島左近とは「三成に過ぎたるものが二つあり」と謳われた名将

島左近とは、「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」と謳われた人物です。

石田三成の家臣というイメージのある左近ですが、晩年に三成に仕えるまで、詳しいことは謎に包まれています。

この記事では、左近の生涯、逸話、生存説、柳生家の関係について書いています。

目次

島左近の出自と家紋

天文9年(1540年)、島左近は生を受けました。

父の名前は島清国、母は北庵法印の娘である茶々です。

島左近の出身は諸説ありますが、現在では大和国出身説が有力視されています。

応仁の乱以前の島家は、大和の椿井城と西宮城を拠点としていた武士であったと見られています。

かつての大和である奈良の安養寺で、左近の母の位牌見つかり、大和出身説を後押ししているようです。

島左近の名で知られていますが、実名は嶋清興であると言われており、左近は通称です。

また、左近は「左近将監」という官職が由来であると思われますが、定かではありません。

島左近の絵
島左近 出典元:Wikipedia

左近自身が、自筆文書で「清興」の花押を使用していたり、自筆の書状や三成の書状で「島」ではなく「嶋」と記載しています。

また、左近自身が奉納したという灯籠にも「嶋左近烝清興」と刻まれているそうです。

島左近は、勝猛(かつたけ)や友之という名前でも知られていますが、本当に名乗っていたのか分かりません。

島左近の家紋は、「丸に三つ柏」紋です。

柏の葉を3つ描いた図案で、宮司など神職に多い家紋です。

「丸に三つ柏」紋
「丸に三つ柏」紋 出典元:Wikipedia

島左近 筒井順慶に仕える

島左近は、始めは大和の隣国である河内国の守護大名・畠山氏に仕官していたと見られます。

永禄5年(1562年)、畠山高政と三好長慶の間で起きた教興寺の戦いに左近も参じ、畠山方であった筒井順昭(筒井順慶の父)の指揮下で戦ったことで、筒井家と縁ができたようですが、裏付ける史料はないそうです。

教興寺の戦いで畠山軍は敗北し、やがて没落すると左近は大和の筒井家に仕えます。

筒井家の当主・筒井順昭が没し、わずか2歳だった筒井順慶が家督を継ぎます。

幼子であった筒井順慶は、叔父の後見を得て、重臣らに支えられたと伝わります。

島左近も筒井順慶を盛り立てたそうですが、当時の筒井家の家臣団に島左近の名前は見当たらないそうです。

筒井順慶は大和の覇権を巡り、松永久秀と長らく争っていますが、島左近の動向は殆ど分かりません。

筒井順慶の肖像画
筒井順慶 出典元:Wikipedia

筒井順慶と松永久秀の間で、元亀2年(1571年)に起きた辰市合戦直前に「嶋左近尉殿」という名前が確認できます。

これが、筒井家の文献類で確認できる島左近の初見です。

辰市合戦の時に、島左近は宇陀より出撃したとの伝承があります。

島左近は、どこの城かも不明ですが、「宇陀ノ城主」であったという伝承もあり、辰市合戦の伝承と関連があるのかもしれません。

証明する史料はありませんが、筒井順慶を支えた功績で、重臣に加わったそうです。

筒井家家臣の松倉重信(通称、右近)と島左近で、筒井家の両翼「右近左近」と並び称されたとう話があります。

しかし、当時の人達が書いた日記によると史実ではないようで、筒井家の両翼は別の人である旨の記載があります。

天正5年(1577年)10月、筒井順慶は、敵対していた松永久秀と決着をつける時がきました。

織田信長の下知で、久秀籠る信貴山城攻めに従軍して、討ち果たしています(信貴山城の戦い)。

その後、筒井順慶は、織田信長から大和一国の支配を正式に認められますが、天正10年(1582年)、明智光秀の謀反により本能寺の変が起きます。

筒井順慶は、最終的に羽柴秀吉につき、大和の所領は安堵されることになりました。

その後、島左近は吐田城を接収し、その頃、椿井城主になったそうです。

筒井順慶は病を得て没し、順慶の甥・筒井定次が跡を継ぎます。

左近 筒井家を去る

天正16年(1588年)2月、島左近は筒井家を去ることになります。

筒井定次と意見が合わなかったとも、見限ったとも云われています。

ですが、本当は筒井家家臣・中坊秀祐と水利をめぐる争いがあったという指摘もあります。

中坊秀祐が筒井定次に島左近を讒言し、筒井家から追い出したようです。

筒井家を去った島左近は、奈良興福寺の塔頭持宝院に身を寄せています。

その後、蒲生氏郷に仕えたとも、関一政を頼ったとも、『武家事記』によると豊臣秀長、豊臣秀保に仕えたとも云われています。

また、豊臣政権の意思で筒井家中の整理がなされ、左近らは筒井家から離れ豊臣直臣になった可能性を指摘する声もあります。

いずれにせよ、11年後の慶長3年(1598年)に左近は、筒井定次に馬を贈った記録があり、筒井家との関係は途絶えていなかったようです。

島左近と石田三成の逸話

その後、島左近は、石田三成に三顧の礼をもって迎えられます。

多くの仕官の要請を断っていたという島左近は、石田三成の誘いも断っていたと伝わります。

当時、禄高4万石であった三成が、2万石の俸禄で左近を召し抱えたことが逸話として残りますので、紹介します。

石田三成の肖像画
石田三成 出典元:Wikipedia

ある日、三成が水口城(水口岡山城)主となった頃の話だといいます。

水口城とは、現在の滋賀県甲賀市にあった城です。

秀吉は三成を呼んで「今回、禄を増やしたが、何人ほどの家来を抱えたか」と問いかけます。

石田三成は「一人だけです」と返します。

秀吉は呆れ三成に「一体誰を家来にしたのか」と尋ねます。

三成が「島左近です」と答えると秀吉は驚きます。

「島左近といえば天下の名将だ 三成のように、小禄の者に仕える者ではない。

いったいどうして、いくらの禄高で召し抱えたのか」と聞いたそうです。

三成は「なので私の禄高4万石の半分の2万石で召し抱えました」と答えたそうです。

その答えに秀吉は驚き「主君と家臣の禄高が同じというのは、初めて聞いた。

でも、そうでなければ左近ほどの人物が三成には仕えまい」と笑ったのだという話です。

『君臣禄を分かつ』の逸話として知られますが、真偽は不明です。

石田三成の重臣・渡辺勘兵衛という人物にも島左近の『君臣禄を分かつ』の逸話と似た話があります。

柴田勝家秀吉が召し抱えようとしても叶わなかった豪傑で、小姓時代の三成が知行500石全てを投げうって召し抱えたという逸話です。

島左近の逸話は、渡辺勘兵衛の逸話を元に創作された逸話との見方もありますが、いずれにしても、左近はそれ程の人物であったということだろうと思います。

このような逸話がある為でしょうか、「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」と揶揄を込めて謳われたそうです。

佐和山
かつて城がそびえた佐和山

因みに、石田三成が水口城主であったことは、現在、否定されています。

また、三成に過ぎたるものの一つ佐和山城は、三成の居城です。

当時は荒れていたそうですが、五層の高い天守がそびえ立つお城に改修したと云います。

島左近が三成に仕えた時期

石田三成が19万4,000石の佐和山城主になってから、島左近が仕えたという説もあります。

しかし、石田三成が代官として佐和山城に入ったのは天正19年(1591年)4月、正式に佐和山城主になったのは文禄4年(1595年)です。

平成28年(2016年)に見つかった島左近の書状によると、天正18年(1590年)には石田三成の家臣であったことが分かりますので、佐和山城主になる以前に仕えていたものと思われます。

小田原北条氏を滅亡させた小田原征伐の直後と思われる書状で、佐竹義宣の重臣・小貫頼久と東義久に宛てた左近の書状です。

島左近は、秀吉に主従することになった常陸国の戦国大名・佐竹氏の交渉役を担っていたことが読み取れ、石田三成の下で重要な交渉をする役目を果たした記録として注目されています。

この書状から島左近は、小田原征伐の後には三成の重臣格であったものと推測できます。

また、天正20年(1592年)4月、左近の妻が「佐和山城にあり」と『多聞院日記』に書かれていたことも判明しています。

平成20年(2008年)にも左近についての新発見があり、島左近、山田上野、四岡帯刀に年貢収納を命じた文書が見つかっています。

島左近は、戦場での働きだけでなく、領国を治める能力も三成から認められていたことが分かります。

その後、島左近は、朝鮮出兵にも従軍したそうですが、詳細は不明です。

島左近と百間橋

佐和山の西、琵琶湖に面した側には、「百間橋跡」という碑石が建っています。

かつて、島左近が建築に関わったと伝わる百間橋の跡地です。

当時、佐和山と琵琶湖の間には、松原内湖という湖があった為、物資の流通の活性化を図るため、佐和山と松原側(琵琶湖側)をつなぐ為に設けられた木橋のことです。

長さ百間(約180メートル)の橋が三本で、三百間(約540メートル)にも及ぶ、幅三間(約5.4メートル)の橋は、昭和の初めまで使われました。

島左近は、石田三成と共に佐和山の経済発展に寄与したものと思われます。

左近の関ケ原の戦い

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が没すると石田三成と徳川家康は対立し、慶長5年(1600年)、島左近は家康を暗殺する計画をたてたという伝説があります。

島左近が水口城(水口岡山城)主の長束正家に家康暗殺計画を持ちかけたとも、既に石田三成が正家と計画していたとも言われいます。

結局、計画は失敗に終わりますが、豊臣家を守る唯一の方法は、徳川家康、秀忠の暗殺以外には無かったかもしれないと思います。

同年、関ケ原の戦いの前日に杭瀬川の戦いが起きます。

戦いが起きたキッカケは、江戸から動けないと見られていた徳川家康が、美濃赤坂に到着したことで、逃亡者が出るなど西軍に動揺が広がったことです。

左近は、味方の士気を回復する為、進言して東軍に奇襲攻撃を仕掛けることにしました。

島左近は、東軍の中村一栄隊、参戦してきた有馬豊氏隊を罠にかけます。

敗走を装った島左近らを敵が追撃したところで、左近が仕組んだ伏兵に横撃させ、混乱状態に陥れます。

そこで、西軍である宇喜多秀家の家臣・明石全登率いる宇喜多隊も参戦し、中村一栄隊、有馬豊氏隊は敗走します。

中村家の家老・野一色助義(頼母)を討つなど、30~40人程討ち取ったと伝わります。

野一色頼母の鎧塚
野一色頼母の鎧塚

左近は、前哨戦を勝利に導き、見方を奮い立たせて、翌日の関ヶ原本戦に向かいます。

関ケ原本戦での島左近は、蒲生頼郷(備中)と共に、石田三成隊の先鋒を務めています。

石田隊が布陣した笹尾山には、竹矢来や馬防柵が組まれていましたが、左近は馬防柵などから外に出て戦っていたそうです。

ですが、黒田長政隊が側面から攻撃し、島左近を負傷させています。

島左近の最期には諸説あります。

  • 黒田長政配下の菅正利に銃撃された後に亡くなった。
  • 正面の敵・黒田長政隊、田中吉政隊と戦い被弾して亡くなった。
  • 伝承になりますが、徳川家康配下の戸川達安が討ち取った。

どれが真実かは不明です。

左近の亡骸は見つかっていなく、生存説もあります。

もし、亡くなっていたとしたら享年は61歳です。

『黒田家譜』、『常山紀談』が伝える左近

左近の関ヶ原の戦いでの奮戦ぶりを伝えるエピソードを紹介します。

関ヶ原の戦いが終わって、後日、黒田長政隊にいた武将達が左近の服装について語っていました。

左近の陣羽織、指物、具足など皆の記憶が違います。

あまりの凄まじさ故、記憶が定かではないそうです。

関ケ原古戦場の島左近陣地跡
関ケ原古戦場の島左近陣地跡

『黒田家譜』によると、関ヶ原の本戦での左近は、「大音をあげて下知せる声、雷霆の如く陣中に響き、敵味方に聞こえて耳を驚かしける」だったそうです。

『常山紀談』には、「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と書かれています。

勇猛さと大胆な戦術で知られる左近は、鬼左近とも称されています。

島左近の生存説

島左近は、関ヶ原の戦いの銃撃により亡くなったとの見方が有力のようですが、亡骸が見つかっていないことや、戦後の目撃情報もあり、生存説もあります。

島左近のお墓
京都の教法院 島左近のお墓

どうして生存説が囁かれるか見てみましょう。

・京都市上京区にある立法寺の塔頭・教法院に過去帳や墓碑があり、そこには左近が寛永9年(1632年)6月26日に亡くなった旨の記載があります。

この過去帳や墓碑によると、関ヶ原の戦い後、逃れて32年間健在であったことになります。

・静岡県浜松市に島家の子孫の方がいらっしゃいます。

島左近は「島金八」と変名し、百姓に変装などして暮らした伝承があるそうです。

・「関ケ原町史」に記された記録に、琵琶湖の竹生島に「16日夜、左近宿す」とあるそうです。

何年の何月か記載がないのですが、関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(1600年10月21日)になりますので、関ヶ原の翌日の16日を指しているとも考えられます。

・滋賀県伊香郡に左近が生き延び、隠れていたという伝承があります。

・熊本にある西岸寺(さいがんじ)というお寺に左近の生存説があるそうです。

左近は関ケ原の戦い後も生存し、鎌倉光明寺で出家し「泰岩」という名の僧侶となり西岸寺を中興したと云います。

当時、西岸寺は細川家の領地であり、左近は細川忠興の家臣・葛西立行に推挙されて忠興に仕え、後に「天下上人」の号を授かったそうです。

・京都で左近の目撃情報が何度もあったこと。

以上のことなどから左近の生存説が囁かれているようです。

有名武将の生存説は毎度のようにでてきますね。

左近の生存説はどれも納得するだけの根拠はありませんが、生存している可能性もあるように思います。

何も証拠がないので囁かれてもいませんが、個人的な見解としては、柳生家のお世話になって生きていたとする生存説もあり得ると思います。

次は左近と柳生家の関係を見てみます。

島左近と柳生家

左近には3男2女がいたそうですが、柳生家に嫁いだ娘がいます。

左近の子供について簡単に記します。

長男である信勝は関ケ原の戦いで討たれて亡くなります。

次男の友勝は、広島に落ち延びた説があります。

広島市にある「白牡丹」の経営者は、島左近の次男の子孫とのことです。

島左近の3男の清正は不明です。

娘の一人は、夫が関ケ原の戦いで自害に追い込まれたため、後を追って自害したそうです。

もう一人の娘である珠は、柳生利厳と結婚し、柳生厳包を授かります。

柳生家と島左近は以前より親しい間柄であったと云います。

また、左近の娘・珠の子である厳包は、尾張藩剣術指南役を務めたほどの剣術家です。

流石、左近の外孫ですね。

また厳包にはお子さんがいなかったと伝わり、柳生家で左近の子孫が続いているかは不明です。

そして、柳生家は関ヶ原の戦い後、石田三成の庶子・石田宗信を保護したそうです。

もし、左近が生き延びたとしたら、左近にも柳生家の援助があったのかなと考えてしまいます。

参考・引用・出典一覧
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