100年続いた越前・朝倉家、最後の戦国大名。
織田信長と対立し、信長包囲網の一角も担った朝倉義景ですが、自ら戦の陣頭指揮を執ることは殆どなく、朝倉家を滅亡させてしまいます。
優柔不断なイメージのある朝倉義景の生涯について書いています。
名将・朝倉宗滴に支えられた義景の前半生
天文2年(1533年)、朝倉義景は越前国の戦国大名・朝倉孝景の長男として生を受けます。
朝倉氏が戦国大名になってから5代目で、越前朝倉氏最後の当主になる人物です。
越前国は、後に行われる太閤検地によると49万9000石余、三国湊や敦賀湊もあり流通経済も盛んな為、財政の豊な国でもあります。
朝倉義景の生母は、若狭武田氏の娘・広徳院(光徳院)。
戦国時代では珍しく、一人っ子です。
朝倉義景の幼少期は不明で逸話もなく、足跡が確認できるのは家督を継いだ頃からです。
天文17年(1548年)、16歳の時に家督を継ぎ延景(のぶかげ)と名乗ります。
若年で越前国の舵取りをすることになった義景(延景)ですが、従曾祖父の朝倉宗滴(そうてき)の補佐を受けます。
政や戦にも長けた優秀すぎる朝倉宗滴のお蔭で、加賀の一部に領土を広げ、戦国時代の中では比較的平穏な国でした。
将軍・足利義輝から異例の待遇を受ける
天文21年(1552年)、将軍・足利義輝から「義」の字と左衛門督とい地位を与えられ「義景」と改名します。
歴代朝倉家当主は三等官でしたが、義景は一等官を与えられるという異例でした。
①室町幕府の管領・細川晴元の娘を正室に迎えていたこと。
②朝倉義景の父が、室町幕府の御供衆・相伴衆に列していたこと。
③権威の衰えた室町幕府にとって朝倉家の力が必要だったこと。
この三つの理由が考えられます。
順風満帆に思えた義景の人生ですが、転機が訪れます。
弘治元年(1555年)、朝倉家の重要な多くの仕事を任せていた朝倉宗滴が死亡くなり、義景が政務を取り仕切ると歯車が狂い出します。
朝倉義景が若狭武田家に介入し始める
永禄4年(1561年)、朝倉義景は若狭武田家の内戦の鎮圧に協力し成功させます。
ですが二年後には、若狭国(現・福井県南部)守護・武田義統は、統率力を失っていました。
そこで、朝倉義景が軍事介入をして、若狭国で影響力を強めていきます。
永禄8年(1565年)、朝倉義景の人生を左右する大事件が起きます。
将軍・足利義輝が亡き者にされる永禄の変。
朝倉義景は、翌日には武田義統から送られた書状で、永禄の変を知ることになります。
朝倉義景を頼る足利義昭
足利義輝の弟・覚慶(足利義昭)は、松永久通らに幽閉されますが、義輝の側近らによって救出され近江国へ逃れたと伝わります。
この件に朝倉義景も関わっていることが、義輝の叔父が上杉謙信に宛てた書状に書いてあるそうです。
室町幕府再興を目指す足利義昭は、若狭武田家を頼ろうとしますが、先に述べたように武田義統は家中すら統率できていません。
そこで若狭国から近く、当時、比較的平和な、越前・朝倉家を頼ることにしました。
朝倉義景の従弟・朝倉景鏡( かげあきら)を使者として遣わし、足利義昭を歓迎し、一乗谷の安養寺に迎えています。
足利義昭は、朝倉義景に上洛し、自身を将軍に就けることを期待していました。
義景と良好な関係を築きたい義昭は、朝倉家と長年対立していた加賀一向一揆との和睦を取り成すなどしています。
この頃の朝倉義景は、事実上の管領(将軍に次ぐ最高の役職)に相当する立場であったとも云われています。
※『朝倉系図』によると、管領代であったと書かれています。
足利義昭は朝倉館で元服し、将軍になる準備をしていました。
30歳という遅めの元服ですが、出家や幽閉されたりで出来なかった為でした。
しかし、義昭の期待とは裏腹に、義景は上洛の気配を見せませんでした。
①やっと授かった朝倉義景の嫡男・阿君丸(くまぎみまる)が亡くなり、悲しみに暮れていたこと。
その後すぐ、阿君丸の母で、側室・小宰相も亡くしています。
②足利義昭を奉じて上洛すると、当時勢いのあった三好家との争いは避けられず、朝倉家は同盟相手の浅井家と連合を組んでも、三好家を破ることは難しかった為。
朝倉義景に事実上の天下人とまで言われた三好家に打ち勝つ兵力を集めるのは難しく、現実的に無理だったのではないかとも云われています。
③越前の背後には一向一揆があり、越前を空けられなかった。
和議を結んだとはいえ、80年も対立した集団に隙を見せたくなかったのかもしれません。
この三つが理由ではないかとされています。
しかし、将軍の座を狙うライバルがいた義昭は、ゆっくりも出来ません。
朝倉義景にお礼を伝える御内書を残し越前から去り、織田信長を頼ることになります。
朝倉義景が事実上若狭国も支配する
永禄10年(1567年)、若狭守護・武田義統が病没し、翌年に武田氏に内戦が起きます。
朝倉義景は、混乱に乗じて軍事介入し、朝倉景恍らに後瀬山城を囲ませ、義統の子・武田元明と講和します。
若狭武田家は、朝倉義景の母の生家。
親族の身を保護するという名目で、武田元明を連行すると、越前一乗谷に軟禁しました。
朝倉義景による若狭国の平定です。
若狭武田氏や国衆は、武田家再興の機会を待ちつつ、朝倉義景に従います。
しかし、既に武田から独立していた勢力は、義景に強い反発をし、織田信長に通じます。
このように、朝倉義景が若狭国も支配したように見えても、若狭国を平定したとは言い難い状態でした。
ですが、義景は政務を一族の者に任せ、自身は遊び興じるようになりました。
織田信長に反発する朝倉義景
永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を擁して上洛し、義昭を将軍に就けます。
そして織田信長は、足利義昭の命令として、朝倉義景に二度に渡り上洛を求めますが、義景は命令を拒否します。
①朝倉家は越前の国主になって100年の家柄、成り上がり者の信長に従うことに抵抗があった。
②越前を長い間留守にする心配から。
主にこの二つの理由が考えられます。
永禄13年(1570年)4月、朝倉義景に謀反心有りと見なされ、織田・徳川連合に攻められることになります。
以前から良好な関係とは言えなかった信長から、将軍の命令という大義名分を持ち出され、いわれのない挑発を受けることになりました。
この頃、朝倉義景に反発していた若狭守護・武田家臣の粟屋氏、熊谷氏らは信長に服従しました。
織田信長を挟撃する朝倉軍
織田信長軍と同盟を組む徳川家康軍は、越前に侵攻し、天筒山城や朝倉景恒(かげつね)守る金ヶ崎城を落とします(金ヶ崎の戦い)。
朝倉義景は浅水(現・福井市)まで進軍しましたが、居城・一乗谷で騒動が起こったとして引き返してしまいます。
越前敦賀まで攻め入った織田信長は、突然、盟友と信じていた浅井長政の攻撃を受けます。
浅井長政は信長の妹婿でありながら、離反した理由は二つ考えられます。
①浅井家と朝倉家は、三代に渡る友好関係にあり、「朝倉氏を攻める場合は浅井長政を調停役として立てること」を信長に認めさせていました。
信長は長政との約束を反故にして、朝倉義景を攻めたわけで、信長へ不信感が募ったためと云われています。
②織田信長を挟撃できる好機ととらえたとも云われています。
危機に陥った織田軍は、追撃する朝倉軍を振り切り、木下秀吉(豊臣秀吉)に「殿」(しんがり)の大将を任せ、信長は京都へ逃げ帰ったそうです。
「殿」とは戦で撤退する際に、最後の砦となり敵軍と戦うことで、命の危険もある役割です。
秀吉の株が上がったという出来事ですが、殿軍にいた明智光秀の方が、当時、秀吉より位が高かった為、大将は光秀が務めたのではないかとも云われています。
織田信長は、前に朝倉軍、背後に浅井軍に挟まれ、追い詰められていたにも関わらず、信長だけでなく、多くの織田家の有力武将も取り逃した朝倉、浅井連合軍は、最大の好機を逃してしまいました。
また朝倉義景は不在で、朝倉の大将は一族の朝倉景鏡が務めました。
元亀元年(1570年)6月、再挙を図った織田、徳川連合軍は、大軍で浅井家の居城・小谷城まで迫ります。
そして朝倉、浅井連合軍を姉川まで誘い出して野戦に持ち込みます(姉川の戦い)。
一族の朝倉景健を総大将として猛攻を見せた朝倉、浅井連合軍ですが、徳川家康軍の目覚ましい活躍の前に敗走しました。
織田・徳川連合軍と雌雄を決する戦でしたが、朝倉義景自身は出陣していません。
朝倉義景は、一族の者に任せ自身は戦に出ないことは珍しくありませんでした。
『信長公記』によると浅井、朝倉軍は、1100余の兵を討ち取られたそうですが、三ヶ月後、朝倉軍は巻き返しに出ます。
反信長勢力を形成する義景
元亀元年(1570年)9月、織田信長は摂津国に出兵し、石山本願寺、三好三人衆らと対峙していました。
その隙をついた朝倉義景は、自ら兵を率いて浅井長政と共に宇佐山城を落とします(宇佐山城の戦い)。
宇佐山城の戦いでは、信長の重臣・森可成、信長の弟・織田信治(のぶはる)を討ち取り、朝倉、浅井連合軍の勝利で終わりました。
朝倉義景、浅井長政、石山本願寺、比叡山延暦寺、三好三人衆らは、反信長勢力「信長包囲網」を形成していました。
信長が猛スピードで近江まで引き返してきた為、朝倉義景と浅井長政は比叡山の協力を得て立て籠り、織田軍と対峙します。
朝倉義景は、小競り合いを繰り返しながら、数ヶ月間籠城します。
この頃、朝倉、浅井両軍の攻勢に励まされた反信長勢力は、各地で挙兵し、信長は拠点であった尾張や美濃との連絡を断ち切られました。
信長は正に四面楚歌。
打倒織田信長の二度目の好機が訪れました。
四面楚歌の信長と講和する義景
信長は義景に日時を決めて決戦することを提案しましたが、義景は無視しました。
比叡山で籠城する朝倉、浅井連合軍が、京都から織田信長を叩き出す軍事行動をすれば、歴史は変わっていたかもしれません。
ですが、特に朝倉義景は、優柔不断な人物で、みすみす絶好の好機を見送りました。
一方の織田信長は、窮地を脱するために、「信長包囲網」の一角と単独で和議を結びます。
また、尾張や美濃と連絡を確保することも忘れません。
元亀元年(1570年)12月、朝倉義景と浅井長政は、勅命により、織田信長と講和しました。
窮地だったはずの織田信長が優位の講和でした。
諸説ありますが、信長が将軍・足利義昭、正親町天皇(おおぎまちてんのう)を動かして、講和工作をしたと云われています。
ここで打倒信長を決行しなかったことにより、朝倉義景、浅井長政は滅亡への道を歩むことになります。
朝倉義景の救世主・武田信玄
和睦は一か月後に破られ、越前国や近江国の交通を遮断されます。
元亀2年(1571年)6月、義景は石山本願寺・顕如と和睦し、娘と顕如の子の婚約を成立させます。
同年9月、義景と協力関係にあった比叡山が、信長に焼き討ちにされ、壊滅してしまいます。
織田信長との戦いは、消耗戦の泥沼、苦戦を強いられた朝倉義景に朗報がもたらされました。
元亀3年(1572年)9月、武田信玄が、将軍・足利義昭の求めに応じ、打倒信長を掲げ進軍を開始したのです。
先ずは、信長の同名相手、徳川軍の城を次々に落とします。
武田信玄は、朝倉義景に協力を求め、義景は打って出ますが羽柴隊に敗退。
信玄の進軍で信長の重圧が少なくなった義景は、家臣の疲労と越前国の積雪を理由に、勝手に越前へ戻ってしまいました。
信長包囲網の重要な一角を担った義景のやる気の無さは、信玄を落胆させ、激しい非難の書状が送られることになります。
その後、武田信玄は顕如に朝倉義景の文句を言いながらも、義景の出兵を求めますが、応じることはなく信玄は病没してしまいます。
この為、織田信長の精鋭部隊を、朝倉義景に向けることが出来るようになりました。
また、天正元年(1573年)7月、信長包囲網の一角であった義昭は、京都から追放され室町幕府は滅亡しています。
家臣からの信頼を無くす朝倉義景
翌月に信長は浅井氏の小谷城を攻囲します。
長政に要請された義景は、救援の為に兵を率いて参陣しようとしますが、今までの失態から家臣の信頼を失いつつありました。
今まで何度も総大将を任せた、一族で重臣の朝倉景鏡でさえ、疲労を理由に出陣拒否しました。
義景は招集できた家臣で、小谷城の近くに到着しますが、信長軍の奇襲に敗退し、尻込みします。
そして、浅井家中に寝返りが起きたこともあり、浅井家救援を諦め撤退を始めたのです。
義景が撤退することを予測していた信長は、自ら率いる軍で朝倉軍を追撃し「刀根坂の戦い」で勝利。
刀根坂の戦いで、朝倉家の一門衆を含め、朝倉軍の核となっていた家臣を失い、壊滅的な被害を受けました。
また、斎藤道三の孫・斎藤龍興は、朝倉家の客将でしたが、刀根坂の戦いで亡くなったと云われています。
わずか僅かな手勢になった義景は、本拠地・一乗谷城に帰城しますが、命令を出しても馳せ参じる家臣は、朝倉景鏡のみでした。
自害しようとすると近習に止められ、義景が頼りとする朝倉景鏡に、一乗谷を捨てて越前大野で最後の望みを託すように進言されます。
一方の信長軍は一乗谷の市街地を焼き払うと、一乗谷に突入します。
この際に、特に奮戦したのは、信長方についた若狭武田氏旧家臣らだったそうです。
朝倉景鏡の導きで大野郡にある六坊賢松寺(ろくぽうけんしょうじ)に入った義景ですが、景鏡の裏切りに遭い兵に囲まれ自害しました。
幾度も総大将を任せた重臣で、一族衆の朝倉景鏡にも見放されての最期でした。
享年41。
義景の嫡男・愛王丸(あいおうまる)は、降伏を条件に許されましたが、護送中に信長の密命を受けた丹羽長秀によって亡き者にされました。
これにて、戦国大名としての朝倉家は滅亡したのです。
朝倉義景は珍しいタイプの戦国武将!?
戦国大名でありながら、自ら先陣に立った経験が少なかった朝倉義景。
戦国武将としては、珍しタイプではないでしょうか。
何故なのか、一つは越前国は、元々は比較的平和な国であったことにあると思います。
越前は他国から攻められることの少ない国で、城下町は「北陸の京都」と呼ばれ栄えていました。
平和を享受し、繁栄を謳歌できる越前は、滞在した足利義昭だけでなく、公家も文化人も羨む国だったそうです。
戦の絶えない京から公家が移り住み、「一乗谷の朝倉文化」が生まれたと云われています。
また、一乗谷の朝倉文化は、「戦国三大文化」と称されて繁栄し、義景自身も戦より文芸を好んだそうです。
朝倉義景が頻繁に催した「曲水の宴」という、みやびな行事があります。
庭園など上流から流れてくる酒杯が通り過ぎる前に詩歌を読み、杯のお酒を飲んで次に流すという宮中や貴族などが行った神事です。
一方、家臣達の士気を落とさぬように、武芸の「犬追物」(いぬおうもの)も開催されていました。
犬追物とは、馬上から刃のついていない弓で、犬を射て競う武芸です。
特に義景の前半生は、伝説的な家老・朝倉宗滴がいて、朝倉景鏡、朝倉景健といった一族衆が遠征していました。
また、戦国大名・朝倉家が滅んだ理由の一つは、兄弟がいなかったこともあると思います。
兄弟がいれば心強い味方になったかもしれません。
子供が少なかったことも理由になりそうです。
戦国武将タイプの性格ではなかったようにも思え、朝倉義景だけでお家を守ることは、難しかったようです。
明智光秀は越前にいた痕跡があり、一説には朝倉義景の家臣だったと云われています。
明智光秀と朝倉義景については、こちらの記事に書いています。
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コメント
コメント一覧 (3件)
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