秀満)の肖像画
三宅氏は光秀の家臣に多い名前で、一説には光秀の叔父・明智光廉が三宅氏を名乗っていたとも言われますが、定かではありません。
また、史料価値は低いですが『明智軍記』によると光秀の叔父・明智光安(あけち みつやす)の子であり、三宅氏を名乗っていた時があったと記されているそうです。
明智光安とは光秀の父の弟になりますので、本当に光安の子であれば光秀と左馬之助は従兄弟ということになりますが、従兄弟説は定説になっていません。
しかし他に信頼できる史料に記載はなく、現在では明智光安の子供の説をとり語られることが多いようです。
また明知遠山氏当主であり、明知城主・遠山景行(とおやま かげゆき)と光安を同一人物とする説があります。
明知遠山氏と光秀の土岐氏流明智氏は、親戚である可能性はあるものの、別の氏族であるとされています。
もし同一人物だとすると、遠山景行(明智 光安)は、明智宗家嫡流である明智光継(あけち みつつぐ)(光秀の祖父)の三男として生まれますが、明知遠山氏を継いだということになり、そして、遠山景行の子である遠山景玄が左馬之助(秀満)ではないのかとする説です。
その他、美濃で生まれた塗師(ぬし)(塗り師)の子、白銀師(しろがねし)(刀を製作する職人)の子であるとも伝わりますが信憑性は低いそうです。

明智左馬之助(明智秀満)の生涯

明智左馬之助(あけちさめのすけ)(秀満)の前半生は殆ど分かっていませんが、史料価値は低いとされる『明智軍記』などでは伝わっており、左馬之助の出自を明智氏である明智光安の子として記述しています。
左馬之助の父である明智光安は、兄であり、家督を継いだ美濃国明智城主でもある明智光綱(みつつな)(光秀の父)が亡くなり、光綱の子である光秀が幼かったため光秀の後見役を務めたとされます。
後に斎藤義龍(よしたつ)に攻められて、明智城(別名、明智長山城)は落城し、光安は左馬之助に明智宗家嫡男である光秀を託して城を脱出させ、浪人になったと伝わります。
江戸時代に成立した毛利氏の活躍を描いた軍記物語である『陰徳太平記』(いんとくたいへいき)によると、1578年以降に光秀の娘を正室に迎えたとされています。
※この『陰徳太平記』は、全否定はされていないものの史料としては信頼性が低いとさていますが、左馬之助の正室が光秀の娘であるということは史実とされています。
この光秀の娘は、荒木村重(あらき むらしげ)の嫡男の正室でしたが、村重が信長を裏切ったっため離縁され、左馬之助に嫁いだとされています。
この頃からか三宅姓から明智姓に名乗りを変えたようで、後の文書で確認できます。
1579年に主君・光秀は信長の命で丹波国(たんばのくに)(京都府)を平定した功績により、1580年に光秀は丹波一国を加増されて34万石の大名となります。
そして、光秀が改名、修築した天田(あまた)郡福知山城(ふくちやまじょう)(京都府)には、左馬之助を置いて城主とします。
福知山城と同じ丹波国天田郡にあった天寧寺(てんねいじ)(京都府福知山市)が所蔵する『天寧寺文書』によると、左馬之助が天寧寺に旧規を認めたり、「光秀判形」にまかせて諸役を免除している文書などが残っているとされています。
文書には「明智弥平次秀満」という署名や「秀満」と読める文字の黒印が確認できるそうです。
またこの頃、光秀父子や津田宗及(そうぎゅう)らが細川父子の招きで丹後へ赴いたさいには、福知山で左馬之助が接待した記録があるそうです。
津田宗及とは、千利休と並び天下三宗匠(てんかさんそうしょうとよみ)と称された茶人であり、茶会で接待役を務めていたことから、文化人としての知識もあったとみなされています。

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明智左馬之助(明智秀満)の本能寺の変

『信長公記<しんちょうこうき>』によれえば、本能寺の変の直前に、光秀が計画を打ち明けたのは、明智左馬之助(秀満)、明智次右衛門(明智光忠<あけち みつただ>)、藤田伝五(藤田行政<ふじた ゆきまさ>)、齋藤内蔵助(くらのすけ)(斎藤利三<さいとう としみつ>)の四人であったとしています。
『信長公記』とは、信長の家臣であった太田 牛一(おおた ぎゅういち)が記した貴重な史料です。
池田家本『信長公記』はこれに「三沢昌兵衛」を加え、『当代記』などは「溝尾庄(勝・少)兵衛」を加えていますが、後から付け足されたものとされ、ルイス・フロイス(当時日本にいた宣教師)の報告でも「四人」となっていることもあり、四人であろうとされています。
※「三沢昌兵衛」、「溝尾庄(勝・少)兵衛」共に溝尾 茂朝(みぞお しげとも)のこととされています。
1582年に起きた本能寺の変では、左馬之助は光秀方の先鋒となり襲撃しています。
本能寺の変の後の左馬之助は、光秀の命で信長の居城であった安土城を守りますが、山崎の戦いにて秀吉に光秀が敗死すると、数時間後には安土城にも届いたとされており、直ぐに安土城を離れて坂本城に向かったとされています。

明智左馬之助(明智秀満)の湖水渡り

ところが大津まで辿り着いた時、秀吉方の先鋒・堀秀政(ほり ひでまさ)に出会い合戦になりますが、左馬之助(秀満)は湖水と大津の町との間を騎馬で乗りぬけ、どうにか坂本城に入ったそうです。
これは『太閤記』に記載があるようですが拡大解釈され、「明智左馬之助湖水渡り」として語られるようになります。

「明智左馬之助湖水渡り」とは、左馬之助方の沢山の兵が討ち死にし、左馬之助は苦しい立場になってしまいますが、馬に乗ったまま琵琶湖を越え対岸の坂本城まで帰還したという伝説とのことです。

「明智左馬之助湖水渡り」は史実ではないとされていますが、この説にちなみ歌川 豊宣(うたがわ とよのぶ)が描いた「明智左馬助の湖水渡り」という絵があります。
明智左馬助の湖水渡りの絵
明智左馬助の湖水渡りの絵

この説は信頼のできる史料には記載はありませんが、「琵琶湖文化館」の近くに「明智左馬之助湖水渡」と刻まれた石碑と「明智左馬之介駒止の松」と呼ばれる松の木が残されています。

なお『太閤記』は左馬之助が退却できたのは、荒木山城守の息子二人が引き返してきて討死したからだという説を伝えているそうです。

この辺りは現在ではハイキキングコースとして整備され、観光スポットにもなっています。

「明智左馬之助湖水渡」の石碑へのアクセス

・JR琵琶湖線「大津駅」から徒歩20分
・京阪電鉄石山坂本線「島ノ関駅」または「石場駅」から徒歩5分
・名神高速道路大津IC下車5分
※専用駐車場無し

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明智左馬之助(明智秀満)の最期

明智左馬之助(あけちさめのすけ)(秀満)は、無事に坂本城に着いたものの、既に逃亡する者も多く籠城戦は不可能と判断したとされています。
14日に堀秀政らに坂本城を包囲され死を覚悟し、坂本城にある光秀が集めたの名刀や茶器などの名品がなくならないように堀秀政の一族の堀直政に目録と共に贈ったとされています。
「郷義弘の脇指」という名品の短刀があったそうですが、光秀に死出の山で渡すため左馬之助が腰に差したそうです。
そして14日の夜、左馬之助は光秀の子、自身の妻を刺殺し、火を放ち自害して果てます。
『豊臣記』によると享年25歳、別の説では享年47歳であったとも云われています。
また、左馬之助の父は左馬之助が自害した後に捕らえられ、7月2日に粟田口で磔(はりつけ)にされており、公家の書いた日記である『言経卿記<ときつねきょうき>』によると、左馬之助の父は63歳であったそうです。

逸話

・光秀から謀反を打ち明けられた時の逸話で、皆が黙っていたそうですが、明智左馬之助(あけちさめのすけ)(秀満)が承諾したため、他の皆も承諾したそうです。
また別の説では、謀反の件を最初に左馬之助に相談し止められ、次に齋藤利三ら四人に相談し全員に反対されたため、光秀は迷っていたそうですが、左馬之助に再度相談したところ、四人にも語ったのであれば、実行すべきであると謀反を起こさせたとしています。
いずれにせよ、左馬之助が本能寺の変を後押ししたととれますね。
事前に打ち明けられた家臣達は、本能寺の変の後直ぐの戦い(山崎の戦いなど)で亡くなっていますので、聞く機会があったのだろうかとも思いますが…、左馬之助は光秀の腹心中の腹心であると見なされていたことの現れということでしょうか。
・本能寺の変の後、左馬之助が守っていた安土城は、何故か焼失しています。
『秀吉事記』や『太閤記』を参考に、以前は左馬之助が敗走の際に火をつけたことになっていました。
ですが、公家が書いた日記である『兼見卿記<かねみきょうき>』によると安土城が燃えたのっは6月15日であり、その頃、左馬之助は坂本城で堀秀政の軍と戦っていました。
また、ルイス・フロイス(当時日本にいた宣教師)の報告書によれば、左馬之助があまりにも急いだため安土城を燃やす時間がなく、安土城に火をかけたのは、織田信雄(おだ のぶかつ )であると記しているそうです。
なので、左馬之助放火説は、現在では否定的な見方となり、織田信雄軍か略奪に入った泥棒が放火した可能性があると見られています。

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参考・引用・出典一覧

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