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明智光秀の娘として知られる細川ガラシャは、光秀の子供の中でも一番知られた存在ではないでしょうか。

気高く聡明で、戦国一の美女と言われる一方、戦国の世とはいえあまりにも悲劇的な最期を迎えます。

誇り高く生きた細川ガラシャの人生を、みていきます。

 

 

細川ガラシャ細川家正室から幽閉生活へ

細川ガラシャの前半生は殆ど分かっていませんが、1563年に越前国で明智光秀と正室・煕子の間に三女(または次女)として産まれたとされます。

本名は明智 珠(子)( あけち たま<たまこ>)といい、珠の死後にガラシャの名で有名になり定着しますが、本ブログでは「細川ガラシャ」と記載させていただきます。

 

その後1578年に、光秀の当時の主君・織田信長の政略結婚により、細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)の嫡男・忠興(ただおき)に降嫁します。

細川家は鎌倉時代から続く名家であり、岳父・細川幽斎は、一流の文化人として知られ、教養高く、武将としても優秀な人物であったと伝わります。

美男美女であったと伝わるガラシャ、忠興ともに数え年で16歳の結婚でした。

細川ガラシャと細川忠興の銅像

細川ガラシャと細川忠興の銅像

1579年に長女が、1580年には長男・細川忠隆(ただたか)が生まれ、この頃は幸せであったのではないかと推測されています。

ですが、ガラシャの運命が一転する出来事が起きます。

1582年に、父・光秀が織田信長を討つ本能寺の変によって、ガラシャは逆臣の娘となり、夫・忠興によって、幽閉生活を強いられることになります。

離縁になったり、殺されてしまっても不思議ではありませんが、ガラシャは大変美しい女性であり、忠興はガラシャに異常なまでに執着していた為、手離したくなかったのではないかとされています。

ガラシャが幽閉された場所は、丹後国の味土野(みどの)(京都府京丹後市弥栄町)にあった館であるとされ、現在「細川忠興夫人隠棲(いんせい)地」の碑が立つ場所です。

幼いわが子と分かれての幽閉生活は2年に及びます。

ガラシャは幽閉生活の時の心境を「身を隠す里は吉野の奥ながら花なき峯に呼子鳥鳴く」と吐露しています。

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細川ガラシャ、キリスト教に惹かれる

後の1584年、羽柴秀吉に許され忠興の大阪屋敷に入ることができ、子供とも再会できたそうです。

1583年に興秋(おきあき)、1586年には忠利(ただとし)を出産しているものの、ガラシャが幽閉されている時に忠興が側室を迎えたことや、独占欲の強い夫により美しい妻が豊臣秀吉の目に留まらないよう外出を禁じられたことなどで、心を閉ざすようになったと伝わります。

※ガラシャが豊臣秀吉に気にいられないように心配していたのは事実のようで、忠興は後に朝鮮へ出兵するのですが、その時ガラシャに宛てた何通もの手紙の内容は、「秀吉の誘惑に乗らないように」というものだったそうです。

自由に外出もできず、心のよりどころをキリスト教に求めていたのでしょうか。

キリスト教の教えに心惹かれていったそうです。

1587年に忠興が、秀吉の九州の島津攻めに従い留守にすると、ガラシャは侍女数人とともに身を隠し教会へ向かいます。

ガラシャは洗礼を受ける事を望みますが教会側がガラシャを高貴な人物と判断し、洗礼を見送ります。

理由は秀吉の側室である可能性があるとみなされ、キリスト教の教えである一夫一妻制に反するためとも伝わりますが、後に細川忠興夫人だと理解されます。

後に修道士は「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べたそうです。

ガラシャは、洗礼を受けられませんでしたが、教会の書物を読み信仰に励んだと伝わります。

ガラシャの侍女の多くが洗礼を受けたため、侍女から書物を入手していたのではないかとされています。

 

細川ガラシャ、キリスト教の洗礼を受ける

その後キリスト教を恐れた豊臣秀吉により、バテレン追放令が発布されますが、その直後に洗礼を受けガラシャ(ラテン語で神の恵みの意味)という洗礼名を賜り、ここに「細川ガラシャ」が誕生しました。

 

後にキリシタンを厳しく弾圧する秀吉ですが、この時は軽い禁教令のみでした。

バテレン追放令では、個人の信仰は禁止されておらず、宣教師の国外退去を命じたものです。

 

ガラシャの記事ではありませんが、バテレン追放令についてはこの記事に記載しています。

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石田三成とキリシタン~キリスト教の禁止~

 

しかし、ガラシャは深刻に受け止め、大阪に居られなくなった宣教師が九州に行く前に、洗礼を受けたいと願ったようです。

神父の計らいで、自由に細川屋敷から出られないガラシャのために、既に洗礼を受けていた侍女のマリアを介してガラシャの洗礼が行われました。

 

九州遠征から戻った忠興は、ガラシャの洗礼に腹を立て信仰を放棄させようとしますが、ガラシャは聞き入れなかった為、黙認したそうです。

ガラシャは頑固であったと伝わりますが、後に忠興はガラシャの祈りの場を設けたそうですので、忠興にも妻を理解しようとする気持ちがあったのかもしれません。

 

ガラシャと忠興の蛇の逸話

 

忠興は今までよりガラシャに冷たく接するようになり、ガラシャは離婚を考えたそうですが、キリスト教では離婚は認められておらず、宣教師に説得され思いとどまったと伝わります。

ガラシャと忠興夫婦の様子が、逸話として残っていますので紹介させていただきます。

忠興が、珠(ガラシャ)の側近くにいた下僕を手討ちにし、刀の血を珠(ガラシャ)の小袖でぬぐった。珠(ガラシャ)は顔色も変えず、忠興が謝るまでの数日、その小袖を着続けた。「蛇のような女じゃ」という忠興に、「鬼の女房には蛇が似合いでしょう」と応じた。

 

この逸話の経緯は、ガラシャと忠興が庭先で食事をしていた際に、細川家の庭師がガラシャの美しい姿に見惚れてしまい、それを知った忠興は嫉妬に駆られてその場で庭師を手打ちにしてしまったといいます。

そして、刀に付いた血をガラシャの着物で拭いますが、ガラシャはその惨状をものともせず、食事を続け、汚れた着物を忠興が着替えを願うまで数日間着続けたという話です。

この話は、創作の可能性がありますが、忠興が嫉妬深く、ガラシャが他の男性の目に入るのも嫌がっていたとされており、ガラシャの晩年は忠興に愛想が尽きていたと伝わります。

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細川ガラシャの最期

 

後に秀吉が没し、徳川家康らと石田三成らが対立すると、豊臣恩顧の大名であった忠興ですが、いち早く家康側につきます。

※忠興は元々は織田信長の家臣ですので、天下を横取りしたとも言える秀吉が気に入らなかった可能性があると思います。

そして忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣するため細川屋敷を留守にすることになり、

「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」

と家臣に命じ出陣します。

徳川方についた細川家の人質を取ろうと、石田三成らがガラシャに大阪城に入城し人質になるよう求めますが、ガラシャはこれを拒絶し、翌日、実力行使に出た三成らの軍勢に細川屋敷を包囲されます。

全てを知ったガラシャは、ロザリオを手に祈り、「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言って侍女たちを外へ出したと伝わります。

ロザリオ

ロザリオ(イメージ像)

ガラシャは事前に、もしもの際は、自害できるのか宣教師に相談していたとも言われていますが、キリスト教では自害が禁止されているため、家老の小笠原秀清(おがさわら ひできよ)に自身を突くことを要請し、介錯され亡くなったとされています。

享年38歳でした。

※異説としてガラシャは自害したとする説もありますが、現在ではキリスト教の教えを守ったとする説が定説です。

小笠原秀清は、ガラシャの遺体が残らないように爆薬を使用し、屋敷を燃やし自身も自害したそうです。

燃え盛る炎の中、夫人と家臣数人が亡くなる様は、戦国の世とはいえ、石田三成方にも衝撃を与えたといいます。

 

細川ガラシャの辞世の句

 

『細川家記』に記されたガラシャの辞世の句は、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と伝わり、「花は散る季節を知っているからこそ、花として美しい。私もそうありたい」という意味だと云います。

 

謀反人の娘として幽閉生活を強いられ、許された後は外出もできず、自由のない人生だったと感じていたかもしれません。

聡明な女性と言いわれながらも、父・光秀と夫・忠興に翻弄された人生であったと思います。

壮絶な死を前にして、辞世の句に悲壮感を感じないのは、やっと自由になれるという気持ちがどこかにあったのかもしれないと感じました。

 

ガラシャ亡き後の忠興

ガラシャが亡くなった数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは焼け跡からガラシャの骨であろう物を拾って、堺のキリシタン墓地に埋葬します。

有事の際は自害するよう伝えたいたのは忠興自身ですが、ガラシャの死を知りとても激怒したそうですので、自害の命令は本心ではなかったかもしれません。

そして、人目を憚(はばか)らず嘆き悲しんだと伝わります。

忠興は、ガラシャにキリスト教の信仰を放棄して欲しいと願っていましたが、1601年にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼し葬儀にも参列してもらいました。

その後も、ガラシャの命日にはミサをあげてもらうなどし、ガラシャを偲んだと伝わります。

現代人に「ガラシャに対して歪んだ愛情を持っていた」と解釈される忠興ですが、ガラシャに対する態度は、忠興なりの愛情表現だったのでしょうか。

細川忠興の肖像画

細川忠興

そして、後の1610年頃に江戸幕府がキリスト教を弾圧すると、忠興もこれに従い弾圧をします。

こうして、織田、豊臣、徳川の世を渡り歩き、大大名・肥後(ひご)細川家としての礎を築き、現在も続く名家となりました。

 

肥後熊本藩主、ガラシャ、明智光秀の子孫についてはきの記事に記載しています。

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明智光秀の子孫と細川ガラシャの子孫

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細川ガラシャのお墓

細川ガラシャの遺骨は、細川家菩提寺である崇禅寺(そうぜんじ)に納めたとされ、細川ガラシャの菩提寺でもあるそうです。

住所:大阪府大阪市東淀川区東中島5丁目-27-44

アクセス:阪急京都本線千里線の崇禅寺駅から徒歩約5分、JR新大阪駅の東口から徒歩約10分

 

ガラシャと忠興について宣教師の記録

ガラシャに離婚を思いとどまるよう説得した時のことを宣教師は「たいへんに骨が折れるものだった」と記録しているそうで、ガラシャの意思は頑なであったようです。

忠興については、「生来非常に乱暴で、特に嫉妬(しっと)深く、邸の中で厳格」と記載されているようです。

宣教師からしたら、キリスト教の信仰を邪魔する人物として、うっとうしい存在であったのかもしれません。

細川家の正室でありながら、ガラシャは記録は少なく謎が多い人物です。

宣教師の記録は、ガラシャを知る上で貴重な記録の一つとされています。

この記録の少なさが災いして、カトリック教会(キリスト教最大の教派)におけるガラシャの立場が微妙であった時期があったそうです。

その頃は、家や夫を守るためキリスト教で禁止されているのに自害したと伝わったいた為とのことですが、現在ではキリスト教の教えを守り亡くなったとされています。

 

 

ガラシャの戯曲「強き女…またの名を、丹後王国の女王グラツィア」

細川ガラシャは強い女性というイメージがありますが、そう印象付けた一因に海外で有名になったガラシャの戯曲(ぎきょく)があると云われています。

日本に滞在していた宣教師たちは、ガラシャがキリスト教の洗礼を受けるまでの経緯などを逐一本国に報告していたそうです。

その記録「日本の教会史 〜丹後の女王の改宗とキリスト信仰〜」に基づいてラテン語の戯曲(ぎきょく)「強き女…またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が製作されます。

「丹後の女王」とはガラシャのことです。

1698年、日本では5代将軍・徳川 綱吉(とくがわ つなよし)の時代に、オーストリアの首都・ウィーンのイエズス会(キリスト教、カトリック教会の男子修道会)教育施設において、音楽つき戯曲で初演され、ガラシャのことを次のように紹介したと伝わります。

「強き女、そして彼女の、真珠にも勝る貴さ。またの名を、丹後王国の女王グラツィア(ガラシャ)。キリスト信仰のために幾多の困難を耐え抜いた誉れ高き女性」

ガラシャの死は殉教として描かれて、野蛮で極悪非道なガラシャの夫・忠興に棄教(ききょう)(信仰を放棄すること)を求められても信仰を貫いて、最終的にはは命を落として暴君を改心させたという筋書きとのことです。

ちなみに当記事を読んで織田信長に興味を持った方は、Sayulistさんによる「都民ときどき旅人」の織田信長の記事がオススメです。

織田信長の大ファンというSayulistさんが、織田信長のゆかりの地を訪ねて丁寧な記事を書いています。

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都民ときどき旅人 

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参考・引用・出典一覧

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