織田信長と上杉謙信~濃越同盟から手取川の戦いへ~

第六天魔王・織田信長と軍神・上杉謙信、歴史好きでなくても知っているであろう位に有名な二人ですが、どのような関係だったのでしょうか。

実は、信長と謙信は間接的な接点は多いものの、直接的な接点は少なめで織田軍と上杉軍の戦も一度だけとされていますし、その対決も信長自身は参戦していません。

少ない接点の中でも信長と謙信の特筆すべき事柄は、濃越同盟(のうえつどうめい)と手取川の戦い(てどりがわのたたかい)についてではないでしょうか。

目次

信長と謙信同盟を締結

1572年11月20日に信長と謙信の間で濃越同盟という軍事同盟が締結されています。

信長は謙信の宿敵・武田信玄と長らく同盟関係を築いていましたが同盟が破綻し対立関係となっていました。

当時の信長は、石山本願寺(いしやまほんがんじ)との抗争、長島の一向一揆(ながしまいっこういっき)に手を焼き、三好義継(みよし よしつぐ)、松永久秀(まつなが ひさひで)ら家臣の謀反を鎮圧したり、浅井・朝倉連合軍とも対立もしていました。

そのような中、信長は信玄との対決が迫っていたのですが、武田軍に割く余力が織田軍にはなく上杉家の協力が必要になり同盟を締結したと伝わります。

謙信に敵意がないことを示す為、同盟締結に当たり、信長は自身の息子を謙信の元へ人質として送ったのに対し、謙信から信長へ人質は送っていませんので、謙信優位の同盟であったとされています。

その後1573年、信玄の死没後も濃越同盟は継続され、信長は謙信に「南蛮式のマント」や「洛中洛外図屏風<らくちゅうらくがいず>」など高価な贈答品を贈り恭順の意思を示しています。

南蛮式のマントは、当時貴重な素材であったビロード生地を使用したものであり、洛中洛外図屏風は当時人気の画人・狩野 永徳(かのう えいとく)が描いた作品ですので、とても貴重な品です。

特に洛中洛外図屏風は、現在では国宝指定となっており、どこかでご覧いただいたことがある人もいらっしゃるのではないでしょうか。

洛中洛外図 上杉本 右隻
洛中洛外図 上杉本 右隻
洛中洛外図 上杉本 左隻
洛中洛外図 上杉本 左隻

信長と謙信は同盟を解消

しかし1576年、謙信は信長と敵対関係にある本願寺や毛利輝元と同盟を結び、信長との関係を断ちます。

1570年(元亀元年)の戦国大名勢力図

この頃の謙信は、信長によって武田家の勢力が弱まったことや、越前(えちぜん)(福井県)の朝倉家滅亡を背景に北陸に遠征を行っており、一方の信長も北陸に勢力を伸ばした為、対立が避けられなくなった為とも言われています。

関係を断ったのが謙信からというのが興味深いなと思います。

信長は同盟を締結したり解消したりしているイメージがあるかもしれませんが、信長から一方的に解消したことはなく、毎回相手が手を切ったため攻撃に転じています。

悪そうなイメージのある信長ですが…、実は義理堅い一面があるのではないかと思っています。

手取川の戦い(てどりがわのたたかい)

同年の1576年、謙信は北陸に勢力を伸ばすため、能登国(のとのくに)(石川県七尾市)に約2万の軍で進軍します。

目指すは難攻不落の城・七尾城(ななおじょう)、信長と手を結ぶ畠山氏の居城ですが、七尾城は堅城の為に上杉軍は苦労し、戦いは翌年に持ち越しになります。

その後の七尾城は、排泄物により不衛生になり、疫病が発生したことなどで内部分裂が起きて不穏な空気が漂っていたようです。

七尾城側は信長に救援を求め、信長自身は出陣しないものの約4万の織田軍の援軍派遣決めますが、信長軍が到着する前に、七尾城側から内通者が出て落城してします。

戦上手な謙信ですが、七尾城の攻略に一年の月日を要しました。

その後も、七尾城の落城を知らない織田軍は七尾城を目指し進軍する一方、上杉軍は信長軍の接近を知り出撃します。

上杉軍に気が付いた織田軍が撤退するものの、加賀国(かがのくに)(石川県)の手取川(てどりがわ)にて追撃に合い信長軍の大敗に終わります。(手取川の戦い)

謙信は「実際に戦ってみると織田軍は弱い」との言葉を残したと伝わり、上杉軍大勝の大勝で終わった手取川の戦いは、謙信の戦における無類の強さを見せつけた戦として語り継がれることになります。

※上杉軍大勝や規模については諸説あります。

謙信の急死と遺体

1577年、居城である春日山城(かすがやまじょう)(上越市)に帰還した謙信は、次の遠征の準備をするものの、倒れて昏睡状態になり急死していまいます。

脳溢血(のういっけつ)(脳出血)が死因ではないかと見なされています、

信長から見たら、武田信玄の時と同様に宿敵が急に病没し、一息つけたのではないでしょうか。

上杉家にとっては、謙信は軍神であるとも言われる程の人物です。

上杉謙信像
上杉謙信像

急死してしまい、上杉家の衝撃はいかばかりでしょうか。

遺体は荼毘(だび)(火葬)にも付されず埋葬もされませんでした。

遺体に漆が塗られ、鎧(よろい)を着せ太刀(たち)を帯びさせて大甕(かめ)(大きな壺のような陶器)に入れられ、大甕には漆を流して固め、春日山城の隅に安置されたそうです。

その後上杉家は、春日山から会津若松へ、江戸時代には米沢に移封されるに伴い謙信の遺体が入った大甕も移され、米沢転封後は謙信の御堂(みどう)を造りを優先し、御堂に安置したと言います。

明治時代になると、謙信の遺体は上杉家歴代藩主が眠る上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)に改葬され、現在に至っています。

謙信の存在は上杉家にとって大きなものであり、死後も精神的な支柱として大切に祀っているそうです。

現代では学術調査される歴史上の偉人も多くいますが、謙信の遺体は大変に神聖なものであり、現在まで一切の学術調査を拒否されているそうです。

俗説ですが上杉謙信には女性説があります。

学術調査ができればハッキリするのですが…、上杉家ゆかりの人にとっては神様のような存在なんだなと思います。

山形県米沢市に上杉謙信を祀った神社があります。
上杉神社についてや、上杉神社のアクセス等はこちらの記事に記載していますので、ご興味のある方はご覧ください。
蓮が見頃の上杉神社に行ってきた

江戸時代の上杉家の名君・上杉鷹山の話です。

上杉鷹山の略歴と米沢藩

参考・引用・出典一覧
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