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細川幽斎(藤孝)は本能寺の変で明智光秀と袂を分かつ

2020 5/11

細川幽斎(藤孝)は、名家の生まれで文武両道の戦国武将。

そして、足利将軍、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、明智光秀とは親戚関係という、戦国時代の中心人物の一人とも言えます。

その上、朝廷にその命を惜しまれ、勅命まで出させてしまうという、戦国のサラブレッド・細川幽斎(藤孝)の話です。

目次

三淵家に生まれた細川幽斎(藤孝)

まず、細川幽斎(藤孝)の出自の話から書きます。

細川家は、三河国額田(ぬかた)郡細川郷に住んだ、鎌倉時代の御家人・細川義季(ほそかわ よしすえ)を祖先に持つ名家。

細川義季の子孫が、室町幕府の管領を務めた管領細川家(将軍に次ぐ役職)で、細川幽斎(藤孝)の細川家は、その分家筋になります。

しかし、細川幽斎(藤孝)が生を受けたのは、細川家ではありません。

天文3年(1534年)、細川幽斎(藤孝)は三淵家で生まれました。

細川幽斎(藤孝)の肖像画

細川幽斎(藤孝)

父は、和泉上守護家・細川元有の子で、三淵晴員(みつぶち はるかず)です。

細川幽斎(藤孝)の父は、細川家から三淵家に養子入りしていました。

三淵家は、室町幕府第4代将軍・足利義持の子(又は弟)である、三淵持清を祖先に持つ足利将軍家に仕えた家系。

その後、細川幽斎(藤孝)は、叔父で和泉半国守護・細川元常(又は細川晴広)の養子に7歳でなり、細川家に入ることになります。

※諸説あります。

足利将軍家に仕える細川幽斎(藤孝)

幽斎(藤孝)の細川家も、足利将軍家に仕える家柄。

細川幽斎(藤孝)は、将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱を受け、藤孝を名乗り側近として仕えます。

天文21年(1552年)には、細川幽斎(藤孝)は従五位下兵部大輔に叙任さられ、順風満帆に思えましたが、一変する出来事が起きました。

永禄8年(1565年)、将軍・足利義輝が討たれる事件が起きます(永禄の変)。

その後、兄・三淵藤英らと協力し、出家していた義輝の弟・一乗院覚慶(後の足利義昭)を還俗させ、室町幕府を再興するため、支援者を探して各地を流浪したそうです。

その時に頼った一人が越前の朝倉義景で、明智光秀を通じて織田信長を紹介され協力を得ることになります。

又、一説には越前で、細川幽斎(藤孝)と明智光秀が出会ったとも云われています。

永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、細川幽斎(藤孝)もこれに従い、義昭を将軍の座につけることに成功します。

明智光秀の親戚や与力になる

その後、織田信長と足利義昭が対立すると信長の家臣になることを選び、義昭が信長に逆心をいだいていることを伝えています。

細川幽斎(藤孝)は、織田信長の家臣として各地を転戦、天正5年(1577年)には、明智光秀らと共に、松永久秀の居城・信貴山城を攻め落としています。

また、細川幽斎(藤孝)と言えば、明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智玉子)の義父として知られています。

細川ガラシャ(明智玉子)の銅像

細川ガラシャ(明智玉子)

細川ガラシャ(明智玉)と嫡男・細川忠興は、織田信長の薦めにより、天正6年(1578年)結婚します。

その後、光秀の与力大名として、明智光秀の指揮下で丹波・丹後平定に尽力。

その功績により、細川幽斎(藤孝)に丹後国が与えられ、丹後経営の拠点として、宮津城を築きました。

 

小学校に移築された宮津城の門

移築された宮津城の門

 

織細川幽斎(藤孝)と本能寺の変

天正10年(1582年)、本能寺の変が起きますが、細川幽斎(藤孝)は明智光秀の様子が普段と違い、勘づいていて忠告もしていたそうです。

ですが、明智光秀の謀反は起きました。

本能寺の変の3時間半後には、細川幽斎(藤孝)の元に、第一報がもたらされたそうです。

本能寺から当時の細川家の居城・宮津城まで、100kmあるのに3時間半後に情報を得ていたことから、細川幽斎(藤孝)の情報収集能力の高さが分かります。

細川幽斎(藤孝)は、ネットワークが広く、色んなところから情報を得ていたそうです。

明智光秀は、本能寺の変直後織田家の家臣に、味方になってくれるように書状を送っています。

本能寺の変が突発的だったのかもしれないですが、明智光秀は事前に根回ししてませんでした。

本能寺の変を起こしてから、急いで味方を探したわけですが、その中でも明智光秀が最も頼りにしたのは、細川幽斎(藤孝)と細川忠興父子だと云われています。

細川幽斎(藤孝)と明智光秀は、親戚でもありますが、友人のような関係でもあったそうです。

その上、細川幽斎(藤孝)は明智光秀の与力、軍事行動を共にしていました。

ですが、細川幽斎(藤孝)と細川忠興は、出家することでこれを拒否し、家督を忠興に譲ります。

その上、明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智玉子)を幽閉し、光秀に従わない意思を明確に表します。

細川父子の協力が得られないことは、明智光秀にとっては予想外だったかもしれません。

本能寺の変から7日後、味方になってもらえないと分かった明智光秀が、細川幽斎(藤孝)に宛てた書状が残っています。

書状には、出家に抗議しながらも、無理もないと理解を示し、今からでも、丹後から京にきて味方して欲しいと、再度協力要請をしています。

そして、畿内を平定したら、明智光慶(光秀の息子)と細川忠興に任せて、自分は引退するとまで書いています。

ですがこの4日後に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れた明智光秀は、亡くなります。

小栗栖にある明智藪の碑石

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よっぽど、切羽詰まった時に書かれた書状ではないでしょうか。

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丹後を拠点とする細川幽斎(藤孝)なら、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の際の通り道・丹波に布陣し、足止めできましたが動きませんでした。

細川父子に協力を断られたことは、明智光秀の敗北を決定付けたと云われています。

細川幽斎(藤孝)のこの素早い判断によって、嫡男が明智光秀の婿でも加担したと疑われることはありませんでした。

それどころか、本能寺の変の1か月後には、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の血判起請文に「細川家の行動は比類なき頼もしさ」と称賛され、後の豊臣政権でも地位を確立できました。

 

味方しなかった一因に、明智光秀は細川幽斎(藤孝)の家臣だった時があるとの説があります。

元々、細川幽斎(藤孝)の方が立場が上だったのに、織田政権では大名同士という対等な立場。

ですが、細川幽斎(藤孝)は明智光秀の与力、つまり軍事行動の際は、光秀が指示をする立場です。

明智光秀の支配下に入りたくなかったのではないか、とも云われています。

本当にそう思ったかは分かりませんし、一説にはというレベルの話ですが。

細川幽斎(藤孝)の関ヶ原の戦い

その後、細川幽斎(藤孝)は和歌の秘伝・古今伝授(こきんでんじゅ)を受け、「(藤原)定家の再来」と称され、当代きっての文化人として活躍する一方、豊臣秀吉の側近としても仕えます。

また、徳川家康とも親交があり、豊臣秀吉が亡くなると家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍につき味方します。

関ヶ原の戦いで、細川幽斎(藤孝)の居城・田辺城は、1万5000の西軍軍勢に取り囲まれますが、わずか500の手勢で約2ヶ月持ちこたえます。

丹後田辺城(舞鶴城)

田辺城(舞鶴城)

多勢に無勢でも善戦できた理由に、敵方に細川幽斎(藤孝)の弟子が多く、戦闘意欲に欠けていたとも云われています。

ですが、細川幽斎(藤孝)は、生きて城を出られないと、覚悟を決めていたと云われています。

いよいよ田辺城が危ないとなった時、「細川幽斎(藤孝)を失うのは朝家の嘆きである」と朝廷が自らの意思を表明します。

天皇の弟・八条宮智仁親王の和議の働きかけに応じなかった細川幽斎(藤孝)でしたが、後陽成天皇の勅命によってようやく和議が結ばれることになりました。

当時の朝廷は実力を失い、武家に対する公家という立場に転落していました。

ですが、細川幽斎(藤孝)の命を惜しみ勅命を出したことは、戦国時代を通じてたった一度見せた、朝廷の積極的な態度だったのではないでしょうか。

細川幽斎(藤孝)は、当時唯一の「古今伝授」の伝承者でした。

細川幽斎(藤孝)の命がなくなってしまえば、古今伝授が途絶えることになります。

それ故、勅命を出したわけですが、武士でありながら、朝廷すら命を惜しむ文化人でもあったということですね。

細川幽斎(藤孝)は、当代随一の教養人で、茶道、和歌、連歌、蹴鞠、囲碁、猿楽、料理なども才能を発揮したそうです。

また、明智光秀主役の大河ドラマ「麒麟がくる」で、細川幽斎(藤孝)の剣術は「鹿島の太刀」(かしまのたち)であるという設定でした。

これは、細川幽斎(藤孝)の剣術の師匠・塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)が開いた鹿島新當流(かしましんとうりゅう)という剣術からきていると思います。

なんとも多才な人だったようです。

関ヶ原の戦い後は、39万9000石の大名になり、京都で悠々自適な生活を送ったそうです。

こうして、肥後細川家の礎を築いた細川幽斎(藤孝)は、慶長15年(1610年)、享年77歳の生涯を閉じました。

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