石田三成黒田官兵衛は、不仲であったとの説があります。

何故そのように言われるようになったのでしょうか。

 

黒田官兵衛(くろだ かんべえ)の人物像と石田三成との関係についてみていきます。

 

天才軍師と評される黒田官兵衛

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黒田官兵衛

黒田 官兵衛は通称で、本名は黒田孝高(よしたか)、出家後の号をとった黒田如水(じょすい)としても知られます。

豊臣秀吉の参謀として有名ですが、最初は小寺政職(こでら まさもと)に仕え、次に織田信長に仕えた後に豊臣秀吉に主従します。

竹中重治(たけなか しげはる)(通称は竹中半兵衛<はんべえ>)と共に天才軍師と評され、「両兵衛」「二兵衛」と並び称されるほどの人物です。

 

官兵衛の機転が秀吉の天下取りに貢献

「黒田家譜」によると、官兵衛が秀吉の天下取りに大きく貢献した逸話を残しています。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が毛利家配下の備中国(びっちゅうのくに)(岡山県)高松城を攻めていた時に、本能寺の変が起き信長が亡くなります。

本能寺の変を知った官兵衛は、秀吉に毛利輝元(てるもと)と和睦して、主君・信長の仇(かたき)を討つように献策(けんさく)(上位の者対して案を述べること)したそうです。

そして秀吉は、早々に毛利氏と和睦を成立させ、全行程200kmをわずか5日で移動し(中国大返し)、山崎(やまざき)の戦いで明智光秀を破り、天下取りに近づいたとされる出来事です。

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「黒田家譜」

「黒田家譜」とは、江戸時代に黒田氏が治める福岡藩の命令を受けて、黒田家の家臣・貝原 益軒(かいばら えきけん)が記したものです。

黒田家の家臣がつけた黒田家の記録ですので、忖度(そんたく)がある可能性があると思いますが、官兵衛がとても優秀であったことは確かなようです。

 

備中国高松城を攻めに三成も従事

備中国高松城を攻めは、三成も従事していたとされますので、この頃には面識があったのかもしれません。

三成の名前が歴史上に見えるようになるのは、1583年4月に起こる賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い頃からですので詳細は不明です。

また、1582年6月21日に起きた本能寺の変の頃は、官兵衛と話せる立場でなかったかもしれません。

 

九州征伐に従事した官兵衛

豊臣秀吉の元で官兵衛が活躍した出来事の一つに、1587年4月に起きた九州征伐の一つである根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)があり、秀吉の勝利に大きく貢献したとされます。

 

恩賞が少ない理由

ですが、貢献したのにもかかわらず恩賞が少ないそうで、その理由とされていることを紹介します。

 

「黒田家譜」

①「黒田家譜」によると九州征伐の恩賞が少なすぎるのは、石田三成の讒言(ざんげん)(事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと)によるものとしています。

 

「常山紀談」

②「常山紀談<じょうざんきだん>」では、秀吉が官兵衛の才能を恐れ警戒したためとしています。

江戸時代中期につくられた逸話集になりますが、秀吉が官兵衛を恐れたとする説はとても有名です。

真偽のほどは不明ですが、官兵衛がそれほどまでに優秀であったということの現れかもしれません。

 

ルイス・フロイス

③ルイス・フロイスは、官兵衛がキリシタンであったので迫害を受けたと記しているそうです。

この九州征伐の直後の1587年7月24日(天正15年6月19日)に、バテレン追放令というキリスト教の緩めの禁教令が出されています。

九州征伐で、九州の大名の間でキリスト教が想像以上に広がっており、秀吉が脅威を感じたため禁教令を発布したと伝っていますので、あり得る話に思えます。

 

秀吉のキリスト教の禁教令の記事はこちらです。

👇

石田三成とキリシタン~キリスト教の禁止~

また、戦乱で荒れた九州博多の復興は、石田三成と共に官兵衛が監督したそうです。

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石田三成と黒田官兵衛の対立

1592年から始まった朝鮮出兵(文禄の役)では、官兵衛も朝鮮に赴きますが、病の為に帰国し、再度1593年に朝鮮に渡った時に石田三成らと諍(いさか)いが起きたといいます。

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石田三成

黒田官兵衛と囲碁

秀吉が必ず攻略するよう命じていた晋州城(しんしゅうじょう)攻めについて、軍議をするため石田三成、増田長盛(ました ながもり)、大谷吉継ら奉行衆が、官兵衛と浅野長政に対面を求めた時の話です。

三成ら奉行衆が訪ねてきた時、官兵衛と浅野長政は囲碁の対局をしており、奉行衆が訪ねてきたことは知っていましたが、奉行衆を待たせたまま打ち続けたため、「奉行をないがしろにして囲碁の対局とは何事だ」と怒って帰ってしまったそうです。

三成ら奉行衆は、このことを根に持ち秀吉に讒言(ざんげん)したといいます。

囲碁の話が実際にあった出来事か真偽は不明ですが、晋州城攻略計画に官兵衛は反対し、石田三成、増田長盛らと対立したことは事実のようです。

 

黒田官兵衛が出家

そして、晋州城攻めの件で秀吉に直談判をするために、官兵衛は帰国したようですが、戦線離脱は軍規違反であると秀吉を怒らせてしまい、秀吉に朝鮮に追い返されてしまったそうです。

この秀吉の逆鱗に触れた出来事で、官兵衛は死罪を覚悟したと伝わり、1593年に8月に「如水軒円清」と号して出家しますが、後に秀吉に許されます。

この官兵衛が秀吉に成敗寸前まで追い詰められたことに関して、「黒田家譜」では、三成が秀吉に讒言したためと記しているようですが、先に述べたように官兵衛が帰国したことが理由のようです。

 

三成と官兵衛は不仲なのか

「黒田家譜」では、三成が讒言した旨の記載が何度かあります。

「黒田家譜」が書かれた時期と同じ江戸時代は、何かと悪者にされた三成ですが、悪者扱いされながらも三成の子供や子孫は遇される不思議な出来事が多々起きます。

ですが、黒田家が三成ゆかりの者を遇した話はありませんし、三成旧臣を召し抱えた話も聞きません。

「黒田家譜」にある三成讒言説がどこまで本当か真偽は不明ですが、黒田官兵衛と三成はあまり仲良くなかったのかなと個人的には感じています。

 

黒田官兵衛の話ではありませんが、三成の朝鮮出兵の記事はこちらです。

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石田三成と朝鮮出兵

 

石田三成の子供達について、特に関ケ原の戦い後の話の記事はこちらです。

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石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

石田三成と加藤清正~関ケ原の戦いで何故、敵対したのか~

石田三成と福島正則~関ケ原の戦いで何故、敵対したのか~

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参考・引用・出典一覧

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