土岐頼芸といえば、斎藤道三の下剋上により追い落とされた可哀そうな人というイメージでしょうか。

不遇な人生と思われる土岐頼芸ですが、名門の出自で一度は美濃守護大名にもなった人物です。

兄の土岐頼武、甥の土岐頼純と対立し、土岐家中を分断する戦に勝利するものの、斎藤道三によって追い落とされるという頼芸の波乱万丈な人生についての記事です。

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土岐頼芸と土岐頼武の対立

土岐頼芸(とき よりあき/よりのり)は、文亀2年(1502年)に美濃の守護大名・土岐政房(とき まさふさ)の次男として生まれます。

 

土岐氏は、清和源氏の3代目・源 頼光(みなもと の よりみつ)の流れを汲む名門で、源光信(みつのぶ)が土岐氏を名乗ったことが土岐氏のは始まりと云われています。

源頼光の肖像画切り抜き

源頼光

源光信は、平安時代末期の武将ですので、とても長い歴史のある家柄で、頼芸の時代は美濃の守護大名を務めていました。

 

当時の美濃は、土岐氏の下に美濃守護代の斎藤氏がいて、そのまた下に美濃小守護代という代官の役目をする長井氏がいました。

しかし、美濃守護代・斎藤利国(さいとう としくに)が嫡男と共に戦で亡くなり、長井氏が台頭してくることになります。

 

一方の土岐氏は家督相続を巡り争っていました。

父・土岐政房は、嫡男の土岐頼武(とき よりたけ)より次男の頼芸に家督を継がせ、頼武に対しては、廃嫡を考えていたと云います。

父が嫡男を差し置き次男の頼芸に家督を継がせようとして起きた土岐家の争いは、家臣も分断することになってしまいます。

次男の頼芸には、父・政房の援護もあり小守護代・長井長弘(ながい ながひろ)、長井新左衛門尉がつき、嫡男の頼武には守護代・斎藤利良(さいとう としなが)がつきます。

長井新左衛門尉とは、後の斎藤道三の父にあたる人物です。

 

<土岐頼芸敗北>

そして永正14年(1517年)に戦が起きますが、嫡男の頼武側が勝利します。

これで家督相続も決まったかに思えましたが、頼芸は前守護代・斎藤彦四郎(さいとう ひこしろう)と密かに連絡を取り合います。

斎藤彦四郎とは、斎藤利良の叔父にあたります。

つまり齋藤家の叔父は頼芸側に、甥は頼武側についたことになります。

斎藤彦四郎は、頼芸の父・土岐政房と対立し戦に敗れたことで、尾張に逃れていた人物です。

その斎藤彦四郎が見方している頼芸の後ろ盾は、斎藤彦四郎が対立していた土岐政房という複雑な状況です。

 

<土岐頼芸勝利>

そして永正15年(1518年)に再度戦が起き、今度は頼芸側が勝利すると斎藤彦四郎は美濃に戻ることができたそうです。

一方の頼武は追放され、斎藤利良と共に利良の叔母の嫁ぎ先である越前国の朝倉氏を頼ることになります。

また時期は定かでありませんが、頼武は朝倉氏第9代当主・朝倉貞景(あさくら さだかげ)の三女を娶り朝倉氏との関係を深めています。

そして朝倉氏の援護を受けた頼武はここで終わりませんでした。

 

<土岐頼芸大敗>

永正16年(1519年)、頼武は朝倉孝景を後ろ盾に争い頼芸側に快勝し、頼武を美濃の守護にすることで決まったように思えたそうです。

しかし頼芸は、まだ諦めていませんでした。

 

<土岐頼芸勝利>

大永5年(1525年)に再度戦を起こし、享禄3年(1530年)についに頼武を朝倉氏の元に追放します。

この追放には、長井新左衛門尉と長井新九郎規秀(後の斎藤道三と道三の父)が大きく貢献したそうです。

 

これで、頼芸は守護には就いていないものの、事実上の守護大名となりますが、頼芸を支えてくれていた小守護代・長井長弘、長井新左衛門尉(道三の父)を亡くします。

享禄3年(1530年)か天文2年(1533年)に長井長弘は、美濃略奪を秘かに狙う若き日の道三によって、滅ぼされたとも云われています。

病死説もあり断定できませんが、長井長弘は頼芸の小守護代を務めた人物で、道三はライバルとして邪魔な存在だったのかもしれません。

新左衛門尉も亡くなりましたので、子・長井新九郎規秀が重臣となります。

この長井新九郎規秀こそが、後の齋藤道三です。

そして、道三の長井新九郎規秀という名前は、長井長弘を滅ぼした後に名乗ったとも云われています。

またこの時期の出来事として、享禄元年(1528年)に頼芸の愛妾・深芳野(みよしの)を道三に下賜し、深芳野は道三の側室になります。

 

頼芸は後に斎藤道三によって追放され、数奇な運命を辿ることになりますが、そのことを頼芸は知る由もなかったかもしれません。

天文4年(1535年)に頼芸は、父の十七回忌を行います。

これにより、頼芸が後継者であることを美濃国に知らしめたことになります。

これにより、ますます頼武と対立し、朝倉氏や六角氏の援護を受けた頼武側は、頼芸側と戦になりますが、頼武は病で亡くなったそうです。

没年は不明ですが、享年49歳だと云います。

 

頼芸の愛妾だった深芳野については、こちらの記事えす。

深芳野~斎藤道三の側室で義龍の生母となった女性~

 

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土岐頼芸と土岐頼純和議を結ぶ

頼武のあとは、嫡男の土岐頼純(とき よりずみ)が継ぎ、叔父である頼芸と対立することになります。

頼純には朝倉氏、六角氏がついていますので、大きな戦になったようです。

しかし頼芸が六角定頼(ろっかく さだより)の娘を娶り、六角氏が頼芸側に転じると状況が変わります。

亡くなった斎藤利良に代わって斎藤利茂(さいとう とししげ)が頼純側の守護代を務めていましたが、六角定頼に説得されて頼芸側に寝返ってしまいました。

同時期に頼芸は、12代将軍・足利義晴に、修理大夫の官位を与えられ、翌天文5年(1536年)には、天皇の許可により正式に守護になります。

頼純は苦しい立場に追い込まれてしまい、天文8年(1539年)に頼芸と和議を結ぶことになります。

頼芸はこれで一安心と思ったかもしれませんが、頼芸の戦いの日々は続きます。

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土岐頼芸と斎藤道三の対立と没落

守護大名は頼芸でしたが、頼芸を守護大名に据えるのに貢献した斎藤氏や長井氏の影響力が大きくなり、美濃は複雑な状況でした。

その中でも、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)は、美濃国を乗っ取るという野望を持っていました。

斎藤道三の肖像画 2つ目

斎藤道三

 

頼芸の守護就任に貢献し、信頼を得ていた長井新九郎規秀(後の斎藤道三)ですが、頼芸と道三との間に亀裂が入る出来事が起きます。

天文10年(1541年)に、長井新九郎規秀(斎藤道三)が頼芸の弟・頼満を滅ぼす事件が起きた為、頼芸と長井新九郎規秀(齋藤道三)は対立するようになったそうです。

天文11年(1542年)には、道三によって土岐氏の居城・大桑城が攻められ、頼芸は子の頼次と共に道三によって追放されます。

一方の、頼純は朝倉氏を頼ります。

頼芸は追放された尾張国で、信長の父である織田信秀の援助を受けて、朝倉氏の元にいる甥の頼純と協力し美濃も守護に復帰します。

しかし、天文15年(1546年)、道三と朝倉氏が守護の座を頼芸から頼純に渡すことを条件に和睦したため、頼芸は退き頼純が守護になります。

そして頼純と道三の娘は結婚しますが、頼純は約一年後に急死します。

道三によって滅ぼされたとも云いますが、定かではありません。

 

また天文17年(1548年)に、織田信秀と道三が和睦し、信秀の庇護を失った頼芸は道三に追放されてしまいます。

美濃奪還を試みたそうですが、頼ろうとした織田家からの協力は得られず、望みは潰え六角氏の元へ行った後に、弟・土岐治頼(とき はるより)のいる常陸国(ひたちのくに)に身を寄せます。

その時に、家系図や家宝を治頼に譲渡したと伝わります。

治頼は婿養子になっていましたが、土岐家を継ぎ名門土岐家の再興を目指しますが、戦の中病で亡くなったそうです。

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土岐頼芸の晩年

すっかり歴史上の表舞台から姿を消した頼芸ですが、甲斐の武田家で見つかります。

その当時の織田家当主は信長で、武田勝頼は滅ぼしますが、その時に武田家に保護されていた頼芸を見つけたそうです。

信長の家臣であった稲葉一鉄によって、織田家の領地となっていた美濃に戻ることになりました。

稲葉一鉄は、元は土岐頼芸の家臣でしたので、同情のような思いがあったのかもしれません。

また頼芸は病で失明し光を失ったそうです。

約30年ぶりに美濃に戻れた頼芸ですが、半年後に享年81歳で生涯を閉じたそうです。

美濃の地を再び踏むことができ、思い残すことがなくなったのでしょうか。

こうして名門であった守護大名としての土岐家は滅びました。

土岐家は頼芸の父も跡継ぎを巡り、土岐家と家臣達を分断し争っています。

子の頼芸も同様に争い、土岐一族で争って衰退したところを齋藤道三に乗っ取られてしまいました。

一族の絆が強ければ、美濃が道三の手に渡ることはなかったかもしれません。

下剋上を代表するような話ですが、戦国の世とはいえ、主君も家臣も親族同士で争って滅んでいくという…悲しくなる話ですね。

 

土岐頼芸(洞文)と鷹の絵

土岐頼芸は、鷹の絵を描く才能があっり、文に秀でた武将としても知られています。

土岐家ほどの名門となると「武」も大事でしょうけれど、「文」も大切にしていたのでしょうか。

土岐頼芸は多くの鷹の絵を残し、その絵は「土岐の鷹」と呼ばれています。

また土岐一族には、土岐洞文、土岐冨景という画家の名前も伝わっているそうですが、頼芸と同一人物であると見なされています。

そして、頼芸の孫である土岐頼高も鷹の絵が得意だったそうです。

 

土岐頼芸の子孫

頼芸の長男は名前の他は不明ですが、次男は土岐頼次(とき よりつぐ)といい、母は六角定頼の娘です。

頼次の長男は頼勝、二男は頼高、三男は頼泰で、他に女性も一人いるそうです。

長男の子孫は徳川幕府の高家旗本、三男の子孫は旗本として徳川家に仕えています。

また、高家(こうけ)とは、儀式などを司る江戸時代の役職のことで、高家の職に就ける家格の旗本を、高家旗本と呼んでいたそうです。

土岐家は名門であるため、高家になる家格を有していました。

 

<梶川頼照>

梶川頼照(かじかわ よりてる)という江戸時代前期の旗本は、頼芸の子孫だと云います。

頼次の三男・頼泰の子で、「忠臣蔵」で知られる赤穂事件(あこうじけん)で名前がでてきます。

元禄14年(1701年)に江戸城の中で浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)が吉良上野介(きら こうずけのすけ)に切りかかり、浅野内匠頭は自害されられ、浅野家の家臣達が主君の仇討に吉良邸に討ち入りにはいるという出来事です。

浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかった時、梶川頼照が浅野内匠頭を取り押さえたとも云われています。

京極高規が取り押さえたとの説もありますが定かでなく、梶川頼照はこの功績により加増されたそうです。

頼照は、赤穂事件のことを『梶川与惣兵衛日記』に書き残しているそうです。

 

<土岐頼元・持益>

頼芸の四男・土岐頼元(とき よりもと)と、その子土岐持益(とき もちます)も高家旗本として存続していますが、その後の子孫は不明です。

土岐家は清和源氏の流れを汲む名門ですので、四男の家でも高家として編成されていたそうです。

 

<土岐善麿>

土岐善麿(とき ぜんまろ)氏も頼芸の子孫だと云います。

生まれは1885年(明治18年)、亡くなったのは1980年(昭和55年)という最近の方です。

東京浅草にある真宗大谷派の寺院、等光寺に生まれたそうで、等光寺は頼芸の子である大圓が創建したそうです。

歌人・国語学者とのことですが、『われらの日本』という国民歌を作詞したり、1947年(昭和22年)には、日本学士院賞(にっぽんがくしいんしょう)を受賞しています。