石田三成の家臣団をあいおうえ順に記載しています。

殆ど知られていない家臣も記載しています。

有名な家臣には、家臣の名前を「太字で赤」もしくは「太字で青」にしてあります。

全部ご覧いただくと長くなりますので、お好みのところをご覧くださいませ。

また、逸話もありますので、どこまで史実か不明であることであることもご了承ください。

 

青木市左衛門

青木市左衛門(あおき いちざえもん)は、三成の預り地の代官を務めたとされます。

関ケ原の戦いでは、石田隊の鉄砲頭として出陣しています。

 

阿閉孫九郎

阿閉孫九郎(あつじ/あべまごくろう)は、石田家家臣に多い近江湖北出身と伝わります。

関ヶ原に着陣した宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の元に使いとして赴きます。

本戦でも奮戦して討死します。

 

磯野平三郎

磯野平三郎(いその へいざぶろう)は、別名で行信とも言い、近江の豪族の出身です。

父は、浅井長政の家臣で佐和山城主であった磯野員昌(いその かずまさ)で、後に織田信長に仕えたとされます。

関ヶ原敗戦後に、塩野清助、渡辺甚平とともに、三成の敗走に最後まで付き従った忠臣として知られます。

しかし、三成に説得されて涙ながらに分かれたとされます。

また、関ケ原の戦いで、八十島助左衛門(やそじま すけざえもん)の逃亡を見て詠(よ)んだ「関ヶ原 八十島とかけて逃げ出(い)でぬと 人には告げよ あまりの憎さに」との歌が残ります。

戦後は近江にて蟄居していたそうですが、藤堂高虎に招かれ、家臣になったそうです

 

乾次郎兵衛

乾次郎兵衛(いぬい じろべえ)は、関ヶ原合戦前に沢田小三郎と共に斥候(せっこう)(敵の状況や地形などを探ること)を務めました。

途中で徳川家康方の斥候である森勘解由(もり かげゆ)、沢井左衛門と遭遇したそうですが、互いに名乗り、双方陣へ引き返したとされます。

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入江権左衛門

入江権左衛門(いりえ ごんざえもん)は、関ケ原の戦いでは、三成の命で島津隊に参加したとされます。

敵中突破に同道し、大津まで案内したそうです。

 

宇多頼忠

宇多頼忠(うだ よりただ)は、三成の岳父(義父)です。

豊臣家の家臣でしたが、秀吉没後は三成の下に身を寄せていました。

関ケ原の戦いでは、佐和山城にて嫡男の宇多頼重と共に自害したとされます。

 

詳しくはこちらの記事に記載しています

👇

石田三成の正室・皎月院(こうげついん)と岳父・宇多頼忠

 

大橋掃部

大橋掃部(おおはし かもん)は、関ケ原の戦いで奮戦するものの、黒田隊の後藤又兵衛(ごとう またべえ)と槍を合わせ討死します。

 

大場土佐

大場土佐(おおばとさ)は、豊臣秀次の旧臣で若江八人衆(わかえはちにんしゅう)の一人に数えられています。

秀吉が亡くなった後に三成に仕えます。

 

若江八人衆で三成の家臣になった人は6人いますが、こちらの記事に詳しく記載しています。

👇

石田三成の家臣・豊臣秀次の若江八人衆

大山 伯耆

大山 伯耆(おおやま ほうき)、豊臣秀次の旧臣で若江八人衆の一人、豪傑として知られ、秀吉が催した相撲大会で石田家代表として選出されたと伝わります。

豊臣秀次

豊臣秀次

関ケ原の戦いでは、先備(さきぞなえ)として勇戦し討ち死にしたそうです。

 

※秀次の旧臣は、大場土佐のところに詳細リンクを貼っています。ご興味あればご覧くださいませ。

 

荻野鹿之介

荻野鹿之介(おぎの しかのすけ)は、関ケ原の戦いで先鋒を務め、一番槍をつける活躍をみせ東軍を押し返したと伝わります。

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小幡信世

小幡信世(おばた のぶよ)(小幡助六郎信世)は、上野(こうずけ)(群馬県)の小幡氏の出身で、1578年に生まれたとされます。

通称は助六、15歳で大坂に出て、石田三成に仕え、後に2千石を知行します。

 

小幡信世の逸話

「常山紀談」にある小幡信世の逸話を紹介させていただきます。

関ヶ原の戦い後、近江(おうみ)石山寺付近にて、村人につかまり徳川家康が陣を置く大津へ送られます。

信世は、家康より三成の行方を尋問されたが

よく存じているが、年来恩を受けたる身に、今日の難を逃れんがため、主の居場所を申すことは不義である。

たとえ骨を砕かれようとも、断じて申さぬ。試しに拷問にかけてみてはいかがか。

と主君をかばった忠義に家康は感心し

忠義の武士だな。この者はきっと、三成の行方を知らない。知らないからこそ、一人で落ちた末に捕縛されてしまった。これほどの武士を、みだりに拷問してはならないぞ。

将たるもの、忠臣・義士には情けをかけるべきだ。さあ、早く縄を解いてやれ。

と罪を問わず釈放したそうです。

しかし、信世は敗戦した今、恥を重ねることはできないと、付近の寺で自害したそうです。

 

大音新介

大音新介(おおと しんすけ)は、1594年の太閤検地で、三成から島津領の検地奉行を命じられています。

三成から大音新介に送られた文書が数多く残っています。

 

三成からの文書

1598年5月に三成から大音新介に送られた文書の現代語訳を紹介いたします。

申し入れます。(秀吉殿は)我らに筑後・筑前をくだされ、九州の物主(ものぬし)にしてくださるとの内意でした。

しかしそのようなことをしては、佐和山に置くべき人材もなく、このあたりには秀吉様の御用を申し付けるのにふさわしい人も少ないので、我らはこのまま(佐和山にとどまること)になります。

近江のその方の知行(ちぎょう)や蔵入(くらいり)(代官領)などが増えないことになれば、後悔もありますがよくよく申し付けます。

次に、筑後・筑前が秀吉様の御蔵入地になったのでその旨を百姓によく申し聞かせました。

また、金吾(きんご)殿(小早川秀秋殿)は、越前に移封ですので、我らにその御代官を命じられました。

そこで近々筑前へ下ることになりました。その点心得ておいて下さい。

また家内と石田正継殿(父)へもお伝え下さい。

この文章からは、当時、佐和山城19万4,000石の所領であった三成に、秀吉から筑前・筑後(ちくぜん・ちくご)(福岡県)の大大名(推定50~60万石かそれ以上)の打診があったようですが、それを断ったという内容です。

 

加増辞退の理由

辞退の理由は、当時の都である京都から遠い福岡では、秀吉の用を果たしずらい為と読み取れる文章です。

筑前・筑後は、秀吉の蔵入地になり、三成が代官を務めることになったようです。

このやり取りがあった1598年5月はどのような年かというと、朝鮮出兵の後半戦である慶長の役(けいちょうのえき)(1597年1月~1598年12月)の最中です。

途中休戦していますが、朝鮮出兵は、1597年1月から始まった長い戦です。

当然、恩賞として加増をして欲しい諸将が沢山います。

しかし、朝鮮から土地を得たわけではないので、配分する土地はなく、三成は恩賞捻出のため全国を奔走し検地をしていました。

1598年9月18日に秀吉が亡くなったことで、朝鮮出兵も終了しますが諸将に加増はできませんでした

そのような背景がありましたので、個人的な所感ですが、大幅加増に戸惑いがあったのかもしれないとも思います。

しかし、この加増を受けていれば、関ケ原の戦いで大軍を率いて戦えたのですが…。

 

大音新介から三成家族へ連絡

またこの時代は普通のことなのか、わかりませんがこの件は、大音新介から三成の妻と父に伝えて欲しいと書いてあります。

三成は、佐和山城を留守にすることが多かったそうです。

家族に会う時間はあまりなかったと思いますが、家臣から伝達という点が現代人の私には不思議な感じがしました。

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海北市郎右衛門

海北市郎右衛門(かいほう いちろうえもん)は、近江湖北出身であったとされます。

関ケ原の戦いの前戦の杭瀬川(くいせがわ)の戦いでは、三成の家老・島左近の元で、中村一栄(なかむら かずしげ)の侍大将である野一色頼母(のいっしき たのも) (別名、野一色助義<のいっしき すけよし>)を、鉄砲で討ち取るなど活躍したそうです。

※野一色頼母を討ち取ったのは、宇喜多秀家の家臣である浅賀三左衛門(浅香左馬助)との説もあります。

 

樫原彦右衛門

樫原彦右衛門(かしはら ひこえもん)は、三成の命にて、会津遠征に向かう大谷吉継を佐和山城に迎える使者となったそうです。

関ヶ原の戦いでは、瑞龍寺(ずいりゅうじ)の砦にて、家康方の大軍を寡兵をもって撃退し、ついに力尽き自害して果てたそうです。

 

蒲生郷舎

蒲生郷舎(がもう さといえ)は、蒲生家の家臣でしたが蒲生家お家騒動の際に浪人し、三成に仕えます。

関ケ原の戦い後、蒲生家に帰参し、三成の次女婿である岡重政(おか しげまさ)や三成の孫の岳父(義父)である町野幸和(まちの ゆきかず)と対立します。

 

蒲生家旧臣については、こちらの記事にまとめています。

👇

石田三成の家臣団・蒲生家旧臣

また、三成の次女、岡重政、町野幸和については三成次女の記事に記載しています。

👇

石田三成の子供~次女・岡重政の正室~

 

蒲生将鑑

蒲生将鑑(がもう しょうげん)は、蒲生家お家騒動後に三成に仕え、関ケ原の戦いで討死したとされます。

 

※蒲生家旧臣については、別で詳細記事があります。

ご興味ある方は、蒲生郷舎のところに貼ったリンクよりご覧くださいませ。

蒲生頼郷

蒲生頼郷(がもう よりさと)(横山喜内)(別名、蒲生備中)は、蒲生家お家騒動後に三成に仕え、石田家家臣として島左近、舞兵庫に並ぶ重臣です。

関ヶ原の戦いでは、織田有楽(おだ うらく)に斬りつけた後、息子の蒲生大膳(がもう だいぜん)と共に討死します。

 

蒲生頼郷の詳細記事はこちらです。

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石田三成の家臣・蒲生頼郷(横山喜内)

北川平左衛門

北川平左衛門(きたがわ へいざえもん)は、蒲生家に仕えた後に三成の家臣になり、戦後蒲生家に帰参し家老となります。

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国友藤二郎

三成は関ヶ原の戦いで、近江国友(三成の領内にある)の鉄砲を使用したと伝わります。

国友藤二郎(くにとも じろう)は、近江にあった国友の鉄砲生産について指示を受けたとされます。

 

雑賀内膳

雑賀内膳(さいが ないぜん)は、「石田軍記」、「惟新公開原御合戦記」に、島左近、舞兵庫と共に、一手の大将であったと記述されているそうです。

一説では、雑賀衆の鈴木重朝(しげとも)と言われているそうですが、真偽は不明です。

関ケ原の戦いでは、西軍に属して伏見城攻めでは、城将・鳥居元忠(とりい もとただ)の首をとるなど活躍しますが、関ケ原の戦い後は浪人になります。

後に徳川家康に仕え、水戸藩家老となったそうです。

軍記物に記載はありますが、三成の家臣団にいたのか、確証がなく疑問があります。

 

塩野清助

塩野清助(しおの せいすけ)は、関ケ原の戦いで敗走する際、三成に最後まで付き従ったとされます。

三成の命で離散したそうです。

 

島左近

Shima_Sakon

島左近

島左近は、筒井家に仕えた後に三成の家臣になります。

三成に過ぎたるもの」と謳われる程の三成の1番の重臣です。

関ケ原の戦いでは、嫡男の島 信勝(しま のぶかつ)とともに討死したと伝わりますが、生存説もあります。

 

島左近の詳細はこちらです。

👇

石田三成の家臣・島左近

 

杉江勘兵衛

杉江 勘兵衛(すぎえ かんべえ)は、始め稲葉良通(いなば よしみち)(稲葉 一鉄)に仕え、姉川の合戦などで戦功を上げたと伝わります。

後に石田三成に仕え重臣になり、島左近舞兵庫(前野忠康)と並ぶ勇猛さを称えられます。

田中吉政の家臣である辻 重勝(つじ しげかつ)(勘兵衛)、藤堂高虎の家臣・渡辺了(勘兵衛)と並んで「三勘兵衛」と言われます。

関ケ原の戦いのでは、舞兵庫、森九兵衛(もり くへい)と共に、兵を率いて合渡(ごうと)川で家康方である黒田隊や田中隊と対峙します(合渡川の戦い)。

奮戦の後、多勢に無勢で杉江勘兵衛が殿(しんがり)となり退却を始めます。

杉江勘兵衛は、田中吉政の家臣と競り合い、ついに討ち死にします。

田中吉政の家臣・辻重勝に討たれたとも、西村某に討たれたとも伝わります。

 

高野 越中

高野 越中(たかの えっちゅう)は豊臣秀次の旧臣で若江八人衆の一人です。

秀次没後、三成に出仕します。

関ヶ原の戦いでは、大山伯耆(おおやま ほうき)とともに、伏見城攻めを行っています。

 

※秀次の旧臣は、大場土佐のところに詳細リンクを貼っています。ご興味あればご覧くださいませ。

 

 

服部新左衛門

服部新左衛門(はっとり しんざえもん)は、家康の旗本・服部仲の従弟(いとこ)で、関ケ原の戦いで討たれ、1番首とされています。

 

 

林半介

林半介(はやし はんすけ)は、三成が農民から使番(つかいばん)に抜擢し、7百石の侍にまで出世した家臣です。

関ケ原の戦いでは、末席から功名を誓い、杭瀬川(くいせがわ)の戦いで勇戦したそうです。

「常山記談」に記載された逸話によりますと、林半介の堂々たる振る舞いを見た家康が

あの「白じなへの差物」を差した林半介とは、あっぱれ不適な武者よ、武功を志すものはかの者の草ずりでもいただくがよい

と褒めたたえたエピソードがあるそうです。

 

平塚 久賀

平塚 久賀(ひらつか ひさよし/きゅうが)は、猛将と名高い平塚為広(ためひろ)の弟に当たります。

久賀は、大剛(だいごう)の者(非常に強い人)と名高く、徳川家康からの士官の誘いを受けますが、それを断り三成に仕えたといいます。

関ケ原の戦いで石田隊が壊滅し、徳川家康に生け捕りになった際に 、惨めな姿を徳川方に嘲笑われますが、堂々と言い返したとう逸話が残ります。

平塚 久賀は生き延びたようですが、詳細は伝わっていません。

 

藤林三左衛門

 

藤林三左衛門(ふじばやし さんざえもん)は、1594年の太閤検地で、三成より佐竹領の常陸国(ひたちのくに)(茨木県)と下野国(しもつけのくに)(栃木県)の検地を任されたとされます。

側量の基準や耕作管理者を定めるなど、優れた手腕を発揮したそうです。

 

舞兵庫(前野忠康)

舞兵庫は、三成の家臣ナンバーツーとも言われています。

豊臣秀次の若江八人衆(わかえはちにんしゅう)の一人で、前野長康(まえの ながやす)の娘婿です。

合渡川(ごうと)の戦い、関ヶ原の戦いで奮戦し、戦死したとの説が有力です。

 

舞兵庫の詳細記事はこちらです。

👇

石田三成の家臣・舞兵庫(前野忠康)

 

牧野 成里

牧野 成里(まきの しげさと)は、朝鮮出兵での功績により、若江八人衆の一人になります。

戦後は生き残って、後に徳川家旗本となり、

 

※秀次の旧臣(若江八人衆)は、大場土佐のところに詳細リンクを貼っています。ご興味あればご覧くださいませ。

 

森九兵衛

森九兵衛(もりきゅうべい)も若江八人衆の一人と称されています。

関合渡(ごうと)川の戦い、関ヶ原の戦いにて奮戦の末に討死したと伝わる一方、生存説もあります。

 

※若江八人衆については、大場土佐のところに詳細リンクを貼っています。ご興味あればご覧くださいませ。

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八十島助左衛門

八十島助左衛門(やそじま すけざえもん)は、諸大名の外交を担当していました。

朝鮮出兵の際に、秀吉と島津家の取次もしていたようです。

関ヶ原の戦いの際、なかなか動かなかった島津軍の陣へ赴き、すぐに出撃して欲しい旨を伝える使者の役目を任されます。

しかし、島津隊に対し、馬上から出撃要請をしたため、島津豊久を怒らせてしまい無礼を罵(ののし)られます

島津の怒りに恐れをなして、石田隊に逃げ帰ったとも、そのまま逃亡したとも伝わります

先に紹介した磯野平三郎(いその へいざぶろう)が憎さのあまりにと詠んだ歌は、この八十島助左衛門のことと伝わります。

関ヶ原の戦いの後は、藤堂高虎に仕えたそうです。

磯野平三郎も戦後、藤堂高虎に仕えたとされるので、また同僚になったということですが、上手くいったのでしょうか…。

 

山田嘉十郎

山田嘉十郎(やまだ じゅうろう)は、石田家の国家老で、三成の領地を良く治め、行政に手腕を発揮します。

関ケ原の戦いでは、佐和山城の留守番を担当し、太鼓曲輪(たいこぐるわ)を守っていました。

しかし、関ヶ原の敗報を聞くと、家康方が佐和山城に到着する前に、船で逃亡し、その後については不明です。

 

国家老なのに無名なのは逃げてしまったからでしょうか…。

戦国時代は武勇伝が多いですが、実際はこのようなケースもあったでしょうね。

 

山田上野介

山田上野介(やまだ こうずけのすけ)の嫡男と三成の長女は婚姻関係にあります。

関ケ原の戦いでは、三成の一族衆と共に佐和山城を守備します。

奮戦しますが、ついに自害して果てます。

 

詳しくは、三成の長女の記事に記載しています。

👇

石田三成の子供~長女~

 

四岡帯刀

四岡帯刀(よつおか たてわき)は、1597年に三成が伊香郡(いかぐん)落河村の百姓に出した田麦徴収の法令に名前が見えます。

関ケ原の戦いでは、佐和山城の留守番衆をしていました。

 

渡辺 勘兵衛

渡辺勘兵衛(わたなべかんべい)、別名で新之丞(しんのじょう)は、関ヶ原の戦いで討死したとされます。

ですが、佐和山落城記によると、敗戦後に三成に従った家臣の一人として名前があり、途中まで落ち延びたそうです。

佐和山落城記とは、三成家臣の山田上野介(嫡男が三成長女の婿)の孫が書いた記録です。

どちらが真実かは不明です。

 

渡辺勘兵衛の逸話

渡辺勘兵衛について有名な逸話がありますので、紹介させていただきます。

渡辺勘兵衛は、評判の高い武将であったとされますが、秀吉など名だたる大名からの士官の誘いなどを全て断っていたそうです。

しかし、当時、秀吉の近習で500石であった三成に、渡辺勘兵衛が仕え周囲を驚かせます。

疑問に思った秀吉が三成に理由を聞いたところ

「自分の500石の知行全てを与えた。勘兵衛に自分が100万石取りになった際に10万石を与える約束をして雇った」

と話し、秀吉が三成自身はどうするのかと聞くと、

「勘兵衛の家に居候になります」

と話したそうです。

その後、三成が佐和山城主になると、勘兵衛の禄も増やそうとしたそうですが、勘兵衛は

「殿が100万石の大名になるまで知行500石のままでいます」と固辞し、500石のままで居続けたという。

 

どこかで聞いたような話だなと思いましたが…、島左近が三成に仕える時の逸話に似た話ですね。

この逸話は、昭和十三年発行の書物である「国史美談 教訓画蒐」に記載があるそうです。

元になる史実があるのかもしれませんが、ここが初めての出典元であれば創作の話ということだと思います。

 

参考・引用・出典一覧

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