斎藤道三(さいとう どうさん)と織田信長は父と婿の関係です。

もともと斎藤家と織田家は敵対関係にありましたが、政略結婚により斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)と信長は結婚しました。

若い頃の信長は、周りから「うつけ者」と呼ばれる位、奇行が目立ち、信長のうつけの噂は隣国にいる道三の耳にも届いていたと云われています。

しかし、信長と対面した道三は信長の才能を見抜き、後に美濃国を託す遺言まで残しました。

信長は、どのように道三からの信頼を勝ち得たのでしょうか。

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信長、道三の娘を娶る

まずは、敵対していた道三の娘と信長が政略結婚するいきさつを記します。

斎藤道三は美濃の守護・土岐頼芸(とき よりあき /  よりのり )の家臣でしたが、美濃国の乗っ取りを企てて、ついに土岐頼芸を尾張に追放し、事実上の国主になります。

齋藤道三の肖像画 2つ目

齋藤道三

しかし、信長の父・信秀が土岐頼芸を支援し、頼芸は美濃奪還を目指します。

そして道三と信秀は、加納口の戦い(かのうぐちのたたかい)という戦になり、道三方が勝利し織田家の平手 政秀(ひらて まさひで)の働きで、道三の娘・濃姫と信秀の嫡男・信長の結婚を条件に和睦を結ぶことになります。

当時の道三は織田家だけでなく、土岐家に見方する朝倉家とも対峙しており、織田家、朝倉家共に和睦をし、頼芸の美濃奪還を阻止しました。

こうして天文17年(1548年)に道三の娘・濃姫は信長に嫁ぐことになりました。

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斎藤道三と織田信長の正徳寺の逸話

父と婿という関係になった道三と信長ですが、初めて顔合わせしたのは天文22年1553年だとされており、逸話が残されています。

現代では父と婿は、結婚前に顔合わせしますが、時は戦国時代です。

当時は両家の重臣同士が、段取りをし取り仕切るのが普通であったそうです。

 

織田信長の肖像画

織田信長

 

この時道三は、信長を亡き者にして、尾張を乗っ取ることも考えていたとも云われています。

 

また、戦国時代を象徴するような下剋上を遂げ、美濃のマムシとの異名を持つ道三も人間です。

嫁いだ娘が心配だったのかもしれません。

しかも相手は信長、「うつけ」との評判は隣国の美濃まで聞こえてきていたそうです。

 

信長は、天文21年(1552年)の信長の父・信秀の葬儀の時、位牌に向かって抹香を投げ暴れたという話は有名です。

このような行為から、当時は嫡男の信長ではなく、弟の織田信勝を次期当主に推す声が高まっていた頃でもあります。

道三との会見が行われた頃、信長の行動は、殆どの人に理解されない時期でした。

 

信長に会うことを不安に思ったのか、会見の場所は両家の国境付近である、美濃国と尾張国の境にある正徳寺で行われました。

当日、道三は早めに正徳寺につき、重臣達を正装させ廊下に並ばせて信長を待ったそうです。

間を通る信長の度胸を試すためだと云われています。

会見時間が近づき、馬に乗った信長の姿を見た道三は驚いたといいます。

 

信長の姿は、前髪を含めた全ての髪の毛を後ろで束ねる「ひっつめ髪」と呼ばれる髪型であったそうです。

上の服は、浴衣の原型とされる湯帷子(ゆかたびら)という和服をだらしなく着用し、腰回りには瓢箪(ひょうたん)を7~8個ぶら下げていたと云います。

袴(はかま)は、虎や豹柄のくるぶしまでの丈で、今でいう短パンのようなイメージでしょうか。

うわさ通りの「うつけファッション」で表れ、道三の家臣は「まさにたわけ」と珍しがり、道三は苦笑いという状況であったとされています。

また、信長は6メートル以上の長槍を持った槍衆達を引き連れていたそうです。

 

ですがその後、正徳寺の控えの間からからでてきた信長は、別人のように礼儀正しく正装して表れます。

また、信長の家臣は当時は最新兵器であった鉄砲で武装し、厳格な行軍に道三は震撼したと云います。

 

会見が終わり、道三の家臣は信長をたわけ者と評したそうです。

しかし、道三は信長の力量を見抜いたと云います。

「無念だ。

ワシの子供達はたわけ者の配下になるだろう。」

と言い放ち、道三は信長の才能を見抜き、信長は道三の信頼を勝ち取ることになったそうです。

 

この美濃のマムシに信長が堂々と渡り合った逸話ですが、織田家の史料には多数確認できるのに斎藤家の史料には全く見当たらないそうです。

信長の器量を表す逸話として、織田家に創作された可能性も指摘されています。

 

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斎藤道三から織田信長への遺言

道三は信長の良き理解者となり同盟も結んでいました。

道三が信長を信頼していたことを説明する時に、道三の遺言について語られることがあります。

道三は遺言書にて美濃国を自身の息子ではなく、婿である信長に託したというものです。

このことを記した書状が存在しており、記録にも残されているそうです。

どうして息子ではなく信長に美濃を譲りたかったのでしょうか。

 

道三は斎藤義龍(よしたつ)という嫡男がいましたが、不仲であったとされています。

齋藤義龍

齋藤義龍

義龍の母は深芳野(みよしの)といい、元は道三の主君であった土岐頼芸のお気に入りの妾であったそうです。

義龍を生む一年ほど前に頼芸から道三に下賜されており、一説には義龍の父は頼芸だとも云われています。

ただ、この落胤説の信憑性は低く、当時道三がどのように思っていたのかもわかりません。

しかし、道三は義龍を廃嫡を考えていたそうです。

また、道三の寵愛を受けた弟二人は、義龍によって滅ぼされ、義龍は父・道三も滅ぼすべく挙兵します。

道三も兵を集めますが、土岐頼芸を追い落とした過去により、美濃に沢山いた土岐家の元家臣に見方になってもらえず、多勢に無勢で道三が敗北し滅びます。

その戦の直前に、信長に美濃を譲り渡す旨を記載した遺言を送っていたそうです。

しかし、義龍の采配を見た道三は、義龍はやはり自身の子供であったと悟り、信長に美濃を譲ると遺言したことを後悔したとも云われています。

 

道三には他にも男子の子供がいましたが、それでも信長に美濃を譲ったのは凄い信頼関係だなと思います。

その遺言書は、道三の末っ子で信長の家臣になる斎藤 利治(さいとう としはる)が、信長へ渡した可能性が高いそうです。

ただ、書状は偽造の可能性もあるようですね。

戦国時代の遺言書は、安静の時に良い道具を使って、綺麗な文字でしたためるものだそうですが、道三の遺言書は、筆先も墨つきも乱れているそうで、珍しいそうです。

 

また、道三と義龍の戦が起きた時は、信長は援軍に向かっています。

しかし間に合わず、道三が滅んだことを知ると、信長自ら殿(しんがり)を務め無事帰還したそうです。

信長は道三が亡くなり悔やんだとも云われています。

書状の真偽は不明ですが、お互いに認め合っていたのは本当なのかなと思います。

 

 

土岐頼芸の落胤説のある齋藤義龍の母についての記事です。

深芳野~斎藤道三の側室で義龍の生母となった女性~

 

道三は、僧侶や油商人を経て武士になり、やがて土岐頼芸という当時のビックネームに仕えたと云われています。

その後、土岐頼芸を追放し、美濃守護大名の座を乗っ取った生き様から「美濃のマムシ」の異名を持ちます。

そのマムシと呼ばれる生き様を記載した記事で、道三の父と二人で国盗りしたという説にも触れています。

 

斎藤道三が美濃のマムシといわれる理由

 

土岐頼芸は、兄や甥と家督相続を巡り争って、衰退したところを道三によって追い落とされることになります。

その土岐一族で争う様を書いた記事です。

 

土岐頼芸と子孫~鷹の絵が得意だった土岐洞文~