MENU

明智光秀と土岐氏~「ときは今~」の連歌に込められた想いとは~

2020 5/04

明智光秀の出自には諸説あります。

その中でも、美濃の守護家・土岐氏の一族で、土岐明智氏の出身とするのが有力です。

明智光秀は、そもそも明智氏の出自でないとする説もありますが、土岐氏から明智氏が派生したのは史実とされています。

この記事では、土岐氏とは何か、また土岐氏の誰の代で明智氏が派生したのかを記しています。

また、「ときは今~」の連歌について知りたい方は、この記事の下の方に書いてます。

目次から直ぐご覧いただけます。

目次

明智光秀と土岐氏

明知光秀の前半生については、不明なところが多いとされています。

出自についても同じで、土岐(とき)氏の庶流(分家)・明智氏の出自を疑問視する声もあります。

ですが、美濃(みの)(岐阜)の守護家・土岐氏の一族で、土岐氏流明智氏の出自との説が有力視されています。

光秀は有名な人物であるにも関わらず、父の名もハッキリしない位、謎の多い武将です。

なのに、何故土岐氏とされるかというと、同時代の良質な史料に光秀のことを「美濃国の住人とき(土岐)の随分衆也(ずいぶんしゅうなり)」と表現していること。

また、織田信長が光秀に宛てた書状でも、光秀のことを「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と表現していることなどがあげられます。

これらの史料や家系図などから、光秀は土岐家の庶流・明智氏と見なされています。

その土岐氏ですが、名門の出自です。

源氏(げんじ)の一つの流派である、美濃源氏(みのげんじ)という名門が祖先と云われています。

源氏から土岐氏を名乗り、やがて明智氏へ派生します。

 

※ややっこしい話です。

さっくり知りたい方は、まとめを四角の中に記載しましたので、そこをご覧ください。(2か所あります)

土岐一族の出自・美濃源氏とは

源氏や平氏という言葉を聞くことがありますが、どのような意味でしょうか。

それは、平安時代に財政難による経費削減として、皇族が皇籍を離脱する際に、天皇から賜り名乗る氏の一つです。

昔の人は子供が多いですし、皇室を離れる人も多かったようで、源氏や平氏の他に、藤原氏、橘氏もあります。

また、源氏は20の流派がありますが、清和天皇の子孫である清和源氏(せいわげんじ)が有名で、光秀の祖先も清和源氏であると伝わります。

源氏の名前は、「分枝してもその源は同じ」という意味があるそうです。

明智土岐氏は、清和源氏である源頼光(みなもとのよりみつ)の流れを汲んでいるとされます。

源頼光から明智氏にどのように派生したのでしょうか、祖先を辿ってみます。

まずは、源氏からどのように土岐氏になったのか書いています。

土岐源氏とは

土岐氏の庶流・明智氏は、清和源氏の3代目・源頼光(みなもと の よりみつ)の子孫であるといいます。

源頼光の肖像画切り抜き

 源頼光

 

源頼光は、平安時代中期の武将で、英雄とされる人物です。

なんでも、平安京を恐怖に陥れていた鬼の酒呑童子(しゅてんどうじ)や、蜘蛛(くも)の妖怪である土蜘蛛(つちぐも)を退治したとする伝説があるそうです。

源頼光の子孫は、「摂津源氏(せっつげんじ)」とも呼ばれています。

それは、摂津国(せっつのくに)(大阪府)多田の地を相続しているため、地名から取りその呼び名になったそうです。

この時代は、地名が名前の由来というケースは多いですね。

そして、摂津源氏から更に派生します。

源頼光の孫・源国房(くにふさ)が美濃源氏の祖となります。

美濃の由来は、源国房が美濃土岐郡に土着し、美濃源氏となったそうです。

系譜は、源頼光→長男・源頼国(よりくに)は美濃守→頼国の子・源国房(くにふさ)が美濃に住んで美濃源氏になりました。

土岐氏はいつ出てくるのかという感じですが、以下の系譜の土岐光衡(みつひら)が美濃国にあった土岐郡の一日市場館(ひといちばやかた)を拠点に、鎌倉時代に土岐氏を名乗ったのが始まりと云われています。

源国房→源国光(みつくに)→源光信(みつのぶ)→源光基(みつもと)⇒土岐光衡(みつひら)(光基の甥で養子)(平安時代末期~鎌倉時代初期)⇒土岐光行(みつゆき)⇒土岐光定(みつさだ)(正室は執権北条貞時の娘であり有力御家人)⇒土岐頼貞(よりさだ)(母は執権北条貞時の娘)(鎌倉時代~南北朝時代)となります。

画像土岐桔梗

土岐桔梗の紋

 

※ただ、諸説あるもので、国房の孫・源光信(みつのぶ)が、地名から土岐氏を名乗り土岐光信と名乗ったとも云われています。

また、土岐の由来は、鳥のトキであるとする説もあります。

 

土岐源氏まとめ

清和源氏の流れを汲み、美濃に住み着いた土岐一族の総称です。

美濃源氏ともいいます。

 

土岐氏から明智氏へ

この土岐頼貞(よりさだ)の九男・土岐頼基(よりもと)(長山頼基)の子である明智頼重(よりしげ)から明智氏が派生します。

明智頼重が明と名乗り、後に明になり土岐氏支流の明智氏の祖となったそうです。

(※土岐頼貞(よりさだ)には、土岐頼清という男子もいて、頼清の嫡男である頼康の子・頼兼(よりかね)が明智の祖であるとの説もあります。)

名前の由来は、山間のあけた地から「明智」を名乗ったとも、開墾のために開いた土地で「明智」とも、岐阜県可児市にあった「明智荘」(あけちのしょう)から「明智」になったとも云われています。

土岐氏は美濃の守護を200年務めた名門、戦にも長けていたようで、恩賞として土地をもらい、土地の名前などを由来に名前を付けたと見られています。

 

明智頼重は、南北朝時代から室町時代の武将ですが、どのように明智光秀に繋がっていくのか『明智系図』を見てみます。

土岐明智氏の祖である頼重⇒頼篤⇒国篤⇒頼秋⇒頼秀(よりひで)⇒頼弘⇒頼定⇒頼尚⇒頼典⇒光隆(みつたか)⇒明智光秀と繋がると記されています。

明智家の立ち位置は、土岐家の有力庶家で、土岐守護家からある程度独立した立場にあったようです。

 

また、明智光秀の正室・妻木煕子の妻木家も土岐氏の一族であるとされています。

一説には、土岐頼貞の九男・頼基(よりもと)が妻木郷を与えられ、妻木城を築き、子孫が妻木氏を称したことから始まったとも云われますが定かではありません。

また、妻木城を築城したのは、土岐頼貞の孫・土岐頼重であるとも云われていて、真実は不明です。

 

※明智家の系図は、現代でも系図があっているかハッキリしていないそうです。

いくつかある明智家の系図の中でも、『明智系図』は、古文書に見える人物と一致しているそうです。

 

※『明智系図』では、光秀の祖父に当たる人物は、明智頼典となっています。

ですが、光秀の父と有力視されている明智光継(みつつぐ)と同一人物とのことです。

※光秀の父の名は、光隆の他に、光綱(みつつな)、光国など複数あり、現代もはっきりわかっていません。

 

なんだかややっこしいので、簡単なまとめです。

・光秀は名門の土岐家の分家筋(土岐源氏)

 

・土岐家は皇族が祖先

 

・系譜:皇族→源頼光(清和源氏)→源頼光の孫・源国房(美濃源氏)→土岐光衡(土岐氏)→明智頼重(明智氏)→明智光秀

 

・諸説あり

 

 

光秀の父については、こちらの記事に記載しています。

👇

明智光秀の父~明智家と齋藤道三~

 

光秀の出生地や母についてはこちらに記しています。

👇

明智光秀の出生地と光秀の母について

本能寺の変の直前に開催した連歌会

また、光秀が土岐氏の出身であると紹介する時に、有名なエピソードがあります。

光秀が連歌会で詠んだ句に、謀反を決意しているともとれる句があるというものです。

まずは、「ときは今~」で知られる句の紹介をさせていただきます。

本能寺の変は、天正10年6月2日に起きました。

本能寺の変の直前の5月28日、光秀が連歌会を催し、歌の中で密かに謀反をほのめかしたとする説があります。

この年の5月は29日までだったそうで、6月1日に移動し6月2日に本能寺の変を起こしますので、本当に直前ということになります。

京・愛宕山(あたごやま)(京都市右京区)に登り、愛宕百韻(あたごひゃくいん)という連歌会を開催します。

連歌会には、連歌の師の里村紹巴(さとむら じょうは)を招きます。

 

連歌に込められた光秀の想い「ときは今~」

その際の光秀の発句(ほっく)は、「ときは今あめが下知(したし)る五月かな」。

この句は、本能寺の変のミステリーなどで取り上げられますので、知っている方も多いかもしれません。

素直に解釈すると「今の時期は五月そのものである」という意味になるそうです。

ですが、光秀の深い想いが込められているのではないかとする説もあります。

この「とき」とは光秀の本姓・土岐氏の意味で、「あめが下知る」とは天下に下知(げち)(命令)するの意味だといいます。

つまり、「この五月、今こそ土岐氏出身の自分が天下に下知する時なのだ」。

という思いが、この発句には込められているという説です。

 

明智光秀の肖像画

明智光秀

 

「ときは今~」の句の解釈は、有名な歴史家の先生でも土岐氏とかけていると考える方もいらっしゃいますね。

私も初めて聞いた時、なる程、面白い話だなと思いました。

しかし、この解釈には疑問視する声もあります。

織田信長は、この連歌会に参加していませんが、愛宕神社に奉納されているため、信長が内容を知っていた可能性は高いそうです。

もし、本当に知っていたとしたら、信長は謀反の気持ちに気が付いていないことになります。

この連歌会には光秀の家臣だけでなく、連歌師を初めとする外部の人間が大勢参加していた状況であったそうです。

そのような中、逆心に気付かれる可能性のある句を詠むものだろうかという疑問も残りますので、深読みし過ぎかな…と思いますが、いかがでしょうか。

 

また、光秀が本当は詠んだ句は「今は雨が降りしきる五月である」という意味になる「ときは今 あめが下なる五月かな」だとする説もあります。

その上、連歌会が開催されたのは、本当は5月24日なのに改ざんされているとか。

何故でしょうか。

この光秀の句が有名になったのは、「惟任退治記(これとうたいじき)」という、史料がキッカケです。

惟任とは光秀のことですが、光秀の退治記として羽柴秀吉(豊臣秀吉)が家臣に書かせたものです。

本能寺の変のわずか四カ月後に出来たもので、明智光秀を滅ぼした秀吉の宣伝書のような物です。

そこで、光秀の野望を表す句として記載され後世に伝わったそうで、ここで改ざんされたのでしょうか。

進展あれば追記します。

 

光秀は土岐氏であることが誇りだった⁉

「ときは今~」の句が謀反を暗示したかは不明ですが、本能寺の変の理由で、光秀が落ちぶれた土岐氏の再興を願ったという説があります。

近年、本能寺の変の遠因として囁かれている四国説

織田信長が、四国の長宗我部元親を成敗しようとしたことが、本能寺の変の一因ではないかといわれている説です。

この四国説は、光秀の重臣・斎藤利三(さいとう としみつ)、利三の兄・石谷頼辰(いしがい よりとき)も絡んできます。

明智光秀、斎藤利三、石谷頼辰はいずれも土岐氏、長宗我部元親の正室も土岐氏で嫡男達も土岐氏です。

当時、名門の土岐氏の嫡流は、下剋上により落ちぶれてしまっていました。

土岐氏再興を目指す、彼らにとって、長宗我部征伐は見過ごせない出来事だったとされています。

本能寺の変の原因は定かになっていませんで、本当に本能寺の変の一因かは不明ですが、光秀は土岐氏であることに誇りを持っていたのかもしれません。

 

没落した土岐家の話は美濃の守護・土岐頼芸、土岐頼芸を追い落とした斎藤道三の話は、別で詳しく書いています。

興味ある方は合わせてご覧ください。

目次
閉じる