柴田勝家は、信長の尾張一国時代からの宿将。
しかし、最初は信長の弟・信勝を支持し、信長と対立していました。
その後、信長の軍門に降り、武功を重ね織田家筆頭家老になります。
本能寺の変後、明智光秀を成敗して勢いのあった豊臣秀吉に賤ヶ岳の戦いで敗れ、北ノ庄城で自害した勝家の生涯を書いています。
柴田勝家、信勝(信行)の家老になる
柴田勝家は、大永2年(1522年)、尾張で柴田勝義の子として生まれたと云われています。
しかし、出自は不明で柴田勝義の子というのも確かではなく、さほど身分の高くない土豪の出ではないかと見なされています。
最初は織田信長の父・信秀に仕え、信秀が亡くなると信長の弟・信勝(信行)の家老になった方です。
織田信勝(信行)の家老といっても、信長と対立する前までは、信長の戦にも出陣していました。
柴田勝家が武功を挙げた記録があるのは、天文21年8月16日(1552年9月4日)に起きた、萱津の戦い(かやづのたたかい)です。
織田信長が大将として参陣した戦で、相手は信長と同族であり主家でもあった清州織田家です。
信長の父・信秀の頃から、領土を巡り争いと和睦を繰り返していた相手で、信秀が亡くなると織田方だった鳴海城主が今川義元に寝返りました。
信長の叔父・織田信次を人質に取られたことで出陣し、清洲織田家の実権を握っていた中の一人、坂井甚介を柴田勝家と中条家忠が二人で討ち取ったと云われています。
勝家、稲生の戦いにて敗れる
その後も大将格で出陣するなど、武勇に優れた勝家ですが、信長の弟・信勝(信行)に家督を継承させようと一計を謀ります。
織田信長は、信秀急死により後を継ぎ領土を拡大したものの、「うつけ者」と評され、頭領に相応しくないと考える家臣が多くいました。
傅役だった平手政秀は自害し、最大の味方だった舅・斎藤道三も戦に敗れ亡くなっていました。
信長の回りは敵だらけという困難な状態で、信長が国をまとめることは難しいと思っていたようです。
柴田勝家は、信長の一番家老・林秀貞とその弟と謀り、信長排除を画策します。
うつけ者の兄とは違い、信長の弟・信勝(信行)は礼儀正しい青年で、信勝方に多くの兵が集まりました。
信勝軍の柴田勝家は1000人、林秀貞は700人の兵を率い合計1700人を擁して、信長軍700人と対決する稲生の戦いが起きました。
柴田勝家は織田家随一の猛将として知られる戦上手、兵力差もあり信長軍相手に、信長の前に40人しかいない状態で本陣まで迫ります。
しかし、織田信房と森可成が奮戦し、織田信長が柴田軍に向かって怒鳴ると、逃げ去ってしまったそうです。
ルイスフロイス『日本史』によると、信長は凄まじい大声の持ち主だったそうですが、身内の争いであるため、怯んでしまったのかもしれません。
また、信長軍は兵数が少なくても精鋭部隊、森可成、佐久間信盛、前田利家、丹羽長秀らも参戦していました。
信長軍は、林軍にも襲いかかり、合計で450人も討ち取ったと『信長公記』は伝えます。
信長の勝利で終わった稲生の戦いですが、信長と信勝の母・土田御前の取り成により、信勝や柴田勝家含む家臣も全て許されたのです。
土田御前は、信長を嫌い信勝を偏愛したことで知られていますが、赦免の強い願いがあったそうです。
柴田勝家は清州城へ登城し、土田御前、信勝、津々木 蔵人(つづき くらんど)と共に信長にお礼を伝えたそうです。
織田信長とうつけ者については、別の記事に書いています。
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信勝の企てを信長に密告する
柴田勝家は、信勝の家老でしたが、その後、見限って信長に仕えることになります。
勝家が信長についた理由は、信長の力量を認めたことと、信勝が新参者で男色相手だった津々木蔵人を重用したことだと云われています。
弘治3年(1557年)、柴田勝家は、再び信勝が謀反を企てていることを信長に密告します。
勝家に騙された信勝は、病に臥せった信長の見舞いにの為、清州城に行くと、河尻秀隆らによって亡き者にされました。
信勝は、兄・信長と家老・勝家によって、騙され滅ぼされてしまいました。
信勝の嫡男・津田信澄は、信長の命令で柴田勝家が養育したと伝わります。
信長の上洛で重用される柴田勝家
柴田勝家は、信勝亡き後、信長の家臣になりますが、暫く戦には用いられなかったようで、記録にはありません。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い、その後の斎藤義興との戦には、勝家の名前は無いのです。
しかし勝家は、信長の家臣として重きをなす存在になっていきます。
永禄8年(1565年)頃、所領安堵の文書に勝家の署名があることから、この頃に信長の奉公であったと見なされています。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際、勝家は重用されます。
上洛し足利義昭を次期将軍に就ければ、天下に強い影響力を持てますが、上洛する際に、当時強大な力を持っていた三好家と戦わなければなりませんでした。
三好一族は、京で影響力を持ち、足利義昭でなく足利義栄を将軍に据えていました。
上洛の二日前には、三好三人衆の一人である岩成友通が守る勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)で戦が起きます(勝龍寺城の戦い)。
柴田勝家は、森可成、蜂屋頼隆、坂井政尚らと共に、先備えとして活躍したと云われています。
信長の最精鋭部隊の一人になった勝家は、その後も何度も重用され、武功を挙げています。
無事に上洛した後、信長は柴田勝家、佐久間信盛、森可成、蜂屋頼隆、坂井政尚に京都と畿内行政を任せます。
この中でも柴田勝家が筆頭格であると見なされています。
この頃、柴田勝家の信長家臣団の序列は、丹羽長秀、佐久間信盛を抜いて、筆頭格に位置していたようです。
六角氏との戦いと「瓶割り柴田」の異名
元亀元年(1570年)、浅井長政の裏切りにより、越前・朝倉攻めに失敗した信長(金ヶ崎の戦い)。
信長は、琵琶湖の南岸に重臣を配して、美濃から京都への通路を確保しようとします。
これは、六角義賢が南近江に再進出し、北近江にいる浅井長政が敵になった為です。
その流れで柴田勝家は、近江の長光寺城(ちょうこうじじょう)に入れられます。
同時期に佐久間信盛も、近江の永原城(ながはらじょう)に入れられましたが、勝家や信盛らの任務は織田家家臣と協力して、六角氏や一揆と他戦うことでした。
元亀元年(1570年)に起きた野洲河原の戦い(やすがわらのたたかい)では、柴田勝家は佐久間信盛らと協力して六角義賢(承禎)をを打ち破ります。
『言継郷記』によると、六角氏の老臣を含む2000~3000の兵が討ち取られたようです。
領土を無くし没落しかけていた六角氏は、野洲河原の戦いにて戦力を大きく無くしました。
柴田勝家は、「瓶割り柴田」という異名を持ちます。
野洲河原の戦いの前に、勝家の居城・長光寺城で戦いがあったとも云われます。
柴田勝家が長光寺城に籠城した際に、六角氏から水を絶たれたそうですが、飲料水の入った水瓶を全部割ってしまったそうです。
家臣に二度と城に戻らない覚悟を示し、奮起を促したと云われています。
「瓶割り柴田」は創作と見られていますが、武勇に秀でたことから「鬼柴田」、突進力が随一なので「かかれ柴田」という異名もあり、勇猛で知られる勝家らしい話に思えます。
柴田勝家と長島一向一揆
六角氏との戦の2ヶ月後には、浅井、朝倉連合軍と姉川の戦いに従軍するなど戦漬けの日でした。
当時、信長包囲網が形成され、信長の周りは敵だらけでした。
元亀2年(1571年)、長島一向一揆が起きます。
長島一向一揆は、本願寺が蜂起した一向一揆で、三度に分けて戦が起きました。
本願寺勢力は、信長にとって難敵で、約11年に渡って争っていました。
長島一向一揆の初戦での柴田勝家の記録は、ひとまず軍を退く為に退却する際、殿を務めたのが勝家だと伝わります。
退却路の道が狭い箇所で一揆勢は、柴田軍を待ち伏せし、襲い掛かり勝家は負傷します。
殿は氏家直元(卜全)軍に交代されますが、直元(卜全)や家臣などは亡くなってしまいました(第一次長島侵攻)。
二度目は(天正元年)1573年、第二次長島侵攻。
柴田勝家は、滝川一益と共に坂井(酒井)城と近藤城を攻略しました。
翌年の第三次長島侵攻にも勝家は従軍し、勝利しています。
織田家の重臣として戦漬けの勝家
少し時は遡って元亀2年(1571年)。
信長の残虐性を示す話としても語られる比叡山の焼き討ちにも、勝家は従軍しています。
比叡山の焼き討ち後、柴田勝家は知行を与えられ、蒲生賢秀を与力とし、蒲生郡一帯の支配を任されています。
この頃は、信長の戦には殆ど、勝家は参加しています。
元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭が信長に敵対する態度を明確に示しました。
翌年に柴田勝家は、明智光秀、峰屋頼隆、丹羽長秀共に、義昭方の石山と今堅田の砦を攻め、簡単に攻略します。
残忍で知られる信長ですが、将軍には敬意を払っていて、義昭と和議を模索しますが、上手くいきません。
足利義昭を脅すために、信長に従い上京に放火した際は、勝家も参加しています。
放火は、明智光秀、峰屋頼隆、新しく信長の家臣になった細川幽斎(藤孝)、荒木村重も参加し、指導者は柴田勝家だったと伝わります。
後に信長は、放火を免れた下京に矢銭を要求し、信長だけでなく家臣も銭を受け取りました。
銭の額は、家臣の中で勝家の額が、ずば抜けて多く、当時の織田家家臣の上層部として働いていた様子がうかがえます。
そして、足利義昭と和議を結ぶことになり、勝家は起請文に署名し、ここからも重臣として扱われたことがわかります。
しかし、足利義昭との和議は直ぐに解消されます。
柴田勝家は、義昭の側近・三淵藤英籠る二条城を説得により開城させ、義昭籠る城も攻めて、義昭の追放にも貢献します。
柴田勝家は、天正元年(1573年)、朝倉家ほ滅ぼした一乗谷城の戦い、浅井家を滅ぼした小谷城の戦い、また天正3年(1575年)には、武田家滅亡につながる長篠の戦いににも参戦し、信長には欠かせない存在になっていたと思われます。
北ノ庄城を与えられる
越前朝倉家を滅亡させた後は、越前での信長の敵は越前一向一揆。
その一向一揆を滅ぼした後に、越前8郡を柴田勝家に与えています。
そして信長は「越前国掟全9条」を発行し、柴田勝家に忠節を誓わせて統治を任せます。
柴田勝家は、越前49万石、北ノ庄城主になりました。
前田利家、佐々成政、不破光治といった信長有力家臣が勝家の与力に付けられ、蒲生賢秀は与力から外れました。
与力の三人は目付でもあったようです。
上杉謙信との戦の総大将を任される勝家
織田信長が上杉謙信と戦をしたのは、一度しかありません。
正確には信長自身は参戦していなく、柴田勝家を総大将とする織田軍でした(手取川の戦い)。
この頃の勝家は、「北陸方面軍司令官」の役目を担っています。
手取川の戦いは、能登国(現・石川県)に侵攻した上杉謙信に七尾城(ななおじょう)が包囲され、救援を求められた信長が援軍を派遣したことで起きた戦です。
柴田勝家率いる織田の援軍が到着前に、七尾城は落とされていますが、勝家らは知らずに進軍していました。
途中、以前から勝家と不仲だった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、仲たがいを理由に、信長に無断で離反しています。
柴田勝家は、加賀国の手取川を渡り終えたところで七尾城落城を知り撤退しますが、手取川近くの松任城で待ち伏せていた上杉軍に追撃されます。
織田軍は、1000人余りの戦死傷者を出す大敗北だったと伝わります。
※上杉軍の勝利は確かですが、「上杉軍大勝」が本当かは諸説あります。
翌年、上杉謙信は、病気で亡くなっています。
上杉景勝と戦中に本能寺の変が起きる
天正8年(1580年)、柴田勝家は、90年間一揆があった加賀国を平定し、能登国、越中国にも勢力を伸ばします。
この頃、織田家筆頭家老の立場だったようです。
天正9年(1581年)、京都御馬揃えという信長の軍事パレードに参加する為上洛しています。
正親町天皇(おおぎまちてんのう)を招待し、信長の親族、織田軍団、公家で信長の盟友・近衛前久などが参加する大規模なものでした。
天正10年(1582年)3月、柴田勝家は、織田軍の総大将として上杉景勝と戦をしていました(魚津城の戦い)。
天正10年(1582年)6月3日上杉方の武将が自害して落城し、勝家率いる織田軍が勝利して終わります。
しかし、1日前の6月2日は本能寺の変があった日です。
信長の訃報を聞いた織田勢は動揺し、6日の夜から急いで撤退し北ノ庄城へ戻りました。
6月10日付の柴田勝家の書状によると、丹羽長秀と共に明智光秀を成敗する計画があったようです。
ですが、本能寺の変を知った上杉方が、奪われた領土を取り返すため、国衆に働きかけたため勝家は18日まで動けませんでした。
柴田勝家が動いたときは、羽柴秀吉が明智光秀を討った後だったのです。
柴田勝家と「清洲会議」
本能寺の変では、信長の嫡男・織田信忠も二条新御所で亡き者にされています。
織田家の後継者問題と領土についての会議が尾張の清州城にて行われました。
世に言う「清洲会議」です。
出席したのは、柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興、丹羽長秀で、織田家の人間はいませんでした。
秀吉は、信長の嫡孫に当たるとして、信忠の遺児で、当時三歳の三法師(さぽうし)(後の秀信)を推挙しました。
一方、秀吉のライバルだった柴田勝家は、信長の三男・信孝を推します。
信長の弔い合戦で明智光秀を滅ぼした秀吉の発言力は大きく、また池田恒興、丹羽長秀も秀吉に賛同したため、後継者は三法師に決まったというのが通説でした。
そして、清州会議の四日後、四人の重臣が集まった際に、秀吉が三法師を抱いて、三重臣の前に現れたため、柴田勝家ら重臣は平伏すことになったとも云われています。
しかし、最近では三法師を後継者にすることには異論はなく、三法師が大人になるまでどう支えるかを話し合う会議だったとする説もあります。
結局、叔父の織田信雄と信孝が後見人になり、勝家ら四重臣が補佐する体制になりました。
柴田勝家の信孝推しは、創作であるとも云われますが、「信孝が天下の主となる」という噂からきたのかもしれません。
清州会議で決められた領土については、秀吉に有利で勝家が不利な分配でしたので、対立したと云われています。
また清州会議で承認を受けて、織田信長の妹で、戦国一の美女と賞されたお市の方を、勝家が娶ることになりました。
仲介したのは、織田信孝だと伝わります。
羽柴秀吉の柴田勝家に対する懐柔策の可能性も指摘されています。
その後、羽柴秀吉は自身の養子で、信長の四男・秀勝を名目上の喪主として、信長の葬儀を行いました。
信長の後継者として、世間に周知させる秀吉の狙いがあったと云われています。
そして、信孝が三法師を離さなかったため、秀吉、丹羽長秀、池田恒興で協議し、織田信雄を織田家の後継者に据えてしまいます。
柴田勝家と羽柴秀吉の対決は避けられなくなり、翌年に賤ヶ岳の戦いが起きるのです。
柴田勝家の賤ヶ岳の戦い
柴田勝家は、織田信孝や滝川一益と結んで、羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いに繋がります。
天正10年(1582年)12月、勝家の甥・柴田勝豊は、守る長浜城を秀吉の軍勢に囲まれると、調略を受けて勝家を裏切りました。
柴田勝豊は、実子のいなかった柴田勝家の養子になりましたが、勝家に子供が生まれ、後継ぎでなくなりました。
また、養子の中でも冷遇され、勝家に不満を持っていたと云われています。
その後、織田信孝の拠点・美濃の有力武将・稲葉一鉄を調略した秀吉は、天正11年12月20日(1583年1月13日)、信孝を降伏させます。
柴田勝家に味方した滝川一益は、天正11年(1583年)正月元旦に挙兵すると、秀吉の大軍相手に約三ヶ月、勝家が敗れるまで善戦します。
一方の柴田勝家は、雪に阻まれ動けないでいましたが、3月12日(5月3日)に、柴田勝家の甥・佐久間盛政と前田利家を引き連れて、近江に布陣します。
一度は降伏した美濃の織田信孝も滝川一益に呼応して出陣。
三方向から秀吉を追い詰め好機と見た柴田勝家は、佐久間盛政に大岩山砦を攻めさせて、秀吉方の有力武将・中川清秀は奮戦の上で亡くなりました。
秀吉方の有力武将・高山右近も攻められたものの、やっとの思いで退却し命拾いしています。
このように柴田勝家方が一時、優勢に戦います。
この柴田勝家隊の佐久間盛政の攻撃は、布陣してから約一カ月後のことです。
勝家は暫く動かなかったわけですが、参戦を呼びかけていた毛利輝元、長宗我部元親、雑賀衆の援軍を期待して、長引かせていたのかもしれません。
ですが、柴田勝家側が優勢だったのはここまででした。
秀吉方の丹羽長秀の活躍で賤ヶ岳周辺の佐久間盛政の軍勢を打ち破ると、聞きつけた秀吉軍が美濃から近江まで5時間という異例の速さで到着し(美濃大返し)激戦になります。
そして、柴田勝家方として参戦しながら、一度も戦わなかった前田利家が突然離反し、勝家方が崩れて敗北が決しました。
前田利家は、早い時期から秀吉の調略を受けていたのではないかと推測できます。
柴田勝家は居城・北ノ庄城に退き、200人余りで立て籠ります。
いよいよ最期となった時に、妻・お市の方に逃げるように促しますが、拒んだため子供達だけを逃しました。
お市の方や家臣80名と自害して果てました。
諸説ありますが享年62歳。
柴田勝家の逸話
柴田勝家と離反した前田利家について逸話が残っています。
『賤岳合戦記』に残る逸話によると、勝家が越前・北ノ庄城に退却する途中、利家の居城に立ち寄り湯漬けを所望したと云われています。
柴田勝家は離反を咎めるどころか、今までのお礼をいうと、秀吉と仲が良いのだから降伏し、自分(勝家)に気をつかい道を間違えないよう諭たと伝わります。
前田利家に都合の良い逸話に思えますが、真実かは不明です。
ただ、宣教師ルイスフロイスも、賤ヶ岳の戦いで、裏切った家臣の恨みは言わなかったと記録を残しています。
勝家は思いやりのある人物だったのかもしれません。
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