石田三成と正室・皎月院(こうげついん)との間の子供を産まれた順に記事に書いています。

今回は石田三成の長男である石田重(しげいえ)についてです。

こちらの記事は詳細を記しています。

簡潔に知りたい方は、まとめ記事をご覧ください。

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石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

石田重家

戦国時代の敗軍の将の子供は、殺されてしまうイメージがあると思いますが、石田重家は三成の長男でありながら、出家をすることで許され、天寿を全うし長生きします。

敗者である三成の正確な記録は少なめであり、石田重家についても沢山の情報は確認されていません。

関ヶ原の戦いの頃、重家はどうしていたのか重家の足跡を辿り、三成の子供でありながら、徳川家に許された過程をみていきます。

徳川家の対応や、重家と春日局の義理の姪との関わりなど、石田三成の長男の人生は意外に感じるかもしれません。

また、重家には子供はいないとされていますが、重家の子供と伝承のある石田直重がの話にも触れています。

 

関ヶ原の戦い当時の石田重家

石田重家(石田隼人正<はやとのしょう/はやとのかみ>重家)は、1583年~1587年頃に石田三成の嫡男として誕生したと伝わっています。

関ケ原の戦い当時の年齢は諸説あり、13~17歳位と言われていますが、

石田三成の次男を祖とする津軽杉山家の伝承では15~17歳になるそうです。

重家は、関ヶ原の戦い日の頃、豊臣家に対する人質として、大阪城にいたと言われています。

石田重家自身が記録していたもので、石田家の記録として現在に伝わる「霊牌日鑑(れいはいにっかん)」にも、

(関ケ原の戦い敗北後に)大阪城から逃れた旨の記載があるそうです。

ですが、オンライン三成会出版の『三成伝説』によると、重家は三成の城である佐和山城にいて、

佐和山城落城の際に、祖父(三成の父)である正継から一族の菩提を弔う為生き延びることを命ぜられたとあります。

又、石田三成研究家の白川 亨氏著書『石田三成とその子孫』によると、大阪城にいたのは次男であることと、

次男が大阪城から津軽へ逃れた為、弟を庇うために、重家は嘘をついたのではないかと述べています。

根拠は重家から次男に宛てた直筆の手紙にその旨を記載しているそうです。

しかし、通説には至っていません。

 

次男が津軽へ落ち延びる記事はこちらです。
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石田三成の子供~次男 石田重成~

佐和山城落城についてはこちらの記事に記載しています。
👇
石田三成の子供~三男 佐吉~

 

詳しく知りたい方は、白川亨氏のこちらの本をおススメします。

筆者には難しく、何度も読みなおしましたが、三成と三成の子孫に興味あるかたは、興味深いと思います。

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石田三成とその子孫

 

佐和山城の落城はこちらの本に書いてあります。

この本は、難しいとは感じず読みやすかったですね。

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真説 石田三成の生涯 (中経出版)

 

石田重家出家

そうして、大阪城か佐和山城から逃れた重家は、三成が建立した妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)へ入ります。

重家は伯蒲慧稜(はくほえりょう)(伯蒲恵稜)(三成が帰依した僧侶の一人)を頼り、剃髪(ていはつ)し出家しました。

 

(※妙心寺寿聖院は三成の父・正継が建立したとも言われてます。

根拠は僧侶・伯蒲慧稜(はくほえりょう)が、重家に宛てた手紙正継が建立した旨の記載があるそうです。

個人的には正継が建立したと思っていますが、通説では三成が建立したとなっています。)

 

 

聞き入れられた助命、嘆願

伯蒲慧稜は京都所司代(きょうとしょしだい)である奥平信昌(おくだいら のぶまさ)(家康の長女が正室)に届け出て許されました。

江戸時代に成立した逸話集である『常山紀談<じょうざんきだん>』によると、重家がまだ若かったためとされています。

オンライン三成会出版の『三成伝説』によると、重家の「家」は家康から拝領したと伝えられているそうです。

真偽のほどは不明ですが、本当にそうでしたら興味深いことですね。

又、徳川家康からも可愛がられていたと言う話もあります。

そのような理由もあってなのか??助命、嘆願は聞き入れられました。

 

石田重家の子・石田直重

又、通説になっていませんし、伝承の域を出ないのかもしれませんが、当時重家には妻がいたと伝わります。

重家の妻は徳川家康次男で、石田三成と仲の良かった結城秀康が匿ってくれたそうです。

当時妻は妊娠して、後に石田直重が産まれ、結城秀康の長男・松平忠直の保護を受け、その子孫は現代も続いているそうです。

そのことはこちらに記載しています。

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石田三成の子孫の現在

 

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寿聖院の僧侶として

重家は「宗享(そうきょう)」という名で出家し、1623年の時に「済院宗享(臨済宗の僧としての名)大禅師」となり、寿聖院三世を継承しています。

寿聖院を維持することは大変だったようで、維持する為に土地を切り売りした為、当初の4分の1の広さになってしまったそうです。

宗享(重家)が木材を集め再建し現在に至っています。

又、「霊牌日鑑(れいはいにっかん)」という石田家過去帳、由緒に当たる石田家の記録を残しています。

宗享は寿聖院に三成の父・正継夫婦、三成夫婦、三成の兄・正澄夫婦、正澄の長男、次男の供養塔を建て現在も供養が続けられているそうです。

その後、1665年に弟子に譲って隠居し、岸和田(大阪府)で余生を過ごしたと伝わります。

 

徳川一門の保護を受ける

宗享の老後は、徳川家康の異父弟・松平康元の孫である岡部 宣勝(おかべ のぶかつ)の保護を受けているそうです。

岡部 宣勝は、三成の孫である津軽信義(のぶよし)の正室の従兄妹に当たります。

 

津軽信義についてはこちらの記事をご覧ください。

👇
石田三成の子孫~津軽信義とその子孫~

 

 

春日局の一門・祖心尼が帰依する

春日局の義理の姪であり、後に大奥の実力者になる祖心尼(そしんに)も宗享に帰依(きえ)しています。

そして、1686年、長い生涯を閉じ天寿を全うしました。

99歳~103歳?の間ではないかと推定されています。

 

※祖心尼は三成子孫の繁栄に密接に関係しています。

詳細はこちらの記事です。

👇
石田三成の子孫~徳川家光の側室・お振りの方~

妙心寺寿聖院

妙心寺寿聖院は残念ながら一般公開されていません。

石田正継肖像画、三成書状、三成が送った袈裟(けさ)、狩野永徳屏風画などがあるそうです。

いつか限定でも良いので公開して欲しいですね。

場所:京都市右京区花園妙心寺44

筆者の感想

関ケ原の戦いの後、重家がまだ若かったため助命嘆願が認められたとの話でしたが、

先に述べたように、重家には子供がいて子孫は現在も続いています。

関ケ原の戦いの時は、既に結婚していて、妻は妊娠していたということですし、若いから命を助けたというより、殺したくなかった可能性があると思います。

若いからとのことであれば、豊臣秀吉の孫である豊臣国松は、わずか8歳で殺されています。

私は、徳川家康と石田三成は関ヶ原の戦いの時は仲が悪かったと思っていますが、元々の仲は悪くなかったと思っています。

それでも、嫡男が許されたのことは意外ですが、戦後処理全体が寛大であったことも考えると、豊臣家以外はそこまでの脅威ではなく、出家もしたので許したのかなぁと思っています。

 

参考・引用・出典一覧

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