石田三成の家臣である舞兵庫(まいひょうご)、またの名を前野兵庫助(ひょうごのすけ)といいますが、いずれも通称であるといわれています。

最初は本性である前野忠康(まえの ただやす)と名乗っていました。

舞兵庫が通称になった所以も含めて、舞兵庫について記していきます。

 

 

豊臣家の家臣であった舞兵庫

舞兵庫は生誕:1560年、死没:1600年10月21日?と伝わります。

以前は、前野忠康(まえの ただやす )と名乗っており、秀吉創業の家臣である前野長康(まえの ながやす)の娘婿となります。

初めは秀吉の弟である豊臣秀長(とよとみ ひでなが)に仕えたとする説があります。

 

舞兵庫、豊臣秀次の重臣となる

後に秀吉の甥である豊臣秀次(ひでつぐ)に仕え、黄母衣(きほろ)十三人の一人で、「若江八人衆(わかえはちにんしゅう)」と呼ばれる重臣の一人になり、各地で武功を重ねます。

豊臣秀次

豊臣秀次

後の秀次は、実子のいなかった秀吉の後継者候補として、関白(当時の公家の最高位)に就任していました。

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秀次事件

しかし、1593年に秀吉に嫡男・秀頼(ひでより)が生まれると事態は変わり、秀次の立場は微妙になってしまいます。

1594年11月に、前野忠康(舞兵庫)の岳父である前野長康は三成の石田屋敷を訪ねたそうです。

前野長康は、豊臣秀次の家老職に就いており、主君・秀次は深刻な事態になっていました。

なので、秀次の件で対応を協議する為、三成のところへ相談に訪れていたそうです。

三成らは秀次の弁護をしたとの説もありますが、秀次の命を助けることが難しくなってしまいます。

秀次だけでなく、秀次の家老職である前野長康、木村 重茲(きむら しげこれ)も連座し命の危機が訪れます。

三成は、助けるために奔走したそうです。

 

岳父・前野長康が殉死

しかし、1595年8月20日に秀次が切腹させられた後、前野も木村も主君・秀次に殉死する形で切腹を命じられてしまいます。

秀次切腹の理由は、諸説あり現在も不明ですが、秀吉の怒りに触れてしまったようです。

秀次の縁者が次々に処刑されてしまい、前野忠康(舞兵庫)の身を案じた三成は、前野忠康(舞兵庫)を匿います。

 

石田家家臣としての舞兵庫

後に秀吉から許しをもらい、前野性を憚り舞兵庫と名を変え、石田三成に5千石にて仕えます。

石田三成の肖像画

石田三成

舞兵庫は、高禄で召し抱えられたことに恩義を感じていると述べており、石田家中では、島左近、杉江勘兵衛(すぎえ かんべえ)と並ぶ重臣になります。

 

秀次の遺臣

舞兵庫の他にも秀次の遺臣は石田三成に仕えたものが多いです。

秀次の重臣であった若江八人衆の内、6人は石田三成の家臣となり、その恩に報いて関ヶ原の戦いで奮戦しています。

大山伯耆(おおやま ほうき)、森九兵衛(もり くへえ)、大場土佐(おおば とさ)、高野越中(たかの えっちゅう)、牧野成里(まきの しげさと)です。

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舞兵庫の関ケ原の戦い

舞兵庫は、関ヶ原の戦いが起きた際に、一族である尾張の小坂一族を三成方に見方にさせるべく活動していたことが、小坂一族の子孫

によって書かれた「武功夜話(ぶこうやわ)」に書かれています。

小坂家も秀次事件後に領地を没収されていたため、福島正則から知行を与えられており、福島正則の去就を見極めたいと返答されていたようです。

その後、福島正則は東軍につきますので、小坂一族の調略は上手くいかず、一部だけですが舞兵庫と共に戦ってくれた一族もいるそうです。

 

美濃福束(みのふくづか)城の救援

1600年8月、舞兵庫は丸毛兼利(まるもかねとし)が籠城(ろうじょう)していた美濃福束(みのふくづか)城(岐阜県安八群輪之内町<ぎふけんあんぱちぐんわのうちちょう>)の救援に赴きます。

しかし、徳川方である東軍の攻撃により8月16日に陥落してしまいます。

 

合渡(ごうと)川の戦い

その後、舞兵庫たち1千の兵が合渡(ごうと)川に出陣し、東軍の黒田長政、田中吉政、藤堂高虎(とうどう たかとら)たち多数の兵に攻められます。

舞兵庫たちは少数の兵ながらも、獅子奮迅(ししふんじん)の活躍を見せた伝わりますが、苦戦に陥り、杉江勘兵衛が殿軍となって退却します。

杉江勘兵衛は、姉川の戦いの際の活躍により武名を挙げた剛の者です。

その後、石田三成に仕え重臣となりましたが、田中勢の西村五左衛門に討ち取られてしまいます。

合渡川の敗戦は8月23日、300人余りが討死したと伝わります。

 

一方の舞兵庫ですが、この合渡川の戦いの時に美濃梅野で戦死したという説があります。

しかし、三成家臣の前野吉康が舞兵庫が戦死したとの嘘の情報を流したためで、実際は大垣城に退却していました。

 

舞兵庫討ち死にか

その後の関ヶ原の戦いで、舞兵庫は石田隊の先鋒(せんぽう)として活躍しましたが、討ち死にしたと伝わります。

しかし、死体は見つかっておらず、その死は現在も謎のままですが、嫡男の三七郎(14歳)と共に戦死した説が有力となっています。

 

舞兵庫の子は藤堂高虎によって遇される

舞兵庫の子である左馬助(さまのすけ)は、関ケ原の戦い後、助左衛門と名乗ります。

藤堂高虎の斡旋で、高虎の親戚にあたる丸亀藩(まるがめはん)(香川県)の生駒(いこま)家に仕え、後に家老になります。

しかし、お家騒動である生駒騒動の当事者となり、生駒家は改易となり、左馬助の家も断絶してしまいます。

同じく兵庫の子の小助は戦後、高虎の娘を娶って、阿波(徳島県)の蜂須賀(はちすか)家の家臣になっています。

※左馬助は兵庫の子でなく、娘婿だったという説もあります。

石田三成の家臣・島左近 

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参考・引用・出典一覧

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