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溝尾茂朝(庄兵衛)~別名で三沢秀次は光秀を介錯した家臣~

2020 6/19

明智光秀の重臣として知られる溝尾茂朝(みぞお しげとも)ですが、通称は庄兵衛で、溝尾庄兵衛とも云われています。

また三沢秀次という人物とも同一人物と見られている上、明智姓も名乗っていたことがあるそうで…名前が複数あって、とてもややっこしいです。

明智光秀自体が謎だらけですが、光秀の一族や家臣のことも良く分かっていない場合が多く、溝尾茂朝(三沢秀次)も同様です。

今回は溝尾茂朝(三沢秀次)のことを、分かっている範囲でまとめています。

目次

溝尾茂朝(三沢秀次)と明智光秀の最期

溝尾茂朝(三沢秀次)は、光秀のドラマなどでは欠かせない人物の一人ですが、それは光秀の最期を描く際に欠かせないためでもあります。

本能寺の変後、光秀は羽柴秀吉との戦に敗れ、坂本城に帰る途中で命を落としたとされていますが、その時に、光秀に命じられ介錯したのが溝尾茂朝(三沢秀次)だと云われています。

光秀を介錯する役目を担う位の重臣・溝尾茂朝(三沢秀次)ですが、「明智五宿老」の一人と云われています。

そこまでの腹心でありながら、光秀になぜ仕えたのかや、光秀に仕えた時期など何も分かっていません。

明智光秀の肖像画

明智光秀

 

その生涯は多くの謎がありますが、溝尾茂朝(三沢秀次)が生まれたのは、天文7年(1538年)だと云われています。

そして、溝尾茂朝(三沢秀次)の名前が初めて歴史上に登場するのは、『細川家記』という肥後熊本藩主細川氏の歴史書です。

永禄11年(1568年)、光秀の家人として名前が見え、溝尾庄兵衛と表記されています。

また、その時の明智光秀と足利義昭のやり取りが、記されているそうです。

後に室町幕府第15代の将軍になる足利義昭ですが、当時、落ちぶれた将軍家の再興を願っていました。

足利義昭は、上洛して征夷大将軍になりたいと希望していましたが、自力では難しく越前の大名・朝倉義景を頼っていました。

そして『細川家記』や『明智軍記』によると、この頃の光秀は、朝倉義景の家臣であったとされています。

光秀が朝倉義景の家臣であったとされる頃、義景を頼った足利義昭は、越前に身を寄せていましたので、光秀とも顔なじみがあったと見なされています。

ですが朝倉義景は動かず、光秀が足利義昭に信長の方が頼りになると勧めたと云われています。

溝尾茂朝(三沢秀次)は、この頃からの家臣となると、光秀が歴史上に登場していない頃からの古参の家臣となりそうです。

 

※ただ『細川家記』や『明智軍記』の光秀についての説は真偽は定かではなく、朝倉氏に仕えていないとする説もありますし、本当にこの頃から溝尾茂朝(三沢秀次)が光秀の家臣だったかも定かではありません。

溝尾茂朝(庄兵衛)は三沢秀次

越前の大名・朝倉義景は、天正元年(1573年)、織田信長によって攻め滅ぼされます。

この頃に光秀は、信長の家臣でしたが、朝倉氏との戦後処理に溝尾茂朝(庄兵衛)も携わっていたようで、三沢秀次(みさわ ひでつぐ)の名前で記録があります。

溝尾茂朝(庄兵衛)は、三沢(みさわ)という姓も使用していたのではないかと見られており、先に述べたように三沢秀次と同一人物と見られています。

戦国時代の人は名前がいくつもあって分かりずらいですね。

 

信長は滅ぼした朝倉氏の領土・越前の運営を、信長に降伏した元朝倉氏の家臣に任せることにしていました。

暫定的な決定ですが、信長の支配下になったばかりの人物ですので、あまり信用出来なかったのかもしれません。

織田信長の肖像画

織田信長

そこで信長は目付を3人つけることにし、その一人が三沢秀次(溝尾茂朝)だと云われています。

「北庄ノ奉行信長殿御内三人衆」と呼ばれる中の一人で、朝倉氏滅亡後に越前の代官として政務を遂行した三人の中の一人とのことです。

当時の三沢秀次(溝尾茂朝)は、光秀の支配下であったと見なされていますが、信長の朱印状に基づいて越前の運営をしていたそうです。

その後、天正2年(1574年)、越前一向一揆が起きた時は、襲撃され命の危険にさらされるものの、難を逃れたそうです。

 

天正3年(1575年)、光秀は丹波を平定するする為、軍事活動をし、三沢秀次(溝尾茂朝)も従軍したと云われています。

天正4年(1576年)、三沢秀儀という人物が、丹波攻めの際に、国人2人に「万雑公事」(まんぞうくじ)という税を免除したという書状が残っているそうです。

三沢秀儀も三沢秀次(溝尾茂朝)と同一人物と見られています。

溝尾茂朝(三沢秀次)と本能寺の変

天正10年(1582年)、本能寺の変を起こす直前に、光秀は明智秀満(明智左馬之助)明智光忠斎藤利三藤田伝五(行政)の4名の重臣に謀反の意向を打ち明けています。

『本能寺焼討之図』(楊斎延一作)

『本能寺焼討之図』という本能寺の変の絵

 

「明智五宿老」のうちで溝尾茂朝(三沢秀次)だけが入っていません。

その理由は分かりませんが、当時の人が記した『信長公記』という信憑性の高い史料に四名の名前が書かれており、明らかに後から加筆したとわかるように「ミ沢昌兵衛」という名前も加えられているそうです。

「ミ沢昌兵衛」とは、溝尾茂朝(三沢秀次)のことであると見なされていますが、何故後から書いたのかは謎です。

そして本能寺の変の後、秀吉に敗れた光秀は土民(農民)に襲われ負傷し、自害したと云われています。

先に述べたように、介錯をしたのは溝尾茂朝(三沢秀次)です。

溝尾茂朝(三沢秀次)の最期については、定かではありません。

溝尾茂朝(三沢秀次)も土民に襲われ滅ぼされたとも、自害したとも、坂本城に落ち延びたとも云われています。

 

もともと史料が少ない上に、信頼のできる史料も少なくて、そして名前が複数あって、溝尾茂朝(三沢秀次)の生涯を解き明かすのは、現時点では難しそうですね。

溝尾茂朝、溝尾庄兵衛、三沢秀次、三沢秀儀など複数の名前の他に、明智姓も使用していたそうですが、研究が進んだら、実は別人も混ざっていたなんてこともあり得そうに思えますね。

 

光秀の筆頭家老・明智秀満(明智左馬之助)についてです。

明智左馬之助~明智秀満の名で有名な光秀の家臣~

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