石田三成の子孫|津軽杉山家、弘前藩主、天皇家、三菱財閥など

石田三成の子孫について書いています。

関ヶ原の戦いで敗軍の将になった石田三成ですが、三成の血脈は弘前藩(津軽藩)主や天皇家の中にも入りました。

他にも津軽杉山家、三菱財閥、備中吉田村(笠岡市)の子孫、妙高ホテルの三成の子孫、現在の子孫について書いています。

目次

石田三成の子孫

石田三成の子孫は生きていたというのは、現在では知っている方も多いと思います。

周知の通り、関ヶ原の戦い後、石田三成は亡き者にされています。

その一方、石田三成の子供や子孫に対しては、寛大ともいえる対応でした。

石田三成の肖像画
石田三成 出典元:Wikipedia

石田三成の長女の子孫は津軽藩士、次女・小石殿の子孫は天皇家尾張徳川家に流れます。

三女・辰姫の子孫は弘前藩主で、徳川家や松平家と何度も婚姻関係を結び、三菱財閥へとつながります。

また、弘前藩の家老や重臣になったのが、三成の次男・石田重成(杉山源吾)を祖とする津軽杉山家です。

因みに、津軽杉山家は、忍者集団を結成したと見られている家です。

三成の三男・佐吉は、幼少で出家しており子孫はいないと思われます。

三成の長男・石田重家は、出家して助命されています。

石田重家には、子供はいないと思われていましたが、子供がいて徳川家康の次男に保護されていたという伝承があります。

また、「伝承」は史実かどうかは不明であることもご承知おきくださいませ。

主に正室・皎月院との間に子孫について書いていますが、側室の子孫については全て伝承の域を出ないものになります。

詳しい話が伝わっている子供、子孫については、クリックして飛べるようになっています。

複数の書籍、Wikipediaを元に三成の子孫について書いていますが、管理人の勘違い、思い込み等で誤りがありましたら、すみません。

それでは、石田長男の子孫の話から書きます。

三成の子孫・直重と長成

石田三成の長男石田重家は、春屋宗園の弟子になり出家して宗享と名乗り高齢まで生き長らえます。

関ヶ原の戦い当時、石田重家には身重のがいたという伝承があります。

伝承によると、石田重家の妻を保護してくれたのは、徳川家康次男・結城秀康です。

結城秀康は豊臣家の養子になっていた人物で、石田三成とも親交があったと伝わります。

1599年(慶長4年)、石田三成襲撃事件が起きた際、結城秀康は三成を護衛し、佐和山城に送り届けたことで知られています。

石田三成は、結城秀康に感謝して刀(石田切込正宗)を贈っています。

石田切込正宗は、秀康の子孫にあたる津山松平家でに伝来しました。

石田正宗(石田切込正宗)
石田正宗(石田切込正宗) 出典元:Wikipedia

その後も、親交があったようで、石田重家の妻を自身の領土である越前北ノ庄に移したようです。

こうして生まれた子供が石田直重(三成の孫)で、結城秀康の長男・松平忠直に仕えたと伝わります。

石田直重の妻は、松平忠直の末という口伝もあるそうです。

その後、松平忠直の子・光長に随って越後高田に移ったといいます。

石田直重の子・長成は、妙高市の新田開発を命じられ、妙高市に定住したそうです。

石田直重の子・長成の妻は、松平忠直のを娶っているそうです。

ここまでの松平家の庇護を受けた石田重直の話は、『石田三成の末裔として育った』を参考にしています。

三成や直重の子孫・「石田館 妙高ホテル」

石田重家の子・重直の子孫は、現在も続いているそうです。

2013年7月、「石田三成の子孫が経営するホテルが破産」というニュースがありました。

妙高温泉「石田館 妙高ホテル」は、石田三成の子孫の宿として売り出していました。

大正時代に新潟県妙高温泉開湯から、2013年まで旅館業を営んだ老舗の温泉ホテルだったそうです。

スキーブームの頃、2億円を超える売り上げの時があったそうですが、スキーブームが終わり、日本経済の低迷などで経営環境が厳しくなり、業績の改善が見込めず破産してしまったそうです。

「石田館 妙高ホテル」の御先祖である石田重家は、石田三成の嫡男と見られています。

「石田館 妙高ホテル」の経営者だった方は、石田宗家の子孫と言える!?かもしれません。

伝承、口伝の域をでないようで、本当に石田三成の子孫かは不明ですが。

三成の孫・吉成

石田三成の次男は、石田重成といい、津軽信建の助力で大坂から津軽へ逃れています。

津軽氏に匿われ、杉山源吾改名して隠棲したとも侍大将になったともいわれます。

津軽氏は弘前藩主を務める家ですが、杉山源吾(石田重成)の子孫は、津軽家に仕えて家老職や重臣を務めています。

また、杉山源吾の長男は、杉山吉成(八兵衛)といい、藩主・津軽信枚の娘・子之姫を妻に迎えています。

石田三成の孫に藩主の娘が嫁ぐのは、意外かもしれません。

津軽家は石田三成に恩義がある上、弘前藩2代藩主・津軽信枚に輿入れした三成三女(辰姫)の影響もあるかもしれません。

杉山吉成は、弘前藩の重臣として軍事組織を担い、シャクシャインの戦いで侍大将を務めて、幕閣からも大いに評価されています。

シャクシャイン像
シャクシャイン像

石田三成の子孫が忍者集団を結成したというニュースがありましたが、杉山吉成の事であると見られています。

杉山源吾には杉山吉成の他に、次男・石田掃部、三男・杉山成保(嘉兵衛)がいます。

また、津軽信枚の正室は、徳川家康養女・満天姫ですが、満天姫の曽孫・津千女は、杉山吉成の次男・武助豊臣(ぶすけとよおみ)に嫁いでいるそうです。(『石田三成の生涯』)。

津軽杉山家歴代の当主

石田三成の次男(杉山源吾)から杉山家当主の系譜を書きます。

三成の次男・石田重成(杉山源吾)→杉山吉成(シャクシャインの戦い)→杉山吉煕→杉山成武(家老)→杉山成胤→杉山成総(なりふさ)(家老)→杉山成務→杉山成充→杉山成章(家老格)→杉山成務→杉山成範(東奥義塾高校の前身、稽古館の十一代総司)(杉山家の『由緒書』を残す)→杉山成知(家老)(箱館戦争の軍事総監)→13代・杉山壽之進(とうのしん)(東奥義塾の七代塾長)→杉山丕

家老格も含めると家老職に就いたのは、杉山成武、杉山成総、杉山成章(家老格)、杉山成知です。

三成の江戸後期の子孫・杉山成知

杉山成知(杉山上総)は、幕末の動乱期に弘前藩の家老職を務めた人物です。

元々は徳川方に属していましたが、最終的には新政府側へ付き明治維新を迎えています。

明治2年(1869年)、明治政府軍の中に、弘前藩の軍事のトップとして弘前藩士を率いる杉山成知の姿がありました。

箱館戦争に従軍し、弘前藩兵は矢不来の戦いで軍功を挙げたそうです。

石田三成の明治、昭和の子孫・杉山壽之進

壽之進(とうのしん)は、杉山成知の長男として生を受けています。

東奥義塾に中退後、東京大学法学部に入学しています。

明治30年(1897年)、弘前市にある東奥義塾(私立高等学校)の7代塾長になります。

弘前市立図書館を開設し館長になり、各地の公立中学校に勤め、弘前和裁女学校に勤めるなど教育に尽力した教育家です。

津軽杉山家の子孫・白川 亨氏

白川亨氏は、石田三成の次男・石田重成の子孫、つまり津軽杉山家の子孫です。

石田三成の研究家でもあります。

昭和5年(1930年)に生まれて、平成24年(2012年)に亡くなられています。

Wikipediaによると白川亨氏の生年は、昭和2年(1927年)となっています。

ですが、昭和5年(1930年)4月3日生まれであると、白川亨氏のご家族に教えていただきました。

以前、白川亨氏はNHKに出演したそうで、その際に年齢を聞かれたそうです。

当時、満年齢79歳であった白川亨氏は「今年 はちじゅうになります」と答えたところ

「82になる」と誤解されてしまったようです。

そこから逆算した生年が昭和2年(1927年)で、実際と3歳の誤差が生じたのだろうと思われるようです。

また、白川亨氏ご自身の著書の自己紹介に書かれていることですが、望月印刷会社の元代表取締役を務めていたそうです。

しかし後に代表権を返上し、退社後は石田三成の研究に専念したそうです。

石田三成の新の姿を知る為に、三成子孫宅から門外不出文書である由緒を借り、各家の由緒を照らし合わせ、文献を調べ、ゆかりの地に赴き研究結果を本として出版します。

管理人は、石田三成や津軽に関する白川亨氏の書籍を4冊所持しています。

特に、石田三成の子孫について書いてある『石田三成とその子孫』は、他にはない内容です。

三成の子孫について詳しく知りたい方は、特にオススメです。

津軽杉山家の子孫・佐賀郁郎氏

佐賀郁郎氏も三成次男の子孫とのことで、津軽杉山家の子孫になります。

昭和6年(1931年)生まれで、石田三成の研究をした方でもあります。

著書によると佐賀郁郎氏は、農協電算機機研究センター常務理事、農林放送事業団常務理事、日本有線放送電話協会会長を歴任されたそうです。

佐賀郁郎氏は兄から津軽に逃れた三成の子孫である旨を聞かされ、自らのルーツを探っていく経過を書かいた『石田三成と津軽の末裔』という本を出版されて管理人も所持しています。

弘前藩(津軽藩)の子孫・津軽信義

次は津軽杉山家とも関係の深い、三成の三女・辰姫とその子孫についてです。

石田三成の三女は辰姫(大館御前)です。

豊臣秀吉が没した後、豊臣秀吉の正室・北政所の養女になっています。

関ヶ原の戦いから10年後くらいに、弘前藩2代藩主・津軽信枚に嫁いでいます。

始め正室でしたが、後に徳川家康の養女(満天姫)が輿入れしたため、側室に降格されています。

その後、辰姫が生んだ津軽信義が、長男ということもあり弘前藩3代藩主になっています。

津軽信枚には9男4女がいますが、その中、石田三成の孫・津軽信義が藩主になりました。

津軽信義の肖像画
津軽信義 出典元:Wikipedia

津軽信義の正室は、満天姫の姪・富宇姫(徳川家康の異父弟の孫)です。

13歳で藩主になった津軽信義は、家中をまとめきれず船橋騒動(お家騒動)が起き幕府の介入で鎮めています。

その後、津軽信義を排除し、津軽信枚次男・ 津軽信英を藩主として擁立しようとする正保の騒動(お家騒動)が起きています。

津軽信義は「暗君」だとも云われますが、インフラ整備をしたり、和歌や絵を好む一級の教養人としても知られています。

津軽信義の系譜を書きます。

3代目・津軽信義→津軽信政→津軽信寿(のぶひさ)→津軽信著(のぶあき)→津軽信寧(のぶやす)→津軽信明(のぶはる)→津軽寧親(やすちか)(分家の黒石藩から)→津軽信順(のぶゆき)(江戸時代後期)

途中で養子を迎えていますが、津軽寧親は津軽信政の曾孫ですので、弘前藩10代藩主・津軽信順までは、石田三成の子孫です。

次は、津軽信義以降の弘前藩主(三成子孫)について書きます。

弘前藩(津軽藩)の子孫・津軽信政

津軽信政は、弘前藩主4代藩主です。

津軽信義の長男で、三成の曾孫です。

幼少で家督を継いだ為、叔父・津軽信英の補佐を受けています。

聡明な人物で、領内に善政を敷いています。

津軽信政は弘前藩の全盛期を築き、中興の英祖とも呼ばれています。

津軽信政の正室は、増山正利の娘・不卯姫(ふうひめ)です。

徳川家綱の生母・お楽の方(家光側室)は、増山正利の姉です。

つまり、津軽信政は、4代将軍徳川家綱の従妹を正室として迎えています。

弘前藩(津軽藩)の子孫・津軽信寿

津軽信寿(のぶひさ)は、津軽信政の次男で弘前藩5代藩主です。

石田三成の玄孫に当たります。

津軽信寿の母・不卯姫(将軍の従妹)の縁で、幼名は竹千代(徳川家康の幼名と同じ)です。

津軽信寿
津軽信寿 出典元:Wikipedia

正室は松平忠尚の養女である法雲院です。

上野吉井藩の初代藩主・松平信清の正室になった娘がいます。

津軽信寿娘・於染は、保科正寿の正室になっています。

二人の子供である保科正富から、三菱財閥の創業家へ石田三成の血が流れますので、三菱財閥にも三成の子孫がいます。

後程、詳しく書いています。

弘前藩(津軽藩)の子孫・津軽信著

津軽信著(のぶあき)は、弘前藩6代藩主です。

5代藩主・津軽信寿の嫡で、石田三成の昆孫です。

有馬則維(のりふさ)の三女・浄心院を娶っています。

弘前藩(津軽藩)の子孫・津軽信寧

津軽信寧は、津軽信著の長男として誕生し、弘前藩7代藩主となっています。

石田三成の仍孫です。

松平明矩(越前松平家4代)の娘・綾姫を娶っています。

弘前藩(津軽藩)の子孫・津軽信明

津軽信寧の長男・津軽信明は、弘前藩8代藩主です。

石田三成の雲孫です。

天明の大飢饉などで荒廃した田畑の復興に尽力しています。

名君と名高い米沢藩主・上杉鷹山、熊本藩主・細川重賢らと親交があったそうです。

松平朝矩(越前松平家5代)の娘・喜佐姫を正室として迎えています。

弘前藩(津軽藩)の子孫・津軽寧親

津軽寧親(やすちか)は、分家・黒石領からの養子で、弘前藩9代藩主となった人物です。

黒石領は、2代・津軽信枚(三成三女の夫)と満天姫(又は側室)の間に生まれた津軽信英を祖としています。

ですが、津軽寧親は、4代藩主・津軽信政の曾孫です

津軽信政は三成の曾孫ですので、津軽寧親も石田三成の昆孫になります。

先に述べたように、石田三成の子孫・杉山壽之進は、東奥義塾の塾長になっています。

東奥義塾は、津軽寧親によって寛政8年(1796年)に創設されたものです。

弘前藩(津軽藩)の子孫・津軽信順

津軽寧親の次男で、弘前藩10代藩主となった人物です。

津軽信順(のぶゆき)は、徳川御三卿の一つ田安徳川家の娘を正室として迎えています。

津軽信順
津軽信順 出典元:Wikipedia

この結婚により津軽家は、将軍の一門衆となりました。

信順は暗愚であったとされ、「遊興は余の病である」と言い遊びに熱中しています。

その後、津軽信順は幕府から強制的に隠居させられます。

既に黒石藩主に養子いりしていた津軽順承(生家は松平家)を迎え、弘前藩11代藩主にしています。

弘前藩主としての石田三成の子孫は、途絶えたようです。

津軽順承は、細川護明(津軽承昭)を婿養子として跡を継がせ、明治維新を迎えています。

津軽氏黒石領の三成子孫

津軽氏黒石領は、弘前藩の分家で津軽信英(2代の次男)を祖としています。

始め5,000石を得ています。

津軽氏黒石領の4代目・津軽寿世(ひさよ)は、津軽信政の息子です。

津軽信政は、石田三成の曾孫です。

津軽氏黒石領4代目・津軽寿世→5代目・著高(あきたか)→6代目・寧親(弘前藩主になる)→7代目・典暁(つねとし)は石田三成の子孫です。

その後、縁戚関係にあった久留里藩主・黒田直亨の4男を養嗣子とし家督を継がせています。

津軽氏黒石領当主としての石田三成の子孫も途絶えたようです。

石田三成の子孫・三菱財閥

<三菱財閥3代目総帥・岩崎久弥の妻>

さすが藩主の系譜というところでしょうか、現代の財閥や有名企業の経営者などへつながります。

三成の玄孫である弘前藩5代目藩主・津軽信寿の娘に於染(おそめ)という娘がいます。

上総飯野藩の第5代藩主である、 保科正寿の正室になります。

於染と保科正寿との間にできた子供が、上総飯野藩第6代藩主・保科正富です。

その後、幕末まで藩主の子供が後を継ぎ、最後の藩主である保科正益(まさあり)(子爵)の娘である寧子(しずこ)から三菱財閥へ繋がります。

寧子(石田三成の子孫)は、岩崎弥太郎の長男である岩崎久弥に嫁いで3男3女に恵まれます。

3男3女も石田三成の子孫ということになります。

岩崎弥太郎は、三菱財閥の創業者で初代総帥です。

丸の内の三菱財閥本社(1920年)
丸の内の三菱財閥本社(1920年) 出典元:Wikipedia

<長男・彦弥太>

三菱合資会社副社長、三菱財閥傘下の企業の取締役、三菱地所取締役などを歴任しました。

妻は、旧出羽国秋田藩主佐竹氏の分家である、佐竹義準男爵三女である操子です。

<息子の寛弥>

三菱本社副社長、戦後は三菱地所取締役を歴任しました。実子はいないそうです。

<次男・隆弥>

三菱瓦斯会長、三菱製紙会長と相談役、小岩井農牧の会長を歴任したそうです。

妻は、元日本銀行総裁・池田成彬の長女である敏で、1男(岩崎東一氏)4女に恵まれます。

お子さんの詳細は不明です。

<三男・恒弥>

東京海上火災保険常務、小岩井農牧取締役などを歴任したそうです。

妻は海軍中将清河純一長女である勝代です。

<長女・美喜>

外務官僚である沢田廉三と結婚し、4人の子に恵まれます。

第二次世界大戦後に、アメリカ軍兵士などの連合国軍兵士と日本人女性の間に生まれ、両親からも見捨てられた混血孤児たちを救うため、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げたそうです。

<次女・澄子>

伯爵である甘露寺受長(かんろじ おさなが)氏の弟である方房(現在の東海カーボンの監査役)に嫁ぎます。

甘露寺受長氏とは、大正天皇の御学友とのことです。

<三女・綾子>

福澤諭吉氏の孫・堅次氏に嫁ぎます。

流石の三菱財閥、華麗すぎる一族ですね。

雅楽頭酒井家は三成の子孫!?

また、Wikipediaに「雅楽頭酒井家」も石田三成の子孫であると書かれています。

弘前藩主の系譜から繋がったものと思われます。

『戦国武将 敗者の子孫たち』という書籍によると、土井利房の正室・萬(津軽信義の娘)の血脈が、越前国敦賀藩酒井家、小浜酒井家、旗本酒井家、旗本三浦家に入るそうです。

ここから、「雅楽頭酒井家」に繋がるのでしょうか?

今度、系譜を追える史料があれば、確認したいですが、今のところ分かりません。

津軽藩士となった三成の子孫

石田三成の長女の子孫は津軽藩士になっています。

三成の長女は、石田家の家臣・山田上野介の息子(山田勝重)と結婚しています。

関ヶ原の戦い後は、山田上野介を介して縁戚関係にある、家康6男・松平忠輝に仕えています。

松平忠輝改易後の長女夫婦は、三成の長女の妹(辰姫)の縁で、弘前藩から援助を受けて江戸で余生を送っています。

三成の長女夫婦の長男は、医者になったそうです。

三成長女の次男は山田武兵衛(三成の孫)ですが、改名して富岡武兵衛(ぶへえ)と名乗っています。

富岡武兵衛は従弟でもある弘前藩3代藩主・津軽信義(三成三女の子)に仕えています。

また、富岡武兵衛は、津軽信義の妹・松姫を娶っています。

しかし、正保の騒動という津軽家のお家騒動の粛清処分を受けて切腹させられています。

後に、富岡武兵衛の弟・山田彦兵衛(三成の孫)を津軽に招き、城代に起用したと伝わります。

その子孫も津軽藩士となったそうです。

また、切腹させられて富岡武兵衛(三成の孫)には、鶴女という娘がいて、杉山吉煕(三成の曾孫)に嫁いだといいます。

三成長女の子孫と津軽について、主に参考にしたのは、『奥羽・津軽一族』という書籍です。

天皇家に続く三成の子孫

皇族に血脈を伝えた石田三成の次女とその子孫について書きます。

石田三成の次女は小石殿と呼ばれ、蒲生家家老になる岡重政に嫁いでいます。

夫婦の子供に岡田吉右衛門という男子がいて、於多阿(おたあ)と結婚しています。

於多阿の生母は、祖心尼(おなあ)という人物で、春日局の義理の姪で、血縁上は父の従姉妹という関係です。

春日局は、徳川家光の乳母であり、大奥で絶大な権力を持った人物です。

春日局
春日局 出典元:Wikipedia

その後、岡田吉右衛門(三成の孫)と於多阿の間に生まれた子供が、お振りの方(自証院)です。

お振りの方は、石田三成の曾孫ですが、祖心尼の孫でもあります。

春日局に養女となり、徳川家光の手がついて側室になっています。

そして生まれたのが千代姫(三成の玄孫)で、尾張徳川家2代藩主・徳川光友の正室になっています。

その後、第7代藩主・徳川宗春が失脚するまで、千代姫やお振りの方の子孫(石田三成の子孫)が藩主になっています。

また、徳川吉通の娘・徳川三千君は、千代姫の孫で、現在の皇室に繋がります。

お振りの方(石田三成の曾孫)→千代姫(石田三成と徳川家康の子孫)→徳川綱誠(尾張藩3代藩主)→徳川吉通(尾張藩4代藩主)→徳川三千君→二条宗基(公卿)→二条治孝→九条尚忠(九条家当主)→九条道孝→貞明皇后(大正天皇の皇后)→昭和天皇→上皇陛下→今上天皇

また、吉右衛門(三成の次女の子供)の子孫は、尾張藩士になっています。

尾張徳川家の三成の子孫

尾張藩2代藩主・徳川光友(千代姫の夫)→尾張藩3代藩主・徳川綱誠(三成の子孫)→尾張藩4代藩主・徳川吉通→尾張藩5代藩主・ 徳川五郎太(享年3歳) →尾張藩6代藩主・徳川継友(3代・綱誠の11男)→尾張藩7代藩主・徳川宗春

徳川綱誠は、将軍・徳川家綱、将軍・徳川綱吉らの甥で、又従兄弟でもあります。

三成の子孫としては最後の尾張藩主

徳川宗春は、3代・徳川綱誠の12男として生まれ、尾張藩7代藩主となった人物です。

石田三成の子孫で、千代姫の孫に当たります。

徳川宗春
徳川宗春 出典元:Wikipedia

尾張藩6代藩主徳川継友の遺言により、7代藩主となります。

質素倹約規制が厳しかった時代、徳川宗春は規制緩和をした政策を進めます。

お蔭で、名古屋は活気がでて繁栄しています。

その一方、幕府の法令は守るなど、幕府に対立する態度は全くなかったようです。

ですが、遊興にふけり、倹約令を守っていないと幕府から詰問を受け、路線変更を余儀なくされます。

それでも、徳川宗春は独自路線を諦めず、藩の存続に危機感を感じた重臣らは、宗春の失脚を画策します。

その後、将軍吉宗からの隠居謹慎命令が下り、尾張藩は幕府に召し上げられました。

尾張を没収した後、尾張藩2代藩主・徳川光友と側室の孫である徳川宗勝が尾張藩第8代藩主に指名されています。

高須藩初代藩主・松平義行

松平義行は、徳川光友と千代姫(三成の玄孫)の子供です。

松平越後家の後嗣候補、徳川将軍家家綱の後継候補に名前が挙がったことがあるそうです。

その後、高須藩主になり、多くの子供が夭折し、養嗣子を迎えています。

4男・松平武雅は唯一生き残り、野館林藩主になります。

ですが、子供はいなく養子を迎えていますので、三成の子孫としては途絶えたようです。

三成の三男・佐吉

石田三成の3男・佐吉は、石田三成と正室・皎月院の間に生まれた6番目の子供です。

佐吉は、関ヶ原の戦いの時、三成の父・正継、兄・正澄が守る佐和山城にいました。

関ヶ原の戦いの戦いで三成は大敗し、佐和山城は徳川方に攻められます。

徳川方から和議の申し入れがあり、石田方の津田清幽(元徳川家康の家臣)のが交渉役となります。

石田一族の自害と引き換えに、女、子供、城兵の助命が認められ、佐和山城引き渡しを約束します。

佐和山城址
佐和山城址

しかし、石田方から裏切り者がでて、徳川方が攻め込み落城します。

三成の父、兄、舅、長女の舅など石田一族は自害して果てます。

徳川方の不義に怒った津田清幽は、脇坂安治の家臣を人質にとり、佐吉らを連れて敵中堂々と落ち延びています

その後、津田清幽は、徳川家康に直談判して佐吉の助命を認めさせています。

佐吉は木食応其の元で出家し、「深長坊清幽」と名乗っています。

佐吉は当時6歳くらいと見られており、子孫はいないようです。

三成の子孫・備中吉田村(笠岡市)

備中吉田村(笠岡市)には、石田三成と側室の子供の子孫がいるそうです。

写真家・石田多加幸氏の奥様は、八郎を祖とする石田三成の子孫とのことです。

Wikipediaには次男と書いていますが、「治男」であると『新説 石田三成 ―備中石田家との関係―』に書いています。

石田家の石塔に「石田治部少輔三成の治男八郎」と刻まれているそうです。

「治男」は、「備中石田家を治める男(治めた男)」と解釈した方が良さそうと述べています。

備中吉田村(笠岡市)の地侍であり、地方役人でもある石井氏の娘が、八郎の生母(三成の側室)ではないかとのことですが、定かではないようです。

関ヶ原の戦いの頃は、八郎の年齢は推定で7歳で、佐和山城にいたそうです。

関ヶ原の戦いで敗北したことを聞き、佐和山城から母の故郷・備中吉田村(笠岡市)に逃れ、やがて庄屋に就任したとなっています。

八郎が三成の子孫であると断定されていませんが、石田三成から贈られた「八郎誕生鎧通し」が伝来しているようです。

備前長船春光作の短刀の写真が本に掲載されています。

石田三成と側室の子供で石田宗信、石田政治という名前が伝承ですが伝わっています。

八郎は他の側室の子供と名前の雰囲気が違うのが気になりますが、本当に石田三成の子孫となればロマンがあるように思います。

三成の子孫・澁谷理恵子氏

石田重直のところの参考書籍『石田三成の末裔として育った』を書いた方です。

澁谷家は、新潟県の三条市にあったそうで、三成の末娘の子孫だという伝承があるそうです。

大坂落城が落城する際、乳母に助けられ、乳母の里を頼って越後の高田に落ち延びたようです。

二代の女婿を経て、三条の地に落ちに定着したとあります。

澁屋を営んで沢山の利益を得て、呉服商になり、幕末には庄屋を拝命したそうです。

幕末に苗字帯刀を許され「澁谷」と名乗っています。

はやり、石田姓は名乗れず「志田」と名乗った時もあったそうです。

三成の子孫・栄川酒造の社長

福島県西会津町に蔵を構える栄川酒造の社長も石田三成の子孫との伝承があるそうです。

平成28年(2016年)08月29日 の福島民友新聞(みんゆうNet)というネット上の新聞で、三成の子孫であると記載してあります。

石田與一左衛門重友という方が、初代とのことです。

大坂夏の陣の後、越後に住んだ後に会津に移住したそうです。

また、会津の松平家(徳川一門)を憚り石田性から石川姓に改めたと伝わっているそうです。

そして、文化四年(1807年)から酒屋となり、現在の社長で15代目とのことです。

また、三成の子孫という縁で「大吟醸 石田 治部少輔 三成」というお酒をだしています。

フルーティで上品なお酒で、すっきりとした味わいが特徴とのことで、福島県の清酒鑑評会で、2年連続金賞を受賞した人気商品だそうです。

石田三成の現在の子孫で芸能人、有名人

因みにですが、芸能人で石田三成の子孫はいません。

本人が語っていない、本人が知らない可能性はあるかもしれません。

進展があれば追記します。

参考・引用・出典一覧

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 石田三成氏のすべての家系図は無いのでしょうか?
    また、現在どこまでの家系図があるのか知りたいです。

    • こんにちは。

      三成の全ての家系図は、私は作っていません。

      敗軍の将なので難しい面がありますが、分かる範囲で個人で作っている人はいると思います。

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