溝尾茂朝(三沢秀次)(庄兵衛)|明智光秀の最期を見届けた重臣

明智光秀の重臣として知られる溝尾茂朝、深手を負った光秀の介錯を務めたことで知られています。

「明智五宿老」の一人に数えられる位の重臣ですが、不明点が多く、「三沢秀次」、「溝尾庄兵衛」と同一人物であるとも云われています。

謎に包まれた溝尾茂朝の生涯について、まとめました。

目次

溝尾茂朝、溝尾庄兵衛、三沢秀次は同一人物!?

溝尾茂朝(みぞお しげとも)(三沢秀次)は、明智光秀の重臣で「明智五宿老」の一人です。

明智五宿老とは、光秀の重臣五人を指す言葉ですが、敗者側の宿命か、皆謎に包まれています。

明智光秀
明智光秀 出典元:Wikipedia

溝尾茂朝(三沢秀次)についても謎だらけで、茂朝と同一人物の可能性が高いとみられる名前が複数あることも、実像を分かりにくくしているようです。

戦国武将は諱、通称、幼名があり、改名をしたりもするので、複数の名前があるのは珍しくはありませんが、それでも溝尾茂朝(三沢秀次)のことではないかと推測できる名前は多いです。

溝尾茂朝(三沢秀次)の通称は、「庄兵衛」と伝わりますが、同音の異表記で「小兵衛」、「勝兵衛」、「昌兵衛」、「惣兵衛」とも書かれ、どれが正しいのか不明です。

また、明智性の名乗りを許されていたようで、「明智小兵衛」という名前も書状で確認できます。

その上、当時「溝尾」は「みさわ」と読んでいたとの説もあり、「三沢秀次」、「三沢秀儀」という人物と同一人物ではないかとも云われています。

溝尾茂朝と三沢秀次が同一人物であるかは定かではありませんが、同一人物の可能性が高いと見られますので、この記事では同じ人として書いています。

また、溝尾茂朝の名前は、良質な史料には見当たらず、一級史料である『信長公記』には「ミ沢昌兵衛」という名前はあります。

溝尾茂朝(三沢秀次)は光秀の古参家臣!?

溝尾茂朝(三沢秀次)が生まれたのは、天文7年(1538年)だと云われています。

明智光秀の生年、享禄元年(1528年)説が正しいとすれば、光秀より10歳年下になります。

溝尾茂朝(三沢秀次)の両親については不明ですが、出身地は美濃国(岐阜県)の可児市広見であるとの伝承があります。

可児市は数ある明智光秀の出生候補地の中でも、有力視されている場所です。

明智城本丸跡の碑石
可児市にある明智城本丸跡の碑石

溝尾茂朝(三沢秀次)が明智家に、いつ、どのように仕えたのか不明ですが、一説には古参の家臣とも云われています。

溝尾茂朝(三沢秀次)と光秀が同郷であるのなら、古くから仕えた説は、より説得力を増すように思います。

『細川家記』では「溝尾庄兵衛」と表記

溝尾茂朝(三沢秀次)の名前が初めて歴史上に登場するのは、『細川家記』という肥後熊本藩主細川氏の歴史書です。

永禄11年(1568年)、上洛を望む足利義昭は、明智光秀の取り次ぎにより織田信長を頼ることになりますが、その頃の光秀の家人とし「溝尾庄兵衛」と表記された溝尾茂朝(三沢秀次)の名前が見えます。

明智光秀も謎が多く諸説ある部分がありますが、美濃を追われた光秀が越前に身を寄せていた頃。

明智光秀は、越前の朝倉義景を頼った足利義昭に会い、光秀の従兄弟である織田信長に義昭を引き合わせ、光秀も共に上洛します。

『細川家記』の記述を信じるのであれば、溝尾茂朝(三沢秀次)は、少なくても光秀が越前に居た頃には、仕えていたことが分かります。

『細川家記』は、細川藤孝(幽斎)、忠興、忠利、光尚の四代について書かれた一級史料です。

細川忠興の正室が、明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャですが、光秀の部分については信憑性に疑問が持たれています。

細川忠興・ガラシャ夫妻の像
細川忠興・ガラシャ夫妻の像

三沢秀次(溝尾茂朝) 越前の代官になる

天正元年(1573年)、織田信長は、越前の大名・朝倉義景を攻め滅ぼします。

この頃の明智光秀は、信長の家臣になっていて、朝倉氏との戦後処理に溝尾茂朝(三沢秀次)も携わっていたようです。

主不在となった越前を治める人物として、信長は桂田長俊(前波吉継)を守護代に任じました。

信長は滅ぼした朝倉氏の越前を、信長に降伏した元朝倉氏の家臣・桂田長俊(前波吉継)に任せることにしたのです。

暫定的な決定ですが、信長の支配下になって日が浅い人物ですので、あまり信用出来なかったのかもしれません。

そこで信長は目付を三人つけることにし、その中の一人が溝尾茂朝(三沢秀次)で、「三沢秀次」の名前で記録されています。

「北庄ノ奉行信長殿御内三人衆」と呼ばれる中の一人で、越前の代官として政務を遂行し、越前北ノ庄に留まり、政務を執り実権を握っていました。

当時の三沢秀次(溝尾茂朝)は、光秀の支配下(又は与力)であり、光秀の代官であったと見なされていますが、信長の朱印状に基づいて越前の運営をしていたそうです。

織田信長の肖像画
織田信長 出典元:Wikipedia

天正2年(1574年)、桂田長俊(前波吉継)が守護代に任命されたことを妬んだ富田長繁らによって、越前一向一揆が勃発します。

桂田長俊(前波吉継)は亡き者にされ、三沢秀次(溝尾茂朝)ら三人の代官の命も狙われます。

溝尾茂朝(三沢秀次)らは、旧朝倉家家臣の力を借りて、越前一向一揆と和睦すると北ノ庄を明け渡して、命辛々、京へ逃げ帰りました。

三沢秀次(溝尾茂朝)と丹波攻め

天正3年(1575年)、光秀は丹波を平定するする為、軍事活動をし、三沢秀次(溝尾茂朝)も従軍したと云われています。

天正4年(1576年)、「三沢秀儀」という人物が、丹波攻めの際に、国人2人に「万雑公事」(まんぞうくじ)という税を免除したという書状が残っているそうです。

三沢秀儀は三沢秀次(溝尾茂朝)と同一人物ではないかと推測できる人物です。

丹波攻めの際、和田弥十郎に協力を依頼した使者がいて、三沢秀次(溝尾茂朝)ではないかとする説があります。

丹波の八上城主・波多野秀治、弟・波多野秀尚を捕縛した人物に溝尾勝左衛門という名前が見えますが、「三沢庄兵衛」つまり、三沢秀次(溝尾茂朝)の叔父か兄だと云われています。

丹波平定は明智光秀によって成し遂げられ、「天下に面目をほどこした」と信長から称えられています。

天正10年(1582年)、明智光秀が織田信長に命じられ、同盟相手の徳川家康の饗応役を務めています。

その際、三沢秀次(溝尾茂朝)もいたようです。

溝尾茂朝(三沢秀次) 光秀を介錯する

天正10年(1582年)、本能寺の変を起こす直前に、光秀は明智秀満(明智左馬之助)明智光忠斎藤利三藤田伝五(行政)の四名の重臣に謀反の意向を打ち明けています。

『本能寺焼討之図』(楊斎延一作)
『本能寺焼討之図』 出典元:Wikipedia

「明智五宿老」のうちで溝尾茂朝(三沢秀次)だけが入っていません。

その理由は分かりませんが、信長の家臣が記した『信長公記』という信憑性の高い史料に四名の名前が書かれており、明らかに後から加筆したとわかるように「ミ沢昌兵衛」という名前も加えられているそうです。

「ミ沢昌兵衛」とは、溝尾茂朝(三沢秀次)のことであると見なされていますが、何故後から書いたのかは謎です。

明智光秀の股肱の臣である溝尾茂朝(三沢秀次)が、事前に聞かされていないとなれば、不思議に思います。

溝尾茂朝(三沢秀次)の本能寺の変での動向は不明ですが、本能寺の変後、京都の抑えとして勝龍寺城に留め置かれたようです。

その後の山崎の戦いにも従軍しています。

山崎の戦いにて、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れた光秀は、坂本城へ落ち延びる途中で土民(農民)に襲われ負傷し、小栗栖にて自害したと云われています。

その時に、光秀に命じられ介錯したのが溝尾茂朝(三沢秀次)だと云われています。

明智光秀の最期を共にし、介錯する役目を担う位ですから、溝尾茂朝(三沢秀次)は光秀の信任厚い人物だったと言えそうです。

溝尾茂朝(三沢秀次)は、光秀の首は持ち帰ろうとしますが、再び落ち武者狩りに見つかってしまい、竹藪に隠したと云われています。

そして坂本城で自害したとも云われますが、溝尾茂朝(三沢秀次)の最期については、定かではありません。

溝尾茂朝(三沢秀次)も落ち武者狩りに襲われ、滅ぼされたとも、自害したとも云われています。

享年45歳。

光秀の首ですが、見つけられてしまい、織田信孝に渡されたと『兼見卿記』は伝えています。

京都の谷性寺(こくしょうじ)には、光秀の首塚があります。

溝尾茂朝(三沢秀次)が光秀の首を近臣に託し、谷性寺に葬ったという話が残されています。

谷性寺(光秀寺)(桔梗寺)の明智光秀の首塚
谷性寺(桔梗寺)(光秀寺)の明智光秀の首塚

史実の可能性は低いように思えますが、初夏には明智家の家紋・桔梗紋の由来になったキキョウの花が咲き乱れ、別名で「桔梗寺」、「光秀寺」とも呼ばれ親しまれています。

キキョウの花
キキョウの花

山崎の戦いの敗因は何か|明智光秀の誤算

溝尾茂朝(三沢秀次)の縁者が引き立てられる!?

時は経過して江戸時代。

三代将軍・徳川家光の乳母で、江戸時代初期に大奥を取り仕切った春日局がいます。

春日局の推薦により、四代将軍・徳川家綱の乳母になった三沢局という女性は、溝尾茂朝(三沢秀次)の縁者ではないかという説があります。

春日局の父は、明智光秀の重臣で「明智五宿老」の一人でもある斎藤利三で、溝尾茂朝(三沢秀次)の同僚です。

江戸時代に明智光秀の縁者が引き立てられたことなどから、明智光秀は徳川家康の参謀・「天海」と同一人物ではないかとする「光秀生存説」が生まれています。

江戸時代発刊された『明智軍記』により、明智光秀の名誉が回復されているなど、光秀と徳川の縁は不思議ではあると感じます。

参考・引用・出典一覧
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