石田三成の子孫が青森県にいるという話を、聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。
石田三成の次男、三女にゆかりのある青森の弘前市(ひろさきし)、かつて弘前藩の城下町として栄えた場所です。
今回は次男・石田重成についてや、重成の子孫について記しています。
関ケ原の戦いの時の石田重成
石田重成は、石田三成と正室である皎月院(こうげついん)との間に産まれた四番目の子供です。
石田重成が生まれたのは、1588年頃ではないかと云われています。
そして、1599年に豊臣秀頼に小姓として仕えたそうです。
秀頼の小姓として順風満帆な人生だったかもしれません。
しかし、1600年に関ケ原の戦いが起き、父・三成が敗北したことで重成の人生が大きく変わってしまいます。
関ケ原の戦い後、三成の居城である佐和山城落城を知ると、重成は大坂から逃れたと云います。
この時、重成を助けてくれたのは、津軽信建(つがる のぶたけ)です。
三成が懇意にしていた弘前藩主・津軽為信(ためのぶ)の長男で、三成が烏帽子親(えぼしおや)も務めていました。
重成は津軽信建の助けを得て、津山甚内(つやまじんない)らと共に津軽家の領地へ逃げ延びました。
津山甚内とは、三成の家臣で娘が重成の乳母 を務めたという間柄だと云います。
重成を保護した津軽為信
この先の石田三成の子供や子孫の多くは、弘前藩・津軽家に支えられ生きていきます。
ここで、石田三成と津軽為信の関係について記します。
豊臣秀吉が天下を治めようとしていた頃、津軽家は南部(なんぶ)家と領土問題で対立していました。
津軽為信は豊臣秀吉に征伐の対象にされかけてしまい、お家の危機を迎えますが、石田三成などの執り成しにより危機を免れます。
一方で、同じように南部家と対立していた九戸(くのへ)家は、一家で滅ぼされてしまいました。
このような経緯で、三成は津軽家の恩人として感謝されますし、長男・津軽信建の烏帽子親(仮親)は石田三成が務めたそうです。
また後の話ですが、石田三成の三女が津軽為信の跡継ぎに嫁ぎ、弘前藩三代目藩主の生母となった縁もあり、三成子孫は津軽家に一門並みの待遇を受けることになります。
っまた、津軽家には、江戸時代には開けることのない開けずの宮があったそうです。
後に明治時代を迎え、ようやく開かれた開けずの宮には、豊太閤(豊臣秀吉)座像が秘かに祀られていました。
石田重成が献上したものと伝わります。
津軽家は徳川の世になっても、津軽家を大名として認めてくれた豊臣秀吉に感謝し、秘かに座像を祀っていたそうです。
津軽家は恩のある石田三成の子供を必死に守ってくれた家でもあり、津軽家の義理堅い一面が見えるように思います。
石田重成から杉山源吾に改名
重家は敗軍の将の子供なのに徳川家の許しを得ていませんので、通常の暮らしは難しかったようです。
大坂から逃げ延びた重成は杉山源吾と改名し、深味深宮に隠れ住んだと云います。
深味深宮とは、現在の北津軽郡板柳町(いたやなぎまち)にあたる場所だそうです。
また、重成(杉山源吾)の随行者は、総勢21名(男18、女3)と伝えられ、この中の多くの人達は、深味周辺に住み、開拓に従事したそうです。
その後、1607年頃に嫡男の吉成に恵まれます。
そして、翌年の1608年には次男にも恵まれたそうです。
二人の生母である重成(源吾)の妻については、朽木氏(くつきし)の娘と云われていますが、名前、生年不明です。
亡くなったのは、次男誕生間もなくだと云います。
重成(源吾)は、後妻を迎えることになりますが、いつのことかも不明です。
後妻は、柘植平干左衛門の娘と伝えられていますが、名前、生没年不明です。
その後の重成(源吾)の足取りですが、定かではなく、1610年に4月28日に亡くなったという説もありますが、1641年に53歳で死去した説もあります。
重成(源吾)と辰姫
重成(源吾)が亡くなったとされる時期に、津軽家にとって大きな出来事がありました。
重成(源吾)の妹で三成の三女である辰姫が、弘前藩2代藩主・津軽 信枚(のぶひら)に正室として輿入れしました。
重成(源吾)が亡くなった頃と、辰姫が輿入れした時期が、ほぼ同じ位、もしくは直後位ではないかということです。
義理堅い津軽家が、兄の重成(源吾)が亡くなった頃に、結婚の儀を行うとも思えません…。
また降嫁後の辰姫が、長年居たのは上州大館(じょうしゅうおおだて)の地です。
津軽家が関ヶ原の戦いの功績で得た飛び地で、現在の群馬県大田市尾島町にあたる場所です。
上州大館へ辰姫が行った時期は不明ですが、もし輿入れして直ぐであれば、亡くなったとされる重成(源吾)が、兄として側役を任されても不思議ではありません。
三成の子供を正室に迎えたわけですから、徳川家を憚り住む場所を別にしたのかもしれません。
こう考えると重成(源吾)が亡くなった時と、辰姫が輿入れした時がほぼ一緒である謎が解けます。
また、1613年に家康の養女・満天姫(まてひめ)が、辰姫の夫の正室として送り込まれてきます。
これにより、辰姫は側室になります。
この時に上州大館に移された可能性もあるかもしれませんが…、謎のままです。
この後、満天姫により、辰姫は幽閉状態の生活を送ることになり、32歳の若さで没します。
辰姫の詳しい話はこちらです。
☟
重成(源吾)江戸へ
辰姫が亡くなった後の、重成(源吾)は、後妻となった拓植某女との間に生まれた3男の成保とともに、津軽家から400石の合力米を支給されて、江戸早稲田に移り住んだとも伝わります。
新宿区早稲田町の建勝寺の過去帳に、杉山源吾の戎名である「道光院殿覚扇了関大居士」の名が残っているそうです。
これは、やはり生きていたのかなと思いましたが、戒名が同じで別人の方の可能性もあるのでしょうか?
不明です…。
また、杉山家の菩提寺は、弘前市にある宗徳寺だそうですが、その墓には豊臣の姓が刻まれています。
通説では、石田三成が豊臣を名乗ることを許されていたという記録はないですが、豊臣姓が与えられたと伝えられているそうです。
重成(源吾)を初代とする、杉山家の2代目から11代目までの明治より前の墓標には、「豊臣」の文字が刻まれています。
重成(源吾)自身のお墓は、お墓らしきものはあるそうですが、よくわかりません。
徳川から隠れて暮らしましたので、堂々とお墓が建てられないのかもしれません。
そして、開けずの宮に秘かに祀られていた、豊太閤(豊臣秀吉)座像は津軽為信の菩提寺である革秀寺(かくしゅうじ)に現存しています。
重成(源吾)の謎
重成(源吾)は、謎の多い人物で未だに分からないことが多くあります。
この謎の理由は、三成の3人の女性の子供を、三成の子でなく杉山源吾(重成)の子と偽り、素性を隠す為の隠蔽工作を行ったことが、大きな原因だそうです。
重成(源吾)の杉山家、山田家(三成長女の嫁ぎ先)、岡家(三成次女の嫁ぎ先)、津軽家(三成三女の嫁ぎ先)、共に杉山源吾の子とする為、家系図の改ざんがされていたそうです。
なので、子孫の方が家系図等を見ても、よく分からないそうです。
それにしても、重成(源吾)は素性を隠し、ひっそりと暮らしていますので、大変だったことは容易に想像できます。
せめて、津軽家の飛び地である上州大館の地で、家族と辰姫と幸せに暮らした時があって欲しいと願います。
石田重成(杉山源吾)の子孫
石田重成(杉山源吾)の子孫についても記しておきます。
重成(源吾)は三人の男子に恵まれます。
前妻との間に長男・杉山吉成(よしなり)、次男・石田掃部、
後妻との間に三男・杉山成保(嘉兵衛)がいますが、長男以外のことは伝わっていません。
嫡男の吉成は、弘前藩主・津軽信枚の娘を正室に迎えています。
この縁もあってでしょうか、この先の吉成の家系は、幕末まで弘前藩の家老や重臣として続きます。
また吉成は、「早道之者<はやみちのもの>」という忍者集団を結成し、吉成の子孫は忍者を統率していたと云われています。
杉山吉成の次男は武助豊臣(ぶすけ とよおみ)というそうですが、満天姫の曾孫と結婚します。
満天姫は徳川家康の養女ですので、徳川家の縁者との結婚です。
改名までして暮らさなければならなかった重成(源吾)ですが、子孫は栄ましたね。
重成(源吾)が三成の縁者であると、徳川家も気がついていたようですが、黙認されたようです。

三成の研究家として丹念に調べられた著書です。
杉山吉成と忍者の話の詳細はこちらの記事に記しています。
重成(源吾)の子孫である歴代の当主の系譜はこちらの記事に記しています。
また下の記事にも、現代の重成(源吾)の子孫を記しています。
コメント