石田三成の長女(山田隼人正勝重の正室)

石田三成と正室である皎月院(こうげついん)との間に最初に生まれた子供は長女だと伝わっています。

しかし、三成の長女の名前は伝わっておらず、詳細な記録も少ないです。

今回の記事では、石田三成の長女と長女の夫である山田隼人正勝重について記しています。

目次

石田三成長女は山田隼人正勝重の正室

石田三成の長女は1578年頃に産まれたと推察されており、名前は残念ですが伝わっていません。

伝わっているのは山田隼人正(やまだ はやとのかみ)(山田隼人正勝重<はやとのかみかつしげ>、山田勝重)の正室であったということです。

私がこのことを始めて知った時は、随分前ですが、当時は違和感がありました。

石田三成の娘ともなれば、名の知れた相手と結婚すると思っていた為、山田隼人正勝重さんを存じ上げず、このことを不思議に思っていました。

山田隼人正勝重とはどのような人物かというと、石田三成の家臣山田上野介(こうずけのすけ)の嫡男です。

山田上野介は、三成家臣団でお名前を拝見していましたので、聞いたことがありました。

ですが、石田三成の娘を娶る程の重臣だったかなと調べたところ、山田上野介の末裔の方曰く、太鼓丸を守っていた、位は番頭(ばんがしら)であったそうです。

どうやら家臣100人の固まりのトップに当たる役割とのことです。

又、「年貢の取り立てについて三名の者に従いなさい」と書かれた石田三成の文書があり、

そこには、あの重臣・島左近と並んで山田上野介の名が書かれています。

このことから、物凄く位の高い人ではないけれど、年貢の取り立てを任せられる位信頼している家臣の嫡男ということになると思います。

少なくても、この戦国の世にあって、政略結婚ではなかったということになると思います。

娘の幸せを願い、幸せになれそうな相手と結婚をさせたのでしょうか。

佐和山城落城記

山田上野介の子孫宅から古文書が発見され本物と認められていて、「佐和山城落城記」と名付けられています。

関ケ原の戦い後、石田三成の城である佐和山城落城する時の様子を記録した文書です。

佐和山城落城記(山田家文書)によると、関ヶ原の戦い後、佐和山城が落城する時に、山田上野介(長女の岳父)は城と共に自害したそうです。

その際に、菩提を弔らう者が絶えてしまうからと山田上野から佐和山城脱出の厳命を受けて、山田隼人正勝重(25歳)、妻である三成長女、嫡男の宇吉郎(うきちろう)(5歳)は佐和山城を脱出したそうです。

佐和山城址の碑石

 

長女夫婦と松平忠輝

佐和山城落城後、三成の長女夫婦はどのように暮らしたのでしょうか。

敗軍の将の子供は大変なイメージがあるのではないでしょうか。

しかし、長女の夫・山田隼人正勝重は徳川家康の六男である松平忠輝(まつだいら ただてる)の家臣になります。

1609年に松平忠輝の重臣に起用され、1610年には山田隼人正に越後上田城領2万石を与えています。

何故、三成の娘婿である山田隼人正は、徳川家康の6男である松平忠輝に召し抱えられ、2万石もの知行を拝領することができたのでしょうか。

それは、松平忠輝の生母である茶阿局(ちゃあのつぼね)(於茶阿)の実兄が、山田上野介(三成長女の岳父)であった為です。

茶阿局は三成長女の義理の叔母にあたります。

先に述べたように佐和山城が落城した時、山田隼人正、三成長女、嫡男の宇吉郎は逃げ延びます。

その際に助けてくれたのは、豊臣秀吉の正室・北政所付きの筆頭上臈で三成の遠戚でもあった孝蔵主(こうぞうす)という女性です。

(※孝蔵主は、三成の次女の夫である岡重政の義理の叔母です。)

孝蔵主によって三成長女一家は、茶阿局のもとに送り届けられたそうです。

茶阿局が甥である山田隼人正を息子である松平忠輝の家老にして取り立ててくれましたので、三成長女夫婦は敗軍の将の子供であるにもかかわらず、徳川一門である松平家の重臣になりました。

そして、これは関ヶ原当時、三成と家康は遠戚関係であったことになります。

親戚という縁があるのに悲しいですが、親子でも戦う時代ですからね…。

家系図

また、もしかしたら政略結婚かもしれないとも思いました。

三成長女が結婚した時期は、はっきりわかりませんが、1592~1593年頃とする説があります。

茶阿局(長女の夫の叔母)と家康との子・松平忠輝が生まれたのは、1592年1月4日です。

丁度、三成長女夫婦が結婚した時期に、松平忠輝が生まれたことになります。

長女と山田隼人正の婚姻は、徳川家康と遠戚関係を持つための政略結婚ではという考えもあるかもしれませんが、三成長女が婚礼の儀を行ったと推察される1592~1593年頃は豊臣秀吉も存命でしたし、親戚といっても少し遠いなと思いました。

山田隼人正勝重と大坂の陣

徳川家と豊臣家の戦いである大坂の陣の時は、山田隼人正勝重はどのようにしていたのでしょうか。

松平忠輝の家臣なので当然徳川方かと思ったのですが…。

佐和山城落城記という山田家の記録に、「山田隼人正は大坂夏の陣で木村長門守(きむらながとのくに)の軍に入って大坂城の大手門で戦死した」と豊臣方として参戦した記載があります。

豊臣方として参戦し亡くなったと書かれてあるのです。

何故かと思いましたが、実際とは異なるようですし、生きてもいますので謎です。

実際の大阪の陣はというと、大阪冬の陣では主君である松平忠輝は江戸城の留守番を徳川家康から命じられています。

山田隼人正勝重は病気を理由に参戦していませんが、松平忠輝、山田隼人正勝重共に家臣は徳川方として参戦しています。

※裏付ける資料として山田隼人正勝重の書状が残っています。

大阪夏の陣では、松平忠輝、山田隼人正勝重共に徳川家康から出陣を命じられ参戦しています。

しかし、大阪夏の陣の後、徳川家康に松平忠輝は勘当、改易されてしまいます。

改易理由は諸説あります。

松平忠輝改易後の三成長女夫婦

松平忠輝の改易後、山田隼人正勝重は隠棲し、山田草山(そうざん)と号したそうです。

拠り所を失った三成長女夫婦は、三成長女の妹(三女である辰姫)の縁で、弘前藩主・津軽家から150石を拝領し江戸で暮らします。

辰姫は三代目弘前藩主の生母になっていました。

ですが、三成長女は1655年5月17日江戸で亡くなったそうです。

三成長女夫婦の子供、子孫

その後、三成長女の子供、子孫はどうなったのか記載します。

三成長女夫婦の嫡男は医者になり、次男である山田武兵衛は富岡武兵衛(とみおか ぶへえ)と改名し津軽家に仕えています。

次男は800石を得ていましたが、後の起こる津軽家のお家騒動の責任を取り、1648年に切腹させられてしまいます。

切腹を命じた藩主は、次男の従兄弟でした。

しかし津軽家は、1690年には高齢だった三男の山田彦兵衛(やまだ ひこべえ)に700石知行を与え城代に起用します。

次男切腹後も、三成長女の山田家子孫は津軽家から一門並みに厚遇されて幕末を迎えたそうです。

この次男と津軽家のお家騒動の件はこちらの記事に記しています。

津軽信義とその子孫

戦国時代の敗者の子供は、悲惨な結果が待っているイメージがあると思いますが、いかがでしょうか。

三成長女は名前すらわかりませんが、夫である山田隼人正勝重の足跡から三成長女を辿りました。

敗軍の将の息女の人生、意外にも家康の六男や大名・津軽家から厚遇され、子供にも恵まれて想像より幸せそうではないでしょうか。

また敗軍の将である石田三成の他にも、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継の子供も誰一人として殺されていませんので、当時の時代背景を考えると徳川家康の戦後処理は寛大であったということなのかもしれません。

 

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『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』という本は、毛利、上杉、宇喜多、島津など西軍武将にスポットをあてて書いています。
一次史料のみを用い分析した、関ヶ原の戦いで何故三成方についたのか、それぞれの事情がわかる良い本だと思います。

 

三成の息女でありながら藩主の生母となった辰姫の話はこちらです。

石田三成の子供~三女 辰姫~

 

石田三成の子供~まとめ、側室の子供~

参考・引用・出典一覧

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