石田三成の次女の記事で簡単に紹介させていただきましたが、石田三成曾孫であるお振りの方(自証院<じしょういん>)は、

3代将軍・徳川家光の初めての側室になります。

徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いで敗北した石田三成の曾孫が、何故家光に嫁ぐことになったのかをみていきます。

 

三成子孫と皇族についての詳細は、こちらの記事ななりますが、簡潔に要点だけ知りたい方は、まとめ記事の方が良いかもしれません。

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石田三成の子孫~まとめ~

次女の記事を先に読みたい方はこちらです。

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石田三成の子供~次女~

お振りの方とお振りの方の祖母・祖心尼

お振りの方は岡重政(しげまさ)と三成次女の孫であり、町野幸和(ゆきかず)と祖心尼(そしんに)(おなあ)の孫でもあります。

この祖心尼が、お振りの方が家光の側室になった経緯と関係することになります。

ここでの重要人物である祖心尼の経歴を記載させていただきます。

祖心尼は、幼い頃に父母と死別し、その後、嫁ぎますがが離縁され、お腹を痛めた子供と引き裂かれてしまいます。

当時、わずか19歳の祖心尼にとってあまりに辛く、試練のような日々であったと推測できます。

両親、兄弟のいない祖心尼は、妙心寺雑華院(みょうしんじざっかいん/ざっけいん)住職で、叔父の一宙禅師(いっちゅうぜんじ)の元へ身を寄せます。

祖心尼と石田三成長男の接点

石田三成の長男の記事で紹介させていただきましたが、

この時、三成の長男である宗亨(そうきょう)(石田重家)は、妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)にいました。

祖心尼がいた妙心寺雑華院とは、同じ敷地(妙心寺)内ということになります。

祖心尼は三成の長男・宗亨に帰依(きえ)し、禅を学びます。

祖心尼と三成の長男に交流があったことは、意外に思う方も多いのではないでしょうか。

この縁もあり、お振りの方は家光の側室になれたのかもしれません。

 

石田三成の長男の記事はこちらです。

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石田三成の子供~長男 石田重家~

 

祖心尼の再婚は三成次女の夫の斡旋

その後、祖心尼(おなあ)は町野幸和と再婚して娘のおたあが産まれます。

石田三成の子孫で、三成の研究家である白川亨氏著作「石田三成とその子孫」によると、

祖心尼と町野幸和の結婚を斡旋したのは、三成次女の夫である岡重政である旨の記載があります。

町野幸和(まちの ゆきかず)と岡重政は、蒲生家の家臣同士でした。

そして後の1623年に、祖心尼の娘・あたあ三成次女の息子岡吉右衛門(おかきちうえもん)が結婚し、お振り(後のお振(ふ)りの方)が産まれます。

※お振りの方の生年は不明です。

お振りの方は春日局の養女になり家光の側室へ

祖心尼の叔母で、当時の大奥を取り仕切っていた春日局(かすがのつぼね)に、お振りの方を養女に所望され、お振りの方が赤ちゃんか幼少の頃、春日局の養女になったと推察されています。

その後の1626年、お振りの方は春日局の養女として大奥に入ります。

祖心尼も春日局から補佐役を依頼されて出仕し、後に大奥の実力者となります。

1636年頃、お振りの方は、家光の手がついて初めての側室となり、1637年に家光の長女・千代姫(ちよひめ)を出産します。

お振りの方は産後の肥立ちが悪く病床にありました。

1639年に、産まれて程ない千代姫を、後の尾張2代目藩主となる徳川光友(みつとも)に嫁がせると、1640年に、安心したようにお振りの方は亡くなりました。

出産当時、若年であったと推測されています。

 

尾張徳川家に受け継がれた三成の血脈

尾張2代目藩主・徳川光友と千代姫の間に産まれた徳川 綱誠( つなのぶ/つななり)は、御三家筆頭である尾張3代目藩主になります。

その後、尾張7代目藩主・徳川宗春(むねはる)(3代藩主綱誠の子)までの藩主は、石田三成の血を引いています。

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三成の子孫・徳川宗春の失脚

ですが、時の将軍・徳川吉宗と徳川宗春が対立し、徳川宗春は失脚してしまいます。

幕府は、徳川宗春の後継者として、尾張8代目藩主に徳川宗勝(むねかつ)を指名します。

徳川宗勝は、尾張2代目藩主・徳川光友(千代姫の夫)と側室の孫に当たります。

その後の藩主は、吉宗ゆかりの紀州徳川家出身者となり、尾張徳川家藩主での三成の血脈は途絶えました。

 

もっと詳しく知りたい方は、この本に書いてあります。

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石田三成とその子孫

三成の子孫と天皇家

さらに、千代姫の孫である徳川吉通(よしみち)の娘の徳川三千(みち)君を通じて、

三成の血脈は今上天皇(きんじょうてんのう)へとつながります。

石田三成三成次女岡吉右衛門お振りの方千代姫徳川綱誠徳川吉通信受院(しんじゅいん)(徳川三千君)→二条宗基(むねもと)→二条治孝( はるたか)→九条尚忠(ひさただ)→九条道孝(みちたか)→貞明皇后(ていめいこうごう)→昭和天皇皇陛下今上天皇

 

 

三成評と筆者の所感

 

お振りの方が三成の曾孫であることは、祖心尼、春日局だけでなく、徳川家方は全て承知していた節があります。

今回は尾張徳川家について記事にさせていただきましたが、他の徳川家、大老・土井利勝、今大路家(名医)など、

当時の有力者達は、石田三成の血脈を受け入れています。

これは私の個人的な意見ですが、主君である豊臣家を守る為に、決起した石田三成の心情が、

本心では理解されていたのではないかと思います。

水戸黄門で知られる水戸藩主・徳川光圀の言葉と伝わる三成評があります。

 

徳川光圀の三成評

「石田治部少輔三成は、にくからざるもの也。人それぞれその主の為にすと云ふ義にて、心を立て事を行ふもの、かたきなりとてにくむべからず。君臣ともに良く心得べきことなり。」

現代の言葉にすると以下のようになります。

石田三成を憎んではいけない。人はそれぞれ、その主君に尽くす事を義と云う。(徳川の)仇だからといって憎むのは誤りだ。君臣共、三成の様に心掛けるべきだ

 

筆者の考え

当時の人は口には出せませんけれど、このように思っていた人がいたのではないかと思います。

なので、秘かに三成の子供、子孫を優遇し、徳川家も黙認しています。

その上、春日局、祖心尼共に幼少の頃に親を亡くし、苦労した身でもあるため、離れ離れになった石田家一族の

心情を思いやったのかもしれません。

石田家の縁者ともなれば尚更です。

ですが、神君・徳川家康に歯向かった逆族として、本心はどうであれ、石田三成は排除されるべき対象です。

ですので、徳川家、岡家(三成の孫であるお振りの方の父の生家)共に、お振りの方が石田三成の血筋と分からないように

隠蔽工作を施した形跡があるそうです。

そして石田三成は、江戸時代に創作された軍記物で悪役にされ、その影響で三成評はより悪くなり、

その後、石田三成のことを知らない世代になり、蔑まれた石田三成像が定着したのではないかと考えています。

参考・引用・出典一覧

 

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石田三成の子供についてまとめた記事です。

まとめ記事内に、詳しくしりたい場合の詳細記事リンクも貼っています。

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石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 


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