石田三成の子供で次女は岡重政(しげまさ)の正室です。

石田三成と正室である皎月院(こうげついん)との間の子供は3男3女といわれており、

石田三成の子供についての記事を、産まれた順番に書いています。

前回は長女についてでしたが、今回は次女について記事にします。

こちらの記事は詳細を記していますので、簡潔に知りたい方用は、まとめ記事をご覧ください。

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石田三成の子供~まとめ、側室の子供~

 

石田三成次女は岡重政の正室

 

石田三成の次女も長女同様に名前が伝わっていませんが、「小石殿」と呼ばれていたそうです。

小石殿(光岳院)は、蒲生家の家臣である岡重政(しげまさ)(岡半兵衛重政)に嫁いでいます。

三成次女についての記録は少なく、岡重政の足取りと共に三成次女についてみていきます。

岡重政とはどのような人物が記載します。

岡重政は、甲斐武田家の分家である、若狭国守護大名であった武田信豊(のぶとよ)(武田信玄の甥)の曾孫であるとされています。

若狭武田家は1582年に、滅亡してしまい、岡重政は、蒲生家の家臣(小姓)になります。

ですが、蒲生家お家騒動を理由に、1598年に蒲生家は会津92万石から宇都宮18万石に左遷されてしまいます。

その時に、奉行として蒲生家に派遣されたのが、石田三成と浅野長政です。

減封、左遷により窮地に陥った蒲生家に、石田三成は温情ある掟を発行したと伝わります。

又、石高が大幅に減ったことにより発生した蒲生家浪人の多くを石田三成が召し抱え、更に、三成と親しい津軽家、上杉家にも浪人の受け入れを依頼し受け入れられています。

 

蒲生家から上杉家の家臣になる

そして、三成次女の夫である岡重政は上杉家に仕えるようになります。

三成次女と岡重政の結婚した年は、はっきりしていませんが、上杉家に仕えていた頃である1599年との説があります。

また、岡重政は、孝蔵主(こうぞうす)(豊臣秀吉の正室・北政所の筆頭上臈 )の義理の甥にあたります。

蒲生家に復帰

その後、蒲生家は関ケ原の合戦を経て会津60万石に復帰し、岡重政を含め多くの家臣が蒲生家に復帰します。

復帰した岡重政は津川城代2万石の筆頭家老に、岡重政のは1万石の長沼城代に起用されます。

三成次女一家を優遇した理由には、本人達が優秀であったこともあると思いますが、蒲生家が宇都宮18万石に左遷された際の

石田三成の温情ある対応に蒲生家の人達は感謝したという話があるので、より好遇されたのかもしれません。

 

上杉家会津転封の話はこちらに記載しました。

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石田三成の盟友・直江兼続

三成次女夫婦

こうして、神君・徳川家康に歯向かった逆賊である石田三成の息女は一見幸せそうに暮らします。

徳川方に素性がわからないようにする暮らしは、不便であったと容易に推測でき、苦労もあったとは思います。

ですが、敗軍の将の娘でありながら、夫は2万石もの石高を拝領し、暮らすことができました。

 

遇される三成の子供

三成の全部の子供に言えることですが、徳川家は素性に気が付いている節があります。

つまり、素性に気がつきながら、三成の子供達が優遇されているのを黙認していたということです。

また、江戸時代中ずっと石田三成は、徳川家康に逆らった「謀反人(むほんにん)」扱いかと思っていましたが、軍記物で見る石田三成は1673年に初めて謀反人扱いされ、それまでは、三成次女の生きた時代は、「敵」と記されているそうです。

主君(豊臣家)に忠節を尽くした三成を、心の底では嫌いでない人が多かったのかもしれません。

当時の時代背景を考えると、不思議かもしれませんが、三成の子供達はいたるところで優遇され子孫は大いに栄えます。

 

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岡重政の死去

 

その後、主君であった蒲生秀行(がもうひでゆき)が亡くなり、嫡子である忠郷(たださと)が家督を継承します。

忠郷は若干10歳であった為、徳川家康の三女で母親の振姫(ふりひめ)が後見人となりました。

岡重政は振姫とそりが合わず、対立するようになり、振姫の訴えにより岡重政は徳川家康から自害を命じられます。

石田三成の娘婿でありながら、徳川家康三女と対立した仕置きでしょうか、切腹となってしまいました。

ですが、その後振姫は徳川家康の命により会津から出されています。

 

三成次女、会津を離れる

当時、蒲生家の家臣であった町野 幸和 (まちの ゆきかず)夫婦は、三成次女の子供である岡吉右衛門(おかきちうえもん)を保護してくれたそうです。

三成次女は、吉右衛門以外の子供を連れて、会津を離れ若狭国(福井県)へ移り住み、小浜で亡くなったと伝わります。

又、岡一族も三成三女の縁である津軽家の保護を受けたと伝わります。

 

三成の曾孫、徳川家光の側室に

 

後に、岡吉右衛門は、町野 幸和 の娘である於多阿(おたあ)と夫婦となり、

産まれた娘は後に三代将軍徳川家光の始めての側室・お振りの方(自証院)となります。

その後、1637年に徳川家光とお振りの方の間に千代姫が生まれます。

千代姫は、尾張徳川家の三代・徳川綱誠(つなのぶ/つななり)を産み、その血は現在の天皇家にも流れます。

この話は長くなりますので、石田三成の子孫の記事に記載します。

 

石田三成の娘とその子孫がこんなに栄えるのは意外ではないでしょうか。

石田三成の子供達に対する処遇を見ていくと、徳川の世に口には出せない当時の方々の思いが見えてくるようで面白いなと思います。

 

より詳しく知りたい方は、こちらの本に書いてあります。

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石田三成とその子孫

参考・引用・出典一覧

 

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石田三成の子供~三男 佐吉~

石田三成の子供~三女 辰姫~

石田三成の子供~次男 石田重成~

石田三成の子供~長男 石田重家~

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