上杉鷹山の略歴と米沢藩

上杉鷹山は、江戸時代中期の米沢藩の藩主で上杉家の名君として称えられる人物です。

鷹山は破綻寸前であった米沢藩を見事復興させたことで知られています。

厳しい米沢藩の財政をどのように復興させたのか、鷹山の略歴と共に記載します。

目次

上杉鷹山の略歴

上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)の肖像画
上杉鷹山

上杉家の名君として知られる鷹山ですが、鷹山の生まれは上杉家ではなく、高鍋藩6代藩主・秋月種美(あきづき たねみつ)の子として誕生します。

ですが、上杉家と血縁関係がないわけではありません。

鷹山の生母が米沢藩4代藩主・上杉綱憲(うえすぎ つなのり)の孫娘という縁があり、当時は男子のいなかった8代藩主・上杉重定(うえすぎ しげさだ)の婿養子になり、正室には、上杉重定の娘・幸姫を迎え17 歳の時に米沢藩を継ぎます。

若くして藩主になった鷹山ですが、莫大な借金があることを知ります。

何故莫大な借金があるのかというと、初代・上杉景勝の時代に遡りますが、戦国時代の終盤に起きた天下分け目の戦・関ヶ原の戦いで上杉家は徳川家康と対立する姿勢を取ったことで、勝利した徳川家によって戦後に会津120万石から、米沢30万石に減移封されてしまいます。

これは上杉家の所領が減らされ、土地の生産性を表す石高が4分の1に大幅に減ったことを意味しますが、上杉家は家臣に暇を出すことはなかった為、財政面では慢性的に逼迫した状態となります。

更に3代藩主の頃に石高は30万石から15万石に減らされてしまいますが、藩主は贅沢な暮らしを止められず借金も膨らみ、藩の政治も腐敗していた為、鷹山が藩主となったころには破綻寸前であったとされています。

このような状態で米沢藩主になることは、相当な覚悟が必要だったことと思います。

鷹山は家督を相続する際に、上杉家の氏神である春日神社に決意を表明した誓詞を奉納させたといいます。

誓詞には

  • 民の父母の心構えを第一とすること
  • 質素、倹約を忘れないこと
  • 賞罰は正しく行うこと
  • 学問、武術を怠らないこと

と書かれていたそうです。

この誓詞の通り質素倹約をもって藩を立て直すことを誓い藩政を取り仕切ることになりました。

また、藩の財政を潤わせるため産業、農業を育成したり、学問所の設立など米沢藩の立て直しに大きく貢献します。

鷹山は、米沢藩の復興の為に生涯を捧げたと言っても過言ではない人生でした。

では、鷹山の米沢藩を復興へ導いた改革とはどのようなものだったのでしょうか。

大倹約令の発令

鷹山が藩主になった頃の米沢藩は、藩の財政が苦しく収入を増すため領民に重税を課したので、逃亡する者もいたと伝わります。

そのような中、質素、倹約で知られる鷹山が藩主に就任しますが、就任の祝いの膳は赤飯と酒のみという質素なものであったと伝わります。

そして、鷹山が藩主になって直ぐに12条から成る大倹約令を発令します。

米沢藩が1年間にかかる生活費を1500両から209両に削減し、奥女中も50人から9人に減らしました。

食事は一汁一菜という藩主としては質素な食事を徹底し、領民にも一汁一菜を推奨、普段着は上等な絹ではなく木綿を着用し倹約に努めます

米沢藩の産業、農業の育成

鷹山は、米沢の収入を増やすため特産品の生産にも力を注ぎます。

米沢織を本格的に開発したのは鷹山だと言い、織工を招いて青苧(あおそ)を原料に製織業を伝え、現在でも全国に知られる米沢の名産となっています。

鷹山の家臣の相良清左衛門の手によって作られた相良人形や大正時代に衰退してしまいましたが、成島焼(なるしまやき)は藩政を支えるほど潤いを見せたと云います。

鷹山は中国の故事に習い、君主(藩主)自ら田畑を耕す「籍田の礼<せきでんのれい>」を行い、農業に携わります。

鷹山が泥だらけで働く姿に家臣、領民に本気さが伝わり、やる気を引き出すと共に、武士が農業に関わることは恥であるという当時の風潮を一新し、米沢藩士は刀を鍬(くわ)に持ち替え汗を流したそうです。

以後、米沢の歴代藩主により「籍田の礼」が続けられることになったと云います。

藩校「興譲館」の創設

鷹山は「学問は国を治めるための根元」であると考えていたとされ、藩校「興譲館<こうじょうかん>」を創設しました。

これは、米沢藩の初代藩主の上杉景勝の家老・直江兼続(なおえ かねつぐ)や4代藩主・上杉綱憲( つなのり)が設置していた学問所の再興を目指したとされています。

鷹山は自身の師である細井平洲に意見を求め、政治や経済に実際に役に立つ「実学」を奨励したとされています。

そして、現在では山形県立米沢興譲館高等学校が「興譲館」の流れを継承し国家に貢献する多くの人材を輩出してきました。

上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)の銅像
上杉 鷹山の銅像

天明の飢餓と「かてもの」の研究

必死に改革を進める鷹山ですが、悪天候が米沢藩を襲うことになり、1782年頃から東北地方で凶作が続き、「天明の大飢餓<(てんめいのだいききん)>」と呼ばれる飢饉が発生して、米沢藩も深刻な食糧不足に陥ります。

1784年の米の価格は平常時の2倍~5倍にも跳ね上がったそうですが、鷹山は越後と酒田から米を買入れ領民に与えた為、米沢では一人の餓死者を出さずに 飢饉を乗り越えることができます。

これは鷹山の功績でもありますが、同時に藩財政の打撃になりました。

そして、この経験をもとに食料の保存法が研究されます。

貯蔵米を蓄えることは勿論ですが、米・麦以外も草木果実約80種類、魚、肉、味噌など食用となる動植物の研究をし、その食べ方や貯蔵方法を「いろは」順に記した「かてもの」を発行します。

「かてもの」は1,575部を発行し米沢藩に配布され、飢餓救済の手引書として重宝されました。

精神の改革

米沢藩の改革で重視されたものの一つに精神の改革があります。

<しきたりを破る>

鷹山が藩主になる前の上杉家の家臣は、名門の上杉家に仕えているとして、プライドが高かったといいます。

上杉家にはしきたりがあり、変えてはならないとされてきましたが、鷹山は自らしきたりを破ります。

具体的には「乗馬する位置」、「普通は声を掛けない下級家臣にも声を掛ける」、「祝いの席の料理」といったしきたりを見直しました。

この鷹山の人柄が現れるような話が残されています。

ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで困っていた老婆を二人の武士が助けてくれた。

お礼に後日、餅を持参したいといったところ、招かれたのは米沢城であり、渡す相手こそ鷹山であった。

通常では考えられないことだと思いますが、鷹山らしい話でもあると思います。

また、鷹山は農民や町人の意見も取り入れられるよう「上書箱」という意見を投げ入れるための箱を設置しています。

現代は民主主義ですので、不思議な感じはしないかもしれませんが、当時としては異例なことであったと思います。

<民の父母として律する>

また鷹山は、「民の父母」となることを自分に言い聞かせたといいます。

「民の父母」とは、「藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすこと」という意味とのことであり、鷹山が藩主になった際に春日神社に奉納した誓詞に書いたことでもあります。

そして、必要であれば、例え重臣であっても処罰するという厳しい姿勢を取り、自分自身も家臣も律したといいます。

鷹山の名言

「 為(な)せば成る 為(な)さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為(な)さぬなりけり」
これは鷹山がのこした名言ですが、聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

「為せば成る為さねば成らぬ何事もとは、できそうもないことでも、その気になってやり通せばできる」

という意味です。

「その気になってやり通せばできる」という言葉の通り、必死に努力し苦難を乗り越えた鷹山の姿勢は現代人にも共感され、多くの人の尊敬を集めています。

そして、驚くことにアメリカの大統領を務めたジョン・F・ケネディも鷹山を尊敬する人の一人とのことです。

また、鷹山の地元米沢では「鷹山」と呼び捨てできず「鷹山公」と敬称を付ける人が多いと聞きます。

私たちも壁にぶつかった時、「為せば成る」と鷹山のことを思い出し努力すれば、道が開かれるのかもしれません。

織田信長と上杉謙信の接点を記した記事はこちらです。

織田信長と上杉謙信~濃越同盟から手取川の戦いへ~

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