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石田重家と直重と子孫

2020 3/02

石田三成の嫡男は、石田重家といい正室との間の子では三番目に生まれた子供です。

関ケ原の戦いにて敗軍の将となった石田三成、石田三成の嫡男ともなれば残酷な運命が待っていそうなイメージがあるかもしれません。

しかし石田重家は、助命され天寿を全うします。

三成の嫡男でありながら、生き延びた過程や石田重家の生涯についての記事です。

目次

関ケ原の戦い時の石田重家

石田重家(いしだ しげいえ)の正式な名前は、石田隼人正<はやとのしょう/はやとのかみ>重家だと云います。

生まれた年は定かではありませんが、1583年~1587年頃に石田三成の嫡男として誕生したと伝わっています。

生まれた年が不明なので、関ケ原の戦い当時の年齢は諸説あり、13~17歳位と推測されていますが、石田三成の次男を祖とする津軽杉山家の伝承では15~17歳になるそうです。

重家は関ヶ原の戦い日の頃、豊臣家に対する人質として、大坂城にいたと云われています。

三成の敗北を知り、三成が建立した京都の妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)へ入ります。

重家は、三成が帰依(きえ)した僧侶の一人である伯蒲慧稜(はくほえりょう)(伯蒲恵稜とも)を頼り、剃髪(ていはつ)し出家しました。

 

しかし、この大坂城にいたというのは通説です。

戦国時代の負け組の情報は、通説の通りとは限らないかなと思うのです。

本当のことは憚って言えない場合もありますしね…。

石田重家も同じで、異説が残されています。

私の所持するいくつかの書籍に書いてありますが、関ケ原の戦いの時に、重家がいたのは三成の居城である佐和山城だと云います。

画像佐和山

佐和山

佐和山城落城の際に、祖父(三成の父)である正継から一族の菩提を弔う為、生き延びることを命ぜられたそうです。

重家は『霊牌日鑑<れいはいにっかん>』という石田家過去帳、由緒に当たる石田家の記録をつけているのですが、その重家自身が残した記録に、(関ケ原の戦い敗北後に)大坂城から逃れた旨の記載があるそうです。

なので、大坂城を通説とするのはごもっともだと思います。

ですが、本当のことを残すことが憚れた場合はどうでしょうか。

大坂城には、重家の弟がいたそうです。

次男の重成が大坂城にいて、三成と懇意にしていた津軽家の助けを得て、津軽へ逃れていました。

後に、次男が許され助命されたのであれば、本当のことを残せたかもしれません。

しかし次男が徳川家の許しを願った記録は見つかっておらず、杉山源吾と改名してひっそり生きた記録があります。

なので、弟を庇うため重家が嘘をついたというがあり得ると思いますし、重家から次男に宛てた直筆の手紙にそのように書いてあるそうです。

その直筆の手紙があるなら、通説が変るのではないかと思いますが…、どうしてなのかわかりません。

重家がいたのは大坂城か佐和山城か定かではありませんが、出家し助命されています。

 

石田三成の次男についてはこちらの記事に記しています。

石田三成の子供~次男 石田重成~
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寿聖院の僧侶になった重家

三成の嫡男が助命されたのは、意外ではないでしょうか。

西軍大名の子供達も生き延びていることを考えると不思議ではないですが…。

江戸時代に成立した逸話集である『常山紀談<じょうざんきだん>』によると、重家がまだ若かったため助命された旨の記載があります。

『常山紀談』は1739年に成立し、1770年に完成した逸話集ですので、本当の話があるのかなと思っています。

関ケ原の戦いは1600年ですので、100年以上経って書かれています。

また、私の所持する書籍によると、重家の「家」は家康から拝領したとも伝えられているそうです。

これは、興味深いと思いました。

秀吉存命時の三成と家康の仲は悪くなかったようですから、あり得る話だとは思いますが…。

そして、重家は徳川家康からも可愛がられていたという話もあります。

書籍に書かれていますが、出典元の記載がなかったので、その出典元はどこでしょうかと気になっています。

そのような理由もあってなのか??助命、嘆願は聞き入れられました。

重家を保護してくれた伯蒲慧稜は、京都所司代(きょうとしょしだい)である奥平信昌(おくだいら のぶまさ)に、届け出て許されたようです。

重家は「宗享<そうきょう>」という名で出家します。

そして、1623年の時に「済院宗享大禅師」となり、寿聖院三世を継承したと云います。

寿聖院を維持することは大変だったようで、維持する為に土地を切り売りした為、当初の4分の1の広さになってしまったそうです。

宗享(重家)が木材を集め再建し現在に至っています。

京都の妙心寺寿聖院

京都の妙心寺寿聖院

 

宗享は寿聖院に三成の父・正継夫婦三成夫婦、三成の兄・正澄夫婦、正澄の長男、次男の供養塔を建て現在も供養が続けられているそうです。

その後、1665年に弟子に譲って隠居し、岸和田(大阪府)で余生を過ごしたと伝わります。

そして1686年に、長い生涯を閉じ天寿を全うしました。

享年は99歳~103歳?の間ではないかと推定されています。

この時代に100歳前後の長生きとは驚きですね。

また重家の老後は、徳川家康の異父弟・松平康元の孫である岡部宣勝(おかべ のぶかつ)の保護を受けているそうです。

徳川家康の弟の孫にお世話になっていたのは意外ではないでしょうか。

岡部 宣勝は、三成の孫である津軽信義(のぶよし)の正室の従兄妹に当たりますので、その縁でしょうか。

また通説では、三成が父・正継の菩提を弔うために建立したとされる妙心寺寿聖院ですが、実は三成の父・正継が建立したとも言われてます。

伯蒲慧稜(はくほえりょう)が、重家に宛てた手紙に正継が建立した旨の記載があるそうです。

こちらもどちらが正しいか不明です。

 

津軽信義は、三成の孫で三代目の弘前藩主です。

ご興味ある方は、こちらの記事をご覧ください。

石田三成の子孫~津軽信義とその子孫~

祖心尼が重家に帰依する

祖心尼(そしんに)という人物をご存知でしょうか。

春日局の義理の姪であり、後に大奥の実力者になる方ですが、宗享(重家のこと)に帰依(きえ)しています。

祖心尼が重家に帰依も意外な感じがしました。

祖心尼は三成の次女の家系と親戚になっていて、その縁で三成の曾孫が春日局の養女となり家光の側室になります。

祖心尼は、石田家に近しい人物だと思いますが、そのような人が大奥にいたのかと奥深さをかんじます。

 

ご興味ある方はこちらの記事をごらんくださいね。

石田三成の子孫~徳川家光の側室・お振りの方~

重家の子・石田直重と重家の子孫

現代には、石田重家の子孫を称する方がいらっしゃいます。

先に述べたように重家は出家していますので、子孫はいないと見なされていました。

通説でも子孫がいたことにはなっておらず、伝承の域をでないなかもしれませんが、関ケ原の戦い当時、妻が妊娠していて後に出産したとの説が残されています。

妻が誰かは不明ですが、関ケ原の戦い後に結城秀康(ゆうきひでやす)が保護してくれたそうです。

事実だとしたら、重家夫婦は離れ離れになってしまったようですね。

結城秀康とは徳川家康の次男ですが、石田三成とも懇意にしていたと云い、三成から譲り受けた石田正宗(いしだまさむね)という刀を終生大切にしてくれたという伝承が残る人物です。

そして、生まれた子供は直重と名付けられ結城秀康の長男・松平忠直の保護を受け、その子孫は現代も続いているそうです。

松平忠直の肖像画

松平忠直

直重が住んだ場所は、新潟県妙高市だと伝わっており、新田開発をしその子孫は庄屋になったと云われていますが、妙高市に定住し現代にまで系譜が続いているようです。

20013年に破産しニュースになった「石田館 妙高ホテル」は、新潟県妙高市に定着した石田三成の子孫だと云い、それが事実なら重家、直重の子孫の伝承通りということになりますね。

通説になっていないということは、証明するものを持ち合わせていないのでしょうか。

また現在、福島県で営んでいる栄川酒造の社長も石田三成の子孫だと云います。

越後(新潟)に住んでいた祖先が、会津に移住したそうです。

重家、直重の子孫なのか、三成のどの子供の子孫なのか不明です。

ただ、新潟にいた三成の子孫というと重家、直重も可能性が高そうに思います。

 

「石田館 妙高ホテル」や「栄川酒造」の話はこちらに記しています。

石田三成の子孫の現在

 

重家が出家した妙心寺寿聖院

重家が住職を務めた妙心寺寿聖院ですが、残念ながら一般拝観は行っていないようです。

ですが、電話予約すれば三成のお墓参りはできるそうです。

そのお墓は、重家が寿聖院に三成の遺髪を収めお墓を建てたものだと云います。

三成の遺骨があるのは、京都の大徳寺三玄院ですが、妙心寺寿聖院にも三成のお墓があるということですね。

また石田正継肖像画、三成書状、三成が送った袈裟(けさ)、狩野永徳屏風画などもあるそうです。

お墓参りができるとのことなので、こちらは見れないかもしれません。

限定でも良いので公開して欲しいなと思いますが…。

場所:京都市右京区花園妙心寺44

かおりん かおりん
『石田三成の生涯』という本の著者の白川亨氏は、三成の次男の子孫だと云います。

白川亨氏の本は、とても丹念に調べられていますし、石田三成の生涯や佐和山城の落城についても書いてあります。

 

筆者の感想

三成の嫡男でありながら助命された石田重家の話はいかがでしょうか。

重家自身が、家康の弟の孫の保護を受けていたり、伝承ですが重家の妻と石田重家の嫡男が家康の次男の家系に保護されていたり意外に思ったでしょうか。

ですが、三成の子孫を追うと徳川家に近しい人の保護を受けているケースがあります。

江戸時代中期くらいから、三成は創作話などで蔑まれることになりますが、江戸時代前期は違いました。

「敵」として認識はされていたようですが、三成を知る人が生きていた時代は、三成の心情を理解してくれていたかのような対応をしてくれています。

本当に三成の心情を理解していたかは分かりませんが、三成の子孫に意外と優しいなと思います。

 

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