明智左馬之助(明智秀満)は、明智光秀の重臣であり、一族であるとする説もあります。
謎に包まれた明智左馬之助(秀満)の生涯や最後について、また伝説になっている「明智左馬助の湖水渡り」について記しています。
明智左馬之助(秀満)が歴史上に登場するのは、1571年の明智光秀の坂本城築城の際や、光秀が丹波を平定し、丹波一国を任せれるようになる頃からです。
前半生は殆どわかっていない明智左馬之助(秀満)ですが、諸説ある出自から見てみます。
明智左馬之助(明智秀満)の出自
明智左馬之助(あけちさまのすけ)(秀満)は当初、三宅弥平次秀満(みやけ やへいじひでみつ)と名乗っていたとされています。
※左馬助とも表記されます。
三宅氏は光秀の家臣に多い名前で、一説には光秀の叔父・明智光廉が三宅氏を名乗っていたとも言われますが、確証はありません。
光春という名前も伝わっていますが、誤りであると指摘されています。
また、史料価値は低いですが『明智軍記』によると光秀の叔父・明智光安(あけち みつやす)の子であり、三宅氏を名乗っていた時があったと記されているそうです。
明智光安とは光秀の父の弟になりますので、本当に光安の子であれば光秀と左馬之助(秀満)は従兄弟ということになりますが、従兄弟説は定説になっていません。
しかし他に信頼できる史料に記載はなく、現在では明智光安の子供の説を参考に、語られることが多いようです。
また光秀の明智家とは別で、美濃に明知遠山氏がいます。
明知遠山氏の当主に遠山景行(とおやま かげゆき)という人物がいて、明知城主を務めていましたが、遠山景行と明智光安を同一人物とする説があります。
明知城とは、光秀の明智家の居城・明智城とは別の城です。
なんだか、ややこしいですが、美濃には漢字の違う「アケチ城」が二つあって、別の一族が支配していました。
明知遠山氏と光秀の明智氏は、親戚である可能性はあるものの、別の氏族であるとされています。
もし同一人物だとすると、遠山景行(明智光安)は、明智宗家嫡流である明智光継(あけち みつつぐ)(光秀の祖父)の三男として生まれますが、明知遠山氏を継いだということになり、そして、遠山景行の子である遠山景玄が明智左馬之助(秀満)ではないのかとする説があります。
その他、美濃で生まれた塗師(ぬし)(塗り師)の子、白銀師(しろがねし)(刀を製作する職人)の子であるとも伝わりますが信憑性は低いそうです。
明智光安~明智光秀の後見となった叔父~遠山景行と同一人物!?
明智左馬之助(明智秀満)の生涯
先に述べたように、史料価値は低いですが『明智軍記』を参考に記載すると、明智左馬之助(秀満)の出自は明智光安の子であると云います。
明智光安は、美濃国明智城主・明智光綱(みつつな)(光秀の父)の弟で、光秀の叔父です。
しかし、光綱が亡くなり、光綱の子である光秀が幼かったため、光秀の後見役を務めたとされます。
後に、美濃の斎藤義龍(高政)に攻められて、明智城(別名、明智長山城)は落城します。
そして、光安は左馬之助に明智宗家の嫡男である光秀を託して城を脱出させ、浪人になったと伝わります。
生きた痕跡の少ない左馬之助(秀満)ですが、左馬之助の書状が2018年2月に三重県で発見されています。
元亀2年(1571年)、明智光秀の居城・坂本城を築城する際に、左馬之助(秀満)が監督を任されていたことがわかる書状です。
「信長の安土城に次ぐ城」という評価もある坂本城、その監督を任せられる位に、左馬之助(秀満)は光秀の信頼を得ていたことが分かります。
江戸時代に成立した毛利氏の活躍を描いた軍記物語である『陰徳太平記』(いんとくたいへいき)によると、1578年以降に光秀の娘を正室に迎えたとされています。
※この『陰徳太平記』は、全否定はされていないものの史料としては信頼性が低いとさています。
ですが、左馬之助の正室が光秀の娘であるということは、史実の可能性が高いと見なされています。
左馬之助の正室の名前は、倫(倫子)であると云われていますが、定かではありません。
この光秀の娘(倫)は、荒木村重(あらき むらしげ)の嫡男の正室でしたが、村重が信長を裏切ったっため離縁され、明智左馬之助に嫁いだとされています。
この頃からか三宅姓から明智姓に名乗りを変えたようで、後の文書で確認できます。
天正7年(1579年)、主君・光秀は信長の命で丹波国(たんばのくに)を平定した功績により、天正8年(1580年)に丹波一国を加増されて34万石の大名となります。
そして、光秀が改名、修築した福知山城(ふくちやまじょう)の管理人役には、明智左馬之助(秀満)を指名し城代にしました。
福知山城は交通の要衝であり、明智左馬之助(秀満)は要の城を任されていたことになります。
それだけ光秀の信頼の厚い人物だと言えそうです。
福知山城と同じ丹波国天田郡には、天寧寺(てんねいじ)(京都府福知山市)というお寺があります。
天寧寺が所蔵する『天寧寺文書』によると、明智左馬之助が天寧寺に旧規を認めたり、「光秀判形」にまかせて諸役を免除している文書などが残っているとされています。
文書には「明智弥平次秀満」という署名や、「秀満」と読める文字の黒印が確認できるそうです。
またこの頃、光秀父子や津田宗及(そうぎゅう)らが、細川幽斎、忠興父子の招きで丹後へ赴いた際には、福知山で左馬之助が接待した記録があるそうです。
津田宗及とは、千利休と並び、天下三宗匠(てんかさんそうしょうとよみ)と称された茶人です。
その茶会で接待役を務めていたことから、明智左馬之助には化人としての知識もあったとみなされています。
明智左馬之助(明智秀満)の本能寺の変
『信長公記しんちょうこうき』によれば、本能寺の変の直前に、光秀が計画を打ち明けたのは、明智左馬之助(秀満)、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵助(くらのすけ)の四人であったとしています。
明智次右衛門とは明智光忠(あけち みつただ)、藤田伝五とは藤田行政(ふじた ゆきまさ)、斎藤内蔵助とは、斎藤利三(さいとう としみつ)のことですので、腹心にのみ打ち明けていたということですね。
池田家本『信長公記』はこれに「三沢昌兵衛」を加え、『当代記』などは「溝尾庄(勝・少)兵衛」を加えていますが、後から付け足されたものとされ、ルイス・フロイス(当時日本にいた宣教師)の報告でも「四人」となっていることもあり、四人であろうとされています。
※「三沢昌兵衛」、「溝尾庄(勝・少)兵衛」共に溝尾茂朝(みぞお しげとも)のこととされています。
天正10年(1582年)に起きた本能寺の変では、明智左馬之助(秀満)は光秀方の先鋒となり襲撃しています。
そして、本能寺の変の後の明智左馬之助(秀満)は、光秀の命で信長の居城であった安土城を守ります。
ここでも、交通の要所でもある安土城の守りは、明智左馬之助(秀満)に任されました。
ですが、山崎の戦いにて秀吉に光秀が敗死すると、数時間後には安土城にも情報が届いたそうで、直ぐに安土城を離れて坂本城に向かったとされています。
明智左馬之助(明智秀満)の湖水渡り
明智左馬之助(秀満)が大津まで辿り着いた時、秀吉方の先鋒・堀秀政(ほり ひでまさ)に出会い合戦になりますが、左馬之助は湖水と大津の町との間を騎馬で乗りぬけ、どうにか坂本城に入ったそうです。
これは『太閤記』に記載があるようで、「明智左馬之助湖水渡り」として語られるようになります。
「明智左馬之助湖水渡り」とは、明智左馬之助(秀満)方の沢山の兵が討ち死にし、左馬之助は苦しい立場になってしまいますが、馬に乗ったまま琵琶湖を越え対岸の坂本城まで帰還したという伝説とのことです。
「明智左馬之助湖水渡り」は史実ではないとされていますが、この説にちなみ歌川 豊宣(うたがわ とよのぶ)が描いた「明智左馬助の湖水渡り」という絵があります。
この説は信頼のできる史料には記載はありませんが、「琵琶湖文化館」の近くに「明智左馬之助湖水渡」と刻まれた石碑と「明智左馬之介駒止の松」と呼ばれる松の木が残されています。
なお『太閤記』は左馬之助(秀満)が退却できたのは、荒木山城守の息子二人が引き返してきて討死したからだという説を伝えているそうです。
現在では、この辺りはハイキキングコースとして整備され、観光スポットにもなっています。
「明智左馬之助湖水渡」の石碑へのアクセス
・JR琵琶湖線「大津駅」から徒歩20分
・京阪電鉄石山坂本線「島ノ関駅」または「石場駅」から徒歩5分
・名神高速道路大津IC下車5分
※専用駐車場無し
山岡景隆との戦が「左馬之助湖水渡り」の発端!?
2020年5月29日のニュースになりましたが、「明智左馬之助湖水渡り」伝説が語られる所以かもしれない古文書が、滋賀県大津市にある石山寺で見つかりました。
石山寺の塔頭世尊院の僧侶を務めたことがある、山岡家の由緒『山岡景以(かげこれ)舎系図(いえのけいず)』に書かれているそうです。
織田信長の家臣で、瀬田城城主だった山岡景隆の記録部分に左馬之助(秀満)が登場しますが、名前は最初に名乗ったという「弥平次」で記されているそうです。
山岡景隆とは、本能寺の変後、明智軍の進路を絶つため、瀬田橋を焼いて安土城攻めを阻止したことで知られている人物です。
『山岡景以舎系図』によると光秀の命令で、左馬之助(秀満)が安土城を奪おうとしますが、橋を焼かれた為、船で湖上を渡ろうとしたそうです。
当時の安土城は、琵琶湖に接していたと云われていますので、左馬之助(秀満)は琵琶湖から入城しようとしたということだと思います。
左馬之助(秀満)が船に乗っていたら、信長の家臣・山岡景隆に会い、船戦を挑んだ旨の記載があります。
しかし、琵琶湖上で家臣が討たれた為、左馬之助(秀満)は琵琶湖を渡ることが出来なかったそうです。
「明智左馬之助湖水渡り」の伝説は、山岡景隆との船戦が元なのかもしれません。
見つかった古文書は、本能寺の変の9年後(1591年)に山岡景以(かげもち)によって書かれ、江戸時代に書き写された物です。
山岡景以は山岡景隆の息子ですので、戦の当事者の息子によって記された貴重な記録と言えそうです。
『信長公記』によって、本能寺の変後、瀬田橋で明智軍が足止めされたことは伝わっていました。
『山岡景以舎系図』を信用するならば、率いていたのは左馬之助(秀満)だったということになりそうです。
古文書は、秋に本堂で公開するそうなので楽しみに待ちたいと思います。
明智左馬之助(明智秀満)の最後
明智左馬之助(あけちさまのすけ)(秀満)は、無事に坂本城に着いたものの、既に逃亡する者も多く籠城戦は不可能と判断したとされています。
14日に堀秀政らに坂本城を包囲され死を覚悟し、坂本城にある光秀が集めたの名刀や茶器などの名品がなくならないように、堀秀政の一族の堀直政に目録と共に贈ったとされています。
光秀が愛用した「郷義弘の脇差」という名品の短刀があったそうですが、堀直政に贈った宝の中にはありませんでした。
光秀に死出の山で渡すため、左馬之助が腰に差したそうです。
そして14日の夜、明智左馬之助(秀満)は光秀の子、自身の妻を刺し、火を放ち自害して果てます。
明智左馬之助(秀満)の生年は不明ですが、有力視されている天文5年(1536年)だとすると、享年47歳。
一方『豊臣記』によると享年25歳です。
現在、坂本城の跡地に「明智塚」と呼ばれる場所があり、郷義弘作の脇差を埋めた場所だと云われています。
また明智左馬之助(秀満)の父は、左馬之助が自害した後に捕らえられ、7月2日に粟田口ではりつけにされたそうです。
そして明智左馬之助(秀満)の父の享年は、63歳であると『兼見卿記』(かねみきょうき)という当時の公家の日記に書かれています。
逆算すると永正17年(1520年)の誕生になります。
先ほど、明智左馬之助(秀満)の父親候補として書かせていただいた明智光安の生年は、明応9年(1500年)ですので、合いませんね…。
そうなると光安は父ではないかもしれませんし、光安の生年の伝承が違うのかもしれませんし謎です。
明智左馬之助(明智秀満)の逸話
・光秀から謀反を打ち明けられた時の逸話で、皆が黙っていたそうですが、明智左馬之助(秀満)が承諾したため、他の皆も承諾したそうです。
また別の説では、謀反の件を最初に左馬之助に相談し止められ、次に齋藤利三ら四人に相談し全員に反対されたため、光秀は迷っていたそうですが、左馬之助に再度相談したところ、四人にも語ったのであれば、実行すべきであると謀反を起こさせたとしています。
いずれにせよ、左馬之助(秀満)が本能寺の変を後押ししたととれますね。
事前に打ち明けられた家臣達は、本能寺の変の後直ぐの山崎の戦いなどで亡くなっていますので、本心は不明ですが気が進まない家臣もいたかもしれませんね。
このような逸話からも、明智左馬之助(秀満)は、光秀の腹心中の腹心であったのかなと推測できるように思います。
・本能寺の変の後、明智左馬之助(秀満)が守っていた安土城は、何故か焼失しています。
『秀吉事記』や『太閤記』を参考に、以前は明智左馬之助が敗走の際に火をつけたことになっていました。
ですが、公家が書いた日記である『兼見卿記』(かねみきょうき)によると安土城が燃えたのは6月15日であり、その頃、明智左馬之助は坂本城で堀秀政の軍と戦っていました。
また、ルイス・フロイス(当時日本にいた宣教師)の報告書によれば、左馬之助があまりにも急いだため安土城を燃やす時間がなく、安土城に火をかけたのは、織田信雄(おだ のぶかつ )であると記しているそうです。
なので、左馬之助放火説は、現在では否定的な見方となり、織田信雄軍か略奪に入った泥棒が放火した可能性があると見られています。
明智左馬之助の子孫は坂本龍馬!?
明智左馬之助(秀満)の子孫は、坂本龍馬であるとする説がありますが、おそらく違います。
坂本龍馬を主人公に明治16年に書かれた『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)という伝記小説が初出ではないかと、高知県立坂本龍馬記念館のホームページにもあります。
左馬之助は「坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め」、一度、関ケ原に居た後に、土佐に移り住んだそうです。
坂本城から落ち延びた、左馬之助の生存説があるようですね。
もっと古い史料があれば別かもしれませんが、明治時代に書かれた伝記小説では、左馬之助と龍馬を関連付けるのは難しいと思います。
しかし、明智一族の子孫が坂本龍馬であるとする説は、真偽不明ながら根強くあります。
それは、明智光秀と土佐の戦国大名・長宗我部元親が、懇意であったことがあると思います。
本能寺の変の遠因と云われる位の仲だったと見られていて、明智家の縁者を匿っていても不思議ではありませんので、土佐で明智の人間が生き延びたのではないかという説になるようです。
坂本家では、明智家との血縁関係を示す史料は残っていませんが、左馬之助でなくても、明智一族の子孫である可能性は否定はできないという感じでしょうか。
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