斎藤道三といえば、美濃の守護大名・土岐氏の家臣でしたが、土岐氏を追放して美濃の国主の座に就きます。

斎藤道三は美濃のマムシという異名を持ちますが、その理由は下剋上を象徴するような生き様をした為だと云われています。

マムシといわれる程の出来事とは何か、美濃のマムシ誕生の理由を書いています。

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マムシは二人いた!?

斎藤道三(さいとう どうさん)は、明応3年(1494年)、斎藤道三は応仁の乱で焼け野原になった、山城乙訓郡(おとくにぐん)西岡で生まれたと云われています。

道三といえば美濃というイメージがありますが、生まれは京都であると伝わっています。

斎藤道三の肖像画 2つ目

斎藤道三

ですが出生地には諸説あり、また生まれた年も、永正元年(1504年)とする説もあり定かではありません。

道三の前半生は諸説ありますが『美濃国諸旧記』によると、道三の祖先は代々武士の家系で、浪人・松波左近将監基宗(まつなみさこんしょうげんもとむね)の子として生まれたそうです。

※道三の父の名前は、松波 庄五郎(まつなみ しょうごろう)や新左衛門尉の名前でも知られています。

 

道三は僧侶、油商人を経て土岐氏の家臣になり、下剋上を遂げ「美濃の国盗り」に成功したというのが通説でした。

しかし近年の研究で、道三は父と親子二代で、美濃の国盗りを行っていた可能性が高くなりました。

道三だけでなく、父もマムシだったようです。

 

また、道三の記録は父の記録とごちゃ混ぜになっているようで、ウィキペディアを見ても、道三のこととして書かれているのと、ほぼ同じ内容が道三の父の父のところにも書いてあります。

先ほど述べたように、今まで道三の前半生と云われていたことは、実は父のこととする可能性が高まりました。

当ブログではまず、道三の前半生と云われていたものの、道三の父のことかもしれない説を書きます。

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もう一人のマムシ!?道三の父

<僧侶>

道三の父(又は道三)は、京都妙覚寺にて出家し、法蓮房の名で僧侶となったそうです。

後に還俗して松波 庄五郎(まつなみ しょうごろう)と名乗ったと云われています。

※道三の父は、暫く松波庄五郎と名乗っていました。

※道三も出家したとも云われています。

 

<油商人>

その後の記録として、松波庄五郎(道三父?)は、油問屋の奈良屋又兵衛という人物の娘を嫁にもらい、油商人とななったそうです。

庄五郎は行商上手で商いは成功したそうです。

油を注ぐときに漏斗は使わず、当時の穴の開いた銭に油を通し、油がこぼれたら無料にするというパフォーマンスで魅せて、評判になったと云われています。

しかし、美濃の守護・土岐氏の家臣であった矢野という人物に出会い、状況が一変します。

矢野から「素晴らしい技術だが、所詮商人の技、武芸にこの力を注げば、素晴らしい武士になれるだろうに残念だ」という主旨のことを言われて、武芸の稽古をして武士になったと云われています。

※この話が史実か疑問視する声もあります。

私も嘘っぽい話に聞こえますが…。

しかし、この銭の穴に油を通した話は有名です。

 

<土岐氏の家臣>

その後、庄五郎(道三父?)は、僧侶の時の縁により、美濃の守護・土岐氏の小守護代を務めていた長井長弘(ながい ながひろ)の家臣になれたそうです。

美濃には国主である土岐氏の下に美濃守護代がいて、その下に代官として働く小守護代の長井氏がいました。

その長井氏の家臣になり、長井氏の家臣だった西村氏の家名をついで西村勘九郎正利(道三父?)と名乗りを変えます。

そして後に、長井長弘の推挙により、土岐頼芸(とき よりあき/よりのり)の家臣となり重用されることになり、道三の父は土岐氏の三奉行の一人にまで登りつめましたとされています。

 

またこの頃、美濃の守護大名である土岐氏は、家督相続を巡り争っていました。

道三父子がついたのは、土岐頼芸という次男でありながら父の支持を得て、兄の土岐頼武と対峙していた人物です。

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道三の理由①長井家を乗っ取る

道三は頭角を表し、土岐頼芸の信頼を得ていたそうです。

そして道三の父が亡くなると、そのポストに道三が就き、下剋上の第二ラウンドが始まりました。

それでは、道三がマムシと云われる理由を書きます。

道三の父が亡くなり、土岐頼芸は子である道三を重用ししたそうです。

 

一説には、道三は相当な美形であり、土岐頼芸とは男色の関係にあり、出世したとも云われています。

 

また、同じく土岐頼芸の信頼を得ていた人物に長井長弘がいます。

土岐頼芸の家臣へ引き上げてくれた、道三父子にとって恩人でもある人物です。

しかし道三は、享禄3年(1530年)か天文2年(1533年)に長井長弘を滅ぼし、長井家を乗っ取り長井新九郎規秀と名乗ります。

※病死説もあります。

 

道三の理由②斎藤家を乗っ取る

美濃守護代は、斎藤利良(さいとう としなが)という人物が務めていましたが、天文7年(1538年)に亡くなったそうですう。

病死とも滅ぼされたとも云われており、一説によると道三が滅ぼしたと云われています。

真偽はさだかではありませんが、斎藤利良亡き後、道三は守護代斎藤の名跡を継いで、斎藤新九郎利政を名乗ったそうです。

ここでやっと齋藤の名前になりました。

因みに道三の名前は、後に出家した時に名乗る名前です。

斎藤家を乗っ取っていることから、道三が滅ぼしたという説は頷けるように思いますが、証拠不十分というところでしょうか。

これも道三がマムシと云われる理由の一つです。

 

道三の理由③美濃の国盗り

信頼を得ていた主君・土岐頼芸の弟を道三が滅ぼしたことで、道三と頼芸は対立します。

当時の土岐頼芸は、甥の土岐頼純(とき よりずみ)と家督を巡り対立していました。

道三は頼芸側ですので、土岐頼純とは敵対関係にあります。

ですが、土岐頼純が支援を受けている越前の朝倉家と道三が和睦をします。

和睦の条件が美濃の守護を頼芸から頼純に渡すことでしたので、頼芸は退き頼純が守護大名になります。

そして、頼純は道三の娘を妻に迎えますが、約一年後に頼純は急死したそうです。

定かではありませんが、道三によって滅ぼされたとも云います。

 

そして天文11年(1542年)に、ついに土岐頼芸を尾張に追放し、美濃の乗っ取りに成功します。

土岐頼芸は、先に述べたように家督を巡り兄や甥と争っていたのですが、実は土岐頼芸の父も家督を継ぐ時に同様に争っていました。

この長年の争いは、本来見方であるはずの土岐一族や家臣を分断し、土岐家を衰退させました。

土岐家は、この隙を道三父子に突かれたようです。

道三父子は土岐家の忠実な家臣として仕えながら、衰退したところで蹴落とし、斎藤道三は見事に美濃の国主となりました、

土岐頼芸は奪還を試み、保護を受けていた尾張の織田家を頼ります。

しかし、道三の娘の濃姫と織田信長の結婚により後ろ盾を亡くし、織田家の支援は受けられず、守護大名としての土岐家は滅びました。

 

この土岐家の争いについて、濃姫については別の記事にまとめています。

土岐頼芸と子孫~鷹の絵が得意だった土岐洞文~

 

濃姫(帰蝶)の名で知られる信長の正室の生涯と逸話

 

ところで、マムシとは強烈な毒を持った蛇のことで、狙った獲物は離さないと云われています。

主君や恩人でも滅ぼす、道三の残忍で荒々しいことが理由でマムシという異名があるのかもしれません。

そして後に、道三は家督を譲った子である斎藤義龍と対立しますが、マムシと呼ばれる所業をした道三に見方する土岐家の元家臣団は、殆どいなかったそうです。

斎藤義龍

斎藤義龍

道三は義龍との戦に敗れ、亡くなります。

また、義龍は道三が溺愛した弟二人も滅ぼしています。

こうして、美濃のマムシ・道三は無念の最期を遂げました。

 

マムシといわれる理由のまとめ

今回の話は、道三と父のことが混同していたり、二人共複数の名前があったりで、分かりずらかったと思いますので、概要をまとめます。

・齋藤道三は「僧侶」、「商人」、「武士」という三つの職業を経験し、道三の下剋上が始まるというのが、長らく伝わっていた説でした。

しかしこの道三の説とされてきた、職を転々とし、小守護代・長井長弘の家臣に納まったのは、父のことではないかと見なされるようになりました。

・道三の父は主君・長井長弘の推挙のおかげで、守護・土岐頼芸に仕えることができますが、道三の父が亡くなると道三が重用されます。

・恩人・長井長弘は、当時は道三のライバルであったため、道三に滅ぼされ長井家は乗っ取られます。

・美濃守護代・斎藤利良が何故か亡くなり、道三が斎藤家の跡を継いで、斎藤新九郎利政を名乗ったそうです。

・土岐家が一族で争っているところを、道三父子につけこまれ、ついに守護大名・土岐頼芸は道三によって美濃から追放され、道三が守護大名となります。

 

 

その後、道三は織田信長との関係を深めていき、信長に美濃を譲る遺言までのこしたと云われています。

その話はこちらの記事です。

斎藤道三と織田信長の関係や逸話