細川ガラシャ(明智玉子)|細川忠興の妻でキリシタンとして生きた

細川ガラシャ(明智玉子)は、明智光秀の娘で、細川忠興の正室です。

戦国一の美女と言われる一方、本能寺の変が起きると幽閉生活を余儀なくされます。

後に、キリスト教に救われますが、関ケ原の戦いによって、悲劇的な最期を迎えます。

誇り高く生きた細川ガラシャの波乱に満ちた生涯について書いています。

目次

明智光秀の娘として生を受ける

永禄6年(1563年)、明智玉子(後の細川ガラシャ)は、明智光秀の三女(次女とも)として生を受けました。

名前は玉子(珠子)、または玉(珠)です。

明智玉子(細川ガラシャ)が生まれた頃の明智光秀は、織田信長に仕えるより前で、何をしていたのか定かではない時期です。

一説には、明智光秀は土岐源氏の庶流・明智家の嫡男であるものの、戦に敗れ落ちぶれていた頃。

越前に身を寄せていた不遇の時に、明智玉子(細川ガラシャ)が産まれたとの説があります。

光秀の屋敷跡と伝わる東大味町に「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠「明智神社」があります。

明智神社
明智神社

後に出世した光秀によって、東大味町は戦火から逃れたことで光秀は慕われ、祠がつくられているようです。

その東大味町に、明智玉子(細川ガラシャ)生誕の地との伝承が残っています。

玉子(ガラシャ)母は、光秀の正室・妻木煕子です。

妻木氏は、美濃の国衆の出自とみられていて、妻木氏の系譜によると明智氏と同族であったようです。

後に「一国一城の主」に出世する光秀ですが、明智玉子(細川ガラシャ)の幼少時代は、貧しい暮らしをしていたと見られています。

ですが、明智玉子(細川ガラシャ)は、琴や横笛の演奏にも秀でていたと伝わり、裕福な暮らしではなくても、教養を身につけていたことが分かります。

明智玉子が細川忠興に輿入れ

元亀元年(1570年)、光秀は宇佐山城主になり、明智玉子(細川ガラシャ)は城主の姫として恵まれた時を過ごしたであろうと推測できます。

翌年、明智光秀は、都からほど近い近江国志賀郡に領土を与えられ、元亀4年(1573年)に名城・坂本城を完成させます。

明智光秀は、大出世して破格の待遇を得ていました。

天正6年(1578年)、明智玉子(細川ガラシャ)は、織田信長の家臣である細川藤孝の嫡男・忠興に輿入れしました。

細川家は、鎌倉時代から栄え続けている名家です。

明智玉子(細川ガラシャ)の義父・細川藤孝(幽斎)は、教養高く一流の文化人としても知られ、武将としても優秀な人物であったと伝わります。

細川忠興自身も器量に優れ、武門の棟梁になると信長に見込まれていたと云われています。

一方の明智玉子(細川ガラシャ)も聡明で達筆、後の記録になりますが大変美しい女性だったと云われています。

美男美女であったと伝わる忠興と玉子、ともに数え年で16歳の結婚でした。

細川忠興・玉子夫婦は、勝竜(龍)寺城で結婚式を挙げ、勝竜寺城に入り、2年間の新婚時代を過ごしたそうです。

勝竜(龍)寺城模擬櫓
勝竜(龍)寺城模擬櫓

織田信長の命令により結婚した明智玉子(細川ガラシャ)ですが、翌年には長女、そのまた翌年には長男(細川忠隆)が生まれており、幸せだったのではないかと云われます。

天正8年(1580年)、ガラシャの夫・忠興が丹後12万石の大名に取り立てられ、忠興の父・藤孝が築いた宮津城に移りました。

また細川藤孝(幽斎)は、玉子(ガラシャ)のことを、ひとしお最愛の嫁と称賛していて家族仲も良好でした。

謀反人の娘に転落した明智玉子

天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起きると、玉子(ガラシャ)の運命が一転します。

明智光秀が、主君・織田信長と信長の嫡男・信忠を討ち取ったのです。

『本能寺焼討之図』(楊斎延一作)
『本能寺焼討之図』 出典元:Wikipedia

天下人候補になった明智光秀ですが、信長の仇を討とうとする羽柴秀吉(豊臣秀吉)らと戦になりました。

明智光秀と細川藤孝は盟友だったこともあり、見方になってくれると光秀が一番期待した大名は藤孝・忠興父子だったと云われています。

しかし、細川藤孝・忠興は味方になりませんでした。

光秀は何としても味方になってもらおうと、せめて重臣だけでも送って欲しいと懇願する書状が残されています。

その上、戦が終わったら光秀の嫡男・十五郎と藤孝の嫡男・忠興に天下を譲るとまで書いてあります。

光秀は再三の要請をしましたが、細川藤孝・忠興は剃髪し、織田信長の喪に服して、光秀の要請を拒否したのです。

更に細川藤孝は隠居し、忠興に家督を譲っています。

細川忠興の妻から幽閉生活へ

明智玉子(細川ガラシャ)の処遇に困った細川忠興は、丹後国の味土野(京丹後市弥栄町須川付近)、山奥に幽閉しました。

味土野に明智家の飛び地があったという説があり、明智家に戻した形を取ったとも云われています。

※幽閉された場所は、丹波国船井郡三戸野(京都府京丹波町)ではないかという新説もあり、定かではありませんが。

侍女たちが付き従っていたとはいえ、明智玉子(細川ガラシャ)は、非道な扱いを受けたと感じたのではないかと言われています。

ですが、細川家の立場から見れば仕方がない事かもしれません。

明智光秀の娘婿・津田信澄は、娘婿だという理由で首謀者であるという無実の疑いをかけられ、討たれていることからも分かります。

山崎の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れた光秀は、玉子(ガラシャ)が結婚式を挙げた勝竜寺城に逃げ込み、居城・坂本城に落ち延びる途中の小栗栖にて落命しました。

この羽柴秀吉こそ、のちの天下人ですが、この時の細川家の行動を「比類なき頼もしさ」と褒めたたえ、謀反人・光秀の身内でありながら豊臣政権下でも重きをなします。

このようにして細川忠興は、細川家を守ります。

一方の明智玉子(細川ガラシャ)は、幼い我が子と別れて、2年の幽閉生活を強いられました。

お腹に第3子を懐妊していた明智玉子(細川ガラシャ)は、味土野で出産しています。

明智玉子(細川ガラシャ)は、「父上の腹黒いお心のせいで、夫・忠興様に捨てられ、心細い有り様に成り果てました」と恨みのある言葉を残したと伝わります。

その一方で、光秀を討った秀吉との面会を拒否したとも云われています。

現在、明智玉子(細川ガラシャ)の屋敷跡には、「細川忠興夫人隠棲地」の碑石が建てられています。

味土野に建つ「細川忠興夫人隠棲地」の碑石
味土野に建つ「細川忠興夫人隠棲地」の碑石

明智玉子(細川ガラシャ)は、離縁になったり亡き者にされてしまっても不思議ではありませんが、忠興に愛情があり、手離したくなかったのではないかと云われています。

玉子(ガラシャ)は、自分自身に非はないのに、何故という思いもあったのでしょうか。

玉子(ガラシャ)は、幽閉生活の時の心境を「身を隠す里は吉野の奥ながら花なき峰に呼子鳥鳴く」と吐露しています。

「人里離れた味土野には愛でる花もなく、山の峰には鳥の鳴き声が聞こえるばかりです」という意味です。

清原いと(清原マリア)との出会い

幽閉時代、玉子(ガラシャ)を支えたのは、清原いと(清原マリア)らの侍女達だったと云われています。

清原いとは、細川家の親族で、高名な儒学者・清原宣賢の曾孫です。

清原いとの父は、松永久秀らに儒学を講じたこともあり、いと(マリア)自身も幅広い教養を身に着けていたそうです。

儒学だけでなく、キリスト教など西洋の文化にも詳しく、朝廷の女房(使用人)経験もあったいと(マリア)は、玉子(ガラシャ)に沢山の話をし、塞ぎ込んだ玉子の気持ちを慰めたようです。

玉子 キリスト教に魅かれる

天正12年(1584年)、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉の取り成しにより、細川家の大坂屋敷に玉子(ガラシャ)は戻りました。

幽閉生活が終わっても謀反人の娘には変わりなく、昼も夜も見張りが付く監視下に置かれました。

外出も厳しく管理され、自由に外出もできず、幽閉されていた時に夫・忠興が側室を迎えていたことも玉子(ガラシャ)を苦しめ、うつ状態になったそうです。

父・光秀が助けを求めていたのに何も出来なかったという罪悪感にも、玉子(ガラシャ)は苛まれていたようで、一日中閉じこもっていたと云われています。

心の拠り所を求めたのでしょうか、キリスト教に心惹かれていきます。

細川忠興が、キリシタン大名・高山右近から聞いたカトリックの話をし、玉子(ガラシャ)が興味を持ったとも云われますが、清原いと(マリア)から聞いたキリスト教の話も関係しているとも云われています。

「今、辛くても、良い行いを積めば、輝かしい来世がある」というキリスト教の教えが、病んでいた玉子(ガラシャ)の心に響いたのかもしれません。

また、天正14年(1586年)、三男・忠利を出産したものの、病弱であり、玉子(ガラシャ)は心配していました。

キリシタンへ改宗を望む

キリスト教を深く学びたいと願う玉子(ガラシャ)、その為には天満橋付近にあった教会に行く必要がありました。

天正15年(1587年)、忠興が秀吉の九州の島津攻めに従い留守にすると、玉子(ガラシャ)は侍女数人とともに身を隠し教会へ向かいます。

厳しい監視の目をくぐり抜ける為、病で伏せると嘘をついての外出でした。

時間のない玉子(ガラシャ)は、キリスト教を深く知る為に、修道士に沢山の質問をしたそうです。

後に修道士は「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べたそうです。

宣教師のルイス・フロイスは、玉子のことを「博識において超人的」で「どの日本人女性より優れていた」と記録しています。

また、玉子(ガラシャ)の心の闇を感じ「深い疑惑と闇」の中にいると書いています。

屋敷を抜け出し教会にきた玉子(ガラシャ)は、今後、より監視が厳しくなると思い、最後のチャンスに洗礼を受ける事を望みます。

しかし、細川家の妻であると身分を明かせない玉子(ガラシャ)は、修道士に警戒され、洗礼を受けれませんでした。

高貴な身なりから、豊臣秀吉の側室の可能性を疑われたとも云われています。

秀吉の側室であるのなら、キリスト教の教えである一夫一妻制に反するためとも伝わりますが、秀吉がキリスト教の布教を厳しく制限した頃でしたので、より慎重になったのかもしれません。

そして、玉子(ガラシャ)の侍女の帰りが遅いことから、細川屋敷の人に玉子がいないことを気が付かれてしまいました。

明智玉子(細川ガラシャ)は駕籠で細川屋敷に戻され、教会側が尾行を一人付けた為、細川家の奥方であることが判明しました。

外出できる見込みがない明智玉子(細川ガラシャ)は、教会の書物を読み、侍女に教会とのパイプ役になってもらい、信仰に励んだと伝わります。

また教会に行った侍女たちに洗礼を受けさせています。

天正15年(1587年)、清原いとも大坂(大坂)の教会にて洗礼を受け、「マリア」という名前を得たようです。

ガラシャ(伽羅奢)の洗礼名を授かる

1587年(天正15年)、筑前にいた豊臣秀吉がバテレン追放令を発令しました。

後に、キリスト教を厳しく弾圧する秀吉ですが、この時は経済的理由(貿易)を考慮し、宣教師に国外退去を命じるのみでした。

また、この時点では、個人の信仰は禁止されていません。

しかし、事態を深刻に受け止めた玉子(ガラシャ)は、大坂に居られなくなった宣教師が九州に行く前に、洗礼を受けたいと願ったようです。

外出できない玉子(ガラシャ)の為に、神父の計らいで、教会で洗礼を受けた清原マリア(いと)が、神父の代理となって、細川屋敷の玉子に洗礼を授けました。

授かった洗礼名は、ガラシャ(伽羅奢)、ラテン語のグラツィア(グラティア)に由来し、「恩寵」神の恵みという意味です。

玉子の「玉」を貴重なものと解釈し、つけたものと考えらているようです。

十字架には桔梗

南蛮文化館には、ガラシャ(玉子)がつくらせたと伝わる十字架が残されています。

細川ガラシャ(明智玉子)の十字架

明智家の桔梗紋が象眼されているのが特徴的です。

桔梗紋
桔梗紋

細川家の家紋でなく明智家の家紋を象眼した十字架で、父・光秀を救えなかった苦しい気持ちを癒したかもしれません。

ガラシャの信仰を黙認する忠興

九州遠征から戻った忠興は、ガラシャ(玉子)の洗礼に腹を立て信仰を放棄させようとしますが、ガラシャは聞き入れなかったようです。

細川ガラシャ(明智玉子)は頑固であったと伝わり、忠興も困り果てたかもしれません。

そして、忠興はガラシャ(玉子)に辛い態度で接するようになり、「5人の側室を持つ」と言うなど、ガラシャを苦しめました。

細川ガラシャ(明智玉子)は、宣教師に忠興と離縁したいと打ち明け、宣教師がいる九州行きを望みます。

ですが、キリスト教では、離婚は認められていません。

宣教師は「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」などと言い、ガラシャ(玉子)を説得したそうです。

信仰も離縁も認められず、ガラシャ(玉子)は追い詰められていきますが、忠興は信仰を黙認したようです。

ガラシャの為に礼拝堂をつくる

キリスト教の弾圧が少しおさまった頃、ガラシャ(玉子)の為に礼拝堂をつくり、祈りの場を設けています。

ガラシャ(玉子)の性格が穏やかになったこともあり、内心、キリスト教のお蔭かもしれないと思っていたかもしれません。

ルイス・フロイスによると、キリスト教に改宗する前のガラシャ(玉子)は、気位が高かったそうですが、性格の変化が見られと記録しています。

忍耐強く、謙虚で、快活な人間になり、度重なる辛い経験から患ったうつ病の症状はなくなったそうです。

キリスト教によって、救われたガラシャ(玉子)の姿を目の当たりにした忠興は、認めざるを得なかったのかもしれません。

秀吉の誘惑を心配する忠興

忠興の主君・豊臣秀吉は、美しい大名の妻を呼び出していたそうです。

ガラシャ(玉子)が豊臣秀吉に気にいられないように心配した忠興は、文禄慶長の役で朝鮮へ出兵する際、ガラシャ宛に何通もの手紙を書いています。

手紙の内容は、「秀吉の誘惑に乗らないように」というものだったそうです。

一方のガラシャ(玉子)も遠征にでている忠興に、「懐かしく」、「恋しく」思っているとの文を送っています。

署名が玉子ではなくガラシャであることから、比較的晩年に書かれた文のようです。

離婚したいと嘆いていた時の心情とは違い、以前のように夫・忠興を慕う気持ちになっていたのでしょうか。

細川忠興・ガラシャ夫妻の像
細川忠興・ガラシャ夫妻の像

細川ガラシャの最期

波乱に満ちたガラシャ(玉子)の生涯は、最期の時を迎えます。

豊臣秀吉が没すると、天下を狙う徳川家康石田三成らが対立します。

忠興は徳川家康に従い、会津の上杉征伐に従軍します。

忠興は出陣の際、もし自分が留守にしている時に、妻の名誉に危険ができたら、妻を滅ぼし、全員腹を切るように命じました。

これは、屋敷を留守にする時、常に命じていることで、今回も同じように言い渡し出兵して行ったのです。

このガラシャ(玉子)の身に起きた悲劇は、侍女の霜が記しています『霜女覚書』。

忠興の留守を狙い、尼がガラシャ(玉子)を訪ねてきました。

尼は石田方の遣いであり、人質として大坂城に入るよう要請します。

徳川家康に味方する大名の家族を人質に取ることで、戦意を削ぐことが目的です。

ガラシャ(玉子)は人質になることを拒みますが、数日後、再び使者が現れて武力行使をすると脅されてしまいます。

覚悟を決めたガラシャ(玉子)は、十字架を手に礼拝堂で祈ります。

その後、石田三成の軍勢が細川屋敷を囲みます。

ガラシャ(玉子)を慕う侍女達は共に果てることを望みますが、「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言って侍女たちを外へ出したと伝わります。

キリスト教では自害が禁じられている為、信頼できる家老の小笠原秀清(少斎)に胸を突かせたと云われています。

ガラシャ(玉子)を介錯した小笠原秀清は、小笠原秀清は、ガラシャの遺体が残らないように爆薬を使用し、屋敷を燃やし自身も自害したそうです。

ガラシャ(玉子)の享年38歳。

※異説としてガラシャは自害したとする説もありますが、現在ではキリスト教の教えを守ったとする説が定説です。

※また、主導したのは、前田玄以・増田長盛・長束正家ら奉行衆ともいわれています。

同じく人質に取られそうになった加藤清正の妻、黒田長政の妻は逃げて無事でした。

ガラシャ(玉子)も逃げようと思えば、逃げられたのではないかという指摘があります。

ガラシャ(玉子)は誇り高い人物で、武士の妻として辱しめを受けてはならないという思いはあったと思いますが、もし逃げる道があったのなら、何故、死を選んだのだあろうと考えます。

燃え盛る炎の中、夫人と家臣数人が亡くなる様は、戦国の世とはいえ、石田三成方にも衝撃を与えたと云われ、三成に人質計画を断念させました。

近年の研究では、ガラシャ(玉子)は関ヶ原の戦いの最初の犠牲者とされています。

細川ガラシャの辞世の句

『細川家記』に記されたガラシャ(玉子)の辞世の句は、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と伝わり、「花は散る季節を知っているからこそ、花として美しい。私もそうありたい」という意味だと云います。

謀反人の娘として幽閉生活を強いられ、許された後は外出もできず、自由のない人生だったと感じていたかもしれません。

聡明な女性と言いわれながらも、父・光秀と夫・忠興に翻弄された人生であったと思います。

壮絶な死を前にして、辞世の句に悲壮感を感じないのは、やっと自由になれるという気持ちがどこかにあったのかもしれないと感じました。

細川ガラシャのお墓

細川ガラシャ(明智玉子)の遺骨は、細川家菩提寺である崇禅寺(そうぜんじ)に納められています。

細川ガラシャ(明智玉子)のお墓
細川ガラシャ(明智玉子)のお墓

住所:大阪府大阪市東淀川区東中島5丁目-27-44

アクセス:阪急京都本線千里線の崇禅寺駅から徒歩約5分、JR新大阪駅の東口から徒歩約10分

ガラシャ亡き後の忠興

ガラシャ(玉子)が亡くなった数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは焼け跡からガラシャの骨であろう物を拾って、堺のキリシタン墓地に埋葬します。

有事の際は自害するよう伝えたいたのは忠興自身ですが、ガラシャ(玉子)の死を知りとても激怒したそうですので、自害の命令は本心ではなかったかもしれません。

そして、人目を憚(はばか)らず嘆き悲しんだと伝わります。

2ヶ月後に起きた関ヶ原の戦いで忠興は、石田三成の本隊相手に、取り付かれたように勇猛果敢に戦いました。

関ヶ原の戦い後、徳川家康は忠興とガラシャの忠義を称えます。

ガラシャ(玉子)が義を守り自害した為、三成の人質作戦がとん挫した為です。

「九曜紋付南蛮鐘」や教会葬で追悼

細川忠興は、ガラシャ(玉子)を追悼する為に、「九曜紋付南蛮鐘」という西洋の鐘を鋳物師に鋳造させました。

「九曜紋付南蛮鐘」は、寺院などで使われる梵鐘(ぼんしょう)とは違い、教会の鐘になります。

九曜紋付南蛮鐘(ガラシャの鐘)

細川忠興以来の細川家の家紋・九曜紋が鋳出された九曜紋付南蛮鐘は、小倉城下の南蛮寺に施入したと云われています。

九曜
九曜紋

かつて、ガラシャ(玉子)にキリスト教の信仰を放棄して欲しいと願っていた忠興ですが、1601年にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼し、忠興も参列しました。

教会で盛大な一周忌を執り行ったのです。

葬儀の途中、忠興は涙を堪えられず、泣き崩れたと云われています。

その後も、ガラシャ(玉子)の命日には、ミサをあげてもらうなどし、ガラシャを偲んだと伝わります。

また、慶長7年(1602年)から小倉城下では、セスペデス神父や加賀山隼人のもと、教会や集会所をつくっています。

キリシタンに寛容であった忠興ですが、江戸幕府が禁教令を出すと、忠興もこれに従いキリスト教を弾圧します。

こうして忠興は、織田、豊臣、徳川の世を渡り歩き、大大名・肥後(ひご)細川家としての礎を築き、現在も続く名家となりました。

現代人に「ガラシャ(玉子)に対して歪んだ愛情を持っていた」と解釈される忠興ですが、ガラシャに対する態度は、忠興なりの愛情表現だったのかもしれません。

肥後熊本藩主、ガラシャ、明智光秀の子孫については、こちらの記事に記載しています。

明智光秀の子孫と細川ガラシャの子孫

ガラシャと忠興について宣教師の記録

ガラシャ(玉子)に離縁を思いとどまるよう説得した時のことを宣教師は「たいへんに骨が折れるものだった」と記録しているそうで、ガラシャの意思は頑なであったようです。

忠興については、「生来非常に乱暴で、特に嫉妬深く、邸の中で厳格」と記載されているようです。

宣教師からしたら、キリスト教の信仰を邪魔する人物として、うっとうしい存在であったのかもしれません。

細川忠興の肖像画
細川忠興 出典元:Wikipedia

細川家の正室でありながら、ガラシャ(玉子)は記録は少なく謎が多い人物です。

宣教師の記録は、ガラシャ(玉子)を知る上で貴重な記録の一つとされています。

この記録の少なさが災いして、カトリック教会(キリスト教最大の教派)におけるガラシャ(玉子)の立場が微妙であった時期があったそうです。

その頃は、家や夫を守るためキリスト教で禁止されているのに自害したと伝わったいた為とのことですが、現在ではキリスト教の教えを守り亡くなったとされています。

ガラシャと忠興の蛇の逸話

細川忠興、ガラシャ夫婦の様子が、逸話として残っていますので紹介させていただきます。

ガラシャ(玉子)と忠興が庭先で食事をしていた際に、細川家の庭師がガラシャの美しい姿に見惚れてしまったそうです。

細川ガラシャ(明智玉子)の銅像
細川ガラシャ像

忠興は独占欲が強く、嫉妬深いといわれている人物です。

それを知った忠興は、嫉妬に駆られて、その場で庭師を手打ちにしてしまったといいます。

それだけで手打ちにした忠興に驚きますが、血で汚れた刀をガラシャ(玉子)の小袖で拭ったそうです。

ガラシャ(玉子)はどれ程驚いたことかと思いますが、全く動じず顔色も変えなかったと云われています。

そして、その惨状をものともせず、ガラシャ(玉子)は食事を続けたといいます。

それどころか、忠興が謝るまで数日間、その小袖を着続けたそうです。

そのガラシャ(玉子)の様子を見て忠興は、「蛇のような女じゃ」と呆れたといいます。

ガラシャ(玉子)は、「鬼の女房には蛇がお似合いでしょう」と冷たく応じたと云われています。

この話から「鬼の亭主に蛇の女房」というレッテルを貼られることになります。

この話は、創作の可能性がありますが、忠興は嫉妬深く、ガラシャ(玉子)が他の男性の目に入るのも嫌がっていたと云われています。

ガラシャの戯曲「丹後王国の女王グラツィア」

細川ガラシャ(明智玉子)は、強い女性というイメージがありますが、そう印象付けた一因に海外で有名になったガラシャの戯曲(ぎきょく)があると云われています。

日本に滞在していた宣教師たちは、ガラシャ(玉子)がキリスト教の洗礼を受けるまでの経緯などを逐一本国に報告していたそうです。

その記録「日本の教会史 〜丹後の女王の改宗とキリスト信仰〜」に基づいてラテン語の戯曲「強き女…またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が製作されます。

「丹後の女王」とはガラシャ(玉子)のことです。

1698年、日本では5代将軍・徳川 綱吉の時代に、オーストリアの首都・ウィーンのイエズス会(キリスト教、カトリック教会の男子修道会)教育施設において、音楽つき戯曲で初演され、ガラシャのことを次のように紹介したと伝わります。

「強き女、そして彼女の、真珠にも勝る貴さ。またの名を、丹後王国の女王グラツィア(グラティア)。キリスト信仰のために幾多の困難を耐え抜いた誉れ高き女性」

ガラシャ(玉子)の死は殉教として描かれて、野蛮で極悪非道なガラシャの夫・忠興に棄教(信仰を放棄すること)を求められても信仰を貫いて、最終的にはは命を落として暴君を改心させたという話とのことです。

参考・引用・出典一覧
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