明智光秀の子孫と細川ガラシャの子孫

2020 1/25

明智光秀の子孫と光秀の娘である細川ガラシャの子孫について分かる範囲でまとめています。

明智光秀は謎が多く、光秀の子供が何人いるかも定かではありません。

子供が定かでないので、追跡できる子孫も限られますが、辿れるだけでも子孫の方は沢山いらっしゃいました。

目次

明智光秀の娘・細川ガラシャの子と子孫

明智光秀の子供で一番有名なのは、細川ガラシャではないでしょうか。

細川ガラシャの子供、子孫について記載する前に、ガラシャとはどのような人物なのか簡単に記します。

細川ガラシャの名前で有名ですが、元の名は明智 珠(子)( あけち たま<たまこ>)といい、明智光秀の三女、または次女であると伝わります。

珠(細川ガラシャ)は、織田信長の勧めにより細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)の嫡男・細川忠興(ほそかわ ただおき)に嫁ぎます。

 

細川ガラシャと細川忠興の銅像

細川ガラシャと細川忠興の銅像

 

しかし平穏な日々は続きませんでした。

父・光秀の謀反、本能寺の変が起きると珠の運命は一転してします。

珠(ガラシャ)は「謀叛人の娘」となり、丹後国の味土野(みどの)(京都府京丹後市弥栄町)で幽閉生活を強いられることになります。

後に、羽柴秀吉の執り成しにより、細川家の屋敷に戻ることができましたが、夫・忠興との間には溝ができてしまったようです。

拠り所を求めたのか、キリスト教の教えに触れたガラシャは、キリスト教に魅かれていきます。

そして、洗礼を受けてガラシャという洗礼名を名乗ります。

後に、天下人・豊臣秀吉が亡くなるとガラシャに危機が訪れます。

徳川家康らと石田三成らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発する寸前になっていました。

夫・忠興は徳川家康方につき、留守にしていた時に、石田三成がガラシャを人質に取ろうと細川屋敷を包囲します。

ガラシャに人質になるよう迫りますが、ガラシャはこれを拒絶し、壮絶な最期を遂げ亡くなります。

 

戦国時代ではありますが、悲しい運命となってしまったガラシャ。

このガラシャの悲運は、戦国の悲惨さを伝える話として知られています。

それでは、ガラシャと光秀両方の子孫をまず紹介します。

 

光秀の孫、ガラシャの子・細川 忠隆

ガラシャと細川忠興の長男(光秀の孫)は、 細川 忠隆(ほそかわ ただたか)といい、前田利家の娘・千世を正室に持ちます。

母・ガラシャが壮絶な死を遂げた時、長男・忠隆(ただたか)の妻・千世は、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の屋敷に逃れ事なきを得ます。

千世の姉が宇喜多秀家の正室で、姉の指示で宇喜多屋敷に逃れたようです。

ですが、宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いで石田方についた代表的な大名です。

この宇喜多屋敷に逃れたのが理由とも、徳川家が細川家と前田家の婚姻関係を良く思っていなかったためとも伝わりますが、父・忠興は忠隆に千世との離縁を迫ったと伝わります。

しかし、忠隆は離縁に納得できませんでした。

父の命令に従わず廃嫡されてしまいます。

そして、出家して長岡 休無(ながおか きゅうむ)と号し、祖父・細川幽斎の助けを得て暮らします。

 

その後、千世の実家である前田家の援助も受けられず、千世とは結局離縁することになってしまいます。

忠隆は後に、継室・喜久を迎え、後に父・忠興と和解したと伝わります。

光秀の曾孫、ガラシャの孫・長岡忠春と子孫

次は、只今お話した細川忠隆(ガラシャの子)の子供、子孫の話です。

細川忠隆と継室・喜久との間に、忠恒(ただつね)、忠春(ただはる)という男子がいます。

二人は熊本藩主・細川光尚(みつなお)の招きにより、熊本藩の一門家臣になります。

(細川光尚も細川ガラシャの孫で、熊本藩主の系譜です。)

忠春の子・忠季(ただすえ)(別名、忠重)は、内膳家と言われ、代々、熊本藩の一門家臣首座に列したとされます。

長岡姓を名乗っていたため、長岡内膳家(細川内膳家)と言われ6,000石を得て、明治時代に細川姓に復し、光秀の血脈を現代に伝えています。

内膳家の家紋は、細川家の細川九曜紋の他に、裏紋として明智家の血統を意味する土岐桔梗紋を使用しているそうです。

細川九曜

細川九曜紋 出典元:Wikipedia

 

土岐桔梗

土岐桔梗紋

また、忠春の正室はガラシャが亡くなった時に、介錯を務めた細川家の家老・小笠原秀清(おがさわら ひできよ)の孫にあたる長之の娘・三です。

 

では、明智光秀の曾孫で、細川ガラシャの孫である長岡忠春の系譜を記します。

長岡忠春(光秀の曾孫)→忠季(忠重)→季規→忠英(ただふさ)(藩校時習館の初代総長)→忠昌→忠虎→忠寿→忠顕(贈従四位)→忠穀(男爵)→忠雄(男爵)→忠督(男爵)→忠幸

藩校時習館(はんこう じしゅうかん)とは、熊本藩主・細川重賢(しげかた)が設立した藩校です。

その藩校の初代総長に、忠春(ガラシャの孫)の曾孫に当たる細川内膳家当主・長岡忠英(ただふさ)が務めます。

(熊本藩主・細川重賢も光秀、ガラシャの子孫です。)

また、政治評論家で元衆議院議員の細川隆元(ほそかわ たかちか)や、その甥の細川隆一郎(ほそかわ りゅういちろう)(政治記者、評論家)は、忠隆の子孫で、光秀やガラシャの子孫です。

そして、細川隆一郎氏の娘の細川 珠生(ほそかわ たまお )氏は、政治ジャーナリストであり、キリスト教の信者で洗礼名はガラシャとのことです。

細川ガラシャの本名は細川珠ですので、細川珠生氏は、ガラシャと一字違いで、洗礼名のガラシャは同じですね。

 

光秀の曾孫、ガラシャの孫・徳と子孫

細川忠隆と千世の娘・(ガラシャの孫)は、西園寺実晴(さいおんじ さねはる)(左大臣)の正室になり、西園寺公満(さいおんじ きんみつ)を生みます。

そして、孫・西園寺実尚(さいおんじ さねなお)にも恵まれますが、西園寺実尚には実子がなく叔父が相続したため、西園寺家での光秀の子孫は途切れます。

ですが公家の西園寺家、血脈は高貴な家に広がります。

西園寺公満の娘は、久我 通名(こが みちな)の正室になり、広幡豊忠(ひろはた とよただ)を生みます。

豊忠の養父・広幡忠幸(ひろはた ただゆき)は、旧皇族であり、従一位(じゅいちい)・内大臣の官位を持ち、跡を継いだ豊忠も従一位・内大臣になる人物です。

この広幡豊忠から、孝明天皇(こうめいてんのう)へ繋がり今上天皇へ辿り着きます。

今上天皇は、明智光秀、細川ガラシャの子孫だったということになります。

孝明天皇(こうめいてんのう)の肖像画

孝明天皇

 

系譜を記します。

明智光秀→細川ガラシャ→細川忠隆→西園寺実晴の正室・徳→西園寺公満→西園寺公満の娘・久我 通名の正室→広幡豊忠→正親町実連(おおぎまち さねつら)の正室→正親町 公明(おおぎまち きんあき)→正親町実光(おおぎまち さねみつ)→正親町雅子(おおぎまち なおこ)→孝明天皇→明治天皇→大正天皇→昭和天皇→太上上皇(だいじょうてんのう)(平成の天皇陛下)→今上天皇

 

 

光秀、ガラシャの子孫の熊本藩主

細川忠興とガラシャの三男である細川 忠利(ほそかわ ただとし)は、肥後熊本藩主の跡継ぎになりました。

細川忠利

細川 忠利

肥後熊本七代藩主・治年(はるとし)の代まで、光秀の子孫でしたが、治年に実子がなく斉茲(なりしげ)を養子として迎えたため、細川本家での光秀の血脈は途絶えることになります。

光秀、ガラシャの子孫・熊本藩主の系譜は以下の通りです。

忠利→光尚(みつなお)→綱利(つなとし)→宣紀(のぶのり)→宗孝( むねたか)→重賢( しげかた)→治年(はるとし)→養子を迎える

 

これにより、本家では光秀、ガラシャの子孫は途絶えてしまいます。

しかし、肥後国熊本藩4代藩主・細川 宣紀(ほそかわ のぶのり)の娘・八代は、讃岐高松藩(香川県)の第5代藩主・松平 頼恭(まつだいら よりたか)の正室となり子孫は明治まで続くなど、光秀とガラシャの血脈を継ぐ細川家の血脈は広がりをみせ繁栄します。

肥後細川家の第18代当主・細川護熙氏

細川護熙氏

細川護熙総理 出典元:Wikipedia

第79代内閣総理大臣である細川護熙(ほそかわもりひろ)氏は、肥後熊本藩主の子孫で、肥後細川家の第18代当主であるといいます。

系図上は肥後熊本藩主の子孫にあたりますが、光秀とガラシャの子孫ではありません。

先に述べたように養子を迎えていますので、光秀とガラシャの血筋としては途絶えています。

ただ、細川護熙氏の祖母・細川博子氏が光秀の血を引いているため、光秀の子孫とする説もあるようですが、定かではありません。

 

※細川護熙氏の祖母が光秀の子孫である説ですが、その説が記載された本を所持しています。

私なりに調べてみましたが、この説は、仙台藩第5代藩主・伊達 吉村(だて よしむら)の正室である冬姫が、光秀の子孫であったらという前提があると思います。

冬姫の父は久我通名(こが みちな)であり、正室は光秀の血を引く西園寺公満(さいおんじ きんみつ)の娘ですが、冬姫の生母は側室の松向殿と伝わっています。

ですので、冬姫から光秀の血筋か伝わったということなら、細川博子氏が光秀の血を引くというのは、個人的な見解としては誤りだと思います。

ですが、冬姫以外のところで、光秀の血が入っている可能性もあるため、「定かではない」とさせていただければと思います。

 

 

光秀の孫、ガラシャの娘・多羅と子孫

ガラシャの娘・多羅(たら)は、豊後国(ぶんごのくに)臼杵藩(うすきはん)(大分県)3代藩主・稲葉 一通(いなば かずみち)の正室になります。

そして、豊後国臼杵藩の第4代藩主・稲葉信通(いなば のぶみち)を生みます。

稲葉信通の正室には、織田信良(のぶよし)の次女・光浄院を迎えます。

織田信良とは、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の四男ですので、信長の曾孫に当たる方です。

光秀の曾孫が信長の曾孫を娶ったことになります。

後に信通は、正室に先立たれたようで継室を迎えますが、継室にも織田信良の三女・天量院(信長の曾孫)を迎えています。

意外な戦国武将の子孫同士の結婚ですが、他の武将の系譜を見ても孫、曾孫あたりから和解してるかのように結婚してたりしますね。

 

その後も光秀とガラシャの子孫は続きます。

そして、豊後国臼杵藩の第7代藩主・稲葉恒通(いなば つねみち)の娘は、公家の勧修寺顕道の正室となり勧修寺経逸(かじゅうじ つねはや)を生みます。

勧修寺経逸(かじゅうじ つねはや)の娘・勧修寺 婧子(かじゅうじ ただこ)は、光格(こうかく)天皇の典待(てんじ)となり、仁孝(にんこう)天皇を生み、今上天皇まで受け継がれているそうです。

仁孝天皇(にんこうてんのう)の肖像画

仁孝天皇

 

この系譜からも今上天皇に繋がります。

では、明智光秀と細川ガラシャの子孫の系譜です。

明智光秀 → 細川ガラシャ → 娘・多羅→ 稲葉信通 → 稲葉知通 → 稲葉恒通 →稲葉恒通の娘・勧修寺顕道の正室→勧修寺経逸→勧修寺婧子 →仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇→大正天皇→昭和天皇→太上上皇(だいじょうてんのう)(平成の天皇陛下)→今上天皇

光秀、ガラシャの子孫・勧修寺経逸の娘

また私の所持してる本に、勧修寺経逸(かじゅうじ つねはや)の娘に、松平時章の正室になった娘がいると記載があります。

ですが、私が調べた限りでは、松平時章の息子・平松時門の正室になった娘・筭がいるようです。

※ウィキペディアでも「平松時門の室」となっています。

 

その本によると松平時章との間にできた娘が、有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の側室になり、有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)、喬子女王(たかこじょおう)、吉子女王(よしこじょおう)の母となった旨の記載があります。

 

喬子女王(たかこじょおう)は、第12代将軍・徳川家慶(とくがわ いえよし)の正室になる方です。

そして、吉子女王は、水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の正室になり江戸幕府最後の将軍である、第15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を生んだことは史実とされていますが、本当に光秀、ガラシャの子孫であるかは疑問が残ります。

 

調べてみると、有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)の母は家女房、つまり使用人です。

一方の、喬子女王(たかこじょおう)の母は「高木敦子」、吉子女王の母は、「家女房安藤清子」となっています。

「家女房」と「家女房安藤清子」が同一人物である可能性があると思いますが、「高木敦子」は流石に別人ではないでしょうか…。

また、光秀の血を引く勧修寺経逸(かじゅうじ つねはや)の娘が松平家に入ってできた娘なのに、名前が「安藤」や「高木」なのも引っかかりますね。

当時の方は、名前が複数あることは珍しくないので、全員同一人物である可能性もありますが…。

系譜は辿れませんし、本に出典元の記載もないので、信頼できる情報か疑問に思っています。

本に紹介されていた通り、「第15代将軍・徳川慶喜は、明智光秀の子孫だった!?」となれば、とても興味深い話ですが…、少なくても定説にはなっていませんね。

 

光秀、ガラシャの子孫・勧修寺経逸の子供達

いずれにせよ、勧修寺経逸(かじゅうじ つねはや)の子供達は、公家に嫁ぐなど華麗なる一族という感じです。

勧修寺 徳子(かしゅうじ なりこ)(光秀の子孫)は、姉で仁孝天皇(にんこうてんのう)の生母である婧子の縁により、仁孝天皇の典侍になります。

そして、後の徳川家茂(とくがわ いえもち)の正室である和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)など、皇子・皇女の養育に努めたといいます。

 

勧修寺経逸の娘・吉子(光秀の子孫)は、仁孝天皇、孝明天皇(こうめいてんのう)に仕えた公家である、堀河 康親(ほりかわ やすちか)の正室になります。

堀河 康親は、明治維新に尽力したの公家の政治家でとても有名な岩倉 具視(いわくら ともみ)の実父に当たる人物です。

岩倉 具視の系譜が凄いですが、堀河 康親の子供達の生母がはっきりしていないようです。

勧修寺吉子以外の妻(側室)がいたとは伝わっていません。

なので、岩倉 具視の生母が、光秀とガラシャの子孫の勧修寺吉子となれば、面白いと思います。

解明されて欲しいものです。

明智光秀の娘婿・津田信澄と子孫

明智光秀の娘を妻に迎えた人物として、定説ではないですが、津田信澄(つだ のぶずみ)(織田信澄)が挙げられます。

光秀の娘婿説を採用する専門家もいますので、娘婿であったとして子孫を追ってみました。

まず、津田信澄とはどのような人物であったかというと。

津田信澄の父は、織田信長の弟である織田信行(おだ のぶゆき)(織田信勝の名前で知られています)です。

しかし、父は兄・信長と家督を巡り争い、信長に滅ぼされてしまいます。

信澄は信行の嫡男ですので、信長に滅ぼされたり、出家を命じられてもおかしくありませんでした。

ですが、信長は信澄を遇しました。

信長の命令で柴田勝家に養育され、やがて信長の右腕と言われる位に力を発揮し、信長の子供の次に遇された人物であったと伝わります。

ですが、本能寺の変が起こると光秀の娘婿である為、光秀と共謀したと誤解され織田信孝(おだ のぶたか)(信長の息子)らに襲撃され討ち取られてしまいます。

 

光秀と津田信澄の子孫

信澄の嫡男は、織田姓に復して織田昌澄(おだ まさずみ)と名乗ります。

昌澄は藤堂高虎(とうどう たかとら)に仕えた後、豊臣秀頼に仕え大坂の陣に出陣します。

ですが豊臣家は敗北します。

織田昌澄は、豊臣家の滅亡と自身の敗北により、死罪を懇願したと伝わります。

ですが、藤堂高虎の執り成しにより助命され、やがて徳川家の旗本になります。

この光秀の孫とされる昌澄から織田信高(のぶたか)→織田 信成(のぶなり)→織田信茂(のぶしげ)→織田宜居(のぶすみ)→織田信尹(のぶただ)と続きますが、養子を迎え光秀の子孫としての血脈は途絶えます。

※先に述べたように、津田 信澄の子供は光秀の子孫でない可能性もあります。

 

明智光秀の本を出版した明智憲三郎氏

「本能寺の変 431年目の真実」などの著書で知られている明智憲三郎(あけち けんざぶろう)氏は、明智光秀の息子である於寉丸(おづるまる)の子孫であると伝わるそうです。

於寉丸は、本能寺の変の後、死亡したとも名を変え生き延びたとも言われています。

ですが、明智憲三郎氏によると京都山城(やましろ)に匿われ、神官の子として育てられたそうです。

以後、逆賊・明智姓ではなく明田(あけた)姓を名乗ったそうですが、明治の世になり明智姓に復したそうです。

光秀の直筆の短冊、明智家家臣の高禄台帳、系図なども伝来していたそうですが、関東大震災の時に消失してしまったそうです。

明智憲三郎氏は、明智姓のため幼少期に辛い出来事も経験されたそうで、本能寺の変の真実を知りたいと思うようになったそうです。

そうして、慶應義塾大学大学院を経て、三菱電機株式会社に入社し、後に株式会社第一情報システムズ常務取締役を務め、会社に勤めながら本能寺の変の研究や調査を続けているそうです。

明智姓に復す時に「曾祖父が伝承品を添えて政府に明智姓への復姓を願い出て改名したという経緯」があるとのことで、伝承品が光秀ゆかりの物であると認められたということでしょうか。

明智光秀の子孫である可能性は高かそうですが、於寉丸(おづるまる)自体の存在に懐疑的な専門家もいらっしゃり、定説には至っていないようです。

[char no=”1″ char=”かおりん”]明智憲三郎氏が書いた本能寺の変の書籍です。[/char]

 

明智光秀の子孫(の可能性のある)・芸能人

クリス・ペプラー氏の写真

クリス・ペプラー氏

クリス・ペプラー氏は、ドイツ系アメリカ人の父と日本人の母を両親に持ち、声優、ナレーター、タレントとして活躍している方です。

母方の祖母から、「あなたは明智光秀の末裔なのよ」と聞かされて育ったそうです。

以前、TBSのバラエティー番組「7時にあいましょう」で調査を依頼し、明智光秀の子孫である可能性があることが分かったそうです。

クリス・ペプラー氏の母方の姓が「土岐」氏であり、家紋も土岐氏の「土岐桔梗」であるといいます。

明智光秀は、土岐氏の分家であると伝わりますが、明智光秀と土岐氏については、こちらの記事にまとめています。

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明智光秀と土岐氏~「ときは今~」の連歌に込められた想

 

クリス・ペプラー氏の高祖父と伝わる「土岐頼敬」は、美濃国の守護大名であった土岐頼芸(とき よりのり)の系図の最後に記されており、菩提寺も一致しているそうです。

土岐頼芸(とき よりのり)は、清和天皇の子孫である清和源氏(せいわげんじ)の嫡流とされ、美濃の地を治めた名門です。

やがて戦国時代の下剋上により、重臣であった斎藤道三(さいとう どうさん)によって、土岐頼芸は美濃を乗っ取られ追放されてしまいます。

詳しくはこちらの記事に記載しています。

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斎藤道三が美濃のマムシといわれる理由

 

明智光秀の父~明智家と齋藤道三~

 

クリス・ペプラー氏の高祖父と伝わる「土岐頼敬」が、土岐氏であることは間違えなさそうです。

ですが、光秀と同族であっても光秀の子孫とは言えないのではないか、という疑問がでてきます。

 

つまり、明智光秀は土岐氏の一族と云われていて、クリス・ペプラー氏は土岐氏を祖先に持つらしいです。

ですが、「土岐氏の子孫」イコール「光秀の子孫」とは限らないと思うのです…。

 

その件について、歴史研究家で光秀の子孫と伝わる明智憲三郎氏の見解があります。

土岐頼芸の後を継いだ土岐頼次(とき よりつぐ)の長男(次男とも)の頼勝が、落ち延びた光秀の実子ではないか!?という仮説をたてていたそうです。

光秀の実子が土岐頼勝に名を変え、土岐家の家督を継いだ!?というものだそうです。

ロマンのある話ですが、立証するものがなく何とも言えませんね…。

結論は、クリス・ペプラー氏は、土岐氏の子孫であると考えられ、明智光秀の子孫である可能性はあるものの、断定も否定もできないという感じのようです。

 

土岐頼芸については、こちらに詳しく書いています。

土岐頼芸と子孫

 

 

光秀の子孫説のある坂本龍馬

あの有名な坂本龍馬が明智光秀の子孫であるとの説があります。

ですが、明治時代の小説家が書いた坂本龍馬の伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』が出典元とする説が有力です。

子孫である根拠とされるものを記します。

①「桔梗紋

坂本龍馬が光秀と同じ「桔梗紋」を使用していたことがあるそうです。

ですが、元々、龍馬は「丸に田紋」を使用していて、途中から「桔梗紋」に変えたそうです。

何故、「桔梗紋」に変更したのかは不明とのことです。

また、明智家や土岐家も「桔梗紋」を使用していましたが、「桔梗紋」を使用する武家は珍しくない為、根拠として弱いですね。

 

坂本姓は坂本城に由来する説!?

坂本龍馬の「坂本」は、光秀によって築城されて光秀が城主を務めた坂本城に由来するとする説があるそうです。

これは、こじ付けというか…、根拠にならないですね。

 

③光秀の縁者が土佐に落ち延びて坂本家の祖となった!?

明智光秀の重臣に明智左馬之介(明智秀満)という人物がいます。

明智光秀の娘を娶ったとされ、一説には、明智光秀の従兄弟(いとこ)説もある人物です。

明智左馬之介(明智秀満)が落ち延びて、土佐(とさ)(龍馬生誕の地)の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)を頼り土佐に定住し、その子孫が坂本家になったという伝承があるそうです。

長宗我部元親の正室は、光秀の家老・斎藤利三(さいとう さんり)の縁者であるとされ、光秀の縁者を匿う可能性はあると思います。

光秀との仲も深く、本能寺の変の遠因に長宗我部元親を守る為だったとも云われる位です。

詳しくはこちらです。

本能寺の変の動機は四国政策転換だった!?~長宗我部元親と四国説~

 

ですが、これも何か証拠がないと、坂本龍馬が光秀の子孫とする根拠にはならないですね…。

 

また、明智左馬助の子供に三宅重利(みやけ しげとし)という人物がいるようです。

母は明智光秀の娘とも云われますが、光秀の血を引いていないとする説もあり、定かではありません。

山崎の戦い後細川家に保護され、天草の乱で亡くなったそうです。

 

明智左馬助の詳細はこちらです。

明智左馬助~明智秀満の名で有名な光秀の家臣~

 

細川ガラシャの詳細はこちらの記事に記載しています。

👇

明智光秀の娘・細川ガラシャ~キリスト教に改宗し誇り高く迎えた最期~

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