深芳野(みよしの)は、美濃一番の美女とも云われていた女性です。

美濃の守護大名・土岐頼芸(とき よりあき/よりのり)の愛妾であったと伝わりますが、後に斎藤道三の側室になり、斎藤義龍を生んだと云われています。

この記事では、深芳野の出自や道三の側室になった過程などを書いています。

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深芳野と齋藤道三

深芳野(みよしの)は、生まれた年も亡くなった年も定かではありません。

戦国時代の女性の記録が残っていないことは、よくあることですが、深芳野については父もハッキリ分かっていません。

『岐阜市史』によると、稲葉通則の娘で稲葉一鉄の姉だと云います。

稲葉一鉄は、稲葉良通(いなば よしみち)の名前でも知られていて、西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)と呼ばれ、美濃斎藤家の有力な家臣です。

斎藤家とは、斎藤道三で有名な家ですが、深芳野は斎藤道三の側室でもありました。

斎藤道三の肖像画 2つ目

斎藤道三

まずは、深芳野が斎藤道三の側室になった過程を記します。

深芳野は、美濃一の美女であったとする説もあり、元は土岐頼芸(とき よりあき/よりのり)の愛妾(あいしょう)であったそうです。

※頼芸の読み方は諸説あります。

土岐頼芸とは、斎藤道三の主君で美濃国の守護大名でしたが、後に下剋上により斎藤道三に追い落とされることになる人物です。

後に美濃を略奪されるとは知る由もなかった享禄元年(1528年)、頼芸から道三に深芳野が下賜され側室になったそうです。

下賜とは身分の高い人が、低い人に物を与えることですが、戦国時代とはいえ、人を物のようにあげているところが凄いなと思います。

深芳野は承知したのでしょうか、意思は関係無いという感じでしょうか…。

また深芳野は頼芸のお気に入りの妾である愛妾でしたので、よほどの理由があったと思います。

その当時は、土岐頼芸が家臣を分断し兄と家督争いをしていた時期で、道三の父は頼芸の重臣でした。

道三の父が亡くなった正確な年は不明ですが、下賜された時期に近いと推測できます。

道三の父が亡くなり、道三が重用され、道三は多大な活躍をすることになります。

道三の働きぶりからは、美濃を略奪する野望があったとは思いもよらなかったかもしれません。

もしかしたら、恩賞という意味で下賜したのでしょうか?

詳しい史料は見つかっていないようで、詳細は不明です。

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深芳野が斎藤義龍を生む

その後、道三と深芳野の息子である斎藤義龍が生まれます。

義龍が生まれた時期が、深芳野が下賜された翌年の享禄2年(1529年)であったことから、義龍は頼芸の子だとする説もあります。

後に土岐頼芸を追い出して美濃国主となる斎藤道三ですが、道三の下剋上により美濃の国は荒れたそうです。

道三は義龍を主に据えて自身は出家しますが、頼芸の子である義龍を国主にして、混乱を鎮めようとしたとも云われています。

斎藤義龍

斎藤義龍

斎藤道三は美濃のマムシとの異名を持つ人物ですが、下剋上の代名詞のような悪い人に思えます。

なので、本当は自分の子なのに、頼芸の子だとしているのではないかと思ってしまいますが、頼芸の落胤説は江戸時代に書かれた書物に記載されており、創作の可能性があるそうです。

また、義龍の父親は道三だと分かる内容の当時の人が書いた手紙もあるそうで、頼芸の子の説は信憑性が低いと見なされていますし、当時そのような噂があったのか無かったのかは不明です。

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深芳野の生家は一色氏!?

また深芳野の父は、一色義清(いっしき よしきよ)、母は一色義遠(いっしき よしとお)の娘とする説もあります。

しかしこの話も江戸時代に書かれた『美濃国諸旧記』(みののくにしょきゅうき)が元になっているので、信憑性に疑問を持たれています。

しかし深芳野の子である斎藤義龍が、一色左京大夫と名乗っていたことから、一色氏との関係も注目されています。

また深芳野の父かもしれない一色義清は、左京大夫という官位を授かっています。

 

また義龍には、斎藤孫四郎(さいとう まごしろう)と斎藤 喜平次(さいとう きへいじ)という弟がいます。

二人の生母は深芳野であるとも、正室の小見の方であるとも云われています。

道三は、喜平次に一色右兵衛大輔という名前を与えており、ここでも一色氏の名前がでてきます。

二人の弟は父・道三の寵愛をうけますが、義龍には廃嫡を考えていたと云われています。

父の寵愛ゆえか孫四郎、喜平次ともに、兄の義龍を蔑むようになったそうです。

そして後に廃嫡を恐れた義龍によって、孫四郎、喜平次ともに滅ぼされています。

廃嫡を考える程の仲だったことからも、道三の子ではないとする説が囁かれるのかもしれませんね。

 

その後、義龍は道三と対立し、道三は滅ぼされます。

義龍は、自身の父や弟達を滅ぼしたことになります。

母である深芳野が亡くなった年は不明ですので、この家族の争いを知っていたかわかりませんが、知っていたらどのような気持ちでしょうか。

そもそも、深芳野は道三のことを慕ってなかったかもしれませんが…。

戦国時代とはいえ、家族同士で争ったり、深芳野という女性を物のように下賜したり、凄い家族だなと思います。

 

斎藤義龍の生涯と父・斎藤道三との関係