徳川家光の初めての側室は、お振りの方といい石田三成の曾孫でもあります。
関ケ原の戦いで徳川家康と対立した石田三成ですが、曾孫は三代将軍の徳川家光に嫁いでいました。
お振りの方が家光の側室となった経緯やお振りの方の生涯について記しています。
お振りの方の出自
お振りの方の名前は「振」といい、法名の「自証院」(じしょういん)としても知られています。
生年は不明ですが1620年代頃に、生まれたのではないかと見なされています。
お振りの方の父は、岡吉右衛門(おか きちうえもん)といい、蒲生家の筆頭家老になった岡重政(おか しげまさ)と石田三成の次女の間に生まれました。
お振りの方の母は「おたあ」といい、蒲生家家臣の町野幸和(まちの ゆきかず)と祖心尼(そしんに)の間に生まれています。
このお振りの方の祖母にあたる祖心尼ですが、春日局(かすがのつぼね)の義理の姪で、血縁上は父の従姉妹です。
春日局は徳川家光の乳母になり、大奥の礎を築き大奥の実力者となる人物です。
お振りの方が家光の側室になった所以は、祖母・祖心尼と春日局の存在が大きいのではないかと思います。
お振りの方の祖母・祖心尼と石田家の接点
ここでの重要人物である祖心尼の経歴と、石田三成の子供達との接点を記載します。
祖心尼の名前は「おなあ」といい、幼い頃に父母と死別し、その後嫁ぎますがが離縁され、お腹を痛めた子供と引き裂かれてしまいます。
この時祖心尼は19歳、祖心尼にとってあまりに辛く、試練のような日々であったと推測できます。
両親、兄弟のいない祖心尼は、叔父の一宙禅師(いっちゅうぜんじ)の元へ身を寄せます。
一宙禅師は、妙心寺雑華院(みょうしんじざっかいん/ざっけいん)住職を務めていました。
この妙心寺にて石田三成の長男の接点があったようです。
石田三成の長男は、出家して妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)にいました。
祖心尼がいた妙心寺雑華院とは、同じ敷地(妙心寺)内ということになります。
祖心尼は三成の長男・宗亨に帰依(きえ)し、禅を学んだと云います。
祖心尼と三成の長男に交流があったことは、意外に思う方も多いのではないでしょうか。
祖心尼は三成長男と三成次女に縁のある方でした。
その後祖心尼は、町野幸和と再婚して娘のおたあが生まれます。
祖心尼と町野幸和の結婚を斡旋したのは、三成次女の夫である岡重政であると伝わっています。
また町野幸和と岡重政は、蒲生家の家臣同士でした。
後に岡重政は徳川の姫と対立したことで、自害を命じられますが、その際に町野幸和夫婦が岡吉右衛門を保護してくれたそうです。
そして岡吉右衛門と娘のおたあが結婚し、振(お振りの方)が生まれます。
お振りの方は家光の側室になる
春日局は、お振りの方が赤ちゃんか幼少の頃に、養女に所望したと云います。
そして、お振りの方は養女となり、春日局に養育されたと云います。
春日局は祖心尼の義理の叔母で、大奥を取り仕切っていました。
その後の1626年、お振りの方は春日局の養女として大奥に入ります。
祖心尼も春日局から補佐役を依頼されて出仕し、大奥の女性達に禅の心を説き、家光にも禅の心を説いたそうです。
補佐役を依頼された時期は、祖心尼の夫・町野幸和が蒲生家家臣から浪人になった頃と云われています。
そして後に、町野幸和は春日局の縁により、幕府直参旗本に取り立てられることになります。
春日局の縁によって、祖心尼の親族が引き立てられているようです。
一方のお振りの方ですが、1636年頃に家光の手がついて初めての側室となります。
以前までは、お振りの方の存在が認められておらず、お楽の方が初めての側室であるとされていましたが、現在ではお振りの方の存在が認められています。
お振りの方の生家は岡家ですが、岡家、徳川家共に、お振りの方が石田三成の血筋と分からないように、隠蔽工作を施した形跡があるそうです。
その影響で、暫くお振りの方の存在が分からなかったということでしょうか…。
そこはよくわかりませんが、お振りの方は家光の長女・千代姫(ちよひめ)を1637年に出産します。
しかし、お振りの方は産後の肥立ちが悪く病床にあり、祖心尼は看病したと云います。
ですが1639年に、産まれて程ない千代姫を、後の尾張徳川家2代目藩主となる徳川光友(みつとも)に嫁がせると、1640年に、安心したようにお振りの方は亡くなりました。
お振りの方は出産当時、若年であったため、出産に耐えられる身体ではなかったのではないかという意見もあります。
享年は16~18歳と推定されています。
下の写真は、江戸東京たてもの園にあるお振りの方を祀った「旧自証院霊屋」と呼ばれる建物です。
1652年につくられ、移築されたそうです。
お振りの方の子孫
お振りの方たった一人の子供は千代姫ですが、その後どうなったでしょうか。
尾張徳川家2代目藩主・徳川光友に嫁いだ千代姫ですが、光友と千代姫の間に徳川綱誠( つなのぶ/つななり)が生まれ、尾張徳川家3代目藩主になります。
その後、尾張徳川家7代目藩主・徳川宗春(むねはる)までの藩主は、お振りの方の血を引いています。
徳川宗春は、3代藩主綱誠の子供です。
ですが、時の将軍・徳川吉宗と徳川宗春が対立し、徳川宗春は失脚してしまいます。
幕府は、徳川宗春の後継者として、尾張8代目藩主に徳川宗勝(むねかつ)を指名します。
徳川宗勝は、尾張徳川家2代目藩主・徳川光友(千代姫の夫)と側室の孫に当たります。
その後の藩主は、徳川吉宗ゆかりの紀州徳川家出身者となり、尾張徳川家藩主での三成の血脈は途絶えました。
お振りの方の子孫ということは、石田三成の子孫でもあります。
一方の尾張徳川家とは、徳川の御三家筆頭の家ですが、3代目~7代目の尾張徳川家藩主がお振りの方の子孫とは凄いなと思います。
やはり春日局の力が大きかったのでしょうか。
また千代姫の次男は、松平義行(まつだいら よしゆき)といい、美濃高須藩主となります。
松平義行は、江戸幕府の第4代将軍・徳川家綱(とくがわ いえつな)の後継候補に挙がったこともあるそうです。
さらに、千代姫の孫である徳川吉通(よしみち)の娘の徳川三千(みち)君を通じて、三成の血脈は今上天皇(きんじょうてんのう)へとつながります。
系譜を記します。
石田三成→三成次女→岡吉右衛門→お振りの方→千代姫→徳川綱誠→徳川吉通→信受院(しんじゅいん)(徳川三千君)→二条宗基(むねもと)→二条治孝( はるたか)→九条尚忠(ひさただ)→九条道孝(みちたか)→貞明皇后(ていめいこうごう)→昭和天皇→上皇陛下→今上天皇
徳川家と血脈を交えたことで、三成次女の血脈はダイナミックに広がりました。
石田三成の子孫についてはこちらにまとめています。
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筆者の所感
春日局の縁があるとはいえ、三成の血脈を尾張徳川家で受け入れたことは意外ですね。
石田三成の子供や子孫の記事を書いている時、いつも意外と書いているように思います。
お振りの方に限らず、三成の子供、孫、子孫は徳川家などの一門、大名家、名医の家など当時の有力者達は、石田三成の血脈を受け入れています。
改名をし隠れて生きた三成の子供もいましたが、隠れ住んだ子供を気が付きながら黙認したり、三成の遺児や孫などを徳川の一門自ら手を差し伸べたりしています。
特に今回のお振りの方は、春日局、祖心尼共に幼少の頃に親を亡くし、苦労した身でもあります。
離れ離れになった石田家一族の心情を思いやったのかもしれません。
石田家の縁者ともなれば尚更です。
三成の縁者を保護してくれた人たちは、主君である豊臣家を守る為に決起した石田三成の心情が、本心では理解されていたのではないかと思います。
ですが、神君・徳川家康に歯向かった逆族として、本心はどうであれ、石田三成は排除されるべき対象です。
ですので、徳川家、岡家共に、お振りの方の出自の隠蔽工作を施したのでしょう。
その後の江戸時代中期に、創作された軍記物で三成は悪役にされ、その影響で三成評はより悪くなったと考えています。
現在では研究が進んで、蔑まれた石田三成像が改善したように思います。
水戸黄門で知られる水戸藩主・徳川光圀(とくがわ みつくに)の言葉と伝わる三成評があります。
徳川光圀1628年~1701年に生きた人物ですので、お振りの方と同時代に生きた人物です。
徳川光圀の三成評を現代の言葉にします。
「石田三成を憎んではいけない。
人はそれぞれ、その主君に尽くす事を義と云う。
(徳川の)仇だからといって憎むのは誤りだ。
君臣共、三成の様に心掛けるべきだ。」
この時代のこの話をするとは、流石、徳川光圀だなと思います。
その他の方が、こんなことを言っては大変なことになりそうですが…。
ただ、当時の人は口には出せませんけれど、このように思っていた人がいたのではないかと考えれば、秘かに三成の子供、子孫を優遇するばかりか、血脈まで交える理由が分かるように思います。
[char no=”1″ char=”かおりん”]『春日局 今日は火宅を遁れぬるかな 』という本は、徳川家光の母が春日局である可能性を論じているそうです。
一次史料を基の考察しており、評判も良いので良さそうかなと気になっています。[/char]
お振りの方の祖父母・石田三成の次女夫婦の話です。
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祖心尼が帰依した石田三成の長男の話です。
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