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石田三成次女・小石殿と夫・岡重政

2020 4/13

石田三成と正室である皎月院(こうげついん)との間に生まれた二人目の子供は次女です。

次女の名前は伝わっていませんが「小石殿」と呼ばれていたそうです。

小石殿は、関ケ原の戦いより前に、蒲生家の家臣である岡重政に嫁いでいます。

今回の記事は、小石殿と岡重政についての記事です。

目次

石田三成次女・小石殿は岡重政の正室

 

石田三成の次女も長女同様に名前が伝わっていませんが、「小石殿」と呼ばれていたそうです。

小石殿の詳細は伝わっていませんが、「光岳院」という名と夫について伝わっています。

夫は、蒲生家のの家臣である岡重政(おか しげまさ)(岡半兵衛重政)だと云います。

岡重政の足取りと共に小石殿についてみていきます。

まず岡重政とは、どのような人物が記載します。

岡重政は、武田信豊(のぶとよ)の曾孫であるとされています。

武田信豊とは、武田信玄の甥で、武田勝頼の従弟に当たる人物です。

甲斐武田家の分家で、若狭国守護大名という立場にあった人物ですので、あまり知られてはいませんが、名門の出自といえそうです。

しかし若狭武田家は1582年に、滅亡してしまい、岡重政は蒲生家の家臣(小姓)になったと云われています。

蒲生家と云えば、豊臣秀吉の信任を受け会津の大大名となった蒲生氏郷(がもう うじさと)が有名ではないかと思います。

岡重政の主君は、その名将と名高い蒲生氏郷でした。

蒲生氏郷

蒲生氏郷

ですが蒲生氏郷が急に亡くなり、幼い嫡男の秀行(ひでゆき)が家督を継ぐと、家中が乱れお家騒動が起きます。

そのお家騒動を理由に、1598年に蒲生家は会津92万石から宇都宮18万石に左遷されてしまいます。

92万石から18万石に石高が大幅に減りましたので、蒲生家では今までのように家臣を召し抱えられなくなってしまいます。

岡重政と石田三成の接点

この蒲生家の宇都宮転封の際に、奉行として蒲生家に派遣されたのが、石田三成と浅野長政だと云います。

石田三成の肖像画

石田三成

後に起きる関ケ原の戦いの時は、蒲生家旧臣の多くは三成と共に戦っています。

それは、この減封・左遷により窮地に陥った蒲生家に、石田三成が温情ある掟を発行し、発生した蒲生家浪人の多くを石田三成が召し抱えたためだと伝わります。

更に三成は、三成と親しい津軽家、上杉家にも浪人の受け入れを依頼し受け入れられています。

そして、小石殿の夫である岡重政は上杉家に仕えるようになります。

小石殿と岡重政の結婚した年は、はっきりしていませんが、上杉家に仕えていた頃である1599年との説があります。

また岡重政は、孝蔵主(こうぞうす)の義理の甥にあたります。

孝蔵主とは、豊臣秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)の筆頭上臈 を務める女性ですが、小石殿と岡重政の婚姻には孝蔵主との関係があったのではないかとする説を唱える声もあるようです。

小石殿が嫁いだのは、秀吉亡き後で不穏な空気が流れていたのではないかと推測できる頃ですね。

つまり、三成を北政所サイドに引き寄せるための、結婚ということでしょうか。

北政所も孝蔵主も実子がいませんので、甥である岡重政は近しい人物ということになります。

新たな史料が見つからない限り、憶測でしかないですが…。

いずれにせよ、小石殿と岡重政の婚姻により、三成と孝蔵主が親戚になったのは事実です。

そして、その縁でしょうか。

関ケ原の戦い後、三成の佐和山城が落城する時、三成長女夫婦は孝蔵主によって助けられることになります。

 

かおりんのアイコン画像かおりん
三成長女について、上杉家会津転封の話は別の記事に書いています。

石田三成の子供~長女~

 

石田三成の盟友・直江兼続

関ケ原の戦い後の小石殿と岡重政

岡重政は関ケ原の戦い後、蒲生家に復帰することになります。

関ケ原の戦いで、上杉家は徳川家と敵対する立場をとりますので、上杉家の石高は大きく減ってしまいます。

一方の蒲生家は、関ケ原の合戦を経て会津60万石に復帰し、岡重政を含め多くの家臣が蒲生家に復帰できたそうです。

復帰した岡重政は津川城代2万石の筆頭家老に、岡重政のは1万石の長沼城代に起用されます。

岡重政は、藩主・蒲生秀行(がもう ひでゆき)の信任の厚い人物であったと云われています。

そして、蒲生家が宇都宮18万石に左遷された際の石田三成の温情ある対応に、蒲生家の人達が感謝したことも一因であるかもしれません。

こうして、神君・徳川家康に歯向かった石田三成の次女・小石殿は幸せそうに暮らします。

三成の娘として苦労もあったかもしれませんが、岡重政は2万石もの石高を拝領し、暮らすことができました。

他の三成の子供にも言えることですが、徳川家は素性に気が付いている節があります。

つまり、素性に気がつきながら、三成の子供達が優遇されているのを黙認していたということです。

また、江戸時代中ずっと石田三成は、徳川家康に逆らった「謀反人(むほんにん)」扱いかと思っていましたが、軍記物で見る石田三成は1673年に初めて謀反人扱いされ、それまでは、小石殿と岡重政の生きた時代は「敵」と記されているそうです。

江戸時代前期では、三成の悪い話の創作もなかったのではないかと思います。

※私が調べきれていなかったら、すみませんです。

主君(豊臣家)に忠節を尽くした三成を、心の底では嫌いでない人が多かったのかもしれないなと思ったりします。

当時の時代背景を考えると、不思議かもしれません。

昭和の時代は三成の子孫がいるわけないと思っていた方もいらっしゃるとも聞きましたが、三成の子供達はいたるところで優遇され子孫は大いに栄えることになります。

岡重政の死去と小石殿

その後、岡重政の主君であった蒲生秀行(がもうひでゆき)が亡くなり、嫡子である忠郷(たださと)が家督を継承します。

忠郷は若干10歳であった為、徳川家康の三女で母親の振姫(ふりひめ)が後見人となりました。

岡重政は振姫とそりが合わず、対立するようになったそうです。

三成次女の夫と家康三女(振姫)が対立って凄いですね。

何云われても従うしかなさそうに思ったので、堂々対立とは意外だなと思いました。

岡重政は、蒲生家の筆頭家老とのことで、発言権はあったでしょうけど。

岡重政に対立されたら、家康の三女(振姫)はどう思うでしょうか…。

とても頭にきたのだと推測しますが…、辰姫は家康に訴えたそうです。

これにより岡重政は徳川家康から自害を命じられます。

そして後に、振姫は徳川家康の命により会津から出されることになります。

一方の小石殿は、子供を連れて、会津を離れ若狭国(福井県)へ移り住み、小浜で亡くなったと伝わります。

この時、若狭国に連れて行かなかった子供に岡吉右衛門(おか きちうえもん)という人物がいます。

岡吉右衛門は、当時蒲生家の家臣であった町野幸和 (まちの ゆきかず)夫婦に、保護されていたそうです。

後に、岡吉右衛門は、町野 幸和 の娘である於多阿(おたあ)と夫婦となり、産まれた娘は後に三代将軍・徳川家光の始めての側室・お振りの方(自証院)となります。

その後、1637年に徳川家光とお振りの方の間に千代姫が生まれ、千代姫は、尾張徳川家の三代・徳川綱誠(つなのぶ/つななり)を産み、その血は現在の天皇家にも流れます。

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自害を命じられた話から、急に凄い華々しい話になりましたが…、この話の詳細はこちらの記事に記しています。

 


石田三成の子孫~徳川家光の側室・お振りの方~

またその後の岡一族は、三成三女の縁で弘前(ひろさき)藩主・津軽家の保護を受け暮らしたと伝わります。

三成の三女は、弘前藩主の生母となりましたので、その縁で岡家も保護されました。

かおりんのアイコン画像かおりん
三成三女についてはこちらの記事です。


石田三成の子供~三女 辰姫~

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