石田三成の家臣であった舞兵庫(まいひょうご)ですが、三成の家臣として島左近に次いで知られているのではないでしょうか。

舞兵庫は、またの名を前野兵庫助(ひょうごのすけ)ともいいますが、いずれも通称であり、舞兵庫の名で知っている方が多いのではないでしょうか。

最初は本性である前野忠康(まえの ただやす)と名乗ってたそうですが、訳あって舞兵庫と名乗るようになります。

舞兵庫が通称になった所以も含めて、舞兵庫の生涯について記していきます。

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舞兵庫、豊臣家の家臣になる

舞兵庫の生年は1560年、亡くなった年は1600年10月21日?ではないかと云われています。

亡くなった年は、関ヶ原戦いの時になりますが、確かではありません。

石田三成の家臣になる前は、豊臣家の家臣でした。

始めは前野忠康(まえの ただやす )と名乗っていたのですが、秀吉創業の家臣である前野長康(まえの ながやす)の娘婿となります。

義父・前野長康は、秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣とされる人物です。

舞兵庫の詳細は謎が多いのですが、初めは秀吉の弟である豊臣秀長(とよとみ ひでなが)に仕えたとする説もあります。

舞兵庫、豊臣秀次の重臣となる

後に舞兵庫(前野忠康)は、「若江八人衆(わかえはちにんしゅう)」として名を馳(は)せることになります。

若江八人衆とは、秀吉の甥である豊臣秀次(ひでつぐ)の家臣団のことです。

舞兵庫は秀次の重臣の一人となり、各地で武功を重ねたと伝わります。

また舞兵庫は、秀吉が選抜した名誉ある立場である黄母衣(きほろ)十三人の一人でもあったようです。

 

豊臣秀次

豊臣秀次

秀次が関白という当時の公家の最高位に就任していたことは、有名ではないでしょうか。

実子のいなかった秀吉は、後継者候補として、秀次を擁立していました。

 

※Wikipediaでは秀吉の弟・豊臣秀長(秀吉の弟)に仕え、その後三成の家臣になった旨書いてあります。

ですが若江八人衆というのは、秀次の家臣のことです。

沢山の書籍で確認した結果、秀次に仕えた後三成に仕えたであっていると思いますので、当ブログではそのように記載しています。

 

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舞兵庫と秀次事件

秀吉と秀次の仲は良好であったと云われていますが、1593年に秀吉に嫡男・秀頼(ひでより)が生まれます。

秀吉は跡取りに恵まれずに養子を迎えていたわけですから、秀頼の誕生で秀次の立場は微妙になってしまったのではないかと推察できます。

ただ、当初は少なくても表面上は良好であったそうで、秀吉は秀頼と秀次の娘を婚約させて、秀次の跡継ぎを秀頼にしようとしたり、秀次と秀頼で領地を分けるなど検討していたと云われています。

しかし、やがて秀次に謀反の疑いがでて秀次が窮地に立たされることになります。

この秀次の家老職は、舞兵庫(前野忠康)の義父である前野長康ですので、舞兵庫にとっても一大事な出来事だったのではないでしょうか。

この頃の舞兵庫側の記録が少し残っていますので、紹介させていただきます。

1594年11月に、舞兵庫(前野忠康)の岳父である前野長康は三成の石田屋敷を訪ねたそうです。

前野長康は、豊臣秀次の家老職に就いており、その頃は既に主君・秀次は深刻な事態になっていたそうです。

なので、秀次の件で対応を協議する為、三成のところへ相談に訪れていたと伝わります。

三成らは秀次の弁護をしたとの説もありますが、秀次の命を助けることが難しくなってしまいます。

秀次だけでなく、秀次の家老職である前野長康、木村重茲(きむら しげこれ)も連座し命の危機が訪れ、三成は助けるために奔走したそうです。

岳父・前野長康が殉死

しかし、1595年8月20日に秀次が切腹させられた後、前野長康も木村重茲も主君・秀次に殉死する形で切腹を命じられてしまいます。

秀吉の怒りに触れてしまったようですが、秀次切腹の理由は諸説あり現在も不明です。

最古参の家臣でさえ滅ぼしてしまう秀吉、このことは関ヶ原の戦いの時の諸大名の去就にも響いたのではないかと個人的には思っています。

少なくても秀次が生きていたら、関ヶ原戦いの時、元服した豊臣家の男子がいたら違った歴史になっていた可能性もあるように思います。

話がそれましたが…、秀次の縁者が次々に滅ぼされてしまい、舞兵庫の身を案じた三成は、舞兵庫を匿ったと云われています。

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石田家家臣としての舞兵庫

匿われていた舞兵庫ですが、後に秀吉から許しをもらい、前野性を憚り舞兵庫と名を変え、石田三成に5千石にて仕えます。

石田三成の肖像画

石田三成

舞兵庫は、高禄で召し抱えられたことに恩義を感じていると述べていたそうですが、石田家中では、島左近、杉江勘兵衛(すぎえ かんべえ)と並ぶ重臣になります。

舞兵庫の他にも秀次の遺臣は石田三成に仕えたものが多く、秀次の重臣であった若江八人衆の内、六人は石田三成の家臣となっています。

舞兵庫の他、若江八人衆であった大山伯耆(おおやま ほうき)、森九兵衛(もり くへえ)、大場土佐(おおば とさ)、高野越中(たかの えっちゅう)、牧野成里(まきの しげさと)も、その恩に報いて関ヶ原の戦いで奮戦しています。

関ケ原の戦いの頃の舞兵庫について、文献に記されていることがあります。

舞兵庫は、尾張の小坂という一族の出身と云われており、その小坂一族の子孫が書いた『武功夜話』(ぶこうやわ)という史料があります。

『武功夜話』によると、三成と家康の対立が避けられなくなり、舞兵庫は一族である尾張の小坂一族を三成方に見方にさせるべく活動していたことが記されているようです。

ですが、小坂家も秀次事件後によって、領地を没収されていたため苦しい立場であったようです。

領地のなくなった一族は当時、福島正則から知行を与えられており、福島正則の去就を見極めたいと返答されていたようです。

その後、福島正則は家康側につきますので、小坂一族の調略は上手くいかなかったそうです。

ですが、一部だけですが舞兵庫と共に戦ってくれた一族もいたそうです。

かおりんかおりん

『武功夜話』は史実と合わない箇所があるため、偽書だと考える人もいます。
個人的には、現代人も間違えて書くことがあるのと同じだと思っていて、偽書だと思っていません。
また、何かを憚って書けなかったなどもあるかもしれないと思っています。

 


美濃福束城の救援

舞兵庫は関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる戦いに参加しています。

それは、美濃福束(みのふくづか)城の救援や合渡(ごうと)川の戦いです。

1600年8月、舞兵庫は丸毛兼利(まるもかねとし)が籠城(ろうじょう)していた美濃福束(みのふくづか)城(岐阜県安八群輪之内町<ぎふけんあんぱちぐんわのうちちょう>)の救援に赴きます。

しかし、徳川方である東軍の攻撃により8月16日に陥落してしまいます。

合渡川の戦い
その後、舞兵庫たち1千の兵が合渡(ごうと)川に出陣し、家康側の黒田長政、田中吉政、藤堂高虎(とうどう たかとら)たち多数の兵に攻められます。

舞兵庫たちは少数の兵ながらも、獅子奮迅(ししふんじん)の活躍を見せた伝わりますが、苦戦に陥り、杉江勘兵衛(すぎえ かんべえ)が殿軍となって退却します。

杉江勘兵衛は、姉川の戦いの際の活躍により武名を挙げた剛の者ですが、後に石田三成に仕え重臣になったと云われています。

勇猛と名高い杉江勘兵衛ですが、奮戦むなしく田中勢の西村五左衛門に討ち取られてしまいます。

合渡川の敗戦は8月23日、300人余りが亡くなったと伝わります。

舞兵庫は合渡川の戦い後、生き残り関ヶ原戦い本戦にも参加するのですが、この合渡川の戦いの時に美濃梅野で戦死したという情報が流れていたそうです。

それは、嘘の情報を流し敵をかく乱するためとされ、情報を流したのは三成家臣の前野吉康であったと云われています。

実際は舞兵庫は大垣城に無事に退却していました。

その後、関ヶ原の戦い本戦での舞兵庫の様子ですが、詳細は不明です。

舞兵庫は石田隊の先鋒(せんぽう)として活躍しましたが、討ち死にしたと伝わります。

しかし、亡骸は見つかっておらず、その死は現在も謎のままですが、嫡男の三七郎(14歳)と共に戦死したとする説が有力となっています。

 

舞兵庫の子は藤堂高虎によって遇される

舞兵庫の子孫はどうなったのでしょうか。

舞兵庫の子である左馬助(さまのすけ)は、関ケ原の戦い後、助左衛門と名乗ったと云われています。

助左衛門は藤堂高虎(とうどう たかとら)の斡旋で、高虎の親戚にあたる丸亀藩(まるがめはん)(香川県)の生駒(いこま)家に仕え、後に家老になります。

藤堂高虎の肖像画

藤堂高虎

しかし、お家騒動である生駒騒動の当事者となり、生駒家は改易となり、左馬助の家も断絶してしまいます。

同じく兵庫の子の小助は戦後、高虎の娘を娶って、阿波(徳島県)の蜂須賀(はちすか)家の家臣になっています。

※左馬助は兵庫の子でなく、娘婿だったという説もあります。

何故か、藤堂高虎によって助けられていますね。

藤堂高虎は、他の石田三成の旧臣にも良くしてくれていて、興味深く思っています。

かおりんかおりん

『新解釈 関ヶ原戦いの真実 脚色された天下分け目の戦い』という本は、
一次史料を基に考察していて面白いです。
通説とは違った説もあり興味深いです。

石田三成の家臣の一覧です。

有名な家臣から比較的知られていない家臣も載せています。

 

石田三成の家臣団・一覧