石田三成の長女|山田勝重(隼人正)の妻

石田三成と正室である皎月院との間に最初に生まれた子供は、長女だと伝わっています。

しかし、三成の長女の名前は伝わっておらず、詳細な記録も少ないです。

今回の記事では、山田勝重(山田隼人正)の足跡を追いながら、長女についても書いています。

目次

石田三成長女と山田勝重(隼人正)

石田三成の長女は、天正7年(1579年)頃生まれたと伝わります。

生母は正室・皎月院(こうげついん)で、名前は不明です。

伝わっているのは、山田勝重(山田隼人正勝重、山田隼人正)の正室であったということです。

山田勝重(山田隼人正)の父は、石田家の家臣・山田上野介(こうずけのすけ)の息子です。

山田上野介は、三成の父・石田正継の家臣であると『石田三成とその子孫』という書籍に書いてあります。

石田正継の肖像画
石田正継 出典元:Wikipedia

石田三成の重臣としても知られている人物なので、石田正継に仕えた後、三成に仕えたという意味なのか、分かりません。

山田上野介は、一説には、佐和山の太鼓丸を守っていた人物で、位は番頭であったようです。

家臣100人位の固まりのトップに当たる役割だそうです。

また、慶長元年(1596年)から慶長3年(1598年)の間に出されたと見られる三成文書に、山田上野介の名前が確認できます。

年貢の取り立てについて、島左近、山田上野、四岡帯刀に従うように書かれています。

山田上野介は、石田三成が三顧の礼をもって家臣に迎えたという島左近らと共に、年貢を任せる位、三成の信頼を得ていた人物のようです。

戦国の世ですが、政略結婚ではないようで、信頼できる家臣の息子の元にお嫁に出したというところでしょうか。

石田三成の肖像画
石田三成 出典元:Wikipedia

佐和山城の脱出

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起きますが、三成の長女と山田父子らは、佐和山城にいたと伝わります。

三成が敗北すると、徳川方の小早川秀秋、田中吉政、井伊直政らに佐和山城は攻められ、奮戦むなしく落城します。

佐和山城跡の碑石
佐和山城跡の碑石

山田上野介は、石田一族らと共に自害しています。

菩提を弔う者が絶えてしまうと考えた山田上野介は、山田勝重(山田隼人正)に佐和山城脱出を厳命したと伝わります。

山田勝重(山田隼人正)は、妻・三成長女、長男・宇吉郎(喜庵)を連れて、佐和山城から逃げ延びることになります。

『佐和山落城記』

山田上野介の孫で、佐和山落城の場に居た喜庵(宇吉郎)は、元和2年(1616年)、『佐和山落城記』を書き残しています。

山田家のことや、佐和山城が落城する時の様子などが記録されてるそうですが、史料価値については分かりません。

佐和山
佐和山

長女夫婦と松平忠輝

三成長女一家が佐和山城を脱出する時、助けてくれたのは、豊臣秀吉の正室・北政所付きの筆頭上臈で、三成の遠戚でもあった孝蔵主(こうぞうす)という女性です。

(※孝蔵主は、三成の次女の夫である岡重政の義理の叔母です。)

孝蔵主によって三成長女一家は、松平忠輝の生母・茶阿局のもとに送り届けられたそうです。

茶阿局は徳川家康の側室で、家康六男・松平忠輝の生母でもありますが、山田上野介の実妹でもあります。

三成長女夫婦は、叔母に家康の側室がいたという幸運に恵まれていました。

家系図

茶阿局の縁により、長女の夫・山田勝重(山田隼人正)は、松平忠輝の家臣になります。

慶長14年(1609年)に松平忠輝の重臣に起用され、慶長15年(1610年)、山田勝重(山田隼人正)は魚沼郡上田城領2万石を拝領したそうです。

こうして、三成長女夫婦は敗軍の将の子供であるにもかかわらず、徳川一門である松平家の重臣になりました。

いつからか不明ですが、2万5,000石を拝領したそうです。

そして、これは関ヶ原当時、三成と家康は遠戚関係であったことになります。

縁があるのに戦っていたのは悲しいですが、親子でも戦う時代ですからね…。

また一説には、次期など詳細は不明ですが、三成長女夫婦は流浪した時期があり、長男・宇吉郎は医師に託され、医師として生計を立てるようになったそうです。

山田勝重(隼人正)と大坂の陣

徳川家と豊臣家の戦いである大坂の陣の時は、山田勝重(山田隼人正)はどのようにしていたのでしょうか。

『佐和山落城記』によると、山田勝重(山田隼人正)は大坂夏の陣で、木村長門守の軍に入って大坂城の大手門で戦死したとあり、つまり豊臣方として参戦し戦死したそうです。

ただ、この記録は真実ではないようです。

先に述べたように、山田勝重(山田隼人正)の主君は松平忠輝であり、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では、江戸城の留守番を徳川家康から命じられています。

山田勝重(山田隼人正)は、病気を理由に大坂冬の陣に参戦していないそうですが、山田勝重配下の武将は徳川方として参戦しています。

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では、松平忠輝、山田勝重(山田隼人正)共に出陣を命じられ参戦しています。

しかし、その後、松平忠輝は改易され流罪となります。

改易理由は諸説あります。

松平忠輝改易後の三成長女夫婦

松平忠輝の改易後、山田勝重(山田隼人正)は隠棲し、山田草山と号したそうです。

拠り所を失った三成長女夫婦は、三成長女の妹(辰姫)の縁で、弘前藩主・津軽家から150石を給され江戸で暮らします。

辰姫は、弘前藩2代藩主・津軽信枚に嫁ぎ、弘前藩3代藩主・津軽信義の生母になる方です。

明暦元年(1655年)、山田勝重(山田隼人正)は江戸で亡くなったそうです。

三成長女の足取りは分かりません。

三成長女夫婦の長男は医者となり、次男は津軽家に仕えますが、後にお家騒動の責任をとり切腹しています。

しかし、その後、三成長女夫婦の子孫は、津軽家から一門並みに厚遇されて幕末を迎えたそうです。

かおりん
『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』という本は、毛利、上杉、宇喜多、島津など西軍武将にスポットをあてて書いています。 一次史料のみを用い分析した、関ヶ原の戦いで何故三成方についたのか、それぞれの事情がわかる良い本だと思います。
参考・引用・出典一覧
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