明智光秀の家紋~桔梗紋の由来と水色桔梗~

明智光秀の家紋といえば、「桔梗紋」(ききょうもん)を使用したということは知られた話だと思いますが、『明智系図』によると光秀の使っていた桔梗紋は「水色桔梗」だと伝わります。

本能寺の変で織田信長が兵の囲まれた時、兵士が担いでいる旗に「水色桔梗」の紋が描かれていたため明智光秀の謀反であると認識したと云われています。

目次

明智光秀の家紋・桔梗紋の由来

明智光秀が家紋として使用した「桔梗紋」の由来や意味、「水色桔梗」について記します。

「桔梗紋」は、キキョウ科の多年草であるキキョウの花・葉・茎を図案化した家紋であり、キキョウ(桔梗)の花は、5センチメートル程のベル型で、青紫色で知られますが白色もあります。

画像キキョウの花
キキョウの花

土岐(とき)氏や土岐氏の庶流とされる明智氏が使用したことでも有名な家紋です。

「桔梗紋」の由来は、キキョウの花を仏や神に捧げて吉凶を占ったことから、「吉凶を占う花」として、きっきょう(吉凶)がききょう(桔梗)に転じ花の名前になったとの説があります。

また、別の由来もあり「桔梗」の字を分解すると、「木」「吉」、「木」「更」となり、ここから「更に吉(さらによし)」という言葉をつくることができ、縁起を担いだとの説もあります。

桔梗紋は美濃国(みののくに)(岐阜県)に一大勢力を築いた土岐氏が多く使用していた家紋です。

土岐氏は清和源氏(せいわげんじ)である英雄・源頼光(みなもと の よりみつ)の流れを汲んでいるとされる名門です。

平安時代末期~鎌倉時代初期にかけての武将で源頼朝(みなもと の よりとも)の御家人・土岐光衡(とき みつひら)が、戦で水色の桔梗の花を兜の前立にさして戦い、大勝利を治めたことが、桔梗紋の由来であると云われており、そこから清和源氏に広がったそうです。

その土岐氏の庶流に明智氏がいて、「明智光秀」が輩出されています。

光秀が使用した水色桔梗

明智光秀は桔梗紋の中でも「水色桔梗」を使用していたそうです。

「水色桔梗」は、珍しく水色で目立ったため、織田信長も光秀の家紋を羨ましがっていたそうです。

水色桔梗
水色桔梗(イメージ)


明智光秀の出自は諸説ありますが、清和源氏の中でも美濃に土着した土岐氏の流れを汲む一族とされています。

美濃の土岐氏が使用した旗については、「旗は白地に水色桔梗」や「水色の旗を指して」という記録が残っています。

そのため、「白地に水色の桔梗紋」と「水色の地に染め抜きの桔梗紋」の両方があったと云われています。

「水色の地に染め抜きの桔梗紋」とは、おそらく下の写真のように、水色の旗に染めてない(白い)桔梗のある旗だと思います。

福知山城の登城道にあった桔梗紋の旗
福知山城の登城道にあった桔梗紋の旗

明智光秀と土岐氏について、また清和源氏や美濃の土岐氏についてはこちらの記事に記載しています。

明智光秀と土岐氏~「ときは今~」の連歌に込められた想いとは~

土岐一族は、戦国時代より前に「桔梗一揆」と称する強力な武士団を形成していて、水色の旗を掲げており、「水色桔梗」はその名残とされています。

先に述べたように、土岐光衡が大勝利を治めた縁起物として家紋にされた桔梗紋ですが、「水色桔梗」を掲げた光秀の本能寺の変によって、裏切り者の家紋となってしまいます。

その後、桔梗紋から家紋を変更する武将が続いたそうですが、江戸時代にも土岐氏の支流が桔梗紋を使用しています。

因みに、織田信長の子孫は現代になっても、桔梗の花を飾ることは避けているとのことです。

また、『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると光秀の家紋は、「陰の桔梗」(かげのききょう)と、替紋として「丸に橘」の家紋を使用していたとしているそうです。

陰桔梗
陰桔梗

ただ、この「陰の桔梗」と「水色桔梗」は同義とする説があり、水色が使用できない時などに「陰の桔梗」を使用していたのではないかともいわれています。

丸に橘(彦根橘)
丸に橘

また「土岐桔梗」という家紋もあり、土岐一族である光秀も使用したのではないかと思ってしまいますが、江戸時代に「桔梗紋」から派生したもので、戦国時代にはなかったそうです。

土岐桔梗
土岐桔梗

「土岐桔梗」は「桔梗」によく似ていて、良く見ないと違いがわかりずらいですね。

この下に桔梗紋がありますので、良ければ見比べてみてください。

桔梗紋を使用した武将・加藤清正

桔梗紋を使っていた武将は、無念の最期を迎えた方が多いと言われています。

具体的に桔梗紋を使用していた方を見てみます。

加藤清正(かとう きよまさ)は、藤原道長(ふじわら の みちなが)の流れを汲む道長流加藤氏の一族であると云われています。

※真偽は定かではありませんが、そう伝わっているそうです。

道長流加藤氏の家紋は、蛇の目と桔梗紋だと伝わります。

桔梗紋
桔梗紋

加藤清正とは、豊臣秀吉の子飼い武将で武勇に優れ出世し、秀吉没後は徳川家康に近づき、52万石の熊本藩主となった人物です。

豊臣家恩顧の武将の為、徳川家の毒殺説もありますが急死し、清正の亡き後の加藤家は、改易され大名の座から転落してしまいます。

桔梗紋を使用した武将・山県昌景

武田信玄で有名な武田家の武田四天王の一人・山県昌景(やまがた まさかげ)も同じく桔梗紋を使用していたそうです。

美濃山県氏といわれる一族で、土岐氏と同じく清和源氏である英雄・源頼光(みなもと の よりみつ)の流れを汲んでいるとされていますので、山県家のご先祖は明智光秀と同じということになります。

その後平安時代に源国直(みなもと の くになお)が、美濃国山県郡に住み山県を名乗ったことから始まります。

山県昌景は、一族の飯富虎昌(おぶ とらまさ)が信玄の父に成敗されたことで、飯富昌景から山県昌景に名を改め、断絶していた名門である山県家を継いだとされています。

なので、山県昌景は山県家の血筋ではありません。

武田信玄の没後は、跡を継いだ武田勝頼に従います。

そして、織田信長との戦である長篠の戦いが起きて、武士としての武田家滅亡へ繋がります。

山県昌景は、無謀な戦いであると撤退を進言したものの受け入れられず、長篠の戦いで戦死してしまいました。

桔梗紋を使用した武将・坂本龍馬

坂本龍馬(さかもと りょうま)も桔梗紋を使用していたそうです。

光秀の子孫説もありますが、現在は否定的な意見が主流です。

坂本龍馬の光秀子孫説についてはこちらに記載しています。

明智光秀の子孫と細川ガラシャの子孫

坂本 龍馬は、薩長同盟成立の立て役者になるなど、明治維新に貢献しますが、志半ばで暗殺されてしまいます。

このように、桔梗紋を使用した先人達は、明智光秀を含め偶然にも悲運の最期を迎えました。

参考・引用・出典一覧
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