石田三成の家臣として有名な島左近(嶋清興)ですが、謎の多い人物です。

その謎に満ちた島左近の生涯を、現在わかる範囲で記載します。

島左近

島左近の生誕没年は、1540年6月9日~1600年10月21日?とされていて、亡くなった年に関しては諸説あり定かではありません。

出身についても諸説ありますが、現在では大和国(やまとのくに)(奈良県)出身である可能性が高いとされています。

島左近

島左近

島左近の名で知られていますが、左近は通称であり、正確には嶋清興(きよおき)(嶋左近烝清興)の可能性が高いようです。

理由として、左近が、自筆文書で「清興」の花押を使用している点があります。

又、左近の自筆の書状や三成の書状で「島」ではなく「嶋」と記載しており、左近自身が奉納したという灯籠(とうろう)に「嶋左近烝清興」と刻まれています。

※ですが当ブログでは、通称である島左近と表記させていただきます。

 

左近、筒井家に仕える

左近は石田三成の家臣として有名ですが、三成に仕えるより前に、主君を数回かえていると伝わります。

その一人として筒井順慶(じゅんけい)に仕え重臣になりました。

筒井の三家老とも呼ばれる・松倉重信(まつくら しげのぶ)(通称、右近)と島左近で、筒井家の両翼「右近左近」(うこんさこん)と並び称されたということは、知られた話ですが、当時の人達が書いた日記によると史実ではないようで、筒井家の両翼は別の人である旨の記載があります。

 

左近、筒井家を去る

通説によると、後に、順慶の跡を継いだ甥である筒井定次(さだつぐ)とは意見が合わず、左近は1588年に筒井家を去ったとされています。

ですが、左近の研究家である坂本雅央(まさお)氏によると、豊臣政権の意思で筒井家中の整理がなされ、左近らは筒井家から離れ豊臣直臣になった可能性があるそうです。

そう考えると、11年後の1598年に、左近が筒井定次に馬を贈った記録があり、筒井家との関係が途絶えていない理由も納得できます。

真実は不明ですが、山鹿 素行(やまが そこう)が記した「武家事紀」(ぶけじき)によると、左近は筒井家を去った後に、豊臣秀長や豊臣秀保に仕えたそうです。

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左近、三成の家臣になる

後に左近は、三成の家臣になりますが、その経緯ははっきりしていません。

「常山紀談」(じょうざんきだん)(江戸時代中期の逸話集)や「関ヶ原軍記大成」(江戸時代中期の軍記物)に記された、とても有名な三成の逸話と落首を紹介します。

 

左近召し抱えの三成の逸話

水口(滋賀県甲賀市)城主となった三成を秀吉が呼び、「今度、禄を増やしたが、何人ほどの家来を抱えたか。」と尋ねたところ、三成は「一人だけです。」と答えた。呆れた秀吉が、「一体誰を家来にしたのか。」と問うと、三成は「島左近です。」と応じる。秀吉は驚き、「島左近といえば天下の名士だ。お前のように、小禄の者に仕える者ではない。いったい、いくらの禄高で召し抱えたのか。」と聞くと、「されば私の禄高4万石の半分の2万石で召し抱えました。」と答え、これを聞いた秀吉は、笑いながら「君臣の禄高が同じというのは、聞いたことがない。しかし、そうでなければ左近ほどの人物が三成には仕えまい。」と興じたというのである。

 

 

三成の落首

「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」

とうたわれたと「常山紀談」に記載されているそうです。

 

逸話、落首の検証

余りにも有名な話ですが、そもそも三成が水口城主になったことは、現在では、ほぼ無いであろうとされています。

「常山紀談」は江戸時代につくられた逸話集ですし、「関ヶ原軍記大成」も江戸時代にできた軍記物なので史実ではないように思います。

落首については、「常山紀談」から広がり民話のように謡われた可能性があると思います。

それでも、左近はそれほどの人物であったということだろうと思います。

又、左近と筒井定次が仲たがいし、筒井家を離れたことも「関ヶ原軍記大成」に記載があるそうです。

真実は分かりませんと記しながらも、「関ヶ原軍記大成」が出典元となり、筒井定次と仲が悪かったことになっている可能性は否定できないように感じます。

 

1590年には三成の家臣に

 

2016年に島左近が記した書状が見つかっています。

書状は1590年7月に書かれたもので、佐竹義宣(よしのぶ)の重臣・小貫氏(おぬきし)と佐竹義久(よしひさ)に宛てたものです。

石田三成の下で重要な交渉をする役目を果たした記録として注目されています。

翌年の1591年4月に、主君である三成は、城代として和山城に入城しています。

 

左近と関ヶ原の戦い

その後、関ヶ原の戦いが起き、左近は三成軍の先鋒を務めて戦っています。

関ヶ原の戦いについては、後日、記事にしますので、今回の記事では割愛させていただきます。

 

左近の生存説

左近は関ヶ原の戦いの銃撃により亡くなったとの見方が有力のようですが、遺体が見つかっていないことや、戦後の目撃情報もあり、生存説があります。

・京都市上京区にある立法寺(りゅうほんじ)塔頭(たっちゅう)・教法院(きょうぼういん)に過去帳や墓碑があり、そこには左近が寛永9年(1632年)6月26日に亡くなった旨の記載があります。

この過去帳や墓碑によると、関ヶ原の戦い後、逃れて32年間健在であったことになります。

・静岡県浜松市に島家の子孫を称する方も存在しているそうです。

島左近は変名し、百姓に変装などして暮らした伝承があるそうです。

・広島県東広島市にある蔵元「白牡丹」は、島左近の孫が創立し、今も尚、同社の社長職は島家が引き継いでいる旨がホームページに明記されています。

古書によると

「慶長五年九月 関ガ原の戦いに、島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に破れ、長男新吉戦死す。次男彦太郎忠正 母と共に京都に在りしが、関ガ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年酒造業を創む」

と記されています。

解釈が難しいですが、この文章だけでは島左近でなく、左近の次男が落ち延びたと解釈できるような…気がしますが皆さまはどのように思うでしょうか。

いずれにせよ、左近の子孫の方のようです。

・白川亨氏が「石田三成の生涯」にて、左近の生存の可能性について、記載している箇所があるのですが、上記の説と併せて「関ケ原町史」に記された記録を挙げています。

琵琶湖の竹生島に「16日夜、左近宿す」との記録があると記されているとあります。

何年の何月か記載がないのですが、関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(現在でいうところの西暦1600年10月21日)になりますので、

関ヶ原の翌日の16日を指していると考えたものと推察します。

 

左近の子供

左近には3男2女がいたそうです。

長男である信勝(のぶかつ)は関ケ原の戦いで討たれて亡くなります。

次男の友勝は、「白牡丹」ホームページによると落ち延びました。

3男の清正は不明です。

娘の一人は、夫が関ケ原の戦いで自害に追い込まれたため、後を追って自害したそうです。

もう一人の娘である珠は、柳生利厳室(やぎゅう としとし/としよし)と結婚し、柳生 厳包(やぎゅう としかね)を授かります。

 

左近と柳生家

柳生家と島左近は以前より親しい間柄でした。

左近の娘・珠の子である厳包は、尾張藩剣術指南役を務めたほどの剣術家です。

しかし、厳包にはお子さんがいなかったようです。

又、厳包には兄弟がいましたが、兄弟の詳細や生母は不明です。

珠から現代へ左近の子孫が繋がっている可能性を調べるのは、現段階では難しいようです。

 

又、柳生家は関ヶ原の戦い後、石田三成の庶子・石田宗信(むねのぶ)を保護しています。

左近が生き延びたとしたら、柳生家の援助があったのかなと考えてしまいますね。

柳生家が三成庶子を保護した話は、こちらの記事の「石田宗信」のところに記載しています。

👇
石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

左近の生存説は、とても興味深い話です。

子孫の方に晩年の左近ゆかりの品が残っていれば、通説になる可能性が高くなりそうですが、異説となっていますので、有力な証拠がないということかなと思います。

今後、解明されることを期待したいですね。

参考・引用・出典一覧

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石田三成の盟友・直江兼続

石田三成の子孫~まとめ~

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