蒲生頼郷の旧姓は横山喜内といい、蒲生氏郷に武勇を認められ蒲生頼郷と名乗るようになります。
また、蒲生備中という名でも知られています。
後に、蒲生頼郷は石田三成に仕え、関ヶ原の戦いで死力を尽くし戦っています。
この記事では、横山喜内から蒲生頼郷と名乗りを替えた所以を含めて、蒲生頼郷の生涯と関ケ原の戦いの逸話について書いています。
蒲生家家臣としての蒲生頼郷
横山喜内(蒲生頼郷)の生年は不明ですが、出身は近江国蒲生郡日野であると伝わります。
蒲生頼郷の諱は蒲生真令、通称は横山喜内(旧姓)、また蒲生備中ともいわれています。
横山喜内(蒲生頼郷)は、初め六角氏に仕えたそうですが、六角氏は滅亡してしまい蒲生氏に仕えたといいます。
そして、天正10年(1582年)、蒲生氏郷が蒲生家の家督を相続します。
蒲生氏郷は、織田信長や豊臣秀吉に重宝され、「天下に二人といない人物」といわれた名将です。
天正15年(1587年)主君・蒲生氏郷は、豊臣秀吉方として九州の島津征伐に参戦し、横山喜内(蒲生頼郷)は、島津征伐おける岩石城攻めに従軍しています。
しかし横山喜内(蒲生頼郷)は、諸将の論功行賞を見定める軍鑑の役目にあったにもかかわらず、自ら先駆けして城攻めを行ってしまいます。
横山喜内(蒲生頼郷)の活躍により岩石城攻略を成功させたものの、軍鑑の役目を外れた行為として蒲生氏郷に叱責されたと伝わります。
しかし、横山喜内(蒲生頼郷)自身の力説により、蒲生氏郷は喜内(頼郷)を処罰をせず、その後も喜内は蒲生家で重宝されたといいます。
横山喜内から蒲生頼郷と名乗る
横山喜内は、蒲生氏郷から「蒲生」の姓と「郷」の一字を与えられ、ここで蒲生頼郷と名乗るようになります。
天正18年(1590年)、頼郷の主君・蒲生氏郷は、陸奥国会津に移封され42万石の大封を得ます。
豊臣秀吉は伊達政宗など東北大名を警戒していおり、奥州の要である会津に氏郷を封じ、その抑えとしたのです。
そして後に蒲生氏郷は、約92万石の大大名となっています。
一方の蒲生頼郷は、伊達政宗の抑えの前線を任され、1万3千石を知行し、会津塩川の城代(一説には城主とも)や、後に梁川城代を務めたと伝わります。
同年、東北地方で葛西大崎一揆が起きて、蒲生家と伊達家は一触即発の危機を迎えますが、蒲生頼郷は政宗に付け入る隙を与えず事なきを得たようです。
栄華を誇った蒲生家ですが、蒲生氏郷が重病になり秀吉からも名医・曲直瀬 玄朔が派遣されるなどしましたが、文禄4年(1595年)2月に帰らぬ人になります。
その後の蒲生家は、氏郷の後を継いだ蒲生秀行が幼かったこともあり、蒲生家中が乱れてしまいます。
その為、蒲生家は要の地である会津の大大名から宇都宮に減封されています。
器量人として評価される蒲生氏郷がいない蒲生家に、豊臣秀吉は不安があったのかもしれません。
蒲生家の領地は上杉景勝に任せることになります。
大幅な減封により蒲生家では、今まで通り家臣を召し抱えられなくなり、蒲生頼郷も浪人したといいます。
蒲生頼郷と関ヶ原戦い
石田三成は、蒲生家減転封により生じた蒲生家旧臣を多く召し抱え、蒲生頼郷も石田三成に召し抱えられます。
石田家中に蒲生性が多いのはこのためです。
蒲生頼郷は戦巧者であり、知行は1万石とも1万5千石とも伝えられますますが、この知行は、三成の右腕・島左近に次ぐ厚遇であり、石田家の軍事面は強化されます。
後に起きる関ケ原の戦いでは、島左近と共に石田隊の先鋒を務めます。
関ヶ原の戦いの石田隊は、島左近が率いた隊と蒲生頼郷が率いた隊が先鋒を務め、石田隊の大将の一人として奮戦しています。
蒲生頼郷は鉄炮隊を指揮したようで、徳川家康方の東軍を何度も押し返したと伝わります。
その後、黒田長政隊から攻撃を受け島左近が被弾し負傷した後、蒲生頼郷一人で前衛を支えたとも伝わります。
蒲生頼郷は息子・大膳と共に関ヶ原の戦いに参戦していたといわれていますが、頼郷に関する逸話がありますので、紹介させていただきます。
息子・大膳が敵兵の首をとってきたことを報告すると「今日の戦いでは無駄な首は取るな、良き敵とだけ戦え」と諭したといいます。
その時点で既に、三成方の敗北は濃厚で、宿敵を一人でも多く討ち取り自身も討ち死にする覚悟であったのかもしれません。
その後、三成方の西軍が崩れる中、最後まで戦っていた石田隊も崩れて、関ケ原の戦いの決着がつきます。
蒲生頼郷は、三成の退却を見届けると、最後に残った兵を集めて、徳川方に突撃したと伝わります。
蒲生頼郷は、徳川方の前軍を突破し、後備えの織田有楽(長益)の陣に飛び込んだそうです。
織田有楽に気が付いた蒲生頼郷は、良い敵が現れたと思い、自分がかつて蒲生氏郷に仕えた横山喜内であることを名乗ります。
当然、有楽は頼郷を覚えており、
「おお、知っているぞ。我に逢ったのは幸いであったな。内府(家康様)に言上して一命を助けよう。我についてまいれ」
と降伏し自分に仕えるように諭したそうです。
ですが、頼郷はカラカラ笑い、
「(可笑しくて)お腹が痛い。公は信長公の弟君と思えぬ物言い、今更、私が助命をお願いするとでもお思いか」
と今さら生き長らえようとは思わないと答えると、有楽に向けて斬りかかり、有楽は負傷したそうです。
そして、蒲生頼郷は周りを敵に囲まれ、槍につかれ壮絶な最後を迎えたと伝わります。
また、『慶長見聞書』によると、蒲生頼郷は織田有楽(長益)に斬りかかりますが、わわやというところで有楽の家臣(千賀文蔵兄弟)が頼郷を討ち取り、頼郷の首を有楽に取らせたそうです。
蒲生頼郷が有楽隊の討ち取られたことは事実のようですが、蒲生の名に恥じない壮絶な最期であったそうです。
石田隊として関ヶ原の戦いで奮戦した蒲生姓の武将は多く、蒲生頼郷の逸話は蒲生奮戦の象徴として語られることがあります。
蒲生頼郷の息子・大膳も共に戦死し、織田有楽はこれら関ケ原の戦いの功績により、大和国内で3万2,000石の大名になっています。
蒲生頼郷と蒲生郷舎は別人
先に述べたように、石田三成は蒲生家旧臣を多く召し抱えたため、蒲生性の家臣が多いです。
石田三成の家臣に蒲生郷舎(坂源兵衛)という武将もいるのですが、蒲生郷舎と蒲生頼郷は混同され、同一人物と見なされていました。
ですが、十数年前くらいからでしょうか。
新発見‼ 蒲生郷舎と蒲生頼郷は別人だった…というような文言を見るようになったと記憶しています。
近年では別人との説が通説となり、石田三成の家臣団で島左近と並び称賛されたのは、蒲生頼郷(蒲生喜内、蒲生備中)であるとされています。
上の写真は、関ヶ原の蒲生郷舎陣跡と呼ばれる場所に建っている説明板です。
先に述べたように、蒲生頼郷(横山喜内)と織田有楽の逸話ですが、蒲生郷舎(坂源兵衛)と織田有楽の逸話である旨が書いてあります。
本家(関ヶ原)にそう言われてしまうと、肯定するしかないような気持ちになりますが…。
因みに、Wikipediaでも蒲生頼郷と織田有楽の逸話である旨記載されています。
多くの書籍でも蒲生頼郷(横山喜内)と書かれていますが、蒲生郷舎(坂源兵衛)と書いてある書籍もあります。
この説明板がつくられて時間が経っているのであれば、直していないだけかもしれません。
コメント
コメント一覧 (2件)
[…] また、大幅な減封になった蒲生家から多くの浪人が生じ、石田三成は蒲生家旧臣の蒲生頼郷・蒲生郷舎・蒲生将鑑・北川平左衛門らを自らの家臣に加えます。 […]
[…] しかし、近年では、石田隊の先鋒は蒲生郷頼(蒲生備中、横山喜内)が務めたと見られています。 […]