石田三成と正室・皎月院(こうげついん)の間には、三男三女の子供がいますが、末っ子は三男である佐吉(さきち)です。
関ケ原の戦い当時の佐吉について、津田清幽に救われた佐吉の話など、佐吉の生涯に迫ります。
佐吉の関ヶ原の戦い
佐吉は関ヶ原の戦いの時、元服前でしたので幼名しか伝わっていません。
「佐吉<さきち>」とは石田家の三男に付けられる幼名で、石田三成と同じ幼名です。
1594年頃に誕生し、関ヶ原の戦いの時は6歳であったと考えられます。
関ヶ原の戦いで、父・三成が敗北した頃、佐吉は佐和山城(さわやまじょう)にいたと伝わります。
佐和山城は、徳川方に囲まれてしまいますが、三成の父・正継(まさつぐ)が主将となり、三成の兄・正澄(まさずみ)などが奮戦していました。
多勢に無勢で佐吉側は、当然不利な状態です。
そのような中、徳川方から開城交渉の申し込みがありました。
徳川方と交渉する石田方の交渉役は、津田清幽(つだ きよふか/せいゆう)という人物が任されました。
津田清幽は、徳川家康に10年仕えた経験があり、その後家康の口添えで三成の兄・正澄に仕えていたじんぶつです。
津田清幽は、この交渉で関ヶ原戦い本戦での三成の敗北を知ったと云われており、家康からの書状を持って佐和山城に帰ったそうです。
正澄は最初は、謀(はかりごと)かと疑ったそうですが、後に承諾したと云います。
徳川方は、正澄の自害の代わりに城兵や女・子供の助命を認め、翌日に城を引渡すと約束しました。
しかし、豊臣家から佐和山城に援軍にきていた長谷川守知(はせがわ もりとも)が裏切ります。
というより、間者のようですので最初から石田方ではなかったようです。
そこに、呼応した小早川秀秋、脇坂安治(わきざか やすはる)、小川祐忠(おがわ すけただ)、田中吉政が攻め入りました。
ついに佐和山城は落城し、三成の兄・正澄、父・正継、三成の舅らは自害しました。
ただ、田中吉政は、和平交渉の進展を知らなかったと伝わっており、この件が悪いと思ってかわかりませんが、明治時代に田中吉政の子孫が三成の菩提を弔っています。
因みに小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠は、関ヶ原戦い本戦で三成方から徳川方へ寝返った人物です。
彼らは和平交渉の進展を知ってか、知らずかわかりませんが、ドラマなどでは当初三成方についた挽回という感じで佐和山城に攻め込んでいく様子が描かれていたりしますね。
佐吉と津田清幽
この裏切り行為に怒った津田清幽は、脇坂安治の家臣・村瀬忠兵衛を捕らえたと云います。
そして、この敵兵を盾にして、佐吉ら総勢11人で堂々と落ち延びます。
その後津田清幽は、そのまま徳川家康の本陣に乗りこんで、家康に対して佐和山攻撃の不義を訴え抗議したそうです。
そして、佐吉を含め全員の助命が約束されます。
津田清幽は、とても勇気ある方に思えますね。
ところで、津田清幽とは何者でしょうか。
出自としては、織田一族のようですね。
先に述べたように、津田清幽を三成兄に斡旋したのは、徳川家康であると伝えられています。
もしも、徳川方が石田家の間者として送り込んだのであれば、自分は滅ぼされないと思って、ここまで強気になれるかもしれませんね…。
ですが津田清幽は、佐和山城の戦いの際に石田方として立派に奮戦していたそうですので、徳川方の間者というわけでもなさそうです。
いずれにしても、佐吉を守り抜いたのは、津田清幽ということになりますし、石田家の家臣として職務を全うしたのではないでしょうか。
戦後、津田清幽は家康に呼ばれ徳川義直に仕えることになったそうです。
後に徳川家康は、清幽は二心はない人物であり、有事の時は清幽任せて疑わないようにという話をし、清幽も泣いて喜んだ話が伝わっています。
家康も佐和山城の戦いの際、寝返らなかった津田清幽を評価していたのかもしれないと思います。
佐吉は深長坊清幽となる
佐吉は、出家を条件に助命されていますので、津田清幽が手助けをしてくれたそうです。
津田清幽は、木食応其(もくじきおうご)に佐吉を託し、高野山で出家させます。
木食応其とは、深覚坊応其(しんかくぼうおうご)とも云われますが、真言宗の僧侶です。
その後、木食応其は佐吉に深長坊清幽(しんちょうぼうせいゆう)という法名を与えています。
津田清幽の「清幽」という字をもらい、「深長坊清幽」と名乗らせました。
津田清幽の恩義を忘れないようにとの意味が込められていると推測されています。
その後、木食応其は、甲斐(山梨県)にある河浦山薬王寺(かわうらやまやくおうじ/やくわうじ/やくわうぢ)に深長坊清幽(佐吉)を託します。
その後、深長坊清幽は、河浦山薬王寺16世の住職になったそうで、1676年9月8日に82歳で亡くなったと云われています。
佐吉の子孫
佐吉の子供、子孫の情報はありません。
幼い頃に出家していますので、お子さまはいないと思います。
現代の感覚で6歳と言えば、まだまだ親に甘えたい時期だと思います。
わずか6歳で多くの一族が自害してしまう経験をし、生き残った兄弟とは、後に会えた記録は見つかっていません。
何を思って生きたのでしょうか。
戦国の世の虚しさを感じますね。

三成の本は子孫が書いたものも多いですが、こちらの本は私情を挟まず、客観的に書いていると評価が高いです。
三成の兄についての記事です。
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三成の子供をまとめている記事です。
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