明知光秀の前半生については、不明なところが多いとされていますが、出自については、土岐(とき)明智氏の出身を疑問視する声もあるものの、美濃(みの)(岐阜)の守護家・土岐の一族で、土岐氏流明智氏の出身との説が有力です。

光秀は父の名もハッキリしない位、謎の多い武将ですが、何故土岐氏とされるかというと、同時代の良質な史料に光秀のことを「美濃国の住人とき(土岐)の随分衆也(ずいぶんしゅうなり)」と表現していることや、織田信長が光秀に宛てた書状でも光秀のことを「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と表現していることなどがあげられます。

その明智土岐氏は、源氏(げんじ)の一つの流派である、美濃源氏(みのげんじ)と呼ばれ名門とされる氏族(祖先が同じ同族)とされています。

源氏から土岐氏を名乗り、やがて明智氏へ派生します。

今回の記事では美濃源氏とは何か、土岐氏は源氏の誰の代で派生し、土岐氏になったのか、明智氏は土岐氏の誰の代で派生し明智氏となったのか、有力視されている説を記しています。

また、光秀が土岐氏の出身であると紹介する時に、有名なエピソードがあります。

光秀が連歌会で詠んだ句に、謀反を決意しているともとれる句があるというものです。

まずは、「ときは今~」で知られる句の紹介をさせていただきます。

 

連歌に込められた光秀の想い「ときは今~」

 

本能寺の変の直前の1582年5月28日、光秀は連歌の師の里村紹巴(さとむら じょうは)を招き、京・愛宕山(あたごやま)(京都市右京区)に登り、愛宕百韻(あたごひゃくいん)という連歌会を催したといいます。

その際の光秀の発句(ほっく)は、「ときは今あめが下知(したし)る五月哉(さつきかな)」であるといい、素直に解釈すると「今の時期は五月そのものである」という意味になるそうです。

ですが、光秀の深い想いが込められているのではないかとする説もあります。

この「とき」とは光秀の本姓・土岐氏の意味で、「あめが下知る」とは天下に下知(げち)(命令)するの意味だといいます。

つまり、「この五月、今こそ土岐氏出身の自分が天下に下知する時なのだ」という思いが、この発句には込められているという説です。

初めて聞いた時、なる程、面白い話だなと思いました。

ですが、光秀がどのような想いで詠んだのか光秀にしかわかりませんし、この解釈には疑問視する声が多くあります。

織田信長は、この連歌会に参加していませんが、愛宕神社に奉納されているため、信長が内容を知っていた可能性は高いそうです。

もし、本当に知っていたとしたら、信長は謀反の気持ちに気が付いていないことになります。

この連歌会には光秀の家臣だけでなく、連歌師を初めとする外部の人間が大勢参加していた状況であったそうです。

そのような中、逆心に気付かれる可能性のある句を詠むものだろうかという疑問も残りますので、深読みし過ぎかな…と思いますが、いかがでしょうか。

 

また、この光秀の句が有名になったのっは、「惟任退治記(これとうたいじき)」という、本能寺の変のわずか四カ月後に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が家臣に書かせた書物がきっかけであったとされています。
惟任とは、明智光秀のことですので、明智光秀を滅ぼした秀吉の宣伝書のような物です。

そこで、光秀の野望を表す句として記載され後世に伝わったそうです。

 

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土岐一族の出自・美濃源氏とは

 

源氏や平氏という言葉を聞くことがありますが、どのような意味でしょうか。

それは、天皇の皇子、皇女が臣籍降下(しんせきこうか)、現代で言う皇籍離脱(こうせきりだつ)をする際に、天皇から賜り名乗る氏の一つで、源氏の他に平氏(へいし)、藤原氏(ふじわらうじ)、橘氏(たちばなうじ)があります。

源氏には多数の流派がありますが、清和天皇の子孫である清和源氏(せいわげんじ)が有名で、光秀の祖先も清和源氏であると伝わります。

明智土岐氏は、清和源氏である源頼光(みなもとのよりみつ)の流れを汲んでいるとされます。

源頼光から明智氏にどのように派生したのでしょうか、祖先を辿ってみます。

 

 

源氏から土岐氏へ

土岐氏流明智氏は、清和源氏の3代目・源 頼光(みなもと の よりみつ)の子孫であるといいます。

源頼光の肖像画

出典元:Wikipedia 源頼光

源 頼光は、平安時代中期の武将で、平安京を恐怖に陥れていた鬼の酒呑童子(しゅてんどうじ)や、蜘蛛(くも)の妖怪である土蜘蛛(つちぐも)を退治したとする伝説があり、英雄とされる人物です。

源 頼光は、摂津国(せっつのくに)(大阪府)多田の地を相続しており、その子孫は地名から「摂津源氏(せっつげんじ)」とも呼ばれるようになります。

源頼光と長男・源頼国(よりくに)は美濃守を務め、頼国の子・源国房(くにふさ)が美濃土岐郡に土着(どちゃく)(その土地に住みつくこと)し、美濃源氏の祖となります。

国房の孫である源光信(みつのぶ)が、地名から土岐氏を名乗り土岐光信とも記されるようになります。

光信以下の系譜は、土岐光基(みつもと)⇒土岐光衡(みつひら)(光基の甥で養子)(平安時代末期~鎌倉時代初期)⇒土岐光行(みつゆき)⇒土岐光定(みつさだ)(正室は執権北条貞時の娘であり有力御家人)⇒土岐頼貞(よりさだ)(母は執権北条貞時の娘)(鎌倉時代~南北朝時代)となります。

 

※土岐光衡が土岐氏を名乗ったとする説もあります。

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土岐氏から明智氏へ

 

この土岐頼貞(よりさだ)の九男・土岐頼基(よりもと)(長山頼基)の子である明智頼重(よりしげ)が明知と名乗り、後に明智として定着し、土岐氏支流の明智氏の祖となります。

※土岐頼貞(よりさだ)には、土岐頼清という男子もいて、頼清の嫡男である頼康の子・頼兼(よりかね)が明智の祖であるとの説もあります。

 

明智頼重は、南北朝時代から室町時代の武将ですが、どのように明智光秀に繋がっていくのか「明智系図」によると、土岐明智氏の祖である頼重⇒頼篤⇒国篤⇒頼秋⇒頼秀(よりひで)⇒頼弘⇒頼定⇒頼尚⇒頼典⇒光隆(みつたか)⇒明智光秀と繋がるとしるされています。

明智家は土岐家の有力庶家として、土岐守護家からある程度独立した立場にあったようです。

 

※明智家の系図は、現代でも系図があっているかハッキリしていないそうですが、いくつかある明智家の系図の中でも、「明智家系図」は、古文書に見える人物と一致しているそうですので、違う所があるかもしれませんが掲載しています。

※「明智系図」では、光秀の祖父に当たる人物は、明智頼典となっていますが、明智光継(みつつぐ)と同一人物であり、明智光継の名で知られています。

※光秀の父の名は、光隆の他に、光綱(みつつな)、光国など複数あり、現代もはっきりわかっていません。

光秀の父については、こちらの記事に記載しています。

👇

明智光秀の父~明智家と齋藤道三~

 

光秀の出生地や母についてはこちらに記しています。

👇

明智光秀の出生地と光秀の母について

 

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参考・引用・出典一覧

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