石田三成と黒田官兵衛(如水)は不仲だったのだろうか

石田三成と黒田官兵衛(如水)は、豊臣秀吉の天下取りに貢献しに重用された人物ですが、関ヶ原の戦いでは敵味方に分かれています。

朝鮮出兵での囲碁の話など、石田三成と黒田官兵衛は不仲だったのだろうかと思わせるエピソードも残されています。

官兵衛や三成の足跡を辿りながら、二人の接点について書いています。

目次

黒田官兵衛 秀吉との出会い

天文15年(1546年)、黒田官兵衛(如水)は、播磨国の姫路で生まれています。

父は、播磨御着城主・小寺政職の家老で、姫路城の城代・黒田職隆(もとたか)です。

永禄10年(1567年)頃、黒田官兵衛(如水)は、家督と家老職を継いで、小寺政職の姪を娶り、姫路城代となっています。

黒田官兵衛の肖像画
黒田官兵衛(如水)

黒田官兵衛(如水)が播磨国龍野城主・赤松政秀らと戦をしていた頃、織田信長が台頭し始めています。

播磨国は東から織田信長、西からは毛利輝元の勢力に挟まれるようになり、どちらかの陣営に属す必要に迫られます。

天正3年(1575年)、黒田官兵衛(如水)は、毛利輝元が天下を争う武将であることは認めながらも、破竹の勢いがある織田信長への臣従を進言しています。

僅かな軍勢で今川義元を破った織田信長は、朝倉義景浅井長政を打ち破り、長篠の戦いで武田勝頼をも破っています。

情報に裏打ちされた黒田官兵衛(如水)の言葉により、小寺家は織田信長に属することを決めたようです。

同年7月、黒田官兵衛(如水)は、小寺家の使者として、岐阜城において織田信長に謁見します。

『黒田家譜』によると、黒田官兵衛(如水)は「重臣の一人を播磨に派遣して欲しい」と言い、重臣の指揮の元、官兵衛らに先鋒を任せて欲しいと信長に伝えたそうです。

そして、官兵衛の居城・姫路城を中国地方平定の拠点として活用できること、毛利氏との境界線である播磨を押さえれば、毛利征伐の足掛かりにできることなどを話したと伝わります。

このやり取りが史実かは分かりませんが、信長は秘蔵の愛刀圧切長谷部」を黒田官兵衛(如水)に与えています。

国宝 「圧切長谷部」
国宝 「圧切長谷部」

織田信長は、黒田官兵衛(如水)を使える人物であると見込んだのかもしれません。

2年後、中国地方の攻略を命じられた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、播磨国に出陣しています。

黒田官兵衛(如水)は、毛利攻め拠点として姫路城を秀吉に譲り渡し、姫路城の南に新たな城を築いています。

姫路城天守(連立天守群・国宝)
姫路城天守(連立天守群・国宝)

この頃、黒田官兵衛(如水)に宛てた秀吉の書状に「弟の小一郎(秀長のこと)と同じように心安く思っている」という言葉があります。

毛利攻めの御膳立てをする黒田官兵衛(如水)に、最大級の賛辞を送ったのかもしれません。

官兵衛 人生最大のピンチ

天正6年(1578年)10月、織田家の重臣・荒木村重が反旗を翻し、有岡城に籠ります。

黒田官兵衛(如水)が仕官する小寺政職も村重に同調しようとしたため、官兵衛は荒木村重の説得に乗り出します。

しかし、説得は成功せず、黒田官兵衛(如水)は有岡城の牢に幽閉されてしまいます。

織田信長は、黒田官兵衛(如水)が寝返ったと思ったようで、人質だった官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を亡き者にするよう命じています。

ですが、黒田官兵衛(如水)の同僚・竹中半兵衛は、官兵衛が裏切るはずはないと信じ、松寿丸を密かに匿います。

また、黒田官兵衛(如水)の重臣らも官兵衛を信じ、結束を固めて官兵衛の帰りを待っています。

天正7年(1579年)10月、有岡城は開城し、黒田官兵衛(如水)は孝高は救出されています。

一年間の幽閉生活により、不自由になった膝と、抜けた髪の毛は、生涯回復しなかったそうです。

また、黒田官兵衛(如水)の主君・小寺政職が出奔したことで、官兵衛は独立を果たしています。

官兵衛 秀吉に天下取りを進言

軍事的才能に優れた黒田官兵衛(如水)は、戦を和睦に導く交渉術も持ち合わせていたようで、秀吉は戦の時は官兵衛を頼りにするようになります。

天正10年(1582年)、黒田官兵衛(如水)らが備中高松城攻めをしている最中、本能寺の変が起きて信長が斃れます。

羽柴秀吉の元にも、本能寺の変の知らせが届き、秀吉は悲嘆の涙を流したそうです。

黒田官兵衛(如水)は、茫然自失の秀吉を励まし、秀吉が天下をとる好機であると進言したそうです。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

この時、黒田官兵衛(如水)がいなければ、秀吉の行動が遅れ歴史が変わっていた可能性があるともいわれます。

その後、明智光秀を討ち果たす山崎の戦いなど、戦に従軍して秀吉の勝利に貢献しています。

石田三成の台頭

永禄3年(1560年)、石田三成は近江国の石田村(石田郷)で生まれています。

石田三成は、黒田官兵衛(如水)より14年歳年下です。

石田三成
石田三成

父は石田郷の土豪・石田正継とされ、浅井氏か京極氏に仕えていたともいわれます。

三献茶の逸話から、天正2年(1574年)頃、三成は羽柴秀吉に仕えたと見られていますが定かではありません。

石田三成の長男が残した過去帳によると、天正5年(1577年)、秀吉が播磨姫路在陣中に仕えたことが書かれています。

天正5年(1577年)説が正しいとしたら、羽柴秀吉が黒田官兵衛(如水)らと共に、播磨平定に乗り出した頃、石田三成が秀吉に仕官したことになります。

織田信長、明智光秀没後、秀吉は賤ヶ岳の戦いに勝利し、織田家宿老・柴田勝家を自害に追い込みます。

羽柴秀吉は天下人の道を歩み始め、石田三成も次第に台頭していきます。

石田三成は、賤ヶ岳の戦い後、上杉家との外交交渉を務めて秀吉への主従を斡旋しています。

また、戦の際は兵糧や武具など輸送するなど、吏僚として優れた能力を発揮しています。

太閤町割

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州を平定します。

九州の博多は、自治都市として栄えていましたが、諸大名らの争いで荒廃していました。

豊臣秀吉は、戦乱で荒れた博多の復興を、黒田官兵衛(如水)・石田三成・長束正家・小西行長らに命じています。

太閤町割りと呼ばれる事業で、街並みを整備し、やがて博多は商業都市へと発展していきます。

現在も行われている博多祇園山笠という祭事で、「太閤町割」という飾り山笠が登場したこともあるそうです。

博多祇園山笠の飾り山笠「太閤町割」
博多祇園山笠の飾り山笠「太閤町割」

特に、黒田官兵衛(如水)は、福岡を創った人物として、地元から愛されています。

三成が官兵衛を讒言した!?

九州平定後、黒田官兵衛(如水)は、恩賞として豊前国の約3分2、12万石程の領土(太閤検地後17万石以上)を与えられます。

黒田官兵衛(如水)と石田三成、お互いがどう思っていたのかを書いた当時の史料は見つかっていません。

江戸時代に完成した『黒田家譜』によると、黒田官兵衛(如水)の働きに対して石高が少ないのは、石田三成が讒言したことなどが理由であると書かれています。

天正15年(1587年)の時点で、大名の石高を左右する程、石田三成の影響力は大きかったのだろうかと疑問に思いますが、真実は分かりません。

また、ルイス・フロイスによると、黒田官兵衛(如水)がキリシタンであったので迫害を受け石高が少ないそうです。

黒田官兵衛(如水)の才能を恐れた秀吉に警戒されたという説も有名で、『常山紀談』などに書かれています。

優秀な黒田官兵衛(如水)を大大名にすると、取って代わられる恐れがあるため、官兵衛の禄を少なくしたといわれています。

いずれにせよ、黒田官兵衛(如水)は、3万石から約12万石に加増され、中津城の築城に取り掛かります。

官兵衛と三成は朝鮮出兵で対立

天正20年(1592年)、天下統一を成し遂げた秀吉は、対外侵略に乗り出すため、朝鮮半島に日本軍を出兵させています。

黒田官兵衛(如水)は、既に嫡男・長政に家督を譲っており、黒田家は長政が中心となって戦っていました。

その後、官兵衛は病を理由に帰国し、翌年、浅野長政と共に再度朝鮮に渡海しています。

石田三成は、増田長盛・大谷吉継と共に日本にいる秀吉の名代として既に渡海し、3名で朝鮮出兵の総奉行を務めています。

日本軍は兵糧食が不足し、明・朝鮮軍に苦戦していました。

黒田官兵衛(如水)と浅野長政は、兵站補給体制の見直し、戦局の立て直しを秀吉から指示されてやって来たのです。

石田三成ら三奉行は漢城(現・ソウル)にいましたが、打ち合わせをする為、黒田官兵衛(如水)らがいる東莱城を訪ねています。

『黒田家譜』によると、黒田官兵衛(如水)は、浅野長政と囲碁の最中であったことや、以前から三成を疎ましく思っていたこともあり、囲碁を終えてから石田三成らと対面しようとしたそうです。

三成ら三奉行は激怒し、対面せずに漢城に帰ってしまいます。

黒田官兵衛(如水)は、使者を送りましたが三成らは戻りませんでした。

三成ら三奉行は、黒田官兵衛(如水)のことを無礼者と言いふらし、書状にして秀吉にも報告したそうです。

囲碁の話が史実かは分かりませんが、黒田官兵衛(如水)は、秀吉が計画した晋州城攻略を巡り、石田三成・増田長盛らと対立していたようです。

黒田官兵衛(如水)は、秀吉を説得するため帰国しますが、無許可での戦線離脱を咎められています。

秀吉への拝謁も許されず、官兵衛は蟄居謹慎を命じられています。

黒田官兵衛(如水)は、剃髪して「如水軒円清」と号し、遺書を書き残したと伝わりますが、秀吉に許されています。

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去し、朝鮮出兵は終わりを迎えます。

黒田官兵衛 三成の動きをよむ

黒田官兵衛(如水)は、この先、天下の覇権をめぐって戦が起きるであろうことを予想していたことが伝わる書状があります。

また、私的婚姻を禁じた秀吉の遺命に背いて、黒田長政の正室に家康養女を迎えています。

黒田官兵衛・長政父子は、次の天下人は徳川家康であろうと見抜いていたと思われます。

慶長5年(1600年)、徳川家康は、豊臣恩顧の大名らを率いて、上杉景勝を討伐するため会津に向かっています。

石田三成らが徳川家康を非難して挙兵し、関ヶ原の戦いが起きます。

石田三成は、大名の妻子らを大坂城内に集め人質にしようとしますが、黒田官兵衛(如水)は予想していたようです。

黒田官兵衛(如水)は、正室・光、長政の継室・栄姫を大坂の黒田屋敷から脱出させるよう指示しています。

ですが、石田三成方の監視が厳しく、脱出を諦めかけた時、大坂玉造の細川屋敷にて火の手が上がります。

人質になることを拒んだ細川ガラシャ細川忠興の正室)が自害し、細川家の家老が火を点けて自刃したのです。

玉造方面に人が移動し、監視が緩んだ隙に、光と栄姫は無事に脱出しています。

さて、黒田家の家臣の殆どは、黒田長政が率いて関ヶ原の戦い本戦に参じています。

黒田官兵衛(如水)の元には、僅かな留守部隊しかいません。

そこで、兵を募るため中津城に蓄えた金・銀を惜しげもなく配り、留守部隊を含めて約9,000人の軍を作り上げています。

中津城模擬天守と復興櫓
中津城模擬天守と復興櫓

また、石田三成は、黒田官兵衛(如水)に見方になるよう誘っていましたが、官兵衛は態度をハッキリさせることは無かったようです。

黒田官兵衛(如水)は、徳川家康に与することを初めから決めていたと思われますが、三成方(西軍)に見方する条件として恩賞を求め、準備する時間を稼いでいたといわれています。

その後、徳川方(東軍)についた細川忠興の飛び地・杵築城を守る松井康之らから、援軍要請を受けた黒田官兵衛(如水)は、豊後に出陣しています。

黒田官兵衛(如水)は、杵築城を攻撃する西軍の大友義統(吉統)軍と激突し、勝利を収めています。

関ヶ原の戦い本戦では、黒田長政隊が石田三成隊と戦い、三成の右腕・島左近を負傷させるなど、長政は東軍勝利に大きく貢献しています。

関ケ原古戦場の石田三成陣跡
関ケ原古戦場の石田三成陣跡

その後、黒田官兵衛(如水)は、加藤清正らと共に立花宗茂を攻めて降伏させ、島津攻めに向かう最中、徳川家康から停戦命令が届き、九州の関ヶ原の戦いは終わりを迎えています。

関ヶ原の戦い後

関ヶ原の戦い本戦では、小早川秀秋、脇坂安治らの寝返りにより、大谷吉継隊が壊滅し、西軍は総崩れになります。

最後まで奮戦した石田三成隊も退却し、三成は再起を図って落ち延びます。

一説には、母の故郷ともいわれる古橋にて、匿われた三成ですが、村人に危害が及ぶのを恐れて、三成を捜索していた田中吉政に差し出すよう村人を説得したという話が残っています。

「オトチの岩窟」
三成が隠れた「オトチの岩窟」

慶長5年10月1日(1600年11月6日)、捕らえられた石田三成は、小西行長や安国寺恵瓊と共に、京の六条河原にて斬首されています。

享年41歳。

関ヶ原の戦いの勲功として、黒田長政は筑前国名島52万石の大封を得ています。

徳川家康は、黒田官兵衛(如水)にも領地加増の恩賞を与えようとしますが、官兵衛は辞退し茶壺一つを望んだそうです。

黒田如水公御鷹屋敷跡(隠居地跡)
黒田如水公御鷹屋敷跡(隠居地跡)

その後、黒田官兵衛(如水)は隠居生活を送り、慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて生涯を閉じています。

享年59歳。

石田三成が没してから、およそ3年半後です。

『黒田家譜』などから、黒田官兵衛(如水)と石田三成は不仲だったのかもしれません。

豊臣政権を共に支えた同士であった時期もあったのではないかと思いますが。

今後、二人が生きた同時代の史料が発見されれば、新たなことも見えて来そうに思います。

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