足利義昭|織田信長に擁されて上洛したのに追放された貧乏公方の生涯

足利義昭は、室町幕府の最後の将軍になる人物です。

元は僧侶であった足利義昭は、織田信長を頼り上洛を果たすことで将軍になります。

後に織田信長と対立し、信長包囲網を形成して抵抗しますが、戦に敗れ京都を追放されます。

乱世を生きた足利義昭の生涯を書いています。

目次

高僧から足利将軍候補へ

天文6年(1537年)、足利義昭は、室町幕府第12代将軍・足利義晴の次男として生まれます。

母は近衛尚通の娘・慶寿院。

争いを避ける為に、跡継ぎ以外の子は、仏門に入ることが足利将軍家の習わしでした。

義昭も6歳にして、大和国の興福寺・一乗院門跡に預けられ、覚慶(かくけい)と名乗ります。

興福寺
興福寺

この後、約20年間、覚慶(足利義昭)の詳しいことは不明です。

兄で13代将軍・足利義輝の1年後に生まれただけで、世間から忘れられた存在になっていたのです。

永禄5年(1562年)、26歳で住職に就任し、このまま高僧として生きていくはずでした。

しかし、3年後、足利義輝が三好三人衆や松永久通らによって亡き者にされます(永禄の変)。

将軍が討ち取られる大事件が起きたことで、将軍の弟・覚慶(足利義昭)の運命も変わります。

この時、覚慶(足利義昭)も松永久通らに捕まり、大和の興福寺で軟禁状態に置かれます。

興福寺を敵に回すことを恐れて生かされたという覚慶(足利義昭)ですが、足利義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、細川幽斎(藤孝)らの手引きで脱出に成功し、伊賀国へ逃れます。

上洛を願う足利義昭

その後、覚慶(足利義昭)一行は、三好氏が実権を握る京を避けて、近江の六角義賢(承禎)を頼りました。

六角義賢(承禎)の許しを得て、甲賀郡(近江国)の和田城に滞在し、足利将軍家の当主になる事を宣言したと伝わります。

足利義昭
足利義昭

覚慶(足利義昭)が将軍になる為には、還俗して京に上洛する必要があります。

しかし、上洛することは容易ではありません。

京を支配し絶大な権力を持つ三好勢は、義昭の従兄弟・足利義栄を将軍に据えようとしています。

覚慶(足利義昭)一行が上洛する為には、三好勢と戦になりますので、強い大名の支えが必要になるのです。

その後、甲賀郡に近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に赴き、室町幕府の再興を願い上杉輝虎(謙信)らに上洛の手助けを依頼しますが、謙信は武田信玄と対峙していた為、動けませんでした。

永禄9年(1566年)、覚慶(足利義昭)は、還俗して足利義秋と名乗ると、次期将軍が就く左馬頭という官職に任官します。

還俗したことで、血筋上で見れば時期将軍に一番近い立場になりましが、ライバル・足利義栄は、先に左馬頭に任じられており、楽観視はできません。

足利義秋(義昭)は、上杉輝虎(謙信)の他にも、河内国の畠山高政、能登国の大名・畠山義綱とも連絡をとり、好機を窺っていました。

六角義賢(承禎)の働きかけで、幕臣・和田惟政が動き、織田信長の妹・お市の方と北近江の大名・浅井長政が結婚したという説があります。

いずれにせよ、政略結婚により、織田家と浅井家が同盟関係になったのです。

足利義秋(義昭)、六角義賢(承禎)、和田惟政の考えは、敵対していた大名らを和解させ、共に上洛する考えだったようです。

更に、和田惟政と細川幽斎(藤孝)の働きかけで、織田信長と美濃の斎藤龍興が和解します。

織田信長は、手を焼いていた斎藤龍興との和議が成立したことで、上洛に応じる手筈が整いました。

着々と上洛の下準備を進める足利義秋(義昭)に対し、三好勢は矢島御所を襲撃しますが、撃退されています。

同年8月、織田信長は、約束通り上洛しようとしますが、斎藤龍興に攻められ、尾張に兵を引きます。

その後、斎藤龍興を敗走させ、信長が美濃を統一するのは、永禄10年(1567年)のことです。

また、六角義賢(承禎)は、三好三人衆と通じていたとの情報もあり、三好氏の襲撃を恐れた義秋(義昭)は、妹婿である若狭の武田義統の元へ身を寄せています。

この若狭武田氏は、甲斐武田氏の支流で名門ではありますが、武田義統に上洛する力はなく、早々に義秋(義昭)は去りました。

弱小大名を頼らざる得なかった義秋(義昭)は、苦しい状況にあったものと思われます。

その後も上洛の機会を伺うものの、上手くいかず越前の朝倉義景を頼ることになります。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

足利義秋(義昭)は、朝倉義景に再三上洛を求めますが、天下には興味がなかったのか義景は、京都に行く素振りは見せませんでした。

中々動けずにいると、従兄弟の足利義栄(あしかが よしひで)に先を越されてしまいます。

永禄11年(1568年)2月、三好三人衆らの働きかけで、足利義栄が14代将軍になったのです。

一方の足利義秋(義昭)は、永禄11年(1568年)4月、朝倉館にて元服式を行い、義昭と改名しています。

足利義昭は織田信長と上洛する

『細川家記』によると義昭は、越前にいた明智光秀に「朝倉義景は頼りにならない」「織田信長は頼りがいのある男だ」と信長をすすめられて、信長を頼ることになったようです。

越前を出発し、美濃へ向かった義昭は、途中で近江の小谷城に入り饗応を受けています。

小谷城主・浅井長政は、当時、信長の同盟相手でしたので、旅の途中寄り体を休めたものと思われます。

その後義昭は、美濃の立政寺に入り、上洛の日を待つことになります。

信長としても上洛の大義名分が欲しいところで、義昭と思惑が一致したのです。

永禄11年(1568年)9月、織田信長は上洛軍を編成し、浅井長政軍と共に京都に向けて出発しました。

『信長公記』によると、信長は「天下のため忠義を尽くそう」と命を懸けて引き受けたそうです。

織田信長の肖像画
織田信長

上洛途中で通り道になる近江。

近江の六角義賢(承禎)は、足利義栄を支持する三好三人衆と通じていました。

その為、上洛途中で、六角義賢(承禎)と戦になりますが、永禄11年(1568年)9月12日に起きた観音寺城の戦いにて、六角氏を退けています。

観音寺城を落とした信長は、立政寺にいた義昭に迎えを出しています。

因みに、明智光秀も共に上洛しますが、観音寺城の戦いに参戦した記録はありません。

観音寺城での六角氏の敗北は、三好衆を動揺させ、織田軍に大した抵抗をしないまま、支配していた京から追い出されたのです。

そのような中、三好三人衆の一人・岩成友通、三好と手を組んだ池田勝正は激しく、織田軍に抵抗したと云われています。

しかし、永禄11年(1568年)9月28日~9月29日、織田軍は、岩成友通を勝竜寺城の戦いで破っています。

一方の池田勝正は、摂津国池田城に籠り強固に抵抗しましたが、最期は敗退しました。

後に、池田勝正を認めた信長は、加増した上、領地を安堵し、池田勝正を配下にしています。

織田軍は、京都周辺の三好勢を一掃し、無事に義昭を奉じて上洛を果たしました。

入京後、足利義昭を清水寺に置いた織田信長は、東寺に陣を構え、京都の混乱を鎮めたそうです。

また、ハッキリとした日にちは不明ですが、この頃に、将軍・足利義栄は病没しています。

永禄11年(1568年)10月、足利義昭は32歳で15代将軍に就任しました。

そして義昭は、13代将軍だった兄・足利義輝を亡き者にし、14代将軍に足利義栄を据える手助けをした疑いで、型破りな関白・近衛前久を事実上の追放処分にしてます。

代わりに二条晴良を関白職に復帰させ、幕府の政所執事には摂津晴門を起用しています。

織田信長が二条城を義昭の御所に改築

足利義昭は、京都本圀寺を仮御所に滞在しましたが、上洛の翌年に三好三人衆、斎藤龍興らに襲われる本圀寺の変(ほんこくじのへん)が起きます。

本圀寺の門
本圀寺の門

織田信長が主力部隊を率いて美濃へ戻った隙をみての襲撃でしたが、細川藤賢(幕府の御供衆)、明智光秀らが奮戦しています。

細川幽斎(藤孝)、三好義継(三好三人衆と敵対中)、荒木村重らが援軍として駆け付け、不利を悟った三好勢らは去っていきました。

足利将軍、織田勢は、途中で三好勢に追いつき撃退しています。

本圀寺の変の急報は、美濃にいた織田信長に知らされ、美濃に滞在していた松永久秀と共に上洛し本圀寺に駆け付けています。

義昭の御所の増強が必要と感じた信長は、足利義輝が住んだ「二条ノ御所」の跡地に、二条城(旧二条城)(烏丸中御門第)を整備し、義昭の御所に改築しました。

二条城改築の時、信長は自ら作業をし、現場監督だけでなく、かんながけという大工作業も行ったと伝わります。

そして二ヶ月という猛スピードで建設され、大宮殿の装飾には金銀が惜しげもなく使われたそうです。

信長は名石、名木を集めた庭を造り、竣工の際は太刀と馬を送りお祝いしました。

一方の義昭は、自ら信長にお酌をし、剣などの品を与え労ったと云われています。

旧二条城跡
義昭が御所にした旧二条(條)城跡

二条城に室町幕府の奉公衆、旧守護家などが参勤し、室町幕府は完全に再興され、義昭の悲願は叶ったのです。

信長を「御父」と尊称する義昭

上洛の恩賞として、信長は尾張、美濃の他に、畿内の和泉一国を与えられました。

和泉には、日本最大の貿易都市として栄えたがあり、信長が支配の願いでたと云われています。

種子島に鉄炮が伝来して以来、鉄砲の生産地としても栄えた堺は魅力的に思えたことでしょう。

江戸時代前期に建築された堺の鉄砲鍛治屋敷
堺の鉄砲鍛治屋敷(江戸時代に建築)

足利義昭は織田信長に感状を渡し、「武勇が天下第一」であると賞賛し、信長のお蔭で室町幕府を再興できたと感謝する言葉が残されています。

信長を褒めたたえた足利義昭は、3歳しか違わないのに「御父」(おんちち)と尊称していました。

一方の織田信長は、義昭が提示した副将軍職を辞退し、足利家の桐紋だけを賜ったと云われています。

足利義昭は信長の操り人形?

始めは、蜜月に見えた足利義昭と織田信長の関係ですが、権力闘争によりが出来ていきます。

最初は室町幕府再興を信長も目指したとも云われますが、武力による天下統一を目指すようになりました。

足利義昭は室町幕府再興を願っていましたので、当然の溝ではないでしょうか。

永禄12年(1569年)1月、信長は9箇条の掟書「殿中御掟」を義昭に承認させ、将軍の行動を制限します。

翌年には、更に厳しい5箇条が追加されます。

要約は義昭は朝廷に奉仕し、実権は信長が握るという内容です。

信長にコントロールされる操り人形のようになってしまう掟ですが、義昭は全てを遵守しなかったそうです。

しかし、足利義昭と織田信長は、ここで決裂したわけではありません。

元亀元年(1570年)、織田信長は、浅井長政、朝倉義景、六角承禎(義賢)、石山本願寺、比叡山延暦寺、一向一揆など四方を敵で囲まれ危機に瀕していました(第一次信長包囲網)。

この状況から信長を救ったのが足利義昭で、和睦を成立させています。

織田信長と対立する足利義昭

元亀3年(1572年)、掟書を守らない義昭に信長は、17条の意見書を提出します。

義昭のことを農民でさえ、「悪御所」と呼んでいるなど、義昭の人格を否定するような攻撃的な文書です。

この意見書により、義昭と信長の対立は避けられなくなります。

そして、足利義昭は諸大名に御内書を下し、反信長勢力(第二次信長包囲網)を形成し、信長追討令を発令したという説があります。

その過程で、元亀3年(1572年)、義昭の御内書の要請に応じた武田信玄は、上洛して信長の同盟相手である徳川家康を散々に叩きのめしたも云われています(三方ヶ原の戦い)。

しかし、この時の義昭が書いた御内書の年がハッキリしておらず、元亀3年(1572年)とするか元亀4年(1573年)とするかで意見が割れています。

もしも、元亀4年(1573年)であるのなら、信長包囲網を企てたのは義昭ではないかもしれません。

武田信玄が信長との対決姿勢を示したことで、反信長勢力が有利と見た義昭は、方針転換したとも云われています。

足利義昭が呼びかけたのではないにしても、義昭も信長包囲網に加わることになります。

他に第二次信長包囲網には、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、筒井順慶、本願寺顕如、六角承禎(義賢)、三好三人衆、三好義継、松永久秀、荒木村重、雑賀衆などが加わっています。

特に兄・義輝の仇である三好三人衆、嫡男が関与した松永久秀も包囲網に入っていることからも、なりふり構わず信長を討ちたいという義昭の意思を感じます。

武田信玄が三方ヶ原の戦いで大勝にもかかわらず、信長包囲網の一角である朝倉義景が、兵を引いてしまいました。

その後、義昭は義景に出兵を求めましたが、叶いませんでした。

元亀4年(1573年)、織田信長から義昭に娘を人質を出すので、和睦して欲しいと申し出ます。

将軍相手だからか低姿勢な信長でしたが、疑心暗鬼になっていた義昭は拒否します。

怒った信長は、義昭成敗を決意し、義昭勢の城を落とし追い詰めていくことになりました。

この頃、義昭が一番頼りにしていた武田信玄が病気で亡くなります。

戦国最強の異名を持ち、信長も恐れた武田信玄は、信長包囲網の要と言える位の存在だったのではないでしょうか。

武田信玄がいないとなれば、作戦は変更だったかもしれませんが、信玄は自身の死を秘すように遺言していましたので、義昭は知らなかったものと思われます。

信玄が生きていると思っていたであろう義昭は、信長に怯みませんでした。

ですが、足利義昭の家臣であった細川藤孝や荒木村重は、義昭を見限って信長の家臣になることを選びます。

一方の義昭は、二条城(烏丸中御門第)に籠って抵抗をし、信長は再度和議を要請します。

ですが、義昭はまた拒否しました。

怒った信長は、上京全域を焼き討ちを決行し、朝廷に働きかけて勅命により、義昭は和睦に応じました。

織田信長に追放される義昭

ですが、根本的な解決は出来ていなかった為、足利義昭が和議を破棄し、再度信長と戦になります。

槇島城の戦いが起きますが、義昭が敗北したことで、元亀4年(天正に改元、1573年)7月、京都を追放されます。

槇島城跡
槇島城跡

義昭は、当時1歳だった嫡男・義尋を足利将軍家の後継者として、信長に差し出します。

人質という意味もあった義尋ですが、1歳で出家させられたようです。

足利義昭は将軍職を辞してませんが、ここに約235年続いた室町幕府は事実上滅びました

『信長公記』によると切腹させても良かったそうですが、天の道に背くので命を助けた旨書いてあります。

嫡男・義尋は人質として預かり、「怨みにに恩で報いるのだ」と言ったそうです。

『信長公記』は信長の家臣が書いた記録です。

現代語訳はされていますが、信長の言葉まで残っていて興味深いと思います。

その直後、信長包囲網の一角を担っていた浅井長政、朝倉義景も相次いで信長に敗れ滅亡しました。

足利義昭の晩年は秀吉の話相手

室町幕府滅亡後は、義昭は「貧乏公方」といわれながらも、各地を転々とします。

「貧乏公方」とは、兄で将軍の義輝亡き後は、幕臣に守られながら各地を転々とし、その後は京を追われて諸国を流浪し諸大名などを頼ったことに由来するようです。

義昭は妹婿・三好義継を頼り若江城へ移りますが、義昭を庇護したことで信長の怒りを買い、義継は亡き者にされます。

その後、堺、紀伊へ移ります。

再上洛への思いは強かったようで、諸大名に御内書を送り、上洛の援助を願います。

義昭の求めに上杉謙信、石山本願寺、武田勝頼などが応じています。

そして備後に下り、毛利輝元の庇護を受け、天正4年(1576年)に鞆(現・広島県福山市)に移住し、「鞆幕府」と呼ばれる亡命政府になっていました。

鞆の浦の風景
鞆の浦の風景

鞆には足利義昭の側近・上野氏、伊勢氏、大館氏など武士が集まりました。

足利義昭は、諸大名に御内書を書いて、打倒信長の機会を狙っていたと云われています。

その後、上杉謙信が病に倒れ、石山本願寺は信長に降伏し、武田家は滅亡します。

天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で倒れると「逃れがたい天命である」だと言ったそうです。

京を追われ約10年の月日が流れていた義昭ですが、腹の虫は収まっていなかったようです。

毛利輝元に上洛の支援を求める足利義昭ですが、輝元は豊臣秀吉に臣従しました。

豊臣秀吉が公家の最高位・関白で、足利義昭が名ばかりとは言え将軍という時期が、二年半ほどありました。

天正15年(1587年)、51歳の義昭は豊臣秀吉の軍門に下り、ようやく京都に帰ることが出来たのです。

本能寺の変から、五年の月日が流れていました。

室町幕府滅亡後も将軍職は保ってた義昭ですが、天正16年1月13日(1588年2月9日)、征夷大将軍を辞任しています。

将軍職は退きましたが、朝廷から准三后という皇族と同じ待遇を与えられます。

秀吉から与えられた領地は1万石であったものの、大大名以上の待遇を受け、秀吉の相談相手でもありました。

慶長2年(1597年)8月、病気により大坂で生涯を閉じました。

享年61歳。

将軍職復権に執着した義昭ですが叶うことはなく、義昭が没してから6年後、徳川家康により江戸幕府が開かれます。

参考・引用・出典一覧
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