石田三成の家臣として真っ先に思いつくのは、島左近だという方は多いのではないでしょうか。

三成に過ぎたるものが二つあり」という破格の待遇を受けた逸話まで残る島左近は、三成の重臣です。

島左近ですが、関ケ原の戦いで戦死した説がある一方で、生存説もあります。

この生存説は何故あるのか、また島左近と柳生家の関係についても記しています。

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石田三成に仕える前の島左近

島左近の生年は、天文9年(1540年)とされ父の名前は島政勝だと伝わります。

島左近の名で知られていますが、清興(きよおき)、勝猛(かつたけ)という名前でも知られています。

しかし左近自身が、自筆文書で「清興」の花押を使用していたり、自筆の書状や三成の書状で「島」ではなく「嶋」と記載しています。

また、左近自身が奉納したという灯籠(とうろう)に「嶋左近烝清興」と刻まれていることからも、本人は嶋清興(嶋左近烝清興)の名前を使っていたようです。

出身についても諸説ありますが、現在では大和国(やまとのくに)(奈良県)出身であるとされています。

 

 

島左近の肖像画

島左近

 

左近は石田三成の家臣として有名ですが、三成に仕えるより前に、主君を数回かえていると伝わります。

始め畠山氏に仕えたそうですが、没落したため筒井氏に仕えています。

仕えた時期はハッキリしませんが、1571年頃には仕えたようで「宇陀ノ城主」であったと伝わります。

ただ「宇陀ノ城」とは、どこの城かも不明で左近の記録は少なく、筒井家時代も謎だらけのようです。

左近は筒井順慶(じゅんけい)の代に筒井家の重臣になっていたそうです。

筒井の三家老とも呼ばれる・松倉重信(まつくら しげのぶ)(通称、右近)と島左近で、筒井家の両翼「右近左近」(うこんさこん)と並び称されたと云います。

しかし、当時の人達が書いた日記によると史実ではないようで、筒井家の両翼は別の人である旨の記載があります。

通説によると、後に順慶の跡を継いだ甥である筒井定次(さだつぐ)とは意見が合わず、左近は1588年に筒井家を去ったとされています。

ですが、左近の研究家である坂本雅央(まさお)氏によると、豊臣政権の意思で筒井家中の整理がなされ、左近らは筒井家から離れ豊臣直臣になった可能性があるそうです。

そう考えると、11年後の1598年に、左近が筒井定次に馬を贈った記録があり、筒井家との関係が途絶えていない理由も納得できます。

真実は不明ですが、山鹿 素行(やまが そこう)が記した「武家事紀」(ぶけじき)によると、左近は筒井家を去った後に、豊臣秀長や豊臣秀保に仕えたそうです。

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島左近が石田三成に仕える

後に左近は、石田三成の家臣になりますが、その経緯ははっきりしていません。

石田三成の肖像画

石田三成

また一説には1586年に三成に仕えたとありますが、時期も定かではありません。

ですが、2016年に島左近が記した書状が見つかっています。

書状は1590年7月に書かれたもので、佐竹義宣(よしのぶ)の重臣・小貫氏(おぬきし)と佐竹義久(よしひさ)に宛てたものです。

その書状は、石田三成の下で重要な交渉をする役目を果たした記録として注目されています。

左近が記した書状から、1590年の小田原征伐の後には三成の重臣格であったものと推測できるようです。

当時の三成にどうして左近が仕えたか分かりませんが、三成と左近には有名な逸話と落首があります。

「常山紀談」(じょうざんきだん)という江戸時代中期の逸話集と「関ヶ原軍記大成」という江戸時代中期の軍記物に記されています。

 

島左近と石田三成の逸話

それでは、三成が左近を召し抱える際の逸話を紹介させていただきます。

ある日、三成が水口城主となった頃の話だといいます。

水口城とは、現在の滋賀県甲賀市にあった城です。

秀吉は三成を呼んで「今回、禄を増やしたが、何人ほどの家来を抱えたか」と問いかけ、

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉

その返事に三成は「一人だけです」と返したと云います。

秀吉は呆れ三成に「一体誰を家来にしたのか」と尋ねます。

三成が「島左近です」と答えると秀吉は驚き、

「島左近といえば天下の名将だ

三成のように、小禄の者に仕える者ではない

いったいどうして、いくらの禄高で召し抱えたのか」と聞いたそうです。

三成は「なので私の禄高4万石の半分の2万石で召し抱えました」と答えたと云います。

その答えに秀吉は驚き「主君と家臣の禄高が同じというのは、初めて聞いた

でも、そうでなければ左近ほどの人物が三成には仕えまい」

と笑ったのだという話です。

このような逸話がある為でしょうか、「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」という三成の落首が謡われたと「常山紀談」に記載されているそうです。

佐和山

石田三成に過ぎたるものと謳われた佐和山城があった山

 

この落首の佐和山城とは、三成の居城で当時は荒れていたそうですが、五層の高い天守がそびえたつお城に改修したと云います。

この落首はとても有名ですが、それにしてもこの左近の逸話は真実でしょうか。

そもそも三成が水口城主になったことは、現在では、ほぼ無いであろうとされています。

また、「常山紀談」は江戸時代につくられた逸話集ですし、「関ヶ原軍記大成」も江戸時代にできた軍記物なので史実である可能性は低いように思います。

また、左近が2万石を拝領したのは、三成が19万石の佐和山城主になってからとする説もあるようです。

ですが、三成が城代として和山城に入城したのは1591年4月であるため、書状の発見により、佐和山城主になる前に左近を召し抱えていたことが分かります。

落首については、「常山紀談」などから左近を破格の待遇で迎えたことが広がり、民話のように謡われた可能性があると思います。

いずれにしても、左近はそれ程の人物であったということだろうと思います。

また、左近と筒井定次が仲たがいし、筒井家を離れたことも「関ヶ原軍記大成」に記載があるそうです。

「関ヶ原軍記大成」という軍記物が出典元となり、筒井定次と仲が悪かったことになっている可能性もあるように感じます。

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島左近の生存説

その後、関ヶ原の戦いが起き、左近は三成軍の先鋒を務めて戦っています。

関ヶ原の戦いについては、今回は割愛させていただき、「島左近の生存説」について記します。

左近は関ヶ原の戦いの銃撃により亡くなったとの見方が有力のようです。

関ケ原の戦いの島左近跡

島左近の関ヶ原の戦い陣跡

ですが、亡骸が見つかっていないことや、戦後の目撃情報もあり、生存説もあります。

どうして生存説が囁かれるか見てみましょう。

・京都市上京区にある立法寺(りゅうほんじ)の塔頭(たっちゅう)・教法院(きょうぼういん)に過去帳や墓碑があり、そこには左近が寛永9年(1632年)6月26日に亡くなった旨の記載があります。

この過去帳や墓碑によると、関ヶ原の戦い後、逃れて32年間健在であったことになります。

・静岡県浜松市に島家の子孫を称する方も存在しているそうです。

島左近は変名し、百姓に変装などして暮らした伝承があるそうです。

・「関ケ原町史」に記された記録に、琵琶湖の竹生島に「16日夜、左近宿す」とあるそうです。

何年の何月か記載がないのですが、関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(現在でいうところの西暦1600年10月21日)になりますので、関ヶ原の翌日の16日を指しているとも考えられます。

・滋賀県伊香郡に左近が生き延び、隠れていたという伝承があります。

・熊本にある西岸寺(さいがんじ)というお寺に左近の生存説があるそうです。

左近は関ケ原の戦い後も生存し、鎌倉光明寺で出家し「泰岩」という名の僧侶となり西岸寺を中興したと云います。

当時、西岸寺は細川家の領地であり、左近は細川忠興の家臣・葛西立行に推挙されて忠興に仕え、後に「天下上人」の号を授かったそうです。

・京都で左近の目撃情報が何度もあったこと。

以上のことから左近の生存説が囁かれています。

有名武将の生存説は毎度のようにでてきますね。

左近の生存説はどれも納得するだけの根拠はありませんが、生存している可能性もあるように思います。

何も証拠がないので囁かれてもいませんが、個人的な見解としては、柳生家のお世話になって生きていたとする生存説もあり得ると思います。

次は左近と柳生家の関係を見てみます。

 

島左近と柳生家

左近には3男2女がいたそうですが、柳生家に嫁いだ娘がいます。

左近の子供について簡単に記します。

長男である信勝(のぶかつ)は関ケ原の戦いで討たれて亡くなります。

次男の友勝は、広島に落ち延びた説があり、3男の清正は不明です。

娘の一人は、夫が関ケ原の戦いで自害に追い込まれたため、後を追って自害したそうです。

もう一人の娘である珠は、柳生利厳(やぎゅう としとし/としよし)と結婚し、柳生 厳包(やぎゅう としかね)を授かります。

柳生家と島左近は以前より親しい間柄であったと云います。

また、左近の娘・珠の子である厳包は、尾張藩剣術指南役を務めたほどの剣術家です。

珠の子かは不明ですが、他に2人子供がいて島姓を名乗っていた時期があり、始めは島家を再興させる予定であったとする話もあります。

また厳包にはお子さんがいなかったようで、柳生家で左近の子孫が続いているかは不明です。

そして、柳生家は関ヶ原の戦い後、石田三成の庶子・石田宗信(むねのぶ)を保護しています。

左近が生き延びたとしたら、左近にも柳生家の援助があったのかなと考えてしまいますね。

柳生家が三成庶子を保護した話は、こちらの記事の「石田宗信」のところに記載しています。

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かおりんかおりん

『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』では、一次史料のみを分析し西軍大名に焦点をあてた本です。

 

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