石田三成公の出生地にある観光名所の一つである石田会館についてのご紹介です。
三成公に興味のある方は是非一度訪れてみてください。
石田会館について
三成公の観光名所として真っ先に思いつくのは、三成公が生まれた屋敷跡に立つ石田会館です。
石田会館の外には、三成公の銅像があります。
京都大徳寺三玄院に三成公のお墓があるのですが、発掘された頭蓋骨は接合され容姿の復元がされています。
その頭蓋骨と三成公の次男である津軽藩士・杉山家に伝来する三成公の肖像画を元に銅像がつくられました。
私が初めて石田会館を訪れた時にスタッフ(ボランティア?)の方が、「ここには何も有りません」
と仰っていたことが印象的でした。
石田会館には、「石田三成資料室」があり、石田屋敷復元ジオラマ、三成の生涯を描いたパネル、
三成公の頭蓋骨の写真などの展示もあります。
ですが、三成公が使用した本物ではなく、レプリカや写真が展示されていました。
三成公は敗軍の将ですので、ゆかりの物は破壊され残っていません。
三成公を慕う村人が徳川方に見つからないように、寺などに隠し明治時代以降に存在が明かされた物はあります。
そういった貴重なゆかりの品が、私の訪れていない期間に石田会館へ寄贈されている可能性はあると思いますが、
私が過去2度訪れた際はありませんでした。
次回、石田会館へ行ったら確認したいと思います。
又、石田会館へお越しの際は事前連絡をした方が良いと思います。
石田会館は不定休であり、常時開館ではありません。
私も2回訪れた内、1度は会館が開いていませんでした。
確か日曜日でしたが…(^-^;。
扉に電話番号が貼られていて「御用の方はお電話ください」という内容が記載されていました。
電話したところ、直ぐに来ていただけて無事に観ることはできています。
入館料は無料ですしボランティアなのかもしれないと思っています。
又、町の公民館としても使用されているので、見学しながら別の部屋で集まりをしていた時もありました。
御朱印
石田会館では御朱印(ごしゅいん)や本の販売をしています。
こちらは、石田会館でいただいた御朱印です。
右上は「石田三成公旗印 大吉大一大万」
左上は「江東院殿(三成の法号 江東院正軸因公大禅定門より)」
右下は「石田三成公花押」
左下は「石治少(石田治部少輔三成の略)」
この三成公の「江東院正軸因公大禅定門」という法号は、三成公の参禅の師であり、
大徳寺の長老でもあった春屋宗園(しゅんおくそうえん)が諡号(しごう)しました。
三成公の法号
三成公次男の子孫であり、石田三成研究家でもあった白川 亨氏著書「真説 石田三成の生涯」によると
中国の唐の時代の詩人である 杜牧(とぼく)が詠んだ、
題烏江亭(うこうていにだいす)が春屋宗園の脳裏をよぎったためではないかと推察されています。
中国の四面楚歌で有名な敗軍の将である項羽を想い詠まれた詩です。
敗北が決定的になった項羽に、烏江の亭長(村長)は、「江東に渡り再挙を図るよう」にすすめますが、項羽はこれを断ります。
最後は敵につっこんでいき、さんざんに戦い、自害して果ててしまいます。
詩の現代語訳は
勝敗は兵法家でも予測することができない。
恥辱に耐え、巻き返しをはかるのが真の男児というものだ。
項羽の出身地である江東地方にはすぐれた人物が多い。
砂塵を巻き起こす勢いで劉邦をもう一度攻撃していたら、
どうなっていたかわからない。
石田三成公の生きた戦国時代は敗軍の将は、自害することが潔く美徳であるとされていた時代です。
ですが、三成公はお腹を下しながら逃げ延び洞窟などに潜伏します。
このことを、戦国時代という背景から、否定的に捉える意見もあります。
ですが、白川 亨氏によると春屋宗園の教えに忠実になり再挙を図ったと推察されています。
春屋宗園は自らの教えを守り散り去った三成公の法名を杜牧の詩にちなんで、「江東院正軸因公大禅定門」と
諡号したのではないかと推察されています。
又、石田町は琵琶湖の北東に位置することから、湖東(江東)の意味も含まれている可能性についても述べています。
悪い噂ばかり流されていた江戸時代ですら、三成公の最後の時はとても潔く、立派であったとされています。
なのに、敗北が決まった後も逃げ延びたことに違和感がありましたが、
「再挙を図ってこそ真の男子」という教えを守る為という説明で納得できたように思います。
石田三成祭
石田会館と特設会場で石田三成公祭があるそうです。
今年は石田三成公生誕460年ですね(^^)。
期間:2019年11月3日(日・祝)
石田会館の地図・アクセス
滋賀県長浜市石田町治部576
0749-62-8285
公共交通:JR長浜駅下車し、湖国バス近江長岡駅行きで20分
バス停:石田下車、徒歩3分
自動車:長浜ICから10分
駐車場:あり
定休日:不定休
コメント