石田三成の家臣は、豊臣秀次の家臣団の通称である若江八人衆(わかえはちにんしゅう)出身者が多く居ます。

今回は、石田三成の家臣の中で、若江八人衆であった者についての記事です。

 

若江八人衆

若江八人衆とは、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(ひでつぐ)の家臣団の通称であり、秀次の養父であった三好康長(みよし やすなが)に仕えていた家臣が多いと伝わります。

後に、豊臣秀吉が戦巧者などを人選して豊臣秀次の配下につけたとされます。

豊臣秀次

豊臣秀次

 

舞兵庫(前野忠康)

舞兵庫(まいひょうご)は、後に石田三成の家臣として、島左近に次ぐナンバーツーの実力者とも言わるくらいの逸材です。

舞兵庫について、詳しく知りたい方は、分かる範囲で詳細をまとめた記事をご覧ください。

👇

石田三成の家臣・舞兵庫(前野忠康)

簡単に知りたい方は、このまま読んでくださいませ。

 

当ブログでは舞兵庫と記していますが、舞兵庫は通称で、本名は前野忠康(まえの ただやす)です。

舞兵庫は、秀吉古参の家臣である前野長康(まえの ながやす)の娘婿となります。

豊臣秀次に仕え、黄母衣(きほろ)十三人の一人、若江八人衆の一人になり戦功を重ねます。

秀吉の跡継ぎとされた秀次ですが、秀吉に嫡男・秀頼(ひでより)が生まれると、秀次の立場は微妙になります。

後に主君・秀次は、秀吉に自害を命じられ、秀次の家老を務めた岳父・前野長康も連座し切腹処分になってしまいます。

 

三成の家臣になる

舞兵庫は石田三成に匿われ、後に秀吉の許しを得て、前野忠康から舞兵庫に改名し三成に仕えます。

関ヶ原の戦いでは、石田隊先陣として奮戦し、嫡男と共に討死したとされますが、その死は謎のままです。

舞兵庫の生き残った一族の多くは、藤堂高虎(とうどう たかとら)によって庇護されたと伝わります。

スポンサーリンク






大山伯耆

大山 伯耆(おおやま ほうき)、生年と実名不明、黄母衣(きぼろ)十三人若江八人衆の一人、官途(かんと)(地位)は伯耆守です。

豊臣秀次(秀吉の甥)に仕え馬廻(うままわり)右備を務めたそうです。

秀次事件により秀次が亡くなり、石田三成に仕えたとされます。

 

豊臣秀長に仕えたとする説

しかし、ウィキペディアでは豊臣秀長(秀吉の弟)に仕え、秀長の死後三成に仕えたとなっており、秀次の名前はありません。

ですが、若江八人衆というのは、秀次の家臣のことですので何故、「秀次の家臣」である記載がないのか不明です。

若江八人衆でも秀次に仕えず秀長に仕えた者がいたということでしょうか?

私の所持する本には、「秀次が亡くなり石田三成に仕えた」となっています…。

近年、秀長に変更になったのでしょうか?

もしかしたら、1591年に秀長が亡くなり、秀次に仕え、秀次が1595年に亡くなり、三成に仕えたのかもしれません…。

後日何かわかればブログを更新します。

 

大山伯耆の関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いの前戦では、伏見城(ふしみじょう)に高野越中(たかの えっちゅう)とともに石田三成の陣代理を務めます。

関ヶ原の戦い本戦では、石田隊の先備えとして奮戦し壮絶な討死をしたとされる一方、生存説もあります。

 

大山 伯耆の逸話

大山 伯耆は、豪傑(ごうけつ)と伝わります。

そのことを示すような大山伯耆の逸話が残っていますので紹介させていただきます。

秀吉が九州島津攻めの際に、勝山城(かつやまじょう)で諸大名から力士を選抜させ、相撲を取らせたそうです。

その際に、石田家からは大山 伯耆が選ばれ、可児才蔵(かにさいぞう)や塙団右衛門(ばんだんえもん)らと技を競ったとされています。

ですが、島津攻めは1586年~1587年に起きた出来事であり、豊家秀長、秀次とも存命です。

豊臣家の家臣として相撲をしたのか、そもそも、なかった話かもしれませんね。

 

 

大場土佐

大場 土佐(おおば とさ)は、生年不明、通称は三左衛門、姓は大庭ともいわれるそうです。

黄母衣(きぼろ)十三人若江八人衆の一人、官途は土佐守です。

豊臣秀次に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦い、1584年小牧、長久手の戦いに参戦します。

 

三成の家臣になる

秀次自害後は、三成に招聘(しょうへい)され、三成の家臣になります。

石田三成の肖像画

石田三成

関ヶ原では、石田隊右翼を守備し、「関原軍記大成」によると討死したとされていますが、生き残って蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)に仕えたとも伝わります。

※大場 土佐もウィキペディアでは、秀次の名前は無く、秀長に仕えた後三成の家臣になった旨の記載があります。

重ねて申し上げますが、若江八人衆とは、秀次の家臣のことですので、何故かわかりません。

私の所持する本には秀次の家臣となっています。

 

高野越中(平岡刑部)

高野 越中(たかの えっちゅう)は、生年不明で、左馬助とも称され、若江八人衆の一人でありました。

三好康長に仕えていましたが、後の豊臣秀次が三好康長の養子となり、三好信吉(後の秀次)となります。

高野越中は、三好信吉(後の秀次)に仕え、馬廻(うままわり)組頭になり、若江八人衆と称されるようになります。

 

三成の家臣になる

秀次没後は、三成の家臣となります。

関ヶ原の戦い前戦の伏見城攻めでは、大山伯耆(おおやま ほうき)とともに石田三成の代理として出陣し、攻撃しています。

関ヶ原の戦いにも従軍し、石田隊本陣を守備し、生き残ります。

戦後は、浅野幸長(あさの よしなが)に仕え、平尾刑部と改名し、後に出家して道斎と号したと伝わります。

スポンサーリンク






牧野成里

牧野 成里(まきの しげさと)は、三河牧野氏の系統で牧野成継の子として1556年に生まれます。

通称は伝蔵で、官途は伊予守です。

滝川一益(たきがわ いちます / かずます)や織田信雄(のぶかつ)に仕えますが、秀吉との権力闘争に敗れたことなどで没落してしまいます。

後に、長谷川秀一(ひでかず)に仕えますが、1592年に秀一が朝鮮出兵中に陣没してしまい、秀吉の命令で、秀一の代役として指揮を務めます。

その朝鮮出兵での功績により、帰国後は豊臣秀次の家臣になり、若江八人衆の一人になります。

 

三成の家臣になる

秀次が自害した後は、石田三成に仕えます。

関ヶ原の戦いでは、石田本陣後方を守備します。

石田三成勢が壊滅すると、池田輝政(いけだ てるまさ)のもとに逃げ延びたとされます。

池田輝政も織田家、豊臣家に仕えていましたので旧知の仲であったのかもしれません。

戦後は生き残って、後に徳川家旗本となり、家康、秀忠に仕えたと伝わります。

下野国(しもつけのくに)(栃木県)簗田(やなだ)に3000石を拝領し、1614年に59歳で没したとそうです。

 

森九兵衛

森九兵衛(もりきゅうべい)、生年、通称など不明です。

三好氏、豊臣秀次、蒲生氏に仕えた後に、石田三成に仕えたとされます。

豊臣秀次に仕えていた頃は、若江八人衆の一人と称されています。

関ヶ原の戦いの前戦である、合渡(ごうと)川の戦いでは、舞兵庫杉江勘兵衛(すぎえ かんべえ)(三成の重臣)らとともに黒田長政等と戦いますが、敗れて退却します。

(※合渡川の戦いに関しては、舞兵庫の単独の記事に記載しています。)

関ヶ原の戦いでは、石田家の先備として、柵の前に陣取り奮戦の末に討死したと伝わる一方、亡骸が見つかっていないので、生存説もあります。

 

石田三成以外に仕えた若江八人衆

石田三成以外に仕えた若江八人衆は2人います。

簡単に紹介させていただきます。

 

藤堂良政

藤堂良政(とうどう よしまさ)

1559年、藤堂嘉房の子として生まれ、藤堂高虎の従兄弟にあたる人物とされます。

織田信長や豊臣秀吉に仕えた後に、秀次に仕え三河国西部に2300石を拝領し、若江八人衆の一人となります。

秀次没後は、秀吉の命令で藤堂高虎の元に預けられ、その後、罪を許されて高虎の家臣となります。

関ヶ原の戦いでは藤堂隊の一員として、石田隊と戦います

島左近の長男・信勝(のぶかつ)か四男・清正に討ち取られ、42歳で亡くなったそうです。

石田隊には、元若江八人衆が6人いますので、元同僚と戦い合っていたことになります。

どのような思いだったのでしょうか?

今更ながら戦国時代は凄い世の中ですね。

 

島左近についての記事はこちらです。

👇

石田三成の家臣・島左近

安井 喜内

安井 喜内(やすい きない)は、生年、実名不明で若江八人衆の一人です。

三好康長、豊臣秀次と仕え秀次が亡くなると、前田玄以(まえだ げんい)に仕え、玄以亡き後は、浅野幸長・長晟(ながあきら)に仕えたそうです。

大坂夏の陣では浅野方として参戦し、武功を挙げますが、後に消息不明となります。

参考・引用・出典一覧

スポンサーリンク






戦国時代ランキング