蒲生頼郷(横山喜内)(蒲生備中)の生涯と関ケ原の戦いの逸話

2020 1/25

石田三成の家臣には、蒲生性の武将が多くいます。

その中でも、蒲生頼郷(がもう よりさと)は、島左近と並び称された名将であると云います。

蒲生頼郷は横山喜内(きない)、蒲生備中(びっちゅう)という名でも知られています。

横山喜内から蒲生頼郷と名乗りを替えた所以を含めて、蒲生頼郷の生涯と関ケ原の戦いの逸話について記しています。

目次

蒲生家家臣としての蒲生頼郷

蒲生頼郷の生年は不明ですが、出身は近江国蒲生郡日野(がもうぐんひの)であると伝わります。

蒲生頼郷の諱(いみな)は、蒲生真令(さねのり)、通称は横山喜内(きない)、また蒲生備中(びっちゅう)ともいわれています。

蒲生頼郷は初めは六角氏に仕えたそうですが、六角氏は滅亡してしまい蒲生氏に仕えたと云います。

そして1582年に、名将・蒲生氏郷(うじさと)が、蒲生家の家督を相続します。

蒲生氏郷

蒲生氏郷

蒲生氏郷は、織田信長、豊臣秀吉に重宝され、「天下に二人といない人物」と称された名将です。

1587年に主君・蒲生氏郷は、豊臣秀吉方として九州の島津征伐に参戦し、蒲生頼郷(横山喜内)は、島津征伐おける岩石(がんじゃく)城攻めに従軍します。

しかし頼郷(喜内)は、諸将の論功行賞を見定める軍鑑の役目にあったにもかかわらず、自ら先駆けして城攻めを行ってしまいます。

喜内の活躍により岩石城攻略を成功させたものの、軍鑑の役目を外れた行為として蒲生氏郷に叱責されたと伝わります。

しかし頼郷(喜内)自身の力説により、蒲生氏郷は頼郷の処罰をせず、その後も頼郷は蒲生家で重宝されたと云います。

横山喜内から蒲生頼郷と名乗る

頼郷(喜内は)、蒲生氏郷から「蒲生」の姓と「郷」の一字を与えられ蒲生頼郷(よりさと)と名乗ります。

また頼郷の主君・蒲生氏郷(うじさと)は豊臣秀吉からの信任の厚い人物であったと云います。

秀吉は伊達政宗など東北大名の大名を警戒していたのですが、1590年に信頼している蒲生氏郷を会津に転封させその抑えとします。

当時の会津は東北の要として重要な土地とされていました。

そして後に蒲生氏郷は、91万石の大大名となります。

一方の頼郷は、伊達政宗の抑えの前線を任され、1万3千石を知行し、会津塩川の城主や、後に梁川(やながわ)城代を務めた伝わります。

同年の1590年に起きた葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)際に、蒲生家と伊達家は一触即発の危機を迎えますが、頼郷は政宗に付け入る隙を与えず事なきを得ます。

栄華を誇った蒲生家ですが、蒲生氏郷が重病になり秀吉からも名医・曲直瀬 玄朔(まなせ げんさく)が派遣されるなどしましたが、1595年に帰らぬ人になります。

その後の蒲生家は、氏郷の後を継いだ蒲生秀行(ひでゆき)が幼かったこともあり、蒲生家中が乱れてしまいます。

そのめ、蒲生家は要の地である会津の大大名から宇都宮に減封されます。

秀吉としても名将・蒲生氏郷がいない蒲生家に不安があったのかもしれません。

蒲生家の領地は上杉景勝に任せることになります。

なので蒲生家では、今まで通り家臣を召し抱えられなくなり、頼郷も浪人(ろうにん)したと云います。

蒲生頼郷と関ヶ原戦い

この時に石田三成は、蒲生家旧臣を多く召し抱え、頼郷も石田三成に召し抱えられます。

石田家中に蒲生性が多いのはこのためです。

 

石田三成の肖像画

石田三成

頼郷は戦巧者であり、知行は1万石とも1万5千石とも伝えられますますが、この知行は、島左近に次ぐ厚遇であり、石田家の軍事面は強化されます。

後に起きる関ケ原の戦いでは、島左近と共に石田隊の先鋒を務めます。

関ヶ原の戦いの石田隊は、島左近が率いた隊と頼郷が率いた隊があったと云い、石田隊の大将の一人として奮戦しています。

家康方の東軍を何度も押し返したと伝わり、左近が被弾した後、頼郷一人で前衛を支えたとも伝わります。

頼郷は息子・大膳と共に関ヶ原の戦いに参戦していたと云われていますが、頼郷に関する逸話がありますので、紹介させていただきます。

息子・大膳が敵兵の首をとってきたことを報告すると「今日の戦いでは無駄な首は取るな、良き敵とだけ戦え」と諭したと云います。

その時点で既に、三成方の敗北は濃厚で、宿敵を一人でも多く討ち取り自身も討ち死にする覚悟であったのかもしれません。

その後西軍が崩れる中、最後まで戦っていた石田隊も崩れて、関ケ原の戦いの決着がつきます。

頼郷(よりさと)は、三成の退却を見届けると、最後に残った兵を集めて、徳川方に突撃したと伝わります。

頼郷は、徳川方の前軍を突破し、後備えの織田有楽(うらく)(織田 長益<おだ ながます>)の陣に飛び込んだそうです。

織田有楽に気が付いた頼郷は、良い敵が現れたと思い、自分がかつて蒲生氏郷に仕えた横山喜内(きない)であることを名乗ります。

当然、有楽は頼郷を覚えており、

「おお、知っているぞ。我に逢ったのは幸いであったな。内府(家康)に言上して一命を助けよう。我についてまいれ」

と降伏し自分に仕えるように諭したそうです。

ですが、頼郷はカラカラ笑い、

「(可笑しくて)お腹が痛い。公は信長公の弟君と思えぬ物言い、今更、私が助命をお願いするとでもお思いか」

と今さら生き長らえようとは思わないと答えると、有楽に向けて斬りかかり、有楽は負傷したそうです。

そして頼郷は周りを敵に囲まれ、槍につかれ壮絶な最後を迎えたそうです。

 

※頼郷が有楽隊の討ち取られたことは事実のようですが、この話は「慶長見聞書」、「豪雄言行録」が出典元のようですので、どこまで本当の話なのかわかりません。

※松平家乗(まつだいら いえのり)宛ての石川康道と彦坂元正(ひこさか もとまさ)連署状(一次史料)によると、関ケ原の戦い開戦くらいで西軍の敗北が決定的になった旨の記載があります。

今までの通説では、石田隊は何度も東軍を追い返したことになっていますが、実際は違うのかもしれませんね。

 

いずれにせよ、蒲生頼郷は息子の大膳と共に戦死し、有楽はこれら関ケ原の戦いの功績により、大和国内で3万2,000石の大名になっています。

蒲生頼郷と蒲生郷舎は別人

最後になりますが、石田三成は蒲生家旧臣を多く召し抱えたため、蒲生性の家臣が多いです。

蒲生性が多くて良く分からなくなるんですよね。

三成家臣に蒲生郷舎(さといえ)という武将もいるのですが、蒲生郷舎と蒲生頼郷は混同され、同一人物と見なされていました。

ですが、10年と少し前くらいからでしょうか。

新発見‼ 蒲生郷舎と蒲生頼郷は別人だった…というような文言を見るようになりました。

近年では別人との説が通説となり、三成の家臣団で左近と並び称賛されたのは、蒲生頼郷(蒲生喜内、蒲生備中)であるとされています。

 

蒲生郷舎陣跡の説明板

上の写真は、関ヶ原の蒲生郷舎陣跡と呼ばれる場所に建っている説明板です。

蒲生頼郷と織田有楽の逸話ですが、蒲生郷舎と織田有楽の逸話だと書いてあります。

本家(関ヶ原)にそう言われてしまうと、肯定するしかないような気持ちになりますが…、Wikipediaでも蒲生頼郷と織田有楽の逸話と記載されています。

勿論、複数の文献でも蒲生頼郷と織田有楽の逸話となっています。

この説明板がつくられて時間が経っているのであれば、直していないだけかもしれませんね…。

かおりん かおりん
『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』という書籍は、西軍についた毛利、上杉、宇喜多、島津などについて書いています。
書状や史料などから考察していて信頼性があるように思います。

 

石田三成の家臣団・一覧

 

破格の逸話が残る島左近の生存説とは~柳生家との関係~

 

舞兵庫(前野忠康)と合渡川の戦い

 

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