明智光安は、明智光秀の叔父であり、幼かった明智光秀の後見人になった人物であるとも云われています。

今回は明智光安の生涯について、明智光秀、齋藤道三、齋藤義龍との関わりについて書いています。

また、明智光安と明知城主・遠山景行が同一人物ではないかとする説についても記載しています。

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明智光安と明智光秀の関係

明智光安(あけち みつやす)と明智光秀の関係は定かではありませんが、一説には明智光秀の叔父であり育ての親でもあるとされています。

明智光安の父は、明智光継の(あけち みつつぐ)といい、光秀の祖父とも云われている人物です。

明知光秀の肖像画

明智光秀

明智光継の嫡男が明智光綱(あけち みつつな)、三男が明智光安だとされています。

明智光綱は光秀の父で、明智光安は光秀の叔父にあたるとする説が有名ですが、実は明智光綱が本当に光秀の父かは定かではありません。

有名な明智光秀の父すら定かではないのですから、明智光安のことも限られた情報しかないというのが現状です。

そのような中ですが、明智光安について分かっている範囲で記します。

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明智光安の出生と齋藤道三

明智光安は明智光継の三男として、明応9年(1500年)に生まれてと伝わります。

母は、武田信玄の同族である武田 信豊(たけだ のぶとよ)、または進士光信の娘とする説もあります。

父の明智光継は明智城主、別名で長山城主とも云われていますが、東美濃周辺を治めていたと云います。

明智氏は土岐氏の庶流だと云われていますが、明智光継の頃から歴史上に明智の名が見られるそうです。

明智光安が生きた時代は戦国時代の初期ですが、この時代の美濃では有名な戦国大名がいます。

美濃の蝮(マムシ)として知られている斎藤道三(さいとう どうざん)です。

齋藤道三の肖像画 2つ目

齋藤道三

斎藤道三は、下剋上の代名詞と言っても過言ではない人物だと云われており、明智家の本家である土岐氏を追い落として、美濃で台頭しました。

 

(※光秀の出自を土岐明智氏とするなら、平安時代の源頼光(みなもと の よりみつ)の流れを汲む名門で、鎌倉時代の土岐頼貞(よりさだ)に繋がると云われています。

その土岐頼貞から、美濃の守護土岐氏と土岐明智氏につながり、土岐氏の庶流が明智氏です。)

 

美濃ではまだ土岐氏の勢力が残っていたそうですが、明智光継、明智光安親子らは斎藤道三に接近したと云います。

そして、明智光安の妹の小見の方(おみのかた / こみのかた)を人質として送ったそうです。

この小見の方は、成長すると齋藤道三の正室となります。

そして生まれた子供は、織田信長の正室となる帰蝶(きちょう)、別名で濃姫(のうひめ)と呼ばれる女性です。

後の輿入れの際、濃姫と信長の仲人を務めた人物は、光安だと云われています。

まとめますと、明智光安は自身の本家である土岐氏を追い落とした齋藤道三に従うようになり、人質に出した妹はやがて齋藤道三と結婚し、織田信長の正室を生んだという感じです。

戦国時代とはいえ、波乱万丈ではないでしょうか。

 

明智光安が光秀の後見になる

明智家の宗家は、明智光安の父・明智光継から家督を継いだ明智光綱でした。

明智光綱は光秀の父との説がありますが、若くして亡くなったそうです。

『細川家記』という記録によると、齋藤道三に仕えていた頃に、齋藤道三に明智城を攻められて滅ぼされたそうです。

主君に滅ぼされたことになりますが、この真偽はさだかでなく病死説もあります。

亡くなった年は、天文4年(1535年)と伝わっています。

そして先に述べましたが、明智光綱の嫡男は明智光秀だという説があります。

父が亡くなった頃、光秀はまだ幼かったため、叔父の明智光安が明智家の家督を継いで、光秀の後見となったと伝わっています。

隠居していた父・明智光継が光安に後見を命じたそうです。

光秀が元服するまでの代理という感じでしょうか?

詳細は不明ですが、明智光安は家督を継いで明智城に入りました。

明智城本丸跡の碑石

明智城本丸跡の碑石

しかし、光秀が元服しても光安が家督を握っていたそうです。

一説には光秀が固辞したとも云われています。

光秀の後見を光安に命じたのは、父の光継であると記しましたが、後見を命じた約3年後の天文7年(1538年)に亡くなっています。

亡くなった理由は不明です。

考えたくはないですが父も亡くなり、家督を譲らず継ごうとした…という可能性もあるような気がしてしまいました。

また光安は、時の将軍から官位を授かっています。

天文16年(1547年)に室町幕府第12代将軍・足利義晴に謁見し、従五位下兵庫頭を授かります。

しかし、後の天文22年(1553年)に出家し、宗寂と号したそうです。

出家の理由は不明ですが、光秀に家督を相続するために一線から退いたとも考えられると思います。

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明智光安と齋藤義龍の対立

明智光安の主君である齋藤道三は、自身の子である齋藤義龍と対立するようになります。

齋藤義龍

齋藤義龍

明智光安は齋藤道三の家臣であり、妹が道三の正室ということもあり、道三側についています。

しかし弘治2年(1556年)、義龍との戦に敗れて、道三は亡くなります。

そして、道三に見方した勢力として明智光安ら一族も攻められることになり、明智一族や諸将と共に明智城に籠城します。

義龍側の揖斐光就や長井道利(ながい みちとし)らに攻められますが、奮戦したと云います。

しかし、奮戦虚しく光安ら一族は、自害して果てることになります。

 

その際に、明智光安は光秀を落ち延びさせたそうです。

明智左馬助の名前でも知られていますが、明智秀満(あけち ひでみつ)に光秀を託したと云います。

明智左馬之助(明智秀満)は、光安の子供であるとも云われていますが、定かではありません。

明智左馬之助(明智秀満)の肖像画

明智左馬之助(明智秀満)の肖像画

いずれにせよ、宗家の子である光秀に明智家の再興を託し、光安自身は自害しました。

この経緯をみると、父が亡くなった隙に明智家の家督を横取りするという想像は間違っていたのかなと思いました。

光安は明智家のことを思い家政を担い、宗家の血筋が絶えないように落ち延びさせ、立派に役目を果たしたようように思います。

 

明智光安が遠山景行と同一人物!?

明智光安が明知城主の遠山景行(とおやま かげゆき)と同一人物であるとする説があります。

美濃には明智城とは別にもう一つの明知城がありました。

現在の岐阜県可児市にあった明智城と恵那市にあった明知城です。

漢字は違いますが名前が同じで、どちらも明智光秀の出生地であるとも云われていて、ややこしくなっています。

区別するためかわかりませんが、明智城は別名で長山城または明智長山城とも呼ばれています。

また恵那市の明知城は、「明知遠山氏」のお城であるとされています。

しかし明知遠山氏は、明智光安の土岐明智一族とは別であると見なされています。

※親戚の可能性は否定できないようですが。

それでは、何だろうという感じですが、明智光安が明智光継の三男として生まれた後に、明知遠山氏を継いで遠山景行になったということらしいです。

下の写真は、岐阜県恵那市明智町にある龍護寺にある系譜概要です。

明智遠山氏・土岐明智氏系譜概要

龍護寺にある明智遠山氏・土岐明智氏系譜概要

 

明智光安は遠山景行と同一人物ということになっていますね。

アケチの名前が同じだけで、こじ付けのようにも思いますが…。

また明遠山氏は、元々は明遠山と名乗っていたそうですが、江戸時代以降、明知遠山に名乗りを変えているそうです。

光秀が本能寺の変を起こした「明智」のイメージが悪いでしょうし、納得できるような…、それなら戦国の豊臣秀吉の時代が一番変えた方が良かった時期では?と不思議な感じもしますが。

もし光安が遠山景行となって明城に入ったのであれば、先ほど述べた明城で自害した光安は、一体誰だったのでしょうか。

光安には他にも兄弟がいたので、混同しているのかもしれませんね。

 

謎に包まれた明智光安の生涯をまとめてみましたが、いかがでしょうか。

幼かった光秀の代わりに明智家を支えたという説が有力のようですね。

かおりんかおりん

『 濃姫 ・ お市の方 ・ 細川ガラシャ ― 戦国の姫たち』という本は、

児童向けの漫画とのことで、親しみやすく「歴史」の入門書として最適とのことです。

 

 

明智光秀の出生地の一つとも云われている岐阜県恵那市、そこのある龍護寺には明知遠山家累代の墓所や明智光秀の供養塔も建立されています。

龍護寺に行った時の記事はこちらです。

明智町にある龍護寺~明智光秀の御霊廟(供養塔)と遠山氏について~

 

明智光安の子供とも伝わる明智左馬之助(明智秀満)は、光秀の家臣でもあります。

最後まで明智家を守ろうとした明智左馬之助(明智秀満)とその伝説についての話はこちらです。

 

明智左馬之助~明智秀満の名で有名な光秀の家臣~