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石田三成と正室である皎月院(こうげついん)との間に産まれた4番目の子供は次男の重成です。

石田三成の子供の記事4記事目は、石田重成(しげなり)についてまとめます。

こちらの記事は詳細を書いていますので、簡潔に知りたい方は、まとめ記事をご覧ください。

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石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

石田重成

石田重成(石田隼人正重成)は、関ヶ原の戦い後、杉山源吾と名を変えて津軽家に保護されて生き延びますが、

謎の多い人物で未だに分からないことが多くあります。

この謎の理由は、三成の3人の女性の子供を、三成の子でなく杉山源吾(重成)の子と偽り、

素性を隠す為の隠蔽工作を行ったことが、大きな原因と言われています。

石田重成(後に杉山性へ改名)の杉山家、山田家(三成長女の嫁ぎ先)、岡家(三成次女の嫁ぎ先)、津軽家(三成三女の嫁ぎ先)、

共に杉山源吾の子とする為、家系図の改ざんがされていたそうです。

そのような事情があり、詳細が伝わっていないので、分かっている範囲で記載します。

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関ヶ原の戦いまでの重成

石田重成は、1588年頃産まれて、1599年に豊臣秀頼に小姓として仕えたと伝わります。

しかし、1600年関ケ原の戦いで、父・三成が敗北したことで人生が大きく変わってしまいます。

三成の居城である佐和山城も落城し、重成は大坂城から津軽信建(のぶたけ)(大名・津軽為信の長男)の助けを得て、

津山甚内(つやまじんない)(三成の家臣、娘が重成の乳母 )らと共に津軽(青森)にへ逃げ延びました。

佐和山城落城についてはこちらの記事に記載しています。
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石田三成の子供~三男 佐吉~

 

石田三成と津軽為信

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津軽為信 出典:wikipedia

津軽為信の長男である津軽信建は何故、石田重成を助けてくれたのでしょうか?

それは、お互いの父である石田三成と津軽為信(ためのぶ)の関係に理由があります。

豊臣秀吉が天下を治めようとしていた頃、津軽家は南部(なんぶ)家と領土問題で対立していました。

津軽為信は豊臣秀吉に征伐の対象にされかけてしまい危機を迎えますが、石田三成などの執り成しにより危機を免れます。

一方で、同じように南部家と対立していた九戸(くのへ)家は、一家皆殺しにされてしまいました。

このような経緯で、三成は津軽家の恩人として感謝されます。

又、長男・津軽信建の烏帽子親(えぼしおや)(仮親)は石田三成が務めたそうです。

そのような縁もあり、重成を助けてくれました。

又、津軽家には、江戸時代には開けることのない開けずの宮がありました。

後に明治時代を迎え、ようやく開かれた開けずの宮には、豊太閤(豊臣秀吉)座像が秘かに祀られていました。

石田重成(杉山源吾)が献上したと伝わります。

津軽家は徳川の世になっても、津軽家を大名として認めてくれた豊臣秀吉像を祀っていました。

津軽家は恩のある石田三成の子供を必死に守ってくれた家でもあり、津軽家の義理堅い一面が見えるように思います。

重成は杉山源吾と改名

話を重成に戻します。

大阪城から逃げ延びた重成は杉山源吾と改名し、深味深宮(現在の北津軽郡板柳町)(いたやなぎ)に隠れ住みました。

また、杉山源吾の随行者は、総勢21名(男18、女3)と伝えられ、この中の多くの人達は、深味周辺に住み、開拓に従事したそうです。

その後、1607年頃嫡男である吉成が産まれて、1608年に次男も産まれたそうです。

次男誕生間もなく、二人の生母である朽木某女(名前、没年、享年不明)は亡くなりました。

後妻は、柘植平干左衛門の娘(名前、没年、享年不明)と伝えられています。

その後、杉山源吾は、1610年に4月28日に亡くなったという説もありますが、1641年に53歳で死去した説もあります。

1641年に53歳で死去した説が有力のようですし、私もこちらの説が正しいと思っています。

杉山源吾は上州大館の地へ

その理由は、杉山源吾が亡くなったとされる1610年頃に、源吾の妹である辰姫(三成三女)が、弘前藩2代藩主である津軽 信枚(のぶひら)に正室として輿入れします。

 

※後に徳川家康の養女が降嫁したため、辰姫は側室に降格になりますが、そのことはこちらの記事に記載しました。

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石田三成の子供~三女 辰姫~

 

義理堅いであろう津軽家が、辰姫の兄の源吾が亡くなってすぐと推測される時期に、結婚の儀を行うことに疑問もあります。

又、辰姫は弘前城ではなく、津軽家が関ヶ原の戦いの功績で得た、

津軽家の飛び地である上州大館(じょうしゅうおおだて)の地(現群馬県大田市尾島町)で暮らしたそうです。

(※辰姫が上州大館の地へ行った時期は、徳川家康養女が津軽 信枚に降嫁してからのか、もしくは、初めからなのかはっきりしていません。)

なので、兄の杉山源吾も辰姫の傍にいたのではないかと思います。

亡くなったことにしつつ、上州大館の地で辰姫の世話役をしながら、

近くで暮らしたという説が、通説とまでいきませんが有力な説とされています。

 

江戸へ移り住む

その後、辰姫が亡くなり、後妻となった拓植某女との間に生まれた三男成保とともに、

津軽家から400石の合力米を支給されて、江戸早稲田に移り住んだとも伝わります。

新宿区早稲田町の建勝寺の過去帳に、杉山源吾の戎名である「道光院殿覚扇了関大居士」の名が残っているそうです。

又、杉山家の菩提寺で、弘前市にある宗徳寺の墓には豊臣の姓が刻まれています。

オンライン三成会編集「三成伝説」によると、豊臣姓が与えられたと伝えられているそうです。

(※通説では、石田三成が豊臣を名乗ることを許されていたという記録はないとされています。)

そして、開けずの宮に秘かに祀られていた、豊太閤(豊臣秀吉)座像は津軽為信の菩提寺である革秀寺(かくしゅうじ)に現存しています。

 

三成の長男は、徳川家康に助命が認められています。

しかし、次男である源吾は落ち延びていますので、素性を隠して生きています。

(※ただ、徳川家は重成が津軽へ落ち延びたことを知りながら黙認していたようです。

他の子供や子孫の記事などに記載していますが、徳川家は三成の子供や子孫が厚遇されるのを黙認したり、自ら遇しています。)

とはいえ、戦いに敗れた一族が、徳川家を憚り生きていくのは大変であったことは、容易に想像できます。

津軽家の飛び地である上州大館の地で、家族と辰姫と幸せに暮らした時があって欲しいと願います。

 

この先、長男の吉成の家系は弘前藩の家老として続きます。

その杉山吉成の記事はこちらです。
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石田三成の子孫~津軽杉山家の吉成~

参考・引用・出典一覧

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石田三成の子孫~徳川家光の側室・お振りの方~

石田三成の子供~長男 石田重家~

石田三成の子供~次女~

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